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『Well-Tempered─言語監査人─』⑥──聞きたかった声

    【各話リンク(全8話)】
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    第二話
    第三話
    第四話
    第五話
    第六話
    珏七芹
    第八話

    朝、言語監査庁の自席に着いてすぐ、私はIDを入力する。
    生体認証のサインが一瞬光り、自分の名前が表示される。
    【水沢 琴:言語監査士Ⅲ類 登録番号 0000104】

    画面に通知が表示される。夜のうちに自動巡回が拾った案件の一覧。
    優先対応案件の一番目を見る。

    申立人:池上 修平。三十五歳。株式会社ヘルスシード代表取締役。
    故人ツイン:真壁 直人。享年三十二。同社元取締役CTO。没後一年。

    申立人の文面を開く。
    ──最近、彼の応答に違和感を覚えます。
    それだけが書かれていた。

    本人性指数〇・七一。許容範囲ぎりぎりの数字だ。
    応答ログ生成経路のグラフィックを確認する。
    細くなった経路は特にない。だが、ある種の語彙群への経路だけが、最近、急に太くなった形跡がある。
    「迷い」「疲れ」「眠れない」「辛い」「ごめん」──疲労、感情と、内的な状態を表す語彙群。

    生前ログと照らし合わせる。これらの語彙群は、生前の真壁さんの発話の中ではほとんど現れていなかった。

    橘さんが、隣の席で軽く会釈した。
    「水沢さん、池上さんの申し立ての件、どう見ますか」
    「侵食型かも。経路の太り方が、不自然で」
    「申立人は、来庁を希望されています」
    「わかりました。お会いします」

    橘さんは頷いて、自分の席に戻った。
    午後。応接室に通された池上さんは、思っていたより若く見えた。三十五歳。痩せ型で、白いシャツ、紺のジャケット。落ち着いた声で挨拶をして、私の向かいに座った。
    「お忙しいところ、ありがとうございます」
    「いえ、こちらこそ。直接お話しできて助かります」

    池上さんは、テーブルに置かれた水を一口飲んだ。
    「真壁とは、大学の研究室で出会いました。私が二つ年上で、彼が修士に上がる頃に。会社を立ち上げたのは五年前です。医療現場の課題解決を目指したスタートアップで、彼が技術側の責任者でした」
    「お仕事の中身を、少しだけ伺っても」
    「臨床現場のデータの扱いに関わる事業です。守秘義務がありますので、これくらいで」
    池上さんは少し笑った。
    「真壁は、私が経営判断で迷う時、よく相談に乗ってくれました。技術の話だけでなく、人の話、組織の話、お金の話。彼は、判断ができる男でした。逃げずに、一つのポジションを取る。私は、何度も彼の判断に救われたし、意見が違えば議論ができた」
    「ご病気か何かで……」
    「突然死でした。過労です」
    短く、池上さんは答えた。
    「彼が亡くなって、一年になります。会社のことで迷う時、彼のツインに話しかけることがあります。彼の声を聞けば、判断の方向が、見えるような気がして」
    私は頷いた。
    「ですが、最近、彼の応答に、違和感が」
    「具体例を、伺ってもいいですか」
    「先月、ある臨床機関との契約を進めるかどうかで迷っていて。生前の真壁なら、たぶん、進めるべきだと言うはずだったんです。ですが、ツインの彼は、決めなかった。『うまく言えないけど、もう少し考えたほうがいいかもしれない』と」
    「それは、生前の真壁さんとは違う、と」
    「違います。彼は、迷わなかった。少なくとも私には、そう見えました」
    池上さんは、両手を膝の間で組んでいた。
    「他にも。最近の応答に、なんというか、感情が、混じるようになって。『大丈夫か』とか、『無理するな』とか。彼はそういう言葉を、少なくとも私の前では、使わなかった」
    「お話、ありがとうございます。調査します」
    「お願いします」
    帰り際、池上さんは立ち上がってから、少し言いよどんだ。
    「水沢さん。一つだけ」
    「はい」
    「彼を、戻していただけますか」
    私は黙って、頷いた。
    池上さんは礼を言い、応接室を出ていった。

    自席に戻り、真壁さんのツインの公開範囲を確認した。
    公開範囲は、池上修平と、ヘルスシードの役員、親族、親しい友人数人、そしてもう一人。
    南野 沙織。三十一歳。続柄欄に「故人パートナー」と記載があった。

    池上さんとヘルスシードの役員たち、それから親族と友人からの入力は、頻度、質、量とも一般的な範囲だった。
    だが、南野さんの入力履歴は違った。
    故人没後の半年は、ほとんど何も入力されていない。
    短い「直人」とだけ書かれた入力が、二、三度、残っているだけ。
    半年が過ぎた頃から、入力が増え始めていた。
    最近の三ヶ月は、ほぼ毎日、何かが書かれている。
    サンプルを開く。
     ──直人、最近どうしてる
     ──夢で会えた気がした、なんとなく嬉しかった
     ──本当に疲れてたんだよね、もう少し私も気づけたらよかった
     ──今日、仕事ちょっと辛かった
     ──ごめん、まだ部屋の片付け、終わってない
    私的で、感情に近い、二人の関係に密着した語りかけ。
    ツインの応答を、時系列で追う。
    最初は短い。「うん」「そっか」「気にしないで」程度。
    だが、徐々に、応答が長くなり、私的な含みを持ち始めていた。
    ──ごめんな、もっと、ちゃんと、言えばよかった──

    こうした応答は、生前ログの中の真壁さんにはほとんど見られない。
    それは南野さんへの私的な発言でもそうだ。
    時折、「たしかに、少し疲れてるかもね」と冗談めかして言っていた程度だ。

    だが、今はその応答経路が大きくなっている。
    そして、池上さんの前にも、漏れ出している。

    私は直観的に、これは一人では無理だ、と思った。

    橘さん、葉子さん、和泉さんに声をかけ、打ち合わせの場を用意してもらった。

    私は改めて案件の概要を説明し、生成経路グラフィックを画面に出した。
    「公開範囲の中の一人──南野沙織さん──の入力傾向が、明らかに生前の真壁さんのログの傾向と違います。南野さんの入力が、ここ三ヶ月で急増しています。彼女の入力に対する応答経路が太り、その太り方が、池上さん側の応答にも漏れ出している」
    「侵食型、ただ、スピードが異常ですね」
    和泉さんが言った。
    「はい。私の見立てですが、生前の真壁さんは、いわゆる『ストイックな人』だったのだと思います。意識的、無意識的に、『弱音を吐く』種類の語彙の出力、いやおそらく、それ以上に『入力』を遠ざけていた。その本人が亡くなったいま、新しい語彙が流れ込み、学習され、漏れ出している」
    「つまり、南野さんの入力が、本人性喪失の原因だ、ということですか?」
    和泉さんが尋ねた。
    「はい、そのはずです。ですが……」
    私が言い淀むと、葉子さんが声を上げた。
    「池上さんと南野さん、お二人が、取り戻してほしい真壁さんが違うということよね?」
    私は答えた。
    「はい。ただ、うまく言えないのですが、南野さんの方は『取り戻してほしい』というのとは、少し違って……」
    ──しばらく、沈黙があった。

    「──水沢さん、南野さんに、会いに行きませんか」
    葉子さんが沈黙を破った。
    「いや、規定上、申立人ではない方にこちらから会いに行くことは……」
    「ええ、わかってます。でも、この案件は」
    「葉子さん」
    「水沢さん」
    葉子さんの声は、いつもより低かった。
    「水沢さんが行かないなら、私が行きます」
    「葉子さん、それは」
    「規定外です。でも、行きます」
    葉子さんは、私から一切目を逸らすことなく、静かに言った。
    「水沢さん。あなたの判断が、人を、死なせるかも、しれないの」
    「橘さん。良いですよね」
    橘さんは少し間を置いて、小さく頷いた。
    葉子さんは立ち上がり、自分のブースに戻った。
    和泉さんも、橘さんも、何も言わなかった。

    葉子さんは翌日、年休を取って、南野さんを訪ねていった。
    南野さんに連絡を取り、了解を得た上での訪問だと聞いた。
    例外的に業務上の理由をつけられなくはなかった。
    しかし、葉子さんは自身の判断で、個人的な時間を使って、南野さんを訪問した。
    戻ってきた葉子さんは、私の席の隣に立った。
    「南野さんは、お会いしてくれました」
    「はい」
    「直人さんと付き合っていたのは、亡くなる前の四年。一緒には住んでいなかった。彼が亡くなった日も、その少し前に会っていたそうです」
    「……」
    「彼女、葬儀の頃には一度、悲しいのは通り過ぎていたって。お通夜と告別式はただの儀式に見えた、そう言ってた」
    「そうですか」
    「その時池上さんから、一言、二言、声をかけられたって。目に涙を浮かべて、謝るような言葉だったって。でも、その時の自分は、彼の言葉を受け取る余裕も、受け取らない余裕もなかった、って」
    葉子さんは、画面の方を見ていた。
    「半年、彼女はツインに話しかけられなかった。話しかけたら、彼が本当にいないことをもう一度、認めてしまう気がしたって。最近、やっと話しかけられるようになったって。話しかけて、応答が返ってくると、少しだけ息ができる、って」
    私は黙って聞いていた。
    「それから」
    葉子さんは少しだけ私の方を見た。
    「この話は水沢さんに伝えていいって、許可をいただいた。これは、私の判断で、規定外の聴取として記録に残しています」
    葉子さんはそれだけ言って、自分のブースに戻った。

    調整候補を呼び出した。
    補助ツールが、いくつかの候補を提示した。
    最も妥当な候補は、典型的な「侵食型」相当の処理──急激に増えた、感情と内的状態を表す語彙群の生成経路を絞り、生前と同程度の発露にとどめる──というものだ。
    これを実行すれば、真壁さんのツインは、「生前の話し方」に「戻る」。池上さんにとっても、南野さんにとっても。
    ──ただ、それはおそらく、今の南野さんが求める、真壁さんではない。

    ──別の方法はないか。
    公開範囲を分ける。池上さんの前の真壁さんと、南野さんの前の真壁さん。それぞれを、別のツインとして保つ。民間時代にはよくやった手法だ。しかし、それは言語監査庁の倫理規定に反する。故人ツインの商品化を防ぐための、厳格な規定だ。

    ──私はいったん仮実行を行ってから、微調整を試みることにした。
    典型的な調整候補を選んで、仮実行ボタンを押した。
    画面のグラフィックが、ゆっくりと変化していく。「迷い」「疲れ」「眠れない」「辛い」「ごめん」──これらの語彙群への経路が、ゆるやかに、細くなっていく。
    ──完了。

    仮実行状態の確認のため、ツインを呼び出した。
    「真壁さん」
    「はい」
    「最近、お仕事のことで、何か気になっておられることはありますか」
    「いえ、特には。次のリリースに向けての進捗も順調ですね」
    声は低めで、迷いがない。生前の真壁さんの、池上さんの前での口調。
    私は、もう一つ、問いを置いた。
    「お疲れになっていませんか」
    「いえ、大丈夫です」
    短く、応答が返った。それだけだった。
    本人性指数を確認する。
    〇・七一→〇・八九。元に戻った、と言える数値だ。
    そこから少しずつ、「弱音」を吐きそうな、そういう出力に、寄せていく。
    池上さんの前では、その「弱音」を発露させない、その水際を狙って。
    ──私は、試行錯誤を繰り返した。気がついた時には、日付が変わっていた。

    翌日、三つのドキュメントを用意した。
     一、標準外対応(基準内)に関する報告
     二、南野沙織氏と真壁直人氏ツインの対話ログ抜粋:参考情報として。
     三、白瀬葉子言語監査士による個別聴取の概要:規定外の聴取として参考添付。
    ボタンを押して、関係部署に報告書として回した。

    数日後、鷹野さんがフロアにやってきた。
    鷹野 千景。倫理監査部門の主任監査官。細いフレームの眼鏡、グレーのジャケット。私は彼女を見るのは三度目くらいだった。
    「水沢さん」
    「鷹野さん。お疲れさまです」
    「真壁直人さんツインの件、報告書を拝見しました」
    「はい」
    「これについて、もう一度確認させてください」
    鷹野さんは、私の隣の椅子に座った。タブレットを開いて、画面を私に向ける。
    「南野沙織さんの入力履歴。申立人の要望と、故人ツインの本人性維持の観点からは、ツインの出力に発露させない処置が標準ですよね。ですが、今回は十分にその経路を絞らなかった」
    「はい」
    「それから、白瀬葉子さんの個別聴取記録」
    「はい」
    「これは、後日の再審査を意識した記録ですか」
    私は答えに窮した。意識していたのか、無意識だったのか、自分でもはっきりしない。
    「……すみません、即答ができません」
    鷹野さんは、私の答えを聞いて、わずかに微笑んだ。
    「わかりました。職務範囲は越えていないものと判断しますが、気をつけてください」
    鷹野さんは、タブレットを閉じた。
    「標準外の余地が、書類上残されている。それが何のためか、書いた本人にもわからないままに。私の仕事は、それを発見して消すことではない。記録することです」
    鷹野さんはそう言って、立ち上がった。
    「水沢さん、また、何かあれば、伺います」
    それだけ言って、鷹野さんはフロアを出ていった。
    帰りの電車の中で、私は、葉子さんの言葉を思い出していた。
    「あなたの判断が、人を、死なせるかも、しれないの」

    私は、規定の中で、できるだけのことをした。
    おそらく真壁さんのツインは、南野さんの前では「弱音」を吐くはずだ。
    だが、それは彼女が求める真壁さんではないかもしれない。
    半年の沈黙の先に彼女が聞きたかった声はもう、聞けないかもしれない。

    家に帰って冷蔵庫を開け、残っていた麦茶をグラスに注いだ。
    ティーバッグが少し破れていて、こぼれ出した粒がグラスの中を舞って、沈んだ。

    南野さんは、聞きたかった声を聞けているのだろうか。
    聞けているとして、いつまで保てるのだろうか。
    その考えが、止まらなかった。

     
     
    奥井 晴弥(おくい・はるや) 1980年生まれ、福井県出身、大阪在住。 二律背反の選択や、そこで生じるアンビバレントな感情、無意識の前提への問いなど、言葉と構造の間に存在する矛盾や衝突、その副作用について、短編小説の形で綴っています。

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