Honest Jon's:デーモン・アルバーンの「図書室」になったレコード店
いろいろな記事を読んでいると何度も出てくる「Honest Jon's」、気になって調べてみたら、ロンドン西部・ノッティング・ヒル周辺のポートベロー・ロードにあるレコード店で、のちにデーモンも関わるレーベルでもあった。
しかも、ただの「よく行っていた店」ではなく、『Mali Music』も、Tony Allenとの関係も、Africa Expressも、ここを通すとつながって見えてくる。
今回は、Honest Jon'sについて調べたことをまとめてみる。
この店は何か
Honest Jon'sは1974年、ジョン・クレアという人物が開いたレコード店。クレアはもともと、ロンドン大学で犯罪学を研究していた社会学者だった。若い頃にジャマイカでスカやレゲエに出会い、帰国後は週末ジャズクラブの企画などにも関わるようになる。その後、元精肉店だった物件を借りて店を始めた。
ジャズ、レゲエ、ソウル、アフリカ音楽——いろいろな音楽が並び、店員との会話から知らない音楽に入っていくような店だった。後にWorld Circuit(ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブを世に出したレーベル)を立ち上げるNick Gold、Mo' Wax(DJ ShadowやUNKLE周辺で知られるUKヒップホップ/トリップホップの重要レーベル)を始めるJames Lavelleもこの店に出入りしていた。
店の詳しい歴史はResident Advisorの特集記事がとても詳しい(日本語版あり)ので、気になる方はそちらをどうぞ。
→ Honest Jon's: 大切な場所 | Resident Advisor
1992年以降、この店を中心的に運営していたのが、Mark AinleyとAlan Scholefieldだった。デーモンが後に「mentors」と呼ぶことになる二人である。
デーモンは1990年代前半、当時の恋人ジャスティーン・フリッシュマンのノッティング・ヒルのフラットで暮らすようになり、その近所にあったHonest Jon'sにも通うようになったらしい。
デーモンはいろいろな人から音楽を教わってきた
デーモンのインタビューを読んでいると、この人は自分一人で音楽を掘り進めてきたというより、わりといろいろな人から影響を受けてきた人なのだと思う。
たとえば、若い頃のグレアム・コクソン。
グレアムはかつてこう語っている——「彼の家に行ってもレコードなんて一枚も見かけなかった。あったのは剥製のキツネや化石のトレイ、それに本ばかりだ。だから僕が、素晴らしいと思うレコードを彼に聴かせた。彼がそれを吸収していったんだ。僕は彼をプログラミングしたのさ」。
※デーモン自身は後に「あの言い方はちょっとひどいよね」と苦笑しつつ補足していて、実家にはインド音楽、初期のジャズ、ブルース、ゴスペル、アラビア音楽、アフリカ音楽、中世の教会音楽といった、かなり独特なコレクションがあったらしい。ただ、いわゆる普通のポップ・レコードはほとんどなかった。つまりグレアムが衝撃を受けたのは「自分たちが好きなタイプのロックやポップが見当たらない」ことだったのだと思う。とはいえ、デーモンは後に「グレアムが僕を本当に教育してくれた」と認めている。
グレアムがデーモンに英国ロックやポップの入口を渡したのだとしたら、Honest Jon'sは、もう少し遠い場所の音楽への入口になった。
デーモンがこの店に通い始めたのは1990年頃のことで、「おそらく最初はレゲエのレコードを買ったのが始まりだった」と語っている。その後何年かにわたって、デーモンは頻繁にこの店を訪れるようになった。
意外なことに、「通い出して最初の数年はただ静かにしていた。間違ったレコードを買ってしまうのが怖くて、なかなか買う勇気が出なかった」とも語っている。
やがてマリ音楽、アフリカ音楽、ジャズ、1950年代のカリプソ——それまで自分が知らなかった音楽を、店員から「教育」されるように吸収していき、後にこの経験を「マリへの音楽的なパスポートになった」と表現した。
そして最近のインタビューを読んでいると、娘のMissyから音楽を教えてもらっているというエピソードも出てくる。
デーモンは、誰かから音楽を教わることにあまり抵抗がない人なのかもしれない。しかも、それを隠さない。自分が知らなかったこと、教わったこと、影響を受けたことを、わりとそのまま話す。「自分だけで全部たどり着いた」ことにはしない。
そこが、Honest Jon'sで「生徒」になれた理由でもあるのだと思う。
マリ音楽への入口
Honest Jon'sでマリ音楽に触れていたデーモンに、2000年、Oxfamからマリ行きの話が来る。最初の依頼は、チャリティの大使のような立場で現地を訪れることだったらしい。
でもデーモンは、その役割に違和感を持ち、「自分は政治家ではなくミュージシャンなのだから、現地のミュージシャンに会わせてほしい」と伝えたという。
結果として、デーモンはDATレコーダーとメロディカを持ってマリへ行き、現地のミュージシャンたちと録音を行った。ここで重要なのは、デーモンが外から“紹介する側”としてではなく、まず現地の音楽家たちに会い、一緒に音を出す側に回ったことだと思う。
デーモン自身も「この店がなければ、そもそもマリ音楽に興味を持つことはなかった」と語っている。つまりHonest Jon'sは、マリへ行く前のデーモンに、マリの音楽を聴くための入口を作っていた。
この経験は、のちのAfrica Expressにもつながっていく。
レコード店からレーベルへ
こうしてマリで録音された音源は、のちに『Mali Music』としてリリースされることになる。そしてこの作品が、Honest Jon's Recordsの出発点になった。
Honest Jon'sにとって、店からレーベル的な動きが生まれることは、まったく突然の話でもなかった。1980年代後半、15歳でHonest Jon'sに通い始めたJames Lavelleがレーベルをやりたいと打ち明けたとき、Ainleyは1000ポンドを出資した。それが、のちにMo' Waxになる。Lavelleは後に「Markが俺を信じて、1000ポンドを渡してくれていなかったら、俺がやったことはすべて不可能だった」と語っている。
デーモンの場合も、Ainleyたちがその音源を受け止めたことで形になった。Scholefieldによれば、マリから戻ったデーモンがカセットを渡し、「作品を作っているんだ。一緒に出さないか?」と提案したのだという。AinleyとScholefieldという二人を、デーモンが「mentors」と呼んでいるのもわかる気がする。
レーベル設立について、デーモンは「良いレコード店は、良いレコードを出せるはず。Rough Tradeの初期に近いものを作りたかった」と語っている。Rough Tradeは、ロンドンのレコード店から始まり、後にThe Smithsなどを世に出すインディーレーベルになった存在だ。
Honest Jon's Recordsは完全な自主レーベルとして始まったわけではなく、資金面では、BlurやGorillazが所属していた大手レコード会社EMIの出資があった。BlurやGorillazが利益を出し続けている限り、EMIはデーモンのこうしたサイドプロジェクトにも資金を出すことができた。
EMIと組むことには、資金や流通だけでなく、メジャーが抱えていた古い音源アーカイヴに触れられる意味もあった。小さなレコード店だけでは届かない場所に眠っていた音楽を、Honest Jon'sの知識で掘り起こしていく。そのためにメジャーの力を使う、という面もあったのだと思う。
Ainleyはこの契約を「悪魔との契約だ。でも良い理由のための契約」と語っている。メジャーに取り込まれたいわけではない。でも、自分たちの条件をできるだけ守れるなら、メジャーの資金力や流通力、アーカイヴへのアクセスを使う。独立した美学を守るために、あえてメジャーの力を利用する選択だったのだと思う。
※余談だけど、ちょうど今読んでいるデイヴィッド・バーンの『How Music Works』でも、彼が立ち上げたLuaka Bopは「音楽は素晴らしかったが、時間と財政の消耗だった」と書かれていて、理想の音楽を届けるには、結局お金と流通の問題から逃げられないのだと思った。
このレーベルが出す音楽
Honest Jon's Recordsのカタログを見ると、「流行の新譜を並べる」ための場所ではないことがすぐわかる。
代表的なのが「London Is the Place for Me」シリーズだ。戦後ロンドンに渡ってきたカリブ系移民たちの音楽を掘り起こしたコンピレーションで、1950〜60年代にこの地区で息づいていた音楽を、半世紀以上経ってから文脈ごと再発掘したものだ。(実はノッティング・ヒルは、まさにそうしたカリブ系移民が多く移り住み、後にノッティング・ヒル・カーニバルが生まれる街でもある。)
※これはまさかの『パディントン』のお仕事と繋がってるのでぜひこちらも読んでみてください。
他にも、ジャマイカのダンスホール、アフロ・キューバン・ジャズ、マリの録音、EMIのアーカイヴから掘り起こされた20世紀前半の中東やアフリカの音源、1920年代バグダッドのラブソングまで出している。時代も地域もかなり広い。
Moondog(ニューヨークの路上でバイキング風の衣装を着て演奏していた作曲家)の再評価作、Bettye Swannのソウル盤、南アフリカのシャンガーン・エレクトロもある。デーモンに近いところでは、Tony Allenのソロ『Lagos No Shaking』(2006年)に加えて、The Good, the Bad & the Queenや、Rocket Juice & The Moonといった、デーモン自身のサイドプロジェクトの作品もこのレーベル周辺から出ている。
選び方の基準は「ヒットするかどうか」ではなく、「この音楽をどう文脈づけて届けるか」に近い。デーモンが「ワールドミュージックという言葉が好きではない。どこから来たものでも、ただ音楽じゃないか」と語ったのは、このレーベルの方向性とそのまま一致している。
レコード店が文化の拠点だった時代
Honest Jon'sについて調べていて新鮮だったのは、レコード店がただ音源を買う場所ではなく、文化の拠点として機能していたことだ。
今は音楽を知る入口の多くが、サブスク、YouTube、インタビュー記事、プレイリスト、SNSに分散している。CDやレコードを買うとしても、通販で済ませることが多い。
私自身、CD全盛期に通っていたのはタワレコやHMVのような大型店か、TSUTAYAのレンタルだった。音楽を知る入口も、どちらかというと雑誌だったと思う。ロッキング・オンのような音楽雑誌を読んで、名前だけ知って、店頭で探す。そういう距離感だった。
だから、Honest Jon'sのように、店員の選盤や会話から知らない音楽に入り、そこからレーベルが生まれ、さらにミュージシャンの次のプロジェクトにまでつながっていくという話は、かなり新鮮だった。
調べてみると、日本にも南青山のパイドパイパーハウスや、渋谷・宇田川町の輸入盤店街のように、選盤や人のつながりがカルチャーを作った場所はあったらしい。ただ、自分の実感としては、そういうレコード店文化はかなり遠いものだった。
だからこそ、Honest Jon'sは「デーモンが通っていた店」というだけではなく、音楽をどう知り、誰から受け取り、どう次へつなげていくかを考える場所として面白い。
おわりに
デーモンはHonest Jon'sについて、こう語っている。
「この店が僕にしてくれたことを、このレーベルが多くの人にしてあげたと思うんだ」
デーモンにとってHonest Jon'sは、ただの近所のレコード店ではなく、自分の知らない音楽に入っていくための場所だった。だからこそ、そこから『Mali Music』も、Tony Allenとの関係も、Africa Expressへ続く姿勢も見えてくる。
Honest Jon's Recordsのカタログは、Bandcampでも聴ける。私もまだ全然聴けていないけれど、少しずつ覗いていくつもり。
参考:Portobello Road by Julian Mash(2015年)/ musicOMH Damon Albarn interview(2002年)/ Le Monde(2008年7月)/ The New York Times(2008年7月)/ Resident Advisor「Honest Jon's: 大切な場所」(2015年)/ David Byrne "How Music Works"(2012年)/ 各種アーカイブインタビュー
