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偽(物だけど本物)の遺言状から始まるボクとバクちゃんの少しずつ本気になっていく日々 part.1/4(ガチャの爆死と運命の出会いと、バクからのお願い事)

    ※本作は「note創作大賞2026」エントリー作品です。今回お届けするpart.1を皮切りに、全4回の連載で第1章(約5万文字)を迎える予定ですが、物語としては、人生に迷うすべての人に寄り添う、ずっとずっと大切なテーマを背負いながら続いていきます。現在全部の執筆を終わり清書による加筆・添削中です。 ※2026年7月2日 

    偽物だけど本物の遺言状が紡ぎ出す物語を、どうぞ最後までお楽しみください。

    この物語を通じて、遺言状について考えたり、自分の人生を生きているか自問自答したり、また、『夢をかなえるゾウ』シリーズに興味を持っていただける人が一人でもいましたら嬉しいです。

    いつもスキをいただき、本当に励みになっています。ありがとうございます。

    note創作大賞2026 応募用あらすじ

    四千八百円のソシャゲガチャで見事に爆死し、猛烈な後悔と虚しさに襲われていた三十歳・実家暮らしの「空木歩(あゆむ)」。穴埋めのアルバイトとして、ぎっくり腰の親戚のおじちゃんに頼まれた「遺品整理」の現場へ赴いた彼は、クローゼットの奥から埃を被った真鍮製のバクのキーホルダーを衝動的に持ち帰ってしまう。

    それがすべての始まりだった。

    ※本編の大元は、フィクションですが、回想シーンについては、ノンフィクションが多いです。

    自室でどろりとした黒い霧を上げ、大型犬サイズに具現化したそれは、図太い関西弁を話す奇妙な怪異「バクちゃん」。彼は、過酷な日常の果てに突然この世を去った前の主人が、どうしてもあの世に持っていけなかった「生きた証(データ)」を、ゴミとして処分される前に回収してほしいと歩に協力を持ちかける。

    世間のノイズに傷つき、生きるエネルギーを漏らし続ける歩と、前の主人の大切な遺品を守りたいと願う、どこか人間臭い怪異。

    一人の凡人と一匹の怪異が、秘密の共同生活の中で、不器用で、泥臭い現実の温もりを一つずつ回収していく回復の物語。

    part.2

    part.3

    part.4


    偽の遺言状から始まるボクとバクちゃんの少しずつ本気になっていく日々 part.1(ガチャの爆死と運命の出会いと、バクからのお願い事)


    「今回のフェスもやっぱ、運営やってきましたね、バランスブレイカー余裕で最強核です」

    一時間前に見た実況動画の声が、頭の裏側でまだ鳴っている。

    夜の部屋で、スマートフォンの画面だけが青白く顔を照らしていた。四千八百円の購入確認ボタン。一時間ほど悩んで、結局押した。

    手持ちの石と合わせて四十四連。フェス限の確率が一・五パーセントだから、計算上は六十六パーセントで引ける。あとは運だと、信じて引いた。

    出なかった。

    「……あぁ、本当に何やってるんだろう」

    画面が暗転し、黒いガラスに三十歳の自分の顔がうっすら映り込む。一年前も同じように二万円を溶かした。あの時は引けた。だからまた引いてしまった。そういうことだった。

    四千八百円が消えた。微弱な吐き気がこみ上げる。残った石を全部使い切ろうとした指先が、おはガチャの存在を思い出してぎりぎり止まった。口内炎になりやすいので、唇を噛むのは我慢した。

    スマートフォンが震えた。

    遺品整理会社を営む、親戚のおじちゃんからだった。

    『もしもし、歩か? ちゃんと飯食えてるか?』

    「……うん、まあ」

    『実はな、ぎっくり腰をやっちまってな。明日、現場に人手が足りんのやけど、手伝ってもらえると助かる。きれいな現場やから安心してええで。日給はおじさんがちゃんとつけるから』

    いつもなら断っていた。他人の人生の終着点から流れ込んでくる空気は、生まれつき五感が過敏なボクには堪える。

    でも四千八百円を溶かした後では、断れなかった。

    明日頑張ることで、ちゃらになる。それがボクを動かした。

    「……分かった。行くよ」

    通話を終えて、ようやく少しだけ息を吐いた。穴埋めの算段がついた、それだけのことだ。

    寝る前にメッセージが届いた。現場の写真が数枚。まだ新しそうなパソコン、整然とした本棚。その一角に見覚えのある背表紙が並んでいた。

    夢をかなえるゾウ、0から4まで。嫌われる勇気。幸せになる勇気。

    この人は、夢をかなえられたんだろうか。

    『現場はこんな感じやけど、大丈夫そうか?』

    「うん、大丈夫。明日、楽しみにしてる」

    スタンプを押してスマホを置いた。布団の中で天井を見つめる。

    四千八百円。母さんへの学費の返済もまだほとんどできていない。その日暮らしのバイトで食い繋いで、建前は就活中で、実態はただの無職。三十歳の実家暮らし。それでもゲームのボタンは押してしまう。アプリを消さない限り、来月も同じことをするだろう。それは分かっていた。

    ゆっくりと目を閉じた。

    朝九時。コーンフレークをかき込んで、ベッドに戻った。

    毎朝のルーティンである割引ガチャを開く。残った有償石でタップすると、画面の枠が金色に染まった。心臓が跳ねる。でも最高レアリティには届かず、一段下の演出で静止した。

    「……やっぱり、そう甘くはないか」

    それでも、昨夜の絶望よりはずっとましだった。ぬるま湯のような午前中をやり過ごしていると、玄関の鍵が回る音がした。十二時。母がパートから帰ってきた。

    「歩、起きてるの?」

    「うん。今から出るよ」

    ドアの向こうに向けて、なるべく明るいトーンで声をかけた。

    「おじちゃんのお手伝い、行ってくるね。ぎっくり腰で現場に人手が足りないって」

    「そう、気をつけてね」

    低く穏やかな声が返ってくる。ボクが外に出るというだけで、この家の空気が少しだけ軽くなるのが分かった。

    玄関を出ると、アイドリングする軽トラックの運転席から、おじちゃんが人懐っこい笑顔で手を振っていた。助手席のドアを開けると、湿布の強烈なメントール臭が鼻を突く。

    「急に呼び出して悪かったな。コルセットがちがちに巻いとるから運転は何とかなるんやけど、荷物を持つのがどうしてもな」

    「重い物は全部ボクが運ぶよ。無理しないで」

    国道沿いの定食屋でお昼を食べた。メニューの一番上、日替わり定食八百五十円。昨夜なら数タップで消えた数字だったのに、今日はその重みがまるで違って見えた。焼き魚定食を噛み締めながら、四千八百円があれば何食分になるか、ぼんやりと計算していた。

    ガチャはこの定食より何倍も高額なのに、当たる確率はかなり低く、外れてしまうと何も残らなくなる。

    どうしてそんな負け勝負なのに、誘惑に負けちゃうんだろうな……。 付属のあつあつのお味噌汁がガツンと心に染みたような気がした。

    「……まぁ、今日は仕事頑張ろう」

    現場は築年数の経ったマンションだった。部屋に足を踏み入れると、数日前まで誰かが生きていた冷たい空気がまとわりついてきた。

    おじちゃんの指示で、奥のクローゼットの仕分けを担当した。衣服を整理していると、棚の奥、埃をかぶらない隙間にぽつんと残された小さな物体に目が留まった。

    真鍮製のバクのキーホルダー。このまま置いておけばゴミ袋に入る。それが、どうしても不憫だった。
    ――大事にするから、ボクが貰ってもいいよね。

    誰に断るでもなく、指先がポケットへと動きかけた、その瞬間。

    『冷静になれ』

    頭の真ん中で、冷水を浴びせられたような声が響いた。心臓がドクリと跳ねて顔を上げると、折りたたみ椅子のおじちゃんが手元の作業を止め、こちらをじっと見つめていた。

    「歩、どうした? 何か困ったことないか?」

    「い、いや、何でもないよ! 仕分けの仕方に迷っただけ」

    咄嗟に手元のタオルをキーホルダーの上にバサリと被せた。
    あぶなかった。おじちゃんが再び段ボールに視線を落とした隙を見計らい、
    タオルの下から像を掴み取ってポケットの奥へ押し込んだ。

    小さな金属の感触が、罪悪感と共に太ももに熱を持って伝わってきた。
    その後の大物搬出はがっしりとした体格の業者たちと一緒にこなした。

    重い家財が次々と運び出され、部屋の容積が急に広がったように見えた。

    片隅には、デスクトップパソコンと本棚だけがまだ残っている。

    作業が一段落したところで、おじちゃんのスマホが鳴った。表情が瞬時に険しくなる。

    「……ああ、そうか。分かった、すぐ行くわ」

    短い通話だった。スマホをポケットに押し込んで、おじちゃんはコルセットをさすりながらボクの方を向いた。

    「歩、悪いな。別の現場でトラブルが出てもうて、今すぐ行かなあかんくなってしもた」

    「大丈夫、気をつけて行ってきて」

    「今日はここまでにしよか。残りはな、明日の朝八時半に駅で待ち合わせして、朝メシ食ってからその後、開始しよう。ちょうどお昼過ぎに、遺族のお母さんが一部の遺品の引き取りと部屋の確認に来られる予定やから、それまでに片付けを終わらせてしまいたい」

    「分かりました。明日も宜しくお願いします」

    「こっちこそ助かっとるわ。ほんまに」

    おじちゃんは老眼鏡を外して、ぐいと目頭を押さえた。それからボクの肩をぽんと一度だけ叩いて、足を引きずるように玄関を出る。ボクもそれについていき、施錠をしてからトラックへと向かった。

    助手席に乗り込むと、また湿布のメントール臭が鼻を突いた。

    ふと、ポケットの中のキーホルダーの存在感が気になった。

    よく分かってないけど、本当に大丈夫だろうか。ボクはなんで欲しくなったのか、正直自分でも分からなかった。可愛いと言えば確かに可愛い。でも故人の遺品を勝手に持ち帰るなんて……。

    呪われたりとか、しないだろうか。そもそもここの故人はどんな人だったんだろう。死因は何だったんだろう。

    尋ねようとして、言葉が出なかった。代わりに、ふと気になっていたことだけを口にした。

    「おじちゃん、こういう現場って……本とか服とか、処分になるものって多いの?」

    「んー、そうやな。遺族が引き取るもんは引き取るけど、残ったもんはリサイクルショップに買い取ってもらえるもんと、そうでないもんに仕分けするんや。買い取ってもらえた分は整理費用から相殺できるから、遺族の負担も少しは軽くなる。状態のええ本とか家電は結構値がつくこともあるで」

    「じゃあ、全部ゴミになるわけじゃないんだね」

    「まあ、それでも処分になる量はかなりのもんやけどな」

    おじちゃんはそれだけ言って、前を向いた。

    窓の外を流れる景色を眺めながら、ボクはポケットの中のバクをそっと指先で包んだ。

    駅の前でトラックから降りる時、おじちゃんは財布から五千円を引き抜いてボクに渡した。

    「今日の分や。明日の分と合わせて、終わったらちゃんと色をつけるから」

    少し湿った紙幣が指先に触れた。

    昨夜タップ数回で消えた四千八百円が、汗をかいて他人の死の痕跡に触れて、やっと五千円になって戻ってきた。同じお金なのに、重さがまるで違う。

    「……ありがとう、おっちゃん。気をつけてね」

    トラックが走り去るのを見送って、ボクはホームへと歩いた。

    ポケットの中でバクのキーホルダーが、歩くたびに静かに太ももを叩いていた。

    電車の揺れの中で、ずっとポケットのバクを指先で触り続けていた。

    自室に戻り、机の端にそっと転がす。一週間前から置かれたままの不採用通知の白い封筒のすぐ横に、バクの像は静かに落ち着いた。

    「本当に、衝動的に持って帰っちゃったな……」

    夕日に照らされた歪なフォルムを眺めながら、ボクはぽつりと念じた。

    ――もし、君が嫌じゃなければ。これから、ボクのことを見守ってほしいな。

    直後、真鍮の表面からどろりとした黒い霧が湧き出した。像がぐにゃりと揺らぎ、急速に体積を広げていく。

    鼓膜の奥を針で突くような耳鳴りが走った。
    ドサリ、とベッドが深く沈んだ。
    霧が晴れると、大型犬ほどの大きさの毛羽立った四つ足の獣がそこにいた。

    丸みを帯びた奇妙なフォルムの頭部、長い鼻、長い耳。

    「うわぁっ!」

    「静かにしぃや。得体の知れん大荷物が転がり込んできたんや、大騒ぎされたら面倒やろ」

    妙に図太い男の関西弁だった。

    大型犬ほどの大きさの、毛羽立った四つ足の獣。丸みを帯びた奇妙なフォルムの頭部に、長い鼻と長い耳。短い尾が、ぱたぱたと静かに揺れている。

    「え……バク? もしかして、願いが通じた……?」

    「そうや。今日の昼、自分がお掃除したあの部屋の主を、ずっと見守っとった存在や。付喪神みたいなもんやと思ってくれたらええ。しばらくここに置いてくれへんか。……同棲の交渉や」

    バクはお行儀よく前足を揃えて、座り直した。

    「あの……まず、君のことを教えてくれないと。突然部屋に現れた大型犬サイズの何かを、はいそうですかって受け入れるのは流石に難しいよ」

    「せやな。そらそうや」

    バクは短い尾をパタリと一度振ってから、ボクをまっすぐに見た。

    「ワシはな、あの部屋の主人が大事にしとったもんや。主人が亡くなって、このまま誰にも引き取られずに終わるのが嫌で、自分のポケットに収まることを選んだ。それだけや」

    「……じゃあ、ボクに何かしてほしいことがあるってこと?」

    「追い追い話す。まずは自分の名前を聞かせてくれるか」

    「……歩。空木歩」

    「空木歩、か」

    バクは名前を一度、転がすように繰り返した。それからしばらく黙って、部屋の天井を見上げた。

    「空木ってな、幹の中が空洞になっとる木のことや。春になったら白い花が咲く。空っぽやのに、ちゃんと花を咲かせるんや」

    「……空っぽなのはぴったりだけど、花が咲くかは分からないよ」

    「まあ、それはこれからの話や」

    バクはそれだけ言うと、ベッドの上でゴロンと仰向けに転がった。巨体が動くたびに、マットレスがギシギシと鳴る。

    「ところで歩、一個だけ最初に聞いてもええか」

    「……なに?」

    バクの小さな瞳が、机の端をじっと見た。

    「あの白い封筒、毎日見るたびにどんな気持ちになっとる?」

    ボクは椅子の背もたれに体重を預け、天井を見上げた。

    「……気が重い、かな」

    「やろな。不採用通知か」

    「うん。一週間前に届いたやつ。戒めのつもりで置いといたんだけど」

    「戒め、な」

    バクはフン、と鼻を鳴らした。

    「それ、戒めになっとらへんで。ただ毎日自分を嫌な気持ちにさせとるだけや」

    「……そうかな」

    「そうや。なあ歩、就活って、企業と求職者、どっちが偉いと思う?」

    唐突な問いかけに、ボクは少し考えた。

    「……選ぶのは企業側だから、どうしても企業の方が立場が上になっちゃうよね」

    「それが間違っとる、とワシは思うんやわ」

    バクはベッドの上で身を起こし、前足を組んだ。

    「本来はな、企業と求職者は対等なはずなんや。会社が人を選ぶのと同じように、求職者かて会社を選んどる。なのに世間の空気はなぜか、落とす側の企業ばっかりやたら偉そうで、求職者はひたすら頭を下げ続けなあかん、みたいになっとるやろ」

    「……まあ、確かに」

    ボクは椅子の背もたれに深くもたれた。胸の奥に溜まっていたものが、少しずつ言葉になっていく。

    「あんなに何日もかけて書類を用意して、心臓バクバクさせながら面接に行ったのにさ。たった十数分の会話だけで結果が出て、落とす時は交通費の一円も出さずに、味気ない紙切れ一枚を送りつけてくる」

    「せやろ! 求職者の時間と労力を何やと思っとんねん。主人もな、一回、合否の連絡が全然来んくて、ハローワークに間に入ってもらってやっと確認したら、まさかの書類選考落ちやったことがあったんや。二週間待たせて、ようやく返ってきた返事が書類落ちて、どういうことやねんって話やろ」

    「え、それは酷すぎる」

    「せやろ! だからワシはな、企業と求職者はもっと対等であるべきやと思うんやわ」

    正体不明の獣のはずなのに、まるで行きつけの居酒屋で愚痴を言い合っているような、妙に居心地のいい空気が漂い始めていた。

    ボクは小さく息を吐き出して、苦笑した。

    「……ほんとそうだよね」

    「まあそういうわけでな」

    バクは声のトーンをすっと普通に戻した。

    「そんな紙切れをいつまでも机の上に置いとく必要はないんやわ。見るたびに気が重くなるだけなら、さっさと捨てた方がすっきりするで」

    ボクは机の上の白い封筒をもう一度見つめた。

    戒めのつもりで置いていた。でも実際は、目にするたびにじわっと胸が重くなるだけだった。それだけのことだった。

    「……よし」

    ボクは封筒を両手で掴み、思い切り二つに引き破った。さらに四つ、八つに。白い破片がゴミ箱の底に沈んでいく。

    「……なんか、すっきりした。ただ紙を破っただけなのに」

    「せやろ。気づかんうちに自分で自分を嫌な気持ちにさせとることって、けっこうあるもんやで」

    バクはそれだけ言って、短い尾をパタパタと振った。

    「次、引き出し開けてみ」

    バクに言われるまま、学習机の一番大きな引き出しを引いた。

    手書き用の履歴書のパッケージ、何枚も無駄にした書き損じの志望動機、駅前のボックス写真機で撮った、どこか表情の引きつった証明写真の余り。それらが、引き出しの奥で所在なさげに転がっていた。

    「あー、やっぱりな。手書き用の履歴書の束に、引きつった証明写真。歩、これ、開けるたびにどんな気持ちになっとる?」

    「……また一から全部書き直さなきゃいけないのかって、気が重くなってたよ。証明写真も、なんか面接で品定めされてる時のことを思い出して、あんまりいい気分はしないし」

    「せやろな。そもそもな、未だに手書き履歴書じゃないとあかん時代なんて、とっくに終わっとるんやわ。PCで一度ベースを作ってしまえば、次から修正するのは志望動機と通勤時間くらいや。十分もかからん」

    「証明写真もな」とバクは続けた。「スマホで撮ってコンビニでプリントしたら、ボックス写真機より安くてきれいにできる。だからそれも全部捨てぇ」

    言われてみれば、確かにそうだ。あの引き出しを開けるたびに、また一から全部やり直さなければという重苦しさに捕まっていただけだった。

    「……そっか。もっと気楽にできるんだね」

    ボクは履歴書の束と証明写真をまとめてゴミ袋に入れた。引き出しの中がすっきりと空になる。

    なんということもない片付けだったけれど、部屋の空気が少しだけ軽くなった気がした。

    部屋の空気が落ち着いたところで、バクは改まったように前足を揃えた。

    「歩、ここからが本題や。一つ、頼みたいことがあるんやわ」

    「……なに?」

    「明日、またあの部屋の片付けに行くやろ。あの部屋にな、デスクトップのPCと、黒い外付けのハードディスクがまだ残っとるはずや。そこにあいつが必死に生きた証が全部詰まっとる。ただのゴミとして処分されてまうの、どうしても見ておれんくてな……。自分に回収して、引き継いでほしいんや」

    バクは前足を少し縮め、耳をペタッと寝かせた。

    その切実な様子に、ボクの胸も少し痛んだ。

    「気持ちはすごく分かるけど……おじちゃんに『ボクにください』って言っても、普通は遺族に返すものだよね。怪しまれちゃうよ」

    「せやな……」

    バクは長い鼻の先をフニフニと動かした。

    部屋に静寂が落ちる。

    「逆に聞くけど」とボクは口を開いた。「どういう状態だったら、おじちゃんもご両親も納得してボクに引き渡せると思う?」

    「うーん……」

    バクは天井を見上げて、しばらく唸った。

    「遺族が『ええよ』って言うてくれたら、おっちゃんも大手を振って渡せるやろな。逆に言うたら、ご両親さえ納得してくれたら話は早い」

    「じゃあご両親が納得する理由が必要ってことだよね。『本人がそう望んでいた』っていう根拠みたいなものが何かあれば……」

    「根拠、か」

    バクがぽつりと繰り返した。

    ボクはぼんやりと考えながら、何気なくスマホを手に取った。昨夜おじちゃんから送られてきた現場の写真をもう一度開いて、指で拡大していく。

    本棚の写真。整然と並んだ背表紙の中に、見覚えのある一冊があった。

    夢をかなえるゾウ4。

    「あ……」

    ボクはKindleアプリを開き、三年前に読んだ内容を確かめた。たしか終盤の課題に、自分の死を意識して身辺整理をする、というくだりがあったはずだ。

    「バクちゃん、この本、前の主人が読んでたんだよね」

    「……ああ、亡くなるちょっと前にな。けっこう感化されとったみたいやった」

    「だったらさ」

    ボクは少しずつ、一つのアイデアの輪郭を掴み始めていた。

    「この本を読んで、ふと死を意識して、メモ書きみたいなものを残していた……っていう体はどうかな。『PCと外付けHDDは友人の歩に渡してほしい』って。急に死ぬことなんてこれっぽっちも思ってなかった人間が、本に感化されてふと書き残した、くらいのトーンなら、ご両親もおじちゃんも不自然には思わないんじゃないかな」

    バクはしばらく黙っていた。

    長い耳がゆっくりと動く。

    「……それや」

    静かだが、確信のある声だった。

    「あいつ、ほんまにそういうことしそうやったもんな」

    「几帳面なくせに、たまに妙なタイミングで思い立ったようにメモを残す奴やったから」

    バクはどこか懐かしそうに、少しだけ目を細めた。

    「だったら、綺麗に整った文章じゃない方がいいよね。ふと思い立って書いたっていう感じの、少し雑で泥臭いトーンで」

    「そうや。自分の死なんて一ミリも信じてへんかった奴が書いたメモやからな」

    「あと、経年劣化も必要だよね。昨日今日書きましたってバレたら意味がないから」

    「せやな。ちょっとくたびれた感じがないと、引き出しの奥に眠っとったっていう説得力が出えへん」

    ボクはスマホで検索しながら、やり方を確かめた。便箋を何度も折り畳んでは広げる。端をわずかに湿らせてから乾かす。消しゴムのかすを馴染ませて表面を少しくすませる。ということみたいだった。

    「……これで、っぽくなるのかな?」

    「ネットはなんでも教えてくれるな」

    バクが感心したように鼻をひくひくさせた。

    「ほな歩、ワシが文章を考えるから、自分がキーボードで打ってくれるか。あいつが本当に残したかった言葉、ワシが一番よう知っとるから」

    「うん、任せて」

    ボクはデスクトップPCの電源を入れてモニター前の椅子に腰を下ろした。

    バクはしばらく黙って、天井を見上げた。ボクはワードを立ち上げて書く準備が整ったことをバクに伝える。

    「いいよ」

    それから、バクはゆっくりと言葉を選ぶように口を開いた。

    「……タイトルは『万が一のときのメモ(親父、おかんへ)』でええ。遺言状とか、そんな大層なもんやなくて」

    ボクはキーボードに指を置いた。

    バクが口述し、ボクが打つ。その繰り返しが、しばらく続いた。

    「夢をかなえるゾウ4を読み返して、ちょっと影響されてもうて、念のために書き残しておくことにした……ってとこから始めよか」

    「うん」

    「別に体調が悪いとか、そういうわけやないから、変に心配せんといてな。ほんまに、ただの万が一の備えや」

    「……これ、読んだご両親がほっとしそうだね」

    「せやろ。次、PC周りのことを書くで」

    机の上のデスクトップPCと横にある黒い外付けハードディスク、部屋の隅の籠の本は中身を見ないでほしいこと。友人のアユムにだけパスワードを教えてあって、万が一の時は全部引き取らせる約束になっていること。

    「あいつなら分かってくれとるから、二人は何も気にせんといてな……ってとこまででええわ」

    「うん、打てた」

    「……次が、ちょっとしんどいとこや」

    バクは少し間を置いてから、続けた。

    「親父、おかん。一人暮らし始めてから、ろくに連絡もせんで、たまに電話がかかってきても忙しいからってぶっきらぼうに切ってばかりで、本当に申し訳なかった」

    カタカタと、打鍵の音だけが静かに響く。

    「毎日ベッドに倒れ込むたび、おかんが作ってくれてた飯のこととか、親父が不器用なりに心配してくれてたことばっかり思い出してた。寂しくて、情けなくて、何回もおかんの声が聞きたくなって、でも今の自分を見せるのが嫌で、ずっと意地を張って連絡できんかった」

    ボクは打ちながら、胸の奥がじわりと痛んだ。

    「おかん。仕送りの中に手紙を入れてくれてたな。あの時はうるさいなと思って引き出しの奥に突っ込んでたけど、今になって、あれがどれだけ温かかったか、痛いほど分かる。荷物を開けて、一人で泣いた夜もあったんやで」

    「……お父さんの方は?」

    「親父。俺が家を出る日、駅のホームで背中を向けて、体に気をつけて、しんどくなったら戻ってこいって言ってくれたな。あの背中が、ずっと最後の支えやった」

    バクの声が、少しだけ掠れた。

    しばらく沈黙が続いた。

    「……続けるわ。俺の人生、側から見たら何も残せなかったかもしれん。だけど、二人の子供に生まれてこられて、確かに愛されて、めちゃくちゃ幸せやった。それだけは、絶対に信じてほしい」

    「今まで育ててくれて、本当にありがとうございました」

    「この手紙が、間違っても二人に届かないことを願いながら、明日も仕事頑張ってきます」

    打ち終えて、ボクは画面から目が離せなかった。

    明日も仕事頑張ってきます、と書いた人間が、その数日後に死んだ。

    「……ええな。これでほぼ完成や」

    バクが静かに言った。

    ボクは画面を見つめたまま、ふと思った。

    「ねえ、バクちゃん。前の主人が好きだった料理って、何かある?」

    「……なんで急に」

    「なんとなく。もう一文だけ、足したくて」

    「……豚汁や。しんどい時に、よう頭に浮かんどったみたいやわ」

    ボクはキーボードに指を戻した。

    それは偽装工作のためじゃなかった。ただ、この人とご両親のことが切なくて、自分にできることがあるなら何かしたいと、それだけだった。

    追伸。嗚呼、母ちゃんの豚汁、久々に食べたい。

    (親友の連絡先:空木歩 / 電話番号:XXXX-XX-XXXX)

    その後、ボクはある部分に一文を付け加えた。

    「……これでどう?」

    バクはしばらく画面を見つめていた。

    それから、小さく鼻を鳴らした。

    「……歩、ええの?……」

    バクの声は、それ以上ない代わりに、涙をポタポタと垂らしていた。

    「うん、違和感がないと良いけど……。 ボクの本心だから」

    ボクはワードの画面をスクロールして、文章全体を最初から読み直した。

    万が一のと一のことがあって、この部屋を片付けに来ることがあったら、机の上のデスクトップPCと、横にある黒い外付けハードディスク、それから部屋の隅の籠に入ってる本だけは、絶対に中身を見んといてくれ。

    友人のアユムにだけ以前パスワードを教えてあって、万が一の時は全部あいつに引き取らせる約束になっとる。これを見つけたら、下の連絡先のアユムを呼んで、全部丸投げして持って帰らせてくれ。あいつなら分かってくれとるから、二人は何も気にせんといてな。

    親父、おかん。

    一人暮らしを始めてから、ろくに連絡もせんで、たまに電話がかかってきても忙しいからってぶっきらぼうに切ってばかりで、本当に申し訳なかった。

    毎日ベッドに倒れ込むたび、おかんが作ってくれてた飯のこととか、親父が不器用なりに心配してくれてたことばっかり思い出してた。寂しくて、情けなくて、何回もおかんの声が聞きたくなって、でも今の自分を見せるのが嫌で、ずっと意地を張って連絡できんかった。

    おかん。仕送りの中に手紙を入れてくれてたな。あの時はうるさいなと思って引き出しの奥に突っ込んでたけど、今になって、あれがどれだけ温かかったか、痛いほど分かる。荷物を開けて、一人で泣いた夜もあったんやで。

    親父。俺が家を出る日、駅のホームで背中を向けて、体に気をつけて、しんどくなったら戻ってこいって言ってくれたな。あの背中が、ずっと最後の支えやった。

    俺の人生、側から見たら何も残せなかったかもしれん? そんなことなってないといいんだけど、
    ただ、万が一の時の言葉をここに記したい、二人の子供に生まれてこられて、確かに愛されて、めちゃくちゃ幸せやった。それだけは、絶対に信じてほしい。

    今まで育ててくれて、本当にありがとうございました。

    この手紙が、間違っても二人に届かないことを願いながら、明日も仕事頑張ってきます。

    追伸。嗚呼、母ちゃんの豚汁、久々に食べたい。

    ひょっとしたらやけど、アユムが俺の代わりに何かしてくれるかもしれん。嫌じゃなかったら、あいつの好意を受け取ってほしい。

    (親友の連絡先:空木歩 / 電話番号:XXXX-XX-XXXX)

    ボクはワードの画面をスクロールして、打ち終えた文章を最初から読み直した。

    読み終えて、しばらく画面から目を離せなかった。

    明日も仕事頑張ってきます、と書いた。

    この人は本当にそう思っていたはずだ。明日も、明後日も、泥臭い日常が続くと信じていた。

    三十歳ということは、三十かける三百六十五日、うるう年も合わせると約一万九百八十日。

    一万日以上をかけて積み重ねてきたら、人生が永遠に続くものだと錯覚してしまう。ボクも、この人も、きっと誰だってそうだ。

    ボクはふと、これまでの課金のことを思い出した。

    サービス終了したあのゲーム。引退したあのゲーム。消えていったデータの山。そのたびに積み上げてきた課金の総額を、ボクはあえて計算したことがなかった。

    母さんへの学費の返済もまだほとんどできていないのに。

    今夜の四千八百円は、バクちゃんに出会うきっかけになった。だからこれはよかった。

    でも、これまでの分は、そうじゃなかった。

    全額じゃなくていい、半分でも3分の1でもいい、課金した金額の一部でいいから親孝行しようとボクは、固く決意した。

    感傷に浸りたいが、明日の準備を今頑張らないといけないので、ボクは、印刷の準備をする。

    「……よし、印刷するよ」

    ボクはプリンターのスイッチを入れた、久々に聞く複合機の起動音、PCの画面を操作して、印刷を開始する。

    ふたたび、複合機が音を鳴らす、しばらくして、白い便箋に文字が刷り上がってくる。

    バクが隣でじっとそれを見つめていた。

    「次は経年劣化やな」

    「うん、さっき調べた通りにやってみる」

    ボクは便箋を丁寧に縦に折った。それから横に。また縦に。何度も折り畳んでは広げる。

    折り目がついたところで、端をほんの少しだけ湿らせて、そのまま乾かした。

    次に消しゴムをかける。便箋の表面を軽く、まんべんなく。白い紙がわずかにくすんで、つやが落ちる。

    「……どう?」

    バクに見せると、長い鼻がひょいと便箋に近づいた。くんくんと嗅いで、じっと眺める。

    「ええな。もともとちょっと印刷紙も古いからいい感じやな。一年か二年、引き出しの奥に眠っとったやつに見える」

    「じゃあ封筒に入れて、明日おじちゃんの前で見つける演技をする」

    「そうや。棚の隙間あたりがええやろな。作業中に自然と手が届く場所で」

    「或いは、この課題が含まれていた『夢をかなえるゾウ4』に挟むのもええかもしれんな」

    ボクは便箋を丁寧に三つ折りにして、封筒に収めた。

    封はしないでおこう。加工がややこしそうだ。封筒も消しゴムでなぞり、細かな皺ができてちょっとダメージ感が露わになる、

    「……ちゃんとできるかな、演技」

    ぽつりと呟くと、バクが長い耳をぴくりと動かした。

    「あ、そうや。歩、演劇は得意か?」

    「えっ? どうして急に?」

    「だってな、自作自演とはいえ、歩の名前が書いてある手紙が出てくるわけやろ。それで、『え、亡くなったのって朝霧透くんだったの? え……』って、迫真の演技せんといかんぞ。泣くところまではしなくてもええかもしれんけど、落ち込むくらいはな……」

    「……た、確かに…… あ、ちょっと待って。朝霧透……って、前の主人の名前?」

    「あ、そうや。言うてなかったな。主人の名前は朝霧透や」

    「……朝霧透くん」

    「……ほな、練習しとこうか?」

    ボクは少し間を置いた。

    「……そ、そうだね。どこからがいいかな?」

    「本の中から手紙を見つけて、おじちゃんに渡して……ってとこだろうか」

    「わ、わかった」

    ボクは手元に完成した手紙を持っているていで、大きく息を吸い込んだ。

    「おっちゃん、これ……本に挟まってたんだけど……」

    「硬い! 声のトーンが完全にマニュアル読んどる時のそれや! もっとこう、動揺と戸惑いが混ざった感じでいかんかい」

    「う、うん……じゃあ、もう一回。……おっちゃん、これ……本の中に挟まってて……」

    「おっ、今の『これ……』の間の取り方はええな! だけどな、顔の筋肉が緊張で引きつっとる。もっと驚きで頭が真っ白になった表情を作るんや」

    それから三度ほど演技指導が入った。

    バカげているかもしれないけど、真剣勝負しなきゃいけないことに、ボクとバクちゃんは時折笑っていた。

    寝る準備をすべて済ませて、ボクは部屋の明かりを落とした。

    薄暗い自室のベッドに潜り込み、天井を見つめる。

    封筒は机の上に置いてある。明日、『夢をかなえるゾウ4』の間にそっと忍ばせる。

    目を閉じると、さっきの文章がまだ頭の中に残っていた。

    明日も仕事頑張ってきます。

    明日はうまくいくかな……。

    「……おやすみ、バクちゃん」

    返事はなかった。もう眠っているのか、それとも黙っているのか。

    ボクはそのまま、静かに目を閉じた。

    ※part.2に続く


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