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仕事の見方を深める#22/自分の失敗だけを振り返らない──「引き受ける」という内省の姿勢

    仕事で何か問題が起きると、私たちは原因を探します。

    自分の準備が足りなかったのか、どこで判断を間違えたのか、何か伝え方が悪かったのか。自分に原因があれば、反省し、次はどうすればよいかを考えます。

    一方で、原因が自分以外にあったと分かると、どうでしょうか。

    上司が勘違いして指示を出していた、他部門の対応が遅かった、顧客が途中で方針を変えた。自分には、どうしようもなかったと少し安心するでしょう。

    実際、その捉え方が正しいこともあります。

    起きた問題のすべてを、自分の責任にする必要はありません。けれども、自分に原因がないと分かった瞬間に、内省や振り返りまで終えてしまうことがあります。

    「自分のせいではない」

    その言葉は、自分を不当な責任から守ってくれます。ただ、同時に、その出来事から自分が学ぶ可能性まで閉じてしまうことがあります。

    自分に原因がないことと、自分に学べることがないことは、本当に同じなのでしょうか。


    責任の所在と、学びの所在は同じではない

    他人の失敗を、自分の責任として背負う必要はありません。

    上司が誤った判断をしたのであれば、その判断の責任は上司にあります。別の部門が確認を怠ったのであれば、その責任まで自分が引き受ける必要はありません。

    ただ、その出来事の中に、自分が持ち帰れるものが何もないとは限りません。

    なぜ、その人はその判断をしてしまったのか。
    自分が同じ状況に置かれたら、本当に違う行動を取れるのか。
    次に同じような場面へ出会ったとき、自分には何ができるのか。

    責任の所在と、学びの所在は同じではありません。責任は他者にあったとしても、その経験から何を学ぶかは、自分で引き受けることができます。

    私がここで「引き受ける」と呼びたいのは、責任を背負うことではありません。自分に原因がないという理由だけで、その出来事から学ぶ可能性まで手放さない。

    そんな内省の姿勢です。


    内省には「射程」がある

    内省というと、一般には、自分が起こしたことを振り返るものだと考えられています。

    自分の言動によって、仕事がうまくいかなかったことを振り返る。これが、最も大事な内省の対象であることは間違いありません。

    けれども、内省の対象を、自分だけに限る必要はありません。

    自分に直接的な原因はなくても、自分が巻き込まれた出来事があります。

    上司の判断によって、プロジェクトの方向性が変わった。他部門の遅れによって、後工程を担う自分たちが混乱した。顧客の方針転換によって、積み上げてきた計画が崩れた。

    それらは「自分が起こしたこと」ではありません。しかし、「自分に起きたこと」「自分の目の前で起きたこと」ではあります。

    自分は当事者ではないかもしれません。それでも、その出来事の中に、自分の仕事や振る舞いを見直す材料が含まれていることがあります。

    もっと射程を広げれば、本や歴史、他社の事例など、自分が直接経験していない他者の経験もあります。

    内省の対象は、大きく三つの射程に広げることができます。

    • 自分が起こしたこと
      自分の判断や言動によって生じた成功や失敗を振り返る。

    • 自分に起きたこと、自分の目の前で起きたこと
      自分が原因ではなくても、巻き込まれた出来事や、近くで見聞きした他者の経験を振り返る。

    • 自分が触れた、他者が残した経験
      他社の事例や歴史、哲学、読書など、自分が直接経験していない出来事まで学びの対象にする。

    どこまでを自分の内省の対象に含めるかによって、一つの仕事、一つの人生から受け取れるものは、大きく変わるのだと思います。


    見ていたことと、学んでいたことは違った

    ここからは、二つ目の射程である「自分に起きたこと、自分の目の前で起きたこと」について考えてみます。

    私には、目の前で起きていたことをよく見ていたつもりなのに、それを自分の学びとしては引き受けられていなかった、苦い経験があります。

    SIer時代、私はとても優秀で非常に厳しい上司と仕事をしていたことがあります。

    その人の強いリーダーシップが、見事に発揮された場面があります。

    ミッションクリティカルなシステムで大きな障害が発生し、顧客窓口の業務が止まってしまいました。店舗での顧客対応にも大きな影響が出て、現場は混乱し、一刻を争う状況でした。

    そのとき、上司はホワイトボードで事実と推測に分けて状況を整理し、具体的なアクションを素早く組み立てて、優先順位とリソースの調整をしながら、メンバー一人ひとりに明確な指示を出していきました。

    メンバーそれぞれが自分の役割を理解し、持っている力を最大限に発揮した。緊張感の中には、不思議な一体感と信頼感がありました。

    あの危機を乗り越えられたのは、間違いなく彼の強さがあったからです。

    一方で、期待に届かないメンバーや協力会社のリーダーに対して、その強さが厳しい言葉となって向けられることもありました。

    言われた側にも、改善すべきことはありました。もちろん上司自身も、大きな責任とプレッシャーを背負い、ぎりぎりのところで仕事をしていたのだと思います。

    だから、どちらかだけが悪かったとは思いません。それでも、強く責められたことで相談しづらくなり、報告がさらに遅れる。報告が遅れるから、また強く責められる。

    そんな悪循環へ入っていく場面もありました。

    私はそれを外側から見ていました。同時に、その厳しい言葉の矛先が自分に向いていないことに、安堵していました。正直に言えば、人の揉め事を外から眺めるような、少し卑しい好奇心もあったと思います。

    そして私は、なんとなく心の中で、自分は上司のようにならないようにしようと考えていました。上司を反面教師として同じ轍を踏まないように学んでいたつもりだったのです。


    ところが、いざ自分がマネージャーになったとき、気づけば私は上司と同じような言動をとっていたのです。

    クライアント向け資料の一部を任せたスタッフから、期待とは大きく異なるアウトプットが出てきたことがあります。こちらが伝えたことを、ほとんど理解していないように見えました。

    納期も迫るなか、私は苛立ちをそのまま相手へぶつけました。

    「全然、理解できていないですね」
    「これは、前にも言いましたよね」
    「もういいです、私が引き取ります」

    これらの言葉を口にした瞬間、相手の成長を願って出た言葉ではないことは、自分でも分かっていました。

    目の前の仕事を、早く終わらせたかった。何度も説明したつもりなのに、なぜ分からないのかと苛立っていた。

    経験も立場も上の自分が、相手に反論の余地がない正しさを握っていました。その正しさを振りかざして、自分の苛立ちや自尊心を満たしていたところも正直あったと思います。

    昔の上司を反面教師にしていたつもりだった。それでも、自分が同じように成果への責任を負い、時間に追われ、自分の方が正解を知っている立場になると、同じ振る舞いを繰り返していたのです。

    見ていたことと、学んでいたことは違ったのです。


    人の性格として見れば、学びは止まる

    では、目の前で起きた他者の失敗を、自分の学びにするにはどうすればよいのでしょうか。

    当時の私は、上司の振る舞いを、彼の性格の問題として見ていました。

    厳しく、人の気持ちが分からない人だった。一方で、自分は彼とは違い、相手の気持ちを理解できる人間だと思っていました。

    「あの人とは違う」

    そう捉えていたからこそ、私は、上司の姿から本当には学べていなかったのだと思います。自分が同じことをして初めて、上司の振る舞いを生んでいた条件が見えました。

    自分の方が経験も知識もある。正解を知っている。結果への責任を負っている。時間にも追われている。相手には何度も説明したつもりになっている。同じような条件がそろえば、自分の中からも、相手を追い詰める言葉が出てきました。

    他者の失敗を、その人の性格だけで説明しているうちは、自分の学びにはなりません。

    同じ立場、同じプレッシャー、同じ力関係に置かれたとき、自分も同じように振る舞う可能性はないだろうか。

    そう問い直したとき、初めて、他者の経験が自分の問いに変わります。


    「できない人」ではなく、「今はここまでできる人」

    では、目の前で起きた上司の振る舞いを、自分の学びとして引き受けたことで、私の何が変わったのか。

    スタッフに厳しく当たった経験から、人の能力に対する見方も変わりました。

    以前の私は、期待した成果が出ないと、「この人は分かっていない」「この人には能力がない」と、その時点のアウトプットを、その人自身の評価へ結びつけていました。

    しかし、私から見えているのは、その人の能力のすべてではありません。

    その時点での経験や理解度、任せた仕事の難しさ、指示の伝え方、仕事の切り出し方、途中で相談できる関係だったか。目の前の成果は、そうした条件が重なった結果として表れています。

    その人が「できない人」なのではなく、今は、この仕事について、ここまで理解し、ここまでできる状態にある。

    能力を固定的な評価ではなく、変化していく現在地として捉えるようになると、マネージャーとして問うべきことも変わりました。

    なぜできないのかと相手を責める前に、相手の現在地から取り組める仕事の渡し方になっていたか。期待を具体的に伝え、途中で理解を確かめ、相談できる状態をつくれていたか。

    相手にも、努力し、報告し、改善する責任はあります。

    それでも、関係が悪循環に入りかけているなら、その循環を変える最初の働きかけは、より大きな裁量と力を持つ側が始めるべきだと思うのです。

    誰もが、どんな仕事でも必ずできるようになるとは思いません。努力しても、現在の仕事に合わない人はいるでしょう。

    けれども、その仕事に向いていないからといって、その人自身が否定されるわけではありません。今のパフォーマンスだけで、その人の可能性まで決めつけない。

    これも、自分の前で起きていた出来事を、遅ればせながら引き受けたことで得られた見方でした。


    出来事が共有されても、学びが共有されるとは限らない

    ここまでは、自分の身近で起きた出来事を、どう学びとして引き受けるかを考えてきました。

    けれども、内省の射程は、自分が直接見聞きした経験だけに限られません。他者が残した経験からも、私たちは学ぶことができます。

    この射程を、個人から組織へ広げようとする仕組みの一つが、インシデント共有です。

    セキュリティ事故や工事現場での事故など、一人の失敗や一つの事故を、当事者だけの経験にしない。何が起きたのか。なぜ起きたのか。どうすれば同じことを防げるのか。

    それを組織の中で共有するための仕組みです。全員が同じ失敗を、自分で経験してから学んでいたのでは遅いからです。

    しかし、インシデント共有は、しばしば形だけのものになります。それは、出来事が共有されたからといって、学びまで共有されたとは限らないからではないでしょうか。

    資料を読み、「気をつけましょう」と確認して終わる。

    その担当者の確認不足だった。その部署に特有の問題だった。
    自分なら、そのような失敗はしない。そう切り離せば、情報は共有されても、他者の経験は他人事のままです。

    共有する側にも、工夫が必要です。「担当者の確認不足」という結論だけを伝えても、受け手は自分とは違う人の問題として処理できます。

    当事者は、なぜその判断をしたのか。どのようなプレッシャーや制約があったのか。問題が起きる前に、どのような小さな兆候があったのか。その出来事を生んだ状況まで見えなければ、自分の仕事へ置き換えて考えることは難しいでしょう。

    それでも最後は、受け手自身が、その出来事を自分の問いとして考えられるかにかかっています。

    出来事を共有することと、学びとして引き受けることは違います。

    他者の経験が、自分の見方や行動を変えたとき、初めて、それは自分の学びになります。


    おわりに|世界を、自分が学べる場所として見る

    この出来事から、自分が受け取れるものはないだろうか。
    次に同じ状況に出会ったとき、自分は何を変えられるだろうか。

    この二つの問いを持つと、自分とは直接関係のない出来事も、少し違って見えてきます。

    別の部署で起きたトラブルを聞けば、実際にはどのような状況だったのかを知りたくなる。他社の失敗を見れば、その人はなぜ、その判断を正しいと思ったのかを考えたくなる。遠い国や過去の出来事であっても、そのとき、何が見えていたのか。何が見えていなかったのか。ほかの選択肢は、本当に選べなかったのか。

    そんなことが気になってきます。

    歴史や哲学を読んでいると、時代や場所が変わっても、人間の本質はそれほど変わらないのだと感じます。

    人は、自分に都合よく物事を解釈します。自分の正しさを、簡単には疑えません。立場やエゴにもすぐに流されます。

    私はそれを、悲観的に捉えているわけではありません。人間はそういう弱さを持つものだと、人間に過剰な期待をすることを諦めているのです。

    だから、指示は取り違えられるかもしれないと考える。約束は、自分が期待するほど、相手にとって重要ではないかもしれないと考える。人が動かないことを責める前に、相手が動く理由を、こちらは作れているだろうかと考える。

    歴史や他者の経験から学ぶとは、知識を増やすことだけではありません。人間を見る前提を変え、自分の仕事の仕方を変えることでもあります。

    内省の射程を広げることは、反省する機会を増やすことではありません。自分が失敗したときだけでなく、自分に起きたこと、自分の前で起きたこと、そして他者が残した経験の中にも、自分を変える問いがないかを考えることです。

    そう考えるようになると、日々の仕事も、他者との関わりも、読書も、だんだんと面白くなってきます。世界は、自分が学べる場所として開かれていきます。

    「引き受ける」とは、何でも自分の責任だと思うことではありません。自分に原因がないという理由だけで、そこから学ぶ可能性まで手放さない。

    そんな内省の姿勢を、私は持ち続けたいと思っています。


    ここまで読んでいただき、ありがとうございます。

    このnoteでは、頑張っているのに、なぜか仕事がうまくいかない人へ向けて、20代・30代の自分が知りたかった「仕事の見方」を週1ペースで書いています。

    会議、論点、内省、一次情報、示唆、成長。

    仕事でつまずいた経験を、次に使える言葉に変えていきます。

    同じように、頑張っているのに仕事がうまくいかない感覚がある方は、フォローして次の記事も読んでいただけると嬉しいです。


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    仕事の見方を、1mmだけ深くする|SIer10年/BIG4総合コンサル8年|会議・論点・内省・成長を、実務経験から言語化|20代・30代の自分が知りたかったことを週1で発信|初めての方は固定記事へ

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