
夜明け前に、あなたを想う|第0話 プロローグ 愛を知らなかった頃のこと
【あらすじ】
愛を知らないまま、寂しさを誰かで埋めていた私。初めて本気で人を好きになり、誰かを傷つける痛みと、傷つけられる苦しさを知った。信じることを失った夜、もう一度愛を教えてくれた人、離れられないほど苦しかった関係、そして初めて自分より大切だと思えた人との出会い。いくつもの恋と別れを通して、私は愛の重さ、喪失の深さ、それでも生きていく意味を少しずつ知っていく。これは、心に残った人たちを抱えながら、それでも自分の言葉で生きていこうとする物語。
昔のことを思い出すと、胸の奥に、まだ名前のつかない痛みが残っている。
それは誰かを恨むための痛みではなくて、あの頃の自分を、静かに見つめるための痛みだった。
愛というものが、まだよく分からなかった。
誰かと一緒にいること。
好きだと言われること。
必要とされること。
それらを、愛と呼んでいいのだと思っていた。
ひとりでいる夜が怖かったわけではない。
けれど、誰の中にも自分の居場所がないような気がする夜があった。
だから、誰かの隣にいた。
誰かの言葉で、自分がここにいてもいい理由を探していた。
愛されていると感じられたら、少しだけ息がしやすくなった。
求められていると分かると、自分に価値があるような気がした。
でもその頃の自分は、誰かの心をちゃんと見ようとしていなかったのだと思う。
相手にも寂しさがあること。
相手にも傷つく心があること。
言われなかった言葉の奥に、飲み込まれた涙があること。
そういうものを、見ようとしなかった。
自分が寂しいかどうか。
自分が満たされているかどうか。
自分が愛されていると感じられるかどうか。
いつも、心の真ん中にいたのは自分だった。
学生時代から知っていた人がいた。
同じ時間の中にいて、同じ季節を通り過ぎてきた人だった。
近すぎるほど近くて、だからこそ特別だとは気づきにくかった。
最初から運命のようだったわけではない。
ただ、気づけば隣にいることが増えていた。
帰り道を一緒に歩いた。
どうでもいい話で笑った。
くだらないことで言い合いになって、すぐにまた何事もなかったように並んで歩いた。
毎日のように会っているうちに、その人は、ただ寂しさを埋めてくれる誰かではなくなっていった。
声を聞くと安心した。
何も話さなくても、そばにいるだけで心が静かになった。
その人が笑っていると、自分まで少しだけ救われるような気がした。
初めて、本当に好きなのかもしれないと思った。
けれど、その気持ちを大切に扱えるほど、自分はまだ優しくなかった。
近くにいることに甘えていた。
好きでいてくれることを、どこかで当然のように思っていた。
傷つける言葉を言った。
自分の都合で振り回した。
相手が困った顔をしても、その奥にある痛みまでは考えなかった。
ごめんね、と言えば許されると思っていた。
そばに戻れば、元通りになると思っていた。
その人は、あまり多くを言わなかった。
怒鳴ることも、責めることもなく、ただ少しずつ言葉を減らしていった。
笑う回数が減っていったことにも、当時の自分はすぐに気づけなかった。
今なら分かる。
あの沈黙は、何も感じていなかったからではなかった。
言えなかっただけだった。
言っても届かないと思わせてしまったのは、きっと自分だった。
ある日、その人が静かに言った。
「少し、距離を置きたい」
そのあとに続いた言葉は、ひどくまっすぐだった。
「やりたいことがあるから、頑張りたい」
いつもこちらの気持ちを優先してくれていた人が、初めて自分の意思をはっきり口にした気がした。
その目は揺れていたけれど、決めたことを簡単に変えるようには見えなかった。
本当は嫌だった。
行かないでと言いたかった。
自分のそばにいてほしいと、子どもみたいに縋りたかった。
けれど、そんなことを言えるほど素直でもなかった。
だから、平気なふりをして頷いた。
「いいよ」
声は思っていたよりも軽く出た。
まるで傷ついていないみたいに聞こえた。
どうせすぐに戻ってくる。
少し離れれば、また前みたいに会える。
そう思っていた。
本当は、思いたかっただけなのかもしれない。
離れてからの日々は、想像していたよりも静かだった。
誰かと会っても、心のどこかが空いていた。
笑っていても、ふとした瞬間にその人のことを思い出した。
一緒に歩いた道。
よく座っていた場所。
何気なく交わした言葉。
それまで当たり前だったものが、離れた途端に、全部大切だったのだと分かってしまった。
遅すぎる気づきだった。
これからはちゃんとしようと思った。
もう自分の寂しさだけで誰かを振り回したくないと思った。
今度会えたら、ちゃんと謝ろう。
今度そばにいられるなら、大切にしよう。
もう傷つけるようなことはしない。
そんなふうに、少しだけ変われる気がしていた。
久しぶりに会えることになった日は、朝から落ち着かなかった。
何を着ていけばいいのかも分からず、何度も鏡の前に立った。
言いたいことはたくさんあったのに、ひとつも上手くまとまらなかった。
待ち合わせの場所に向かう途中、胸が苦しいほど高鳴っていた。
会える。
やっと会える。
そのことだけで、足元が少し浮いているようだった。
けれど、再会したその人は、どこか知らない人のように見えた。
顔も声も同じだった。
笑い方も、覚えているものとほとんど変わらなかった。
それなのに、まとっている空気だけが違っていた。
自分の知らない時間を過ごしてきた人の顔をしていた。
会話の中に、知らない名前が出てきた。
知らない場所の話が出てきた。
そして少しずつ、その人が距離を置いていた間に、別の誰かと恋人のような近さで過ごしていたことを知った。
自分がいない季節に、誰かと会い、誰かと笑い、
誰かの隣で夜を越えていたこと。
頭では、責めることではないと分かっていた。
距離を置いていたのだから。
その人にはその人の寂しさがあったのかもしれない。
自分が傷つけてきた時間の中で、その人もどこかに逃げ場を探していたのかもしれない。
そう思おうとした。
けれど、心はそんなふうに綺麗には追いつかなかった。
自分が、またやり直せると思っていた場所に、
もう別の誰かの気配があった。
その事実が、言葉にならないほど痛かった。
初めて、裏切られる側の痛みを知った気がした。
置いていかれること。
知らないところで変わっていかれること。
自分だけが、前のままの場所で待っていたのだと気づくこと。
こんなにも苦しいのだと、その時初めて知った。
そして同時に、思い出していた。
かつて自分が、その人にしてきたことを。
寂しさを理由に、誰かを傷つけたこと。
そばにいてくれる優しさに甘えたこと。
相手が言葉にしなかった痛みを、なかったもののように扱ってしまったこと。
あの人も、こんなふうに胸を冷やした夜があったのかもしれない。
自分の隣にいながら、ひとりで泣いていたのかもしれない。
そう思った瞬間、誰かに裏切られた痛みと、自分が誰かを傷つけていた悔いが、同じ場所で重なった。
それは、罰という言葉では片づけられなかった。
自分がしたことが返ってきた。
ただそれだけで終わらせてしまえば、少しは楽だったのかもしれない。
でも、そんな単純なものではなかった。
好きだった。
大切だった。
でも、大切にする方法を知らなかった。
愛してほしかった。
必要とされたかった。
けれど、自分も誰かをちゃんと愛せていなかった。
その全部が、胸の奥でほどけないまま絡まっていた。
再会した日の帰り道、街の灯りがやけに遠く見えた。
泣きたいのに、涙はすぐには出なかった。
ただ、息をするたびに胸の奥が少しずつ痛んだ。
失ったものの大きさを知るには、失ってからの時間が必要だった。
傷つけたことの重さを知るには、自分も傷ついてみるしかなかったのかもしれない。
そんな自分が嫌だった。
でも、その夜、ひとつだけ心に残ったものがあった。
もう、誰かにこんな痛みを渡したくない。
自分の寂しさで、誰かの心を雑に扱いたくない。
愛されたいからといって、誰かを傷つける人には戻りたくない。
そう思った。
強い決意ではなかった。
明日からすべてが変わるような、まぶしい誓いでもなかった。
ただ、胸の奥で小さく灯った火のように、消えそうで、でも確かにそこにあった。
愛を知らなかったころの自分は、あの夜、初めて痛みの中で、誰かの心に触れたのだと思う。
【あとがき】
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
この物語は、まだ愛の輪郭を知らなかった心が、誰かのぬくもりに居場所を探していた頃から始まります。
寂しさの中で誰かを求め、傷つけ、傷つけられながら、人は少しずつ愛の重さを知っていくのかもしれません。
続きは、毎週日曜日の21時に公開していきます。
また次の話で会えたら嬉しいです。
この物語の続きはこちらです。