Africa Express:「救済」でも「フェスティバル」でもない、越境する音楽コミュニティのこと
※これはデーモン・アルバーンのファンが、デーモンを入口にAfrica Expressをたどってみた一次資料のまとめ記事です。
はじめに
デーモン・アルバーンというとどうしてもBlurかGorillazのデーモンというイメージが強いけど、色々なインタビューを読んでいくうちに「もしかすると、デーモンが一番自由になっている場所はAfrica Expressなのかもしれない」と思うようになった。
Africa Expressとは何か、一言で説明するなら:固定メンバーを持つバンドではなく、デーモン・アルバーンらが関わる国際的な音楽コラボレーション・プロジェクトだ。国やジャンルの違う音楽家たちを同じ場所に集め、短期間で録音やライブを行う。2006年から現在まで、マリ、コンゴ、シリア、南アフリカ、メキシコと、舞台を変えながら活動を続けている。
以前書いた記事(トム、デーモン、バーンそれぞれの「音楽業界の危機」への反応)で、「デーモンは、音楽業界を批判するだけではなく、“じゃあ自分たちで別の場を作ってみよう”とする人なのではないか」と書いた。Africa Expressは、まさにその“別の場”を20年近く実践し続けてきたプロジェクトだ。
そこではデーモンは"主役"ではなく、大勢の演奏家の中の一人として誰かの後ろで演奏している。BlurやGorillazだけでは収まりきらなかったデーモン・アルバーンの、もうひとつの核心がここにある。
今回は、Damon Albarn Unofficial Archiveに保存されているインタビューや記事を読み返しながら、Africa Expressの流れを整理してみた。
これはチャリティの話でも、ワールドミュージックの話でもない
Africa Expressを「デーモンがアフリカのミュージシャンを支援するプロジェクト」と説明すると、少し違うものに聞こえてしまう。善意の白人ミュージシャンがアフリカを“助けに行く”話ではない。むしろデーモン自身は、「我々(西洋)こそが、アフリカの音楽から学ぶことで救われる必要があるんだ」という言い方をしている。
同時に、これはいわゆる「ワールドミュージック」のプロジェクトでもない。ワールドミュージックという言葉は、英語圏以外の音楽をまとめて“別棚”へ並べるための便宜上のカテゴリだった。デーモンはこの言葉を「植民地主義的な隔離」として嫌悪している。Africa Expressがやろうとしているのは、「珍しい異文化音楽を紹介すること」ではなく、国境やジャンルや立場を越えて、人と人が同じ場所で音を鳴らす場そのものを作ることだ。
原点:二つの出発点
Africa Expressには、原点が二つある。
ひとつは、2004年〜2005年の大規模チャリティイベントへの政治的・倫理的な違和感。もうひとつは、その数年前の2000年、デーモン自身がマリで"教わる側"になった体験だ。この二つが重なって、Africa Expressというプロジェクトは生まれた。
Band Aid 20のお茶汲みから、2005年のコヴェント・ガーデンへ
2004年、デーモンはBand Aid 20に呼ばれていた。1984年のチャリティ・ソング『Do They Know It's Christmas?』の現代版として再録するプロジェクトだ。彼はすでに「"アフリカを救う側"として西洋のスターたちが並ぶチャリティ」に強い違和感を抱いていたため、歌唱には参加しなかった。Guardianの記事によれば、Band Aid 20の映像には、Paul McCartneyがベースを弾き、Thom Yorke(※)がピアノを弾く一方で、Damon Albarnが歌手たちにお茶を配る姿が映っていたという。公式のクレジットでも、彼の役割は"tea boy"とされている。
これは単なる冗談ではない。デーモンは若い頃、ロンドンのスタジオで本当にお茶汲みをしていた時期がある。Band Aid 20で彼がやったのは、「スターとして前に立つ」のではなく、初心に戻って裏方の位置に自分を置くという行動だった。
その翌年、2005年の夏。ロンドンのコヴェント・ガーデンにあるバーで、デーモン・アルバーンとジャーナリストのイアン・ビレル、マネージャーのスティーヴン・バッドらが集まっていた。話題になったのは「Live 8」のことだった。アフリカの貧困問題解決と債務帳消しを訴えることを目的に世界各地で同時開催された巨大な音楽イベントだったが、「アフリカのための」コンサートでありながら、メインステージに立ったアフリカ人アーティストがほとんどいなかった。他のアフリカのミュージシャンたちは、コーンウォールのエデン・プロジェクトという別会場に切り離されていた。
デーモンはこれを「知的にも感情的にも欠如している(intellectual and emotional failure)」と表現した。アフリカを「救われるべき病んだ場所」としてのみ描き、そこの音楽や人々の豊かさを無視したままチャリティをやることへの怒り。それが、Africa Expressを作ることになった直接の衝動だった。
なお、この頃の巨大チャリティイベントへの違和感を持っていたのはデーモンだけではない。Band Aid 20には参加していたThom Yorkeも、翌年のLive 8には参加せず、後にその政治的な単純化に違和感を覚えていたと語っている。
そして2025年の『Help (2)』への参加時にも、デーモンは単純な「チャリティ・ソング」の構図に慎重で、いわゆる"white saviour complex"への懸念を率直に語ったうえで、グリアン・チャッテンやケイ・テンペストらとの大規模コラボレーションとして参加している。Band Aid 20で"tea boy"になった頃から、この警戒感はあまり変わっていない。
始まりのマリ旅行
Africa Expressとして正式に活動を始めるのは2005年だが、その原点になった体験は、さらに数年前のマリ旅行にまでさかのぼる。
デーモンはOxfamのプロジェクトの一環としてマリを訪れた。当初求められていたのは「親善大使」としての役割だったが、彼はそのやり方を断り、Oxfamに別の条件を出した。孤児院を巡るのではなく、自分が聴いてきたマリの音楽家たちに会わせてほしい。そして、そこで起こることを録音させてほしい、と。
※ この旅の前段階として大きかったのが、デーモンが1990年代後半に通い詰めていた西ロンドンのレコード店「Honest Jon's」の存在だった。ここで彼はマリ音楽やアフリカ音楽を"教わる側"として吸収していった。それだけで別記事が書けるほど面白い話なのでここでは触れるだけにしておくが、デーモン自身「Honest Jon'sがアフリカへ行くための音楽的パスポートになった」と語っている。
(2026/06/05 別記事書きました)
マリで最初に出会った重要な音楽家のひとりが、コラ奏者のトゥーマニ・ジャバテだった。西アフリカの21弦楽器コラの名手で、71世代続くグリオの家系に生まれた人物だ。デーモンがマリに持っていったのは、ギターでもアンプでもなく、DATレコーダーとメロディカだった。「聴いて、話して、時々メロディカで参加した」と後に語っている。この「時々」という感じがいい。主導するのではなく、まず耳を澄ます。入れる場所があれば、そっと入る。
ただし、それは簡単なセッションではなかった。「メロディカは音程が固定された西洋の平均律の楽器だから、トゥーマニのコラやマリの音楽の揺れにそのまま乗るのは難しかった」とも振り返っている。この旅は単なる異文化体験ではなく、自分の音楽の前提を揺さぶられる体験だった。
彼はこの旅で40時間以上の録音をDATテープに残してロンドンへ戻り、2年かけて素材と格闘した。その試行錯誤から生まれたのが、2002年の『Mali Music』だ。
「Damon Albarn, Afel Bocoum, Toumani Diabaté & Friends」名義で発表されたこのアルバムについて、本人は「自分はまだクロスカルチュラルな音楽の初心者にすぎない」と語りながら、「これはチャリティ・レコードではない」とも強調している。善意を前面に出すのではなく、まず音楽として成立させる——というスタンスは最初から一貫していた。
もちろん当時は、「文化の盗用にあたるのではないか」という視線も多かった。ただ、これが数年で終わらなかったことが、後から見ると重要だ。デーモンはその後20年以上、常に「一人の演奏家として現地に混ざる」姿勢を崩さなかった。
2005年の誕生、2007年のデビュー
コヴェント・ガーデンでの話し合いの翌年、2006年に、デーモンたちはファットボーイ・スリムことノーマン・クック、マーサ・ウェインライト、ジェイミーT、The RootsのScratchらを連れてマリへ向かった。Africa Expressの最初のプロジェクトだ。
ノーマン・クックはこの旅を「移動するシンクタンク」と振り返っている。まだ完成された組織というより、Live 8への違和感を抱えたミュージシャンたちが、実際にアフリカの音楽家と会い、同じ場所で音を出すにはどうすればいいかを探っている段階だった。
公式デビューは2007年のグラストンベリー・フェスティバルだった。Park Stageを5時間使い、ビリー・ブラッグ、ファットボーイ・スリム、バアバ・マール、ティナリウェン、The Magic Numbersらが混ざり合う大規模なセッションを繰り広げた。要するに、ロック、ヒップホップ、アフリカ音楽、フォーク、ベテランと若手が同じステージに詰め込まれた、ということだ。
いかにもこのプロジェクトらしいのは、開始30分前になっても楽屋にAmadou & Mariamしかいなかったという話だ。デーモンは「ミュージシャンは夜型だから」と平然としていたという。時間が経つにつれてアーティストたちは次々と集まり、ステージ上では予定を超えたセッションが生まれていった。
初期のAfrica Expressは、事前告知なしに半即興的なライブが行われることも多かった。ロンドンのブリクストンのパブで、突然音楽が始まる。バンドでもフェスでもなく、移動する音楽コミュニティだった。
余談だが、この"移動する音楽コミュニティ"は、デーモン自身の人間関係にも妙な作用をもたらしている。2008年、CamdenのKokoで行われたAfrica Expressのライブ前、長年ほとんど口をきいていなかったグレアム・コクソンがふらりと現れた。二人は散歩に出て、Eccles cakeを買い、戸口に座って話した。デーモンによれば、その時に二人の間にあったわだかまりが消え、Blur再始動へとつながっていったという。
伝説のリバプール・ライブ(2008年)
2008年のリバプール・オリンピア劇場でのライブは、Africa Express史上最も語り継がれる公演のひとつだ。アフリカから80人以上、欧米から多数のアーティストが参加した9時間超のマラソン公演になった。
会場となったオリンピア劇場は100年前にはサーカス小屋で、地下には象やライオンがいたという歴史を持つ。周囲のエヴァートン地区は失業率が高く、チケット代は10ポンドに設定された。音楽をコミュニティへ戻す、という意識が本気で共有されていたことがわかる。
コントロールフリークで知られるデーモンが、この時ばかりは楽観的だった。出演者の確認を求められても「まあ、僕はそこにいるし、バアバ・マールやフランツ・フェルディナンドも何かやってくれるらしいから、大丈夫だよ」という調子だったという。最終的にステージには100人を超える音楽家が入り乱れた。デーモンとラシッド・タハが「Rock the Casbah」を歌う頃には、25人以上が同時に演奏していた。出演者が多すぎて、ダミアン・マーリーに「もう時間がない」と伝えなければならなかった、という笑っていいのかわからない話まで残っている。
コンゴ、5日間の奇跡(DRC Music 2011年)
2011年、デーモンはコンゴ民主共和国のキンシャサへ向かった。リチャード・ラッセル(XL Recordings)、ダン・ジ・オートメーター、クウェス、Actress、TEEDらUKのプロデューサー陣とともに、わずか5日間でアルバム一枚を作るという「電撃戦」のようなプロジェクトだ。現地のミュージシャン50名以上が参加した。
録音場所はキンシャサ中心部の屋根のない巨大なオープンスペース。録音が「あらゆる場所で同時に」進行していたという。メインスペースで誰かが演奏している横の芝生では、デーモンがキーボードを弾き、別の場所ではレミ・カバカが現地ボーカリストたちと録音している。まるで野戦病院のような熱気だった。
サウンドの素材も独特だ。キンシャサのミュージシャンたちは街の廃材やゴミから自作楽器を作っていた。デーモンは「ある男は、クシャクシャのビニール袋までパーカッションにしていた」と驚いている。その音をUK側の最新デジタル機材が片っ端からキャプチャしていく。コンゴでは物事が予定通り進まず、何時間も待たされる。けれど参加者たちは、その「待ち時間」こそが重要だったと振り返っている。突然誰かが現れ、予定になかったセッションが始まり、そこから曲が生まれる。
完成した『DRC Music: Kinshasa One Two』について、デーモンは「僕たちが自分たちのために作った"海賊ラジオ局"の放送みたいなもの」と語っている。街のノイズ、廃材の音、電子ビート、即興、混線——そういうものを、そのまま世界へ向けて違法電波みたいに放送してしまう感覚。リチャード・ラッセルも「"Feed the world"をやりたいわけじゃない。理解し、つながりたいんだ」と語っている。
ロンドン五輪の列車ツアー(2012年)
2012年ロンドン五輪のカルチュラル・オリンピアードの一環として、Africa Expressは1970年代製の改造ディーゼル列車に80組以上のアーティストを乗せ、1週間かけて英国中を回った。バアバ・マール、アマドゥ&マリアム、トニー・アレン、Yeah Yeah Yeahsのニック・ジナー、ジョン・ポール・ジョーンズ、ポール・ウェラー、ジョニー・マー——世代もジャンルもバラバラな音楽家たちが、列車を「動く村(moving village)」に変えていった。移動中も、どこかで常にセッションが起きていたという。
※トニー・アレンについてはこちら
途中で各地に停車しては刑務所、工場、学校でポップアップ・コンサートを開いた。普通ならコンサートが開かれない場所に音楽を持ち込む、Africa Expressらしいゲリラ的な発想だ。
最後はキングス・クロス駅裏での公演で締め括られた。ポール・マッカートニーとジョン・ポール・ジョーンズが参加したが、ここでも「大スター扱い」は機能していない。ポールがギニアのBa Cissokoと演奏した時、現地のミュージシャンたちは彼が誰なのかよく知らなかったという。この場では「伝説のポール・マッカートニー」であることより、「隣で演奏している一人のミュージシャン」であることのほうが重要だった。デーモンはAfrica Expressでは「one of many(大勢のうちの一人)」になれることが好きだと語っている。
そもそもデーモンにとって列車は特別な存在だ。コルチェスターからロンドンへ通う旅は、Blur時代から彼の音楽や歌詞の風景と深く結びついている。「その列車の旅については、アルバム何枚分も曲を書いてきた」と語っている。鉄道という「人々の生活を運ぶインフラ」を、そのまま文化交流の場へ変えてしまう——この2012年のツアーは、単なる五輪イベントではなく、デーモン個人の感覚ともつながっていた。
マリの危機と「音楽を止めるな」(Maison Des Jeunes 2013年)
2012年から2013年にかけて、マリ北部をイスラム過激派が支配し、音楽禁止令が出された。楽器は燃やされ、音楽家たちは南部のバマコへ逃れた。後にソンゴイ・ブルーズとして知られる若いバンドも、音楽禁止令を逃れてバマコへ来ていた。一部屋のバラックで身を寄せ合いながら、演奏する場所もないまま過ごしていたという。
デーモンがブライアン・イーノ、Yeah Yeah Yeahsのニック・ジナーらを連れてバマコへ飛んだのは、その状況を「音楽そのものが標的にされている」と感じたからだった。録音拠点になったのは「Maison Des Jeunes(青少年センター)」だ。わずか1週間でアルバムが作られた。
このレコーディングでソンゴイ・ブルーズが発見され、参加することになった。アルバムの収益は、若いミュージシャンが表現を続けるためのスタジオ建設に使われた。後にソンゴイ・ブルーズはグラストンベリーの大舞台へ立つバンドになる。一部屋のバラックから、そこまで来た。
デーモン自身は、毎晩バマコの小さなクラブに通い、隅の席でメロディカを吹いていたという。「あれは自分にとって最高の教育だった」と後に振り返っている。
デーモンはこの時期、「ミュージシャンにとって最も美しい抵抗の形は、人々の心に触れることだ。彼らを撃つことではない。たとえテロリストであっても」と語っている。この発言は、後年のデーモンの"分断された相手とも対話をやめない"という姿勢を理解するうえで、重要なコメントだと思う。
2014年には、テリー・ライリーのミニマル音楽の古典『In C』をマリの音楽家たちと再構築した『Africa Express Presents: Terry Riley's In C Mali』も発表されている。短いフレーズを各演奏者が自由に反復しながら進んでいく1960年代の実験音楽と、マリ音楽の循環的なリズム感が、驚くほど自然に結びついた作品だ。
シリアのオーケストラの再集結(2016年)
2016年のツアーが始まる前、リハーサルが行われたアムステルダムに、5年間会えなかったメンバーたちが集まった。涙と抱擁が続いた。ビザの問題でギリギリまで参加できるかわからない者もいた。内戦が始まってから連絡が途絶えていた人もいた。それが、シリア国立アラブ音楽オーケストラの再集結プロジェクトの始まりだった。
この物語の起点は2016年ではない。デーモンとシリア国立アラブ音楽オーケストラのつながりは、2010年の『Plastic Beach』まで遡る。『White Flag』には彼らが参加しており、同年Gorillazはダマスカスのシタデルでライブをおこなった。70人近い音楽家たちが、大モスクのすぐ隣で演奏した。その数ヶ月後、シリア内戦が始まる。共に演奏した音楽家たちは離散し、難民となった。2016年のプロジェクトは、その「一度失われた共同体」を、もう一度音楽で繋ぎ直す試みだった。
ツアーにはポール・ウェラー、グレアム・コクソン、ジュリア・ホルターらも参加したが、主役はシリアの音楽家たちだった。指揮者のイッサム・ラフェアを中心に、シリア音楽だけでなく西アフリカの歌手ヌーラ、シリア/レバノンのラップデュオなど、多様な音楽家たちが混ざり合った。
ツアーのハイライトとなったグラストンベリー公演は、奇妙なタイミングと重なっていた。シリアの音楽家たちがイギリスへ到着した日が、EU離脱を問う国民投票の日だったのだ。朝5時に結果を知ったデーモンは、娘に電話をかけ、泣きながら謝ったという。ステージ上では「民主主義が僕たちを裏切った」と発言した。一方で、過酷な内戦を生き抜いてきたシリアの音楽家たちは、なぜイギリス人たちがそこまで打ちひしがれているのか、最初は理解できなかったとも言われている。このズレ自体が、象徴的だった。
デーモンはこのプロジェクトについて「映し出されるのは醜い戦争の映像ばかりだが、アラブの世界にはそれ以上のものがある。このコンサートは、シリア音楽の力、美しさ、豊かさを伝えるものだ」と語っている。難民というのは「問題」や「危機」というラベルで語られやすい。でも同じステージに立ち、同じ曲を演奏すると、その見え方は少し変わる。
なお、デーモンにとって中東音楽への関心は突然始まったものではない。父キース・アルバーンは1970年代にイラクを訪れ、イスラムの文様やリズムについて研究していた。家では幼い頃からアラブ音楽が流れていたという。このプロジェクトは、単なる社会貢献ではなく、デーモン自身の音楽的ルーツと、戦争によって断絶された共同体とが再び接続された瞬間でもあった。
2026年のGorillaz『The Mountain』に収録された「Damascus」は、この2010年のダマスカスでの記憶や録音と深く結びついている。デーモンは、楽曲に使われた写真について「内戦が始まる3カ月前、ダマスカスで演奏した時のポスターなんだ」と語っている。
ヨハネスブルグのハット、そして「2」のタトゥー(molo / EGOLI 2019年)
南アフリカのヨハネスブルグで2018年に行われたセッションは、Africa Expressの制作スタイルをよく表している。27の小さな小屋(ハット)が即席スタジオになり、各所で同時多発的にセッションが進んでいく。すぐ隣には白い壁に囲まれた富裕層の豪邸群が広がっていた。南アフリカの格差を象徴するような風景の横で、世界中から集まったミュージシャンたちが5昼夜、音楽を作り続けていた。
このセッションでは、ムーンチャイルド・サネリー、Muzi、BCUCといった南アフリカの若いアーティストたちが、UK側をリードしていく場面が何度も生まれた。ムーンチャイルド・サネリーはほぼ全てのハットを回りながら即興セッションを牽引していたらしい。そしてMuziの言葉——「僕たちが完全に対等な場所で、美しいものを作るために協力しているのなら、いったい誰が誰を救っているというんだ?」
このセッションがデーモンにとって特別な体験だったことは、行動に表れている。自分が使っていたハットの番号「2」を、腕にタトゥーとして刻んだのだ。それは単なる思い出というより、あの数日間だけ存在した共同体の記念のようにも見える。
このセッションからはまずEP『Molo』が発表されている。"Molo"はコサ語で「こんにちは」という意味で、後の『EGOLI』へ繋がる最初の挨拶のような作品だ。このEPは、当時のブレグジット予定日に合わせるように発表された。
完成した『EGOLI』は、Africa Expressの作品の中でも特に風通しが良く、アフロハウス、ヒップホップ、伝統音楽、電子音楽が自然に混ざり合っている。タイトルの「EGOLI」はズールー語でヨハネスブルグを意味する。
メキシコのジャングルへ(Bahidorá 2025年)
2024年、Africa Expressは初めてラテンアメリカへと舞台を移した。メキシコのラス・エスタカス国立公園のジャングルで、わずか2日間で21曲を録音するという怒涛のセッションだ。これが2025年、アルバム『Africa Express Presents... Bahidorá』として結実する。
参加者たちはジャングルの中に設置されたテントで共同生活し、湖で泳ぎ、食事を共にし、そのまま録音へ向かった。デーモンは「テントで眠り、ジャングルで目覚め、湖で泳ぎ、音楽を演奏する。これ以上の場所があるかい?」と語っている。
このセッションで特に印象的な存在が、メキシコのトランスジェンダー歌手ルイーザ・アルマグエルだ。彼女が自作曲『Hacernos Así』を練習していた時、通りかかったデーモンが「なんて素晴らしい曲なんだ」と言って、そのままピアノの前に座り即興でアレンジを始めたという。「スペイン語を理解していないはずのミュージシャンたちが、感情を完璧に受け止めて演奏してくれた。周りが涙を流していた」とルイーザは振り返っている。南アフリカのムーンチャイルド・サネリーやアンゴラ出身のポンゴと同じテントで共同生活を送りながら、「エゴを持っている人は誰もいなかった。全員が音楽に奉仕していた」とも。
このアルバムでは、ジェンダーや社会の抑圧と向き合う音楽を作ってきたアーティストたちの存在感が強い。ルイーザ自身、メキシコではトランスジェンダーであることが「最も困難なことのひとつ」だと語っている。その中で、デーモンのような世界的な知名度を持つ白人男性アーティストが、そうした声を"ゲスト"ではなく作品の中心に置いた。ルイーザはそのことを「特権を持つ人間が、その力をどう使うか。デーモンはその手本を見せている」と表現している。
デーモン自身もこのアルバムでスペイン語での歌唱に挑戦している。先行シングルとなった『Soledad』はメキシコ側のミュージシャンたちが彼のために書いたスペイン語の曲で、本人は「今までで一番難しかった」と語りながら「スペイン語はこれからのグローバルな音楽言語になる」とも考えているらしい。スペイン語が堪能な娘に「発音が下手だ」と批判されることを承知で挑戦したらしいが、ルイーザはそのスペイン語を「アクセントごと感動的だった」と語っている。「メキシコでは、完璧さより、努力してくれることそのものが愛されるから」と。
「移動するサーカス」がなぜ続くのか
Africa Expressの活動範囲は、アフリカ音楽の紹介から始まり、シリアの音楽家の再集結へ、南アフリカの若手へ、ラテンアメリカへと広がり続けている。アフリカ発祥の音楽(ブルースやラテンのルーツ)を含めれば、世界中の音楽を巡る「移動するサーカス」と言ってもいい。
2025年、デーモンは「次のフロンティアを選ぶなら中東だ」と語っている。「癒やしが必要な場所であり、音楽の中立性が助けになるかもしれない」と。パレスチナにもイスラエルにも行きたい、もしロシアに行くよう頼まれたら行くだろう、ウクライナにも行きたい、とも発言している。この発言はSNS上で批判を呼び、その一部はファンからの反応だった。
ただ、長年のインタビューを追っていると、この発想自体はかなり一貫していることがわかる。マリの危機の章で引用した「ミュージシャンにとって最も美しい抵抗とは、人々の心に触れることだ」という言葉は、ずっと変わっていないのだと思う。現実の暴力や政治を無視するという話ではない。ただデーモンは一貫して、「まず文化的な対話そのものを止めない」という方向へ向かおうとしている。
Africa Expressは、その理想主義的で時に危うくも見える思想を、20年間実際にやり続けてきた場所なのだと思う。
余談と、「結局デーモンじゃん」という突っ込み
ここまでAfrica Expressについて書いてきたけれど、こう書いている私自身、最初にこのプロジェクトへ目を向けたのはデーモンが関わっていたからだ。
デーモン本人は、自分の名前だけが前に出ることについてかなり複雑な気持ちがあるのだと思う。実際、近年のAfrica Expressのライブ映像でも、客席から「Damon!」と叫ばれて、ちょっとうんざりしたような顔をしている場面があった。気持ちはわかる。彼にとってAfrica Expressは大勢の音楽家たちが主役になるためのプロジェクトなのだから。
でも、リスナー側としての言い訳もあって、デーモン自身が「この人だから一緒に音楽を作りたい」と考えて世界中の音楽家たちのもとへ向かってきたように、リスナーにも「この人が関わっているなら聴いてみたい」という入口がある。少なくとも私のような後追いファンにとって、デーモンの名前は自分だけではたどり着けなかった音楽へ向かうための扉でもある。
入口がデーモンであること自体を否定しなくていいし、大事なのはその入口から入ったあとにどこまで視線を広げられるかだと思っている。
正直に言うと、こうしてデーモンの発言や活動を追いかけて分析すること自体、本人はあまり好ましく思わないのではないか、という軽い罪悪感もあった。でも最近は、まぁしょうがないじゃん、と少し開き直っている。笑
主な参考資料
The Sunday Times, July 12, 2025 / Internazionale, July 3, 2025 / Songlines, August 2025 / Le Monde, November 23, 2015 / The Guardian, The Independent, Mojo ほか、Damon Albarn Unofficial Archive掲載の過去インタビュー・記事群を参照。
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