
夜明け前に、あなたを想う|第3話 そばにいるほど遠かった
好きだけでは一緒にいられないことがある。
それを知ったあとも、心はすぐに大人しくなってくれるわけではなかった。
別れは、憎しみではなかった。
裏切りでもなかった。
ちゃんと大切にされた記憶があり、ちゃんと信じようとした時間があり、最後には互いの夢のために手を離した。
だからこそ、怒りに変えることができなかった。
恨めたら、少しは楽だったのかもしれない。
ひどい人だったと決めつけられたら、前だけを向けたのかもしれない。
けれど、胸に残っていたのは感謝だった。
幸せだった時間も、救われた言葉も、信じることを思い出させてくれた温度も、全部まだ心の中にあった。
それなのに、隣にはもう誰もいなかった。
ちゃんと愛された記憶があると、人はもう一度それを探してしまうのかもしれない。
あの頃のぬくもりに似た何かを。
自分を必要としてくれる誰かを。
自分の寂しさを、そっと見つけてくれる存在を。
その人と出会ったのは、そんな頃だった。
その人は、とても寂しそうな人だった。
笑っていても、どこか満たされていないように見えた。誰かといても、ひとりでいるような目をしていた。強い言葉を使うのに、心の奥には今にも揺れてしまいそうな危うさがあった。
愛に飢えている人だと思った。
居場所を探すことに必死で、誰かの中に、自分の存在を確かめようとしている人。
生きることに一生懸命で、けれどその必死さの中で、うまく人を大切にできない人。
わがままで、自分が悪かったと言えないところもあった。
傷つけた理由を、いつも何かのせいにしてしまうところもあった。
でも、それをただ悪意とは思えなかった。
その人の中に、昔の自分を見ていたからだと思う。
まだ愛を知らなかった頃の自分。
寂しさを誰かで埋めようとしていた頃の自分。
愛されることでしか、自分の価値を確かめられなかった頃の自分。
だから、放っておけなかった。
その人の寂しさを、置いていけないと思った。
その人の危うさを、分かってあげられるのは私だけかもしれないと思った。
誰かにちゃんと大切にされたら、その人も変われるのかもしれないと、どこかで信じていた。
それが恋だったのか、救いたいという気持ちだったのか、今でもはっきりとは分からない。
たぶん、最初から境目は曖昧だった。
関係も、曖昧なまま始まった。
付き合おうという言葉はなかった。
けれど、会う理由はいくらでもあった。
そばにいる時間は増えていった。
何気ない連絡も、眠る前の会話も、ふとした優しさも、まるで特別なもののように心に残った。
名前のない関係ほど、期待を捨てるのが難しい。
何も約束されていないのに、少し優しくされるだけで、もしかしたらと思ってしまう。
選ばれていないのに、隣にいられるだけで、選ばれているような気がしてしまう。
その人の心の奥には、終わったはずの恋がまだ消えずにいた。
それを知った時、胸の奥が少し冷たくなった。
平気なふりをした。
誰にだって忘れられない人くらいいる。
過去を抱えていることくらい、分かってあげたい。
そう思おうとした。
その人は時々、心に残っている人の話をした。
今どうしているのか。
まだ気持ちが残っているのか。
会うべきなのか、やめるべきなのか。
そんなことまで、相談してきた。
そのたびに、静かに私の輪郭が薄くなっていく気がした。
隣にいるのは私なのに。
話を聞いているのも私なのに。
その人の心が向かっている場所は、私ではなかった。
相づちを打ちながら、指先だけが冷えていった。
大丈夫だよ、と言いながら、本当は少しも大丈夫ではなかった。
何をしているのだろうと思った。
好きな人の、別の誰かへの気持ちを聞いている。
その人が傷つかないように言葉を選びながら、私だけが静かに傷ついている。
それでも、離れなかった。
苦しそうな顔をされると、突き放せなかった。
本音をこぼされると、必要とされている気がした。
私にだけは本音を見せてくれているのだと、思いたかった。
心に残っている人との関係が終われば、きっと私を見てくれる。
そう思っていた。
けれど、その関係が終わっても、私をまっすぐ見てくれることはなかった。
心は、また別の誰かの方へ向いた。
気持ちも、時間も、言葉も、気まぐれにいろいろな場所へ流れていった。
そのたびに、私は少しずつ削られていった。
愛されていないことは、分かっていた。
大切にされていないことも、本当は分かっていた。
それでも、心は離れられなかった。
その人といても幸せにはなれない。
分かっているのに、その人じゃなければいけないと思った。
その人を分かってあげられるのは私だけだ。
私がいなくなったら、その人はひとりで抱えきれなくなる。
こんなに寂しい人を、ひとりにしてはいけない。
そう思い込んでいた。
でも本当は、その人を救っていたのではなかったのかもしれない。
救いたいという言葉を使いながら、自分がしがみついていた。
必要とされることで、自分の価値を確かめようとしていた。
選ばれない痛みに耐えながら、いつか選ばれる日を待っていた。
掴めそうで掴めないものほど、人は手を伸ばしてしまう。
完全に手に入らないから、諦められない。
完全に離れていかないから、終わらせられない。
その人が、私を見ることはなかった。
けれど、完全にいなくなることもしなかった。
関係を終わらせようとすると、嫌だと言った。
離れようとすると、寂しそうな声を出した。
もう会わない方がいいと言うと、どうしてそんなことを言うのかと傷ついた顔をした。
そのたびに、心が揺れた。
まだ必要とされている。
まだ終わっていない。
まだ何か変わるかもしれない。
そう思ってしまった。
なのに、傷つく原因になっている人たちとの縁を切ってほしいと伝えると、それは無理だと言われた。
引き止めるのに、選んではくれない。
そばに置くのに、大切にはしてくれない。
失いたくないと言うのに、守ってはくれない。
進むことも、戻ることもできなかった。
付き合っているようで、付き合っていない。
大切にされているようで、肝心なところでは選ばれない。
離れようとすると引き止められる。
近づこうとすると、はぐらかされる。
その曖昧さの中で、心は少しずつ息をする場所を失っていった。
一緒にいる時の方が、離れている時よりも苦しかった。
隣に座っていても、遠かった。
同じ部屋にいても、居場所がなかった。
笑い合っているはずなのに、胸の奥ではいつも何かが泣いていた。
そばにいるのに、ひとりだった。
人は、一緒にいる相手の心の形に、少しずつ影響されてしまうことがある。
明るい人のそばにいると、心まで少し軽くなる日がある。
穏やかな人といると、自分の呼吸まで静かになることがある。
それと同じように、不安定な寂しさのそばにいると、自分の心まで揺れてしまうことがある。
その人の寂しさに触れるたび、自分の寂しさも呼び起こされた。
その人の愛への飢えを見ているうちに、私まで愛されることに必死になっていった。
その人が不安定になるたび、私の心も一緒に沈んでいった。
いつの間にか、自分が自分ではなくなっていた。
夜になると、その人のことばかり考えた。
連絡が来るかもしれないと思って、何度も画面を見た。
通知が鳴るたびに胸が跳ねて、違う人からだと分かると、何もなかったようにスマホを伏せた。
送らないと決めたのに、理由を探した。
忘れ物のこと。
前に話していたこと。
どうでもいい近況。
連絡するためなら、どんな小さな口実でもよかった。
もう戻らないと決めた夜もあった。
このままでは自分を見失ってしまうと分かっていた夜もあった。
それでも、少し優しい言葉をかけられると、また心がその人の方へ戻ってしまった。
寂しさを見せられると、置いていけなくなった。
苦しそうにされると、自分の痛みの方を後回しにした。
でも本当は、もう心が追いつかなくなっていた。
食べても味がしない日があった。
眠っても疲れが取れない朝があった。
笑っている時でさえ、心のどこかで連絡を待っていた。
その人のことを考えない時間が、少しずつ減っていった。
自分のために使えるはずだった時間まで、その人の不安や言葉や機嫌に明け渡していた。
ある夜、いつものように画面を見つめていた。
来ない連絡を待ちながら、胸の奥がゆっくり沈んでいくのを感じていた。
その時、ふと思った。
自分は何を待っているのだろう。
愛されたいだけだった。
選ばれたいだけだった。
ちゃんと見てほしかっただけだった。
たったそれだけの願いを、どうしてこんなに苦しい場所で叶えようとしていたのだろう。
その人を救いたかったはずなのに、私の心が息をできなくなっていた。
その人を置いていけないと思っていたのに、置き去りにされていたのは自分だった。
関係を終わらせる決意は、きれいなものではなかった。
何かを乗り越えたから離れられたわけではない。
もう平気になったから手を離したわけでもない。
震えながらだった。
何度も迷った。
言葉にしたあとも、胸の奥で何かが静かに沈んでいくようだった。
それでも、終わらせるしかなかった。
このまま一緒にいたら、自分が自分でいられなくなる。
その人を失うことより、自分を失い続けることの方が、ずっと怖いのだと気づいてしまったから。
終わったあとも、すぐには楽にならなかった。
むしろ、いなくなった分だけ空白は大きく見えた。
連絡を待つ癖は残った。
通知の音に反応する体も、理由をつけて連絡しようとする心も、すぐには変わらなかった。
戻りたい夜もあった。
私がいないと、その人はひとりで抱えきれないのではないかと思う夜があった。
本当は今も苦しんでいるのではないかと考えて、胸がざわつく夜があった。
でも、少しずつ分かっていった。
離れることは、その人を見捨てることではなかった。
自分を連れ戻すことだった。
愛されない場所に居続けることで、自分の価値まで差し出していたのだと思う。
選ばれない痛みに慣れてしまうことで、自分が本当は何を望んでいたのか、見えなくなっていたのだと思う。
その人にも、その人の寂しさがあった。
うまく人を大切にできなかった不器用さがあった。
生きることに必死なあまり、誰かを傷つけてしまうところがあった。
そうだとしても、自分を見失うほど隣にいなくてよかった。
今では、その恋を少しだけ笑い話にできる日もある。
あの頃の自分を思い出して、どうしてあんなに必死だったのだろうと、静かに息を吐ける日もある。
でも、痛みが消えたわけではない。
ただ、あの時間の中で分かったことがある。
誰かを愛することと、自分を置き去りにすることは、同じではない。
誰かの寂しさを分かってあげることと、自分の寂しさをなかったことにすることも、同じではない。
まだ夜が深くなると、心の奥であの頃の自分が少しだけ泣く。
それでも、もう戻らない。
その人を憎むためではなく、自分を守るために。
もう、自分を置き去りにする恋には帰らない。
【あとがき】
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
第3話は、そばにいるほど心の距離が遠くなっていく物語でした。
見つめてほしい人に見てもらえないこと。
離れた方がいいと分かっていても、心だけが残ってしまうこと。
それでも物語は、自分の心を取り戻す場所へ向かっていきます。
続きは、毎週日曜日の21時に公開していきます。
また次の話で会えたら嬉しいです。