
夜明け前に、あなたを想う|最終話 夜明け前に、あなたを想う
あなたと過ごす日々は、特別なことばかりではなかった。
どこか遠くへ行かなくてもよかった。立派な約束をしなくてもよかった。ただ会って、同じ道を歩いて、何を食べるかで少し迷って、くだらないことで笑えたら、それだけで十分だった。
あなたはよく食べた。驚くくらいよく眠った。遊ぶ時は、時間を忘れてしまうくらい全力だった。
忘れ物も多かった。待ち合わせに遅れることもあった。貸したものをなかなか返さないこともあった。だらしないところも、抜けているところも、少し困るくらいたくさんあった。
それでも、そんなあなたの全部が愛おしかった。
完璧だから大切だったわけじゃない。正しいから好きだったわけじゃない。あなたがあなたのまま笑っていてくれることが、ただ、どうしようもなく嬉しかった。
あなたは、私を変えようとはしなかった。
過去を責めることも、傷を急いで治そうとすることもなかった。ただ隣にいてくれた。私が自分の足で歩けるように、少し先の道をやさしい光で照らしてくれるような人だった。
愛はあるのだと、あなたが教えてくれた。運命の人はいるのだと、あなたが教えてくれた。自分を削らなくても、受け取っていい愛があるのだと、あなたが教えてくれた。
私はあなたに出会って初めて、自分より大切だと思える存在を知った。
あの日も、そんな日々の続きのはずだった。
特別すぎる日ではなかった。でも、あなたに会えるだけで十分に大切な日だった。
会ったら、何を食べようか話そうと思っていた。最近見つけた店の話をしようと思っていた。あなたが好きそうなものを写真に撮っていて、それを見せようと思っていた。また少しだけ未来の話をして、くだらないことで笑って、帰り道に次の約束をする。
そんな、当たり前に続いていくはずの日だった。
待ち合わせの時間になっても、
あなたは来なかった。
最初は、またいつものことかと思った。
あなたは時々、少し遅れてくる人だった。忘れ物を取りに戻ったり、準備に時間がかかったり、出る直前になって何かを探し始めたりする人だった。
だから私は、少し困りながらも、どこかであなたらしいと思っていた。
スマホを見た。連絡を送った。
「着いたよ」
それだけの言葉が、画面の中で止まっていた。
少しして、また送った。
「大丈夫?」
その言葉にも、返事はなかった。
既読にならない画面を、何度も見た。時間だけが静かに過ぎていった。
街はいつも通りだった。人は流れていた。信号は変わり、車は走り、誰かの笑い声が少し遠くで聞こえた。
私だけが、同じ場所に置かれていた。
それでも、まだ信じようとしていた。
もうすぐ来る。きっと何かあっただけ。少し慌てた顔で現れて、遅れてごめんと笑う。そして私は、少し呆れたふりをして、でも結局笑ってしまう。
そんなふうに思おうとしていた。
けれど、あなたは来なかった。
これ以降、あなたが私の前に現れることはなかった。
あなたのお姉さんから連絡が来たのは、そのあとだった。
何を言われたのか、ほとんど覚えていない。私が何を返したのかも覚えていない。声を出したのか、黙っていたのかも分からない。
ただ、世界から音が消えた。
無音だった。
さっきまで聞こえていた街の音も、人の声も、風の音も、全部が遠くなった。スマホを握っているはずの手の感覚も、足元の地面も、私の呼吸さえも、急に私のものではなくなった。
あなたが事故に遭ったこと。あなたがもう帰ってこないこと。
その言葉だけが、音にならないまま胸の奥に落ちていった。
事故のことを、うまく思い出せない。思い出したくないのかもしれない。
覚えているのは、あなたが来るはずだった場所に、あなたが来なかったこと。
昨日まで返ってきた連絡が、もう返ってこないこと。聞こえるはずだった声が、もう聞こえないこと。会えるはずだったあなたに、もう会えないこと。
日常は、大きな音を立てて変わったわけではなかった。ただ、ひとつだけ大切なものが抜け落ちて、世界の形が変わってしまった。
それから何度も、同じ場所に戻った。
頭の中で、何度もあの日をやり直した。
あの日に待ち合わせをしなければ。あの時間に待ち合わせをしなければ。私が誘わなければ。もっと早く連絡していれば。迎えに行っていれば。違う場所にしていれば。予定を変えていれば。
ありもしない別の未来を、何度も探した。
待ち合わせをしたことが罪だったわけではない。頭では分かっていた。
でも心は、失った理由をどこかに探さずにはいられなかった。
あの日。
あの時間。
あの約束。
私の言葉。
どれかひとつでも違っていたら、あなたはまだ笑っていたのではないか。そんなことばかり考えた。
自分が代わってあげたかった。
どうしてあなただったのだろう。どうしてあなたじゃなければいけなかったのだろう。
その言葉は、声にならなかった。ただ、呼吸の奥で何度も繰り返された。
朝が来ても、起きる意味が分からなかった。
食事をしても、味がしなかった。口に入れて、飲み込んでいるだけだった。
街を歩けば、あなたに似た背中を探した。似た笑い声に振り向いた。あなたが好きだったものを見るたびに、足が止まった。
送ろうとしていた写真が、スマホの中に残っていた。あなたに話そうと思っていた出来事が、胸の中で行き場をなくしていた。一緒に行くはずだった場所の名前を見るだけで、息が浅くなった。
返すつもりだったもの。返してもらうはずだったもの。まだ言えていなかった言葉。次に会ったら伝えようと思っていたこと。
全部が、私の中に残ったままだった。
部屋にも、あなたの気配だけが残っていた。
あなたが使ったもの。あなたが置いていったもの。あなたが笑っていた場所。あなたが眠そうにしていた時間。
何もかもが、あなたがいたことを証明しているのに、あなただけがいなかった。
世界は変わらず動いていた。
朝は来た。人は笑った。電車は動いた。誰かは普通に恋をして、誰かは普通に家へ帰っていった。
でも私の中では、あの日から時間が止まったままだった。
あなたがいないことを理解しているのに、心のどこかではまだ待っていた。
連絡が来るはずがないのに、スマホを見た。声が聞こえるはずがないのに、似た声に振り向いた。もう会えないと分かっているのに、ふとした瞬間に会える気がした。
帰り道の角を曲がったら、あなたが立っている気がした。何でもなかったみたいに笑って、遅れてごめんと言う気がした。
そのたびに、現実は静かに私を置いていった。
あなたを忘れようとは思わなかった。
忘れられるはずがないからではなく、あなたは忘れる相手ではなかったから。
あなたは、私に初めて本当に愛されることを教えてくれた人だった。ありのままを受け止めてくれた人だった。幸せになっていいのだと、私に思わせてくれた人だった。
あなたを失った痛みは、簡単には消えない。たぶん、これからも形を変えながら残っていく。
でも、あなたと出会えたことまで悲しみにしてしまうのは、どうしても違う気がした。
あなたがよく食べていたこと。すぐ眠くなること。全力で遊ぶこと。家族を大切にしていたこと。待ち合わせに遅れてきたこと。忘れ物をすること。貸したものを返さないまま笑ってごまかすこと。
そういう細かな記憶が、私を苦しめた。でも同じくらい、私を生かしてもいた。
あなたがいた日々は、もう戻らない。でも、あなたがいた事実は消えない。
あなたに愛された私も、消えない。
それでも、何度も心が追いつかなくなった。
あなたのいない未来を、どうしても受け入れられない夜があった。私だけが残ってしまったことに、息ができないほどの孤独を感じる夜があった。
誰かに大丈夫と言われても、何が大丈夫なのか分からなかった。
時間が解決すると言われても、時間が進むほどあなたが遠くなるようで怖かった。忘れなくていいと言われても、忘れられないまま生きていく私が苦しかった。
前を向くこともできなかった。
前というものが、あなたのいない方角にしか思えなかったから。
それでも長い夜の中で、少しずつ思い出すものがあった。
あなたがよく笑っていたこと。あなたが全力で生きていたこと。あなたが、私の過去を否定しなかったこと。あなたが、こんな私でも愛されていいのだと教えてくれたこと。
あなたが愛してくれた私を、私がずっと傷つけ続けることを、あなたは望まない気がした。
あなたが照らしてくれた道を、私が自分で閉ざしてしまうことを、あなたはきっと望まない。
そう思えた日があった。
ほんの少しだけだった。それでも、その少しが、次の朝まで生きる理由になった。
あなたの分まで生きる、という言葉は少し違う気がした。
あなたの人生を、私が代わりに生きられるわけではない。あなたが食べたかったものを、私が食べても、あなたの代わりにはならない。あなたが見たかった景色を、私が見ても、あなたの時間が戻るわけではない。
だから私は、あなたの分までではなく、あなたと共に生きていこうと思った。
あなたを過去に置いていくのではなく、私の中にあなたを連れていく。あなたが教えてくれた愛を、これからの私の言葉の中に残していく。
私は、自分の痛みを誰かに分かってほしかったわけではなかった。ただ、眠れない夜を過ごしている誰かがいるなら、その隣に少しだけ言葉を置けたらと思った。
裏切られた夜。信じることが怖くなった夜。大切にされていないと分かっているのに離れられなかった夜。もう戻れない人を待ってしまう夜。そして、大切な存在を失った夜。
私が歩いてきた夜は、どれも消えなかった。でも、消えないからこそ、誰かの痛みに触れる言葉になっていくのかもしれなかった。
あなたがくれた光が、私の中でまだ消えずにいる。
明るく照らすような光ではない。すべてを救ってくれるような光でもない。
それは、夜明け前の薄い光に似ていた。まだ暗いのに、どこかで朝が近づいていると教えてくれるような、静かな光だった。
私はこれからも、あなたを思い出す。
何でもない日に泣くこともある。あなたに会いたくて、立ち止まる夜もある。もう一度だけ声が聞きたいと、叶わないことを願う日もある。
それでも、その痛みごと抱えて歩いていく。
あなたが愛してくれた私を、少しずつ連れていく。あなたが照らしてくれた道を、何度も立ち止まりながら進んでいく。
そしていつか、同じように眠れない夜を過ごす誰かの心に、小さな灯りを置けるように。
あなたがいない夜に生まれた言葉を、あなたと共に、これからも生きていく。
【おわりに】
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
最終話は、もう会えない人を忘れる物語ではなく、心の中に連れて生きていく物語でした。
失った痛みは、簡単に消えるものではありません。
けれど、愛された記憶まで消えるわけではないのだと思います。
あなたがいたこと。
あなたに愛されたこと。
その光が、これからの言葉になっていく。
ここまでこの物語を読んでくださったこと、心から感謝しています。
この物語が、眠れない夜を過ごす誰かの心に、少しでも小さな灯りとして残りますように。