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創作大賞2026【AI小説】『最後ノ爪⑥』第6話:勝手口

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     北へ向かう新幹線の窓に、雨の筋が斜めに流れていた。

     怜奈は通路側の席に座り、膝の上で封筒を開いたままにしていた。矢代は隣で、車内販売のコーヒーには手をつけず、タブレットに目を落としている。

    「眠れましたか」
     矢代が聞いた。

    「少し」

    「嘘です……よね」

    「刑事スキルは便利ですね」

     言葉に詰まった矢代は、ばつ悪そうに頭を掻いて、タブレットを閉じた。

    「三枝さんの顔色が悪いだけです」
    「……寝不足の人間同士の確認です」

     怜奈は少しだけ矢代を見た。

    「矢代さんも眠れてないんですか」

    「ホテルの空調がうるさくて。あと隣の部屋のいびきもありました」

    「普通ですね」

    「刑事も、だいたい普通です」
     矢代は冷めたコーヒーに口をつけ、すぐに眉をひそめた。

    「これは、普通以下です」

     怜奈は笑わなかった。けれど、少しだけ肩の力が抜けた。

         *

     県境を越えるころ、雨はみぞれに変わった。

     低い山の手前に、造成中の工業団地が見えた。白いフェンス、仮設事務所、新しい物流倉庫。その奥に並ぶ、窓のない四角い建物の屋上から、白い水蒸気がゆっくり立ち上っていた。

    「煙が出てますね」
     矢代が遠い視線のまま、ぼんやりと言った。

    「違います」
     怜奈は、ほとんど反射で答えていた。

    「冷却設備から出た湿った空気が、外の冷気に触れて白く見えているだけです」

    「なんか怒られた気がします」
    「怒ってません」

     怜奈は窓の外を見たまま、わずかに息を吐いた。
    「煙に見えるのは、わかります」

     それでも怜奈には、その建物が冬の中で息をしているように見えた。

    「三枝さん、恥を承知で聞くんですが」

    「何でしょう」

     怜奈は訝し気に矢代を見た。

    「クラウドというのは、結局どこにあるんですか」

    「雲の中にあるわけではありません」

    「そこまでは知っています」

    「本当に?」
    「たぶん」

     怜奈は窓の外を指した。
    「ああいう建物の中です」

    「ちょ、ちょっと待ってください」
     矢代は、使い古した黒い表紙の手帳を開いた。

    「では、クラウドは窓の無い箱の中にある」

    「雑ですが、今日はそれでいいです。あ、調書には書かないでください」

     矢代は小さく頷いた。

    「私は大学、文系だったんです」

    「わかりますよね」
     矢代は少し傷ついたような顔をした。

     それがあまりにも年相応だったので、怜奈は思わず目を伏せた。笑いそうになったからだった。

    「いま、笑いました?」
    「笑ってません」
    「でも、顔が少し」
     矢代は、驚いたように怜奈を見て、それから、何も言わずに窓へ視線を戻した。

    「大学は法学部でしたが、強い志があって刑事になったわけではありません」

     矢代は遠くを見つめたまま続けた。

    「父が交番勤務でした。小さいころは、警察官というのは、落とし物を預かる仕事だと思っていました」

    「子供の頃は、私もそう思っていました」

    「僕は、今でも半分はそう思っています」
     矢代は、窓に薄く映る自分の顔を見た。

    「人が落としたものを、誰かに返す仕事です」

    「名前も?」
     怜奈が聞いた。

    「返せるなら」
     短い答えだった。

    「三枝さんは、どうして設備の方へ?」

    「私にも聞き込みですか」

    「いや、違います。無理に答えてなくて大丈夫です、全然」
     矢代は慌てて首を左右に振ってみせた。

     怜奈は封筒の角を揃えた。

    「本当は、医学部に行きたかったんです」

     矢代は、すぐには返さなかった。

    「意外ですか」

    「いえ」

    「意外じゃないんですか」

    「確かに、施設を生き物みたいに見ていたかもしれません」

     怜奈は矢代を見た。

    「刑事さん、たまに変なことを言いますね」

    「すみません」

    「医学部は、無理でした。お金も、時間も。浪人はできなかったので」

    「それで工学部へ」

    「電気です。最初は、人体から一番遠いと思っていました」

    「違ったんですか」

     怜奈は、コーヒーの揺れる液面を見つめた。

    「電源は血管みたいなものです。冷却は呼吸で、監視系は神経。異常が出ればアラートが鳴る。熱がこもれば、体が壊れる」

    「かなり生物ですね」

    「そうかもしれません」
     怜奈は短く返事をした。

      白い外壁の建物が遠くに見え隠れした。屋上から立ち上る水蒸気が、冬の空に薄くほどけていく。

     昨夜、母が早めに寝たあと、怜奈は客間で矢代の資料を一枚ずつ読んだ。本人都合退職。連絡不能。入館記録なし。どれも、事件ではない言葉だった。

    「私には、工具箱が残っていることしか見えませんでした」
     矢代はそう言うと、二人暫く沈黙した。

         *

     新幹線は長いトンネルに入った。

     窓が黒くなり、車内の音が低くこもった。周囲の座席の話し声が遠のき、窓には怜奈と矢代の顔だけが並んで映った。

     矢代はタブレットを伏せ、声を少し落とした。
    「ここからは、捜査上の確認です」

     怜奈はうなずいた。

    「名前は、根本健一。三十四歳。設備保守の二次請けです」

    「警察では、どういう扱いなんですか」

    「母親から行方不明者届が出ています。ただ、現時点では事件性不明。通常の所在確認扱いです」

    「事件ではないんですか」

    「事件性がない、というより、事件だと判断できる材料が足りません」

     矢代は資料を一枚めくった。

    「遺書はありません。自殺を示す発言も確認されていません。他殺を示す物証もない。遺体もない。事故については、施設側が否定しています」

    「施設側が否定すれば、それで終わるんですか」

    「終わりません。ただ、施設内に入った記録がない、と回答されています」

     怜奈は顔を上げた。

    「入った記録がない」
    「少なくとも正面ゲートの記録にはありません。施設側の回答は、通常入館記録なし、です」

    「通常……ですか」

    「そこが引っかかります」

     矢代は紙面の一行を指で押さえた。
    「携帯電話は、失踪当日の夜から応答なし。基地局情報は、最後に工業団地周辺を拾っています。以降の移動履歴は確認できていません。銀行口座、交通系IC、クレジットカード、いずれも使用なし」

    「それでも、事件にはならないんですか」

    「少なくとも、すぐに施設を捜索できる段階ではありません」

    「令状が取れない?」

    「遺体なし。争った痕跡なし。施設に入った記録なし。本人都合退職という説明あり。これで顧客区画や保守ログまで出せと言っても、疎明が弱い」

    「疎明」

    「裁判所に、捜索の必要性を説明する材料です」

     怜奈は黙った。

    「任意では」

    「照会しています。回答は限定的です」

    「全面的に協力、ですか」

    「ええ。全面的に、可能な範囲で」

     怜奈は封筒から求人票のコピーを取り出した。
     設備保守補助。夜間対応あり。未経験可。宿泊費支給。短期高収入。

    「よくある求人ですね」

    「だから、埋もれる」
     矢代は短く答えた。

    「前科とか、借金とか、そういうものは」

    「前科前歴なし。大きな債務の情報も、今のところありません。反社、薬物関係も出ていない。職場トラブルについては、元請けも下請けも把握なし、と回答しています」

    「施設は外気冷却型でしたね」

    「外気冷却と再エネ電源を売りにしています。自治体の広報にも出ています。雇用創出、地域振興、災害時の情報基盤」

    「稼働開始は確か6年前。最新のセンターではありませんね」

    「だから、同型事案とはみられていません」

    「でも三枝さん、私は、まだ半分は疑っています」

    「何を」

    「根本さんの件と、牧野さんの件の、事件性です」

    「健全だと思います」

    「三枝さんは」

    「今日来たのは、それを確かめたかったからだと思います」

     そう言って、怜奈は封筒を閉じた。

         *

     北の町は、東北新幹線の駅から車で四十分ほどの場所にあった。

     駅前で借りた白い小型車は、ドアを開けた瞬間、冷えた革と古い樹脂の匂いがした。矢代がハンドルに触れ、少しだけ手を引っ込める。
     怜奈は助手席に座り、コートの襟を寄せた。息を吐くと、フロントガラスの内側が薄く曇った。

    「出ます」

     矢代がミラーで周囲を確認した。後部座席の鞄に目をやったようにも見えた。

     ワイパーが一定の間隔で窓を拭き、ゴムの硬い音が耳障りだ。

     町の中心を抜けると、急に景色が広くなった。町というより、内陸の工業団地に住宅地が後から追いつこうとしている場所だった。

     道路脇の枯れ枝には、細い雪がまだ乗っていた。大型トラックが水たまりを踏むたび、泥の混じったしぶきが白いフェンスに跳ねる。前を走る軽トラックのマフラーからは、白い排気が短く吐き出され、すぐにほどけて消えた。

     『地域経済の発展。雇用促進』、国道沿いに、データセンター招致の看板が並んでいた。

    「雇用促進、ですか」
     矢代は前方を見たまま言った。

    「データセンターによる雇用は大きくありません。少なくとも、看板に書くほどには」

     怜奈はそこで言葉を切った。

     田畑と低い山。造成地の赤茶けた土。白いフェンス。工事用の仮設事務所。風力発電の白い羽根が、遠くでゆっくり回っている。その奥に、北陽クラウドパークが見えた。

     白い外壁の建物が、低く横に伸びている。壁面に窓はなく、屋根には空調設備と銀色のダクトが整然と並んでいた。敷地の周囲には二重のフェンスがあり、入口のゲートには警備員の姿が見える。

    『地域とつくる、止まらない未来』

     怜奈は、車の中から壁面に描かれた文字を目だけで追った。

    「先に寄りますか」
     矢代が聞いた。

    「今はいいです、先にお母さんに会いましょう」

     矢代は短くうなずき、車をそのまま走らせた。

         *

     根本健一の母親、根本佳子は、町外れの平屋に住んでいた。

     庭には薄く雪が積もった物置と、伏せたままのプランターがあった。
     軒下には、使われていない自転車が二台置かれている。一台は、ひと回り小さく、金属部分は錆び、前かごの底が抜けている。

     佳子は、六十歳を過ぎた、初老の小柄な女性だった。

     髪を後ろで結び、薄い灰色のカーディガンを着ている。矢代が名刺を出すと、彼女は両手で受け取った。怜奈のことは、警察の関係者だとだけ説明された。

    「遠いところを」

     佳子は頭を深々と垂れた。

    「いえ、こちらのほうこそ突然……」

     矢代が答えた。

    「今日は、お話を聞かせていただけて、ありがとうございます」

     通された居間には、小さな仏壇と、テレビと、低いテーブルがあった。壁には、健一らしき男性が作業着姿で写った写真と、めくられていないカレンダーが飾られている。

     写真立てはもう一つあった。駅前で撮ったらしい古い写真で、学生服の少年が二人、肩を並べて立っている。背の高い方は、今より若い健一に見えた。もう一人は、少し細いが、年齢の割に肩幅がしっかりしたシルエットをしている。

     矢代は、その写真に一瞬だけ目を留めた。

    「ご兄弟ですか」

     佳子は、写真の方を見ずに答えた。
    「上の子です。本当に仲の良い兄弟だったんですよ」

     中学生と思しき二人は、満面の笑みを浮かべている。佳子が撮ったのだろうか。

    「お気遣いなく」

     立ち上がって茶を出そうとする佳子を、矢代は丁寧に止めた。

    「早速ですが、息子さんが最後に連絡されたのは」
     矢代が聞いた。

    「昨年八月の二十七日です」
     佳子はすぐに答えた。何度も言った日付なのだろう。

    「夜の九時過ぎでした。出張が少し伸びるかもしれない、と」

    「電話ですか」

    「メッセージです」

    「それ以降は」

    「既読もつきません」

     佳子は湯呑みの縁を見た。

    「でも、あの子は、母親の誕生日だけは忘れませんでした」

     怜奈は顔を上げた。

    「翌日だったんですか」

    「はい」
     佳子は小さく頷いた。

    「花なんていらないと言っても、毎年、駅前のスーパーで買ってきてくれました。高いものじゃありません。仏壇に供えるみたいな花です。でも、必ず」

     部屋の時計が、小さく鳴った。

     怜奈は、壁の写真を見た。作業着の胸元には、会社名の入った小さなワッペンがある。元請けではなく、二次請けの名前だった。

    「会社からは、何と」
     矢代が聞いた。

    「本人の意思だと言いました」

     佳子の声は、そこで少し硬くなった。

    「体調が悪いとか、人間関係で疲れていたとか。短期の仕事だから、急に辞める人もいると言われました」

    「退職届は」

    「何も言ってませんでした」

    「では、工具箱の件ですが」

     矢代が少し間を置いて尋ねた。

    「あ、ああ、あります」

     佳子は立ち上がると、隣の部屋へ行き、古い工具箱を重そうに抱えて戻ってきた。

     黒い樹脂製の工具箱だった。表面には細かな傷があり、名前のシールが貼られている。取っ手には、黒いクッション材が巻かれていた。佳子はそれをテーブルの上に置いた。

    「会社の人が、後から送ってきました。作業場に残っていたので、と」

     怜奈は工具箱に手を伸ばしかけて、一瞬躊躇してから聞いた。

    「開けてもいいですか」

    「どうぞ」

     佳子はしわしわの手の平を工具箱に向けて答えた。

     中には、ドライバー、レンチ、絶縁テープ、結束バンド、小さなライト、使い込まれた軍手が入っていた。どれも使い込んだものだったが、位置はきれいに揃っている。

     怜奈は、牧野の手帳を思い出した。
     几帳面な性格は、工具箱の中にこそ現れる。

    「この人は、辞めるつもりで工具を置いていく人ではありません」
     思わず言っていた。

     佳子が怜奈を見た。

    「わかるんですか」

    「私の知っている職人はそうでした」

     言いながら、怜奈は工具箱の隅を指した。

    「結束バンドの向きが揃っています。絶縁テープも、使いかけを上にしてある。ライトの電池蓋に日付が書いてある。現場で自分の道具を管理していた人です」

    「健一は、そういう子でした」

     その声は、資料には載らない声だった。

         *

     帰り際、佳子は封筒を一つ持ってきた。

    「これ、警察の方にも一度お渡ししたんですけど」

     中には、健一が最後に送ってきた写真のプリントが入っていた。

     夜の屋外。どこかのフェンス越しに、白い建物の一部が写っている。雨粒か、雪解けの水か、画面は少し滲んでいた。

     写真の端には、細い通路のようなものが映りこんでいる。建物と建物のあいだを、白い壁に挟まれて伸びる通路。搬入路にしては狭い。点検歩廊にしては、フェンスが高い。

     怜奈は写真を近づけた。通路の奥に、小さな扉がある。表示は読めない。

     だが、扉の横にはカードリーダーではなく、古い型の物理鍵のようなものが見えた。

     矢代も写真を覗き込んだ。

    「三枝さん」

    「ええ」

    「これは」

     怜奈はすぐには答えなかったが、たしかに新東京第五の黒い扉に良く似ていた。

    「根本さんは、この写真を何のために」
     矢代が聞いた。

     佳子は首を振った。

    「わかりません。ただ、これを送ったあとに、もう一つだけメッセージがありました」

    「何と」

     佳子はスマートフォンを取り出した。

    「うちの勝手口、前から建てつけが悪くて。夏に帰ったら見てやると言っていたんです」

     画面を開く手が少し震えていた。

     怜奈は、その文字を読んだ。

    〈今日はお勝手口のお手入れ〉

     短い文だった。

     家庭の話にも読めた。けれど、写真に写っているのは、家の勝手口ではない。建物と建物のあいだに隠れるように伸びた、狭い通路の奥の扉だった。

    「お勝手口」

     怜奈は、声に出さずに、その文字をもう一度読んだ。

     勝手ではなく、お勝手。

     母親に向けた冗談のようにも見える。だが、現場の人間だけが分かる隠語のようにも見える。

     矢代が、低く聞いた。
    「現場で、そう呼ばれていた可能性がありますか」

     怜奈は、写真の端を見つめた。

     正式な搬入口ではない。正面でもない。記録に残すための入口でもない。
     けれど、知っている人間なら通れる場所。

    「可能性はあります」
     怜奈は答えた。

    「それは、どういうことですか」

     矢代は、少し考えてから、丁寧に答えた。
    「これから確認します」

     佳子は、ゆっくり頷いた。

         *

     北陽クラウドパークへ戻るころには、雨は細かい霧のようになっていた。

     敷地の外周道路に車を停め、怜奈はフェンス越しに施設を見た。正面ゲートでは、警備員がトラックの運転席を確認していた。だが、怜奈が見ていたのはそこではなかった。

     メイン棟の脇。

     冷却ユニットと電源棟のあいだ。雨に濡れた白い壁の奥に、細い通路があった。資料の写真で見たよりも狭く、来客用の動線には見えなかった。

     勝手口。

     根本健一の最後の言葉が、頭の中で繰り返された。

     矢代が隣に立った。
    「同じですか」

    「今はなんとも」
     怜奈は答えた。

    「でも、似ています、AUX-C17-0に」

    「はい」

     牧野修司。

     根本健一。

     二つの名前が、もう別々にも見えなかった。


    第1話:布状廃棄物
    第2話:乾いた預言者
    第3話:正規入館記録
    第4話:最後の爪
    第5話:実家


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