
「藝大合格まで、だいたい9浪(笑)の話」 鴨居玲の衝撃編 No.1
一枚のポスター
私が一番最初に衝撃を受け、また、初めて画集を購入したのが鴨居 玲(かもい れい、1928年 - 1985年)です。
確か、美術系予備校(以下「予備校」)に通い始めて1年目だったと思います。当時通っていた武蔵野美術学院(予備校、以下「ムサ院」)の、1階のアトリエの入り口のドアに貼ってあった鴨居玲のポスターに、私はしばらく釘付けになりました。
今、調べてみたところ、『没後10周年記念 鴨居玲展』の展覧会のポスターだったようです。確か、当時はムサ院の近くにOlympic(スーパー)があって、その辺りに公衆電話があり、そこから展示の巡回先である「石川県立美術館」(鴨居さんは石川県のご出身)に電話をかけ、現金書留?で支払いを済ませ、送っていただいたのだと思います。

ちなみに今はわかりませんが、当時はムサ院の近くにボクシングの輪島さんだったかな?のお団子屋さんがあって、店舗自体はとても小さいのですが、いつもお客さんで賑わっていたのを覚えています。私もいただきましたが、正直味は覚えていません(笑)。
ただ、当時の貧乏学生でも購入できたので、きっと常識的な価格だったのだろうと思います。
鴨居さんのポスターがどのようなものだったのかも、今となっては覚えていません。ただ、その強い衝撃は今でも身体に刻まれています。
鴨居さんの作品は人物が特に印象的であり、ずんぐりとしたフォルムと足元の不安定さが特徴的かと思います(図1)。

私の予備校1年目である1995年は、「阪神・淡路大震災」や「地下鉄サリン事件」が起きた年でした。 当時、私は吉祥寺のお寿司屋さんでアルバイトをしていました。
その調理場で流れるラジオから、連日、震災の被害者数が報道され、その数が日毎に増えて5000人を超えたとき、私は静かな衝撃を覚えました。また、経済的にはバブル崩壊後の平成不況の只中にもあった頃です。鴨居さんのカリスマ的人気にはそのような時代背景もあったのかもしれません。
私自身もアルバイトをしながら予備校に通っていたのですが…、いやいや、私はそういった方向では楽観的だったと思います。合わせて暗く記述した方が、とは思いましたが、私は予備校とアルバイトとで精一杯で、落ち着いて社会を顧みる余裕は全くなかったと思います。ただそんな私でも、メディアから伝わってくる時代的な暗さは感じていたと思います。
私は決して真面目な受験生ではありませんでしたが、予備校での絵の勉強には面白さを感じていました。
毎日課題が与えられ(美大合格を目的とした課題ですが)、それに解答する(絵を描く)日々です。そのような毎日の中で絵のことを考え、早いテンポでカタチに落とし込んでいくことの困難さと、少しずつですが造形的な技術を身につけている楽しさとを実感していました。
鴨居さんの作品は単色でシンプルな背景にボリュームのある、動きのある人物像が特徴的です。基本的には、陰鬱とした印象を背景とした人物像の強さとその人物の躍動感。また、デッサン表現などは、ボリュームの表現のためのタッチ自体も、画面から感じられる力強い印象の一因となっています(図2)。

大袈裟に言えば、鴨居さんの作品からは命が感じられるのです。
私には、鴨居さんは人懐っこい方だったのかなと感じられます。人間の弱さを責めず遠ざけず、むしろ温かい、優しい目線で対峙している様子が感じられるからです。そして、それらの人物の躍動感からは、体全体から生きた生活の様子が感じられるようです。また、酔っ払いに見せる寄り添った視線からは、鴨居さんご自身を投影しているかのような印象も感じられます。
一般に鴨居さんは孤独や絶望の画家として語られることが多いと思います。ただ私には、それ以上に命を見つめ続ける姿が強く感じられるのです。
「藝大合格まで、だいたい9浪(笑)の話」 鴨居玲の衝撃 No.2へ続く…
【注釈】
私が美術系予備校(以下「予備校」)に通ったのは6年間で、それ以前は、今はすでに廃校になっている、吉祥寺にあった「武蔵野美術学園」(各種学校)の油絵科の夜間部に3年間通っていました。
【参考文献】
・表紙および掲載図版は、『没後10周年記念 鴨居玲展』(図録)、鴨居玲展実行委員会、1995年より引用。