ずっと、ずーっと

敏美は、英男の帰りを待ちわびていた、だが、その日は英男はなかなか帰ってこなかった。
昼間、佐岡商会の後藤から、設計事務所から仕事の辞退の申し出でがあったことを聞き、
英男の会社で何か異変が起きているのではないかという危惧が湧いてきたのだ。
「何があったんやろ」
敏美はすぐに社長の由紀夫に電話したが、会社にも携帯にも出なかったので、
不安がますます広がってしまった。留守録にも伝言を残していたのだが、返事はなかった。
すぐにでも会社に飛んでいきたかったが、下の娘の由里薫が熱を出して幼稚園を休んでいたので、
家を出ることはできなかった。
「ほんまにこんなときに」
歯がゆい思いだった。
由紀夫から電話があったのは、夕方を過ぎたころだった。
「社長、どないなことになってんの」
敏美は食いつくような声を出していた。
「今まで、新しい設計事務所の手配をしてたんや。ともかく、詳しいことは分からのや。英男くんからしっかり聞いておいてや」
「もちろんやけど、どこか見つかったんですか」
「いや、まだや。一応、紹介してくれるように頼んでおいたんけどな」
「来年の申告時期までに竣工せいへんと、税金に響くわ」
「分かってるけどな、間に合うかどうか」
「もしそうなったら、損害賠償ものやな」
「英男くんの会社が絡んでいるんやで、そんなことしたら、英男くんの立場が危うくなるやないか」
「それもそうやな」
由紀夫からの電話で不安が増殖した。
英男に電話するのは控えていた。
仕事中に電話されるのを極端に嫌うタイプだったからだ。
結局、英男が帰ってきたのは、日付が変わる直前のことだった。
「どないしたん。心配しましたのやで」
「設計事務所のことかいな。それはすまんこっちゃ」
英男はかなり酒を飲んでいる様子だった。
「あんたよくこんな時にお酒なんか飲めるな」
「ああ、分かってるがな」
そう言うと、浴室に向かっていった。
「なんやのあれ」
敏美は舌打ちしていた。
風呂から上がると、意識がしっかりしたのか、真顔で敏美の前に座った。
「じつはな、今回のことは少しややこしくなりそうなんや」
「どないしたの」
「じつは、うちにはふたつの派閥があるのは知ってるやろ。
ひとつは東京本社の社長派で、ひとつはうちら関西の専務派なんや。
設計事務所は、本社筋からの紹介やったんやけど、関西がこのところ大型の受注が増えてるさかい、
専務派の俺が目をつけられたということや」
「そういうことなの。嫌がらせをされたということやの」
「ひとことで言えばそうなるわな」
「ひどいやないの、それ。うちと何の関係もないのに」
「本社と関西の派閥の争いは戦前からやからな」
「あんたの立場はどうなるの」
「あくまでもうちの本業やないから、全然大丈夫やけど、お父はんに迷惑をかけたわ」
「それはまあ、仕方ないことやけどな」
「お前からも誤っておいてくれよ」
「あんたも明日電話しとってよ」
敏美は、初めて英男の会社での人間関係の難しさを知ったような気がした。
#9に続く。
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大塚は、自宅の郵便受けに置かれてあった静江からの手紙を開いた。
「大塚先生へ私はもうあなたたちから遠い世界にいます。
前に告白したとおり、私が殺人の真犯人です。
そのことに偽りはありません。
母が自分が犯人だと言ったとすれば、それは私を庇うためです。
母は私がまだ女優をしていると信じています。だからほとんど面会にも来ないのだと思っているのです。
ですから、もう母には会わないでください。
そして、深井園子さんのことですが、実は私と一緒にいます。
私は自宅を売却しました。そのお金で海外に来ております。たぶん、命のある限り、日本へは帰らないと思います。
園子さんと、映画界にいたころの話をしながら暮らしていこうと思います。では、お元気で」
大塚は静江にすまないことをしたと思っていた。
もうとっくに時効になっている事件を蒸し返して、静江を追い詰めてしまった。
彼女のために死んだ人間は何人もいる。
彼女が犯人だとしても、それを暴くことが目的ではなかったのに、彼女を追い詰め、
現実世界から逃亡させてしまったたことは、それで良かったのかという思いが強かった。
「静江さんの手紙は本当のことでしょうか」
静江の家からの帰り道、最寄の駅のそばで入った居酒屋で大塚は父親に聞いた。
「海外に行ったことは本当だろ。だが、静江が真犯人であるかどうか、結局は分からない」
「どういう意味ですか」
「いまからでは何も実証できない。だから、想像でしか語れないことだが、
正直に言って、この事件の調査をしてみて、ますますこの事件のことが分からなくなってきたんだ」
「静江さんが真犯人とは思えないということですか」
「それも言える。母親かも知れないし、実は捕まった犯人たちがやはり真犯人だったということもある」
「じゃあ、最初の事件の犯人が残した、Nのためにという言葉の意味は何ですか」
「そのとおりの意味じゃないか。つまり、Nのために殺したということさ。そのことを静江はまったく知らなかったという可能性もある」
「確かにそう言われればですけど、そうなると、我々がこの事件を調査した意味がまったく無くなるんじゃないですか」
「結果的に静江を外国に逃がすことになったんだから意味がないわけじゃない」
「どういう意味があるのですか」
「毎日眠られないほど静江の心は不安定になっていた。そこでお前がカウンセラーとして接触した。
その悩みは、過去に起きた殺人事件のせいではないかとお前は考えた。
そこで、私も加わって調査した。その結果、静江が犯人たちを裏で操っているのではないかという事実を見つけ出した。
しかも、最後の事件のアリバイまで崩して、真犯人は静江ではないかという証拠を見つけるかも知れないという段階まで来た。
それがもし、静江の最初からの目的だったとしたらどうだ」
確かに父親の言うとおりだと大塚は思った。
「私は最初から静江さんの思うように操られたのではないかと思ってました」
「そのとおりだ。事件のことを話したのは静江からだろ」
「彼女の人生の経過を聞いていたのですから、当然のことだと思います」
「普通、悲惨な過去のことは語りたくない。話すとしても、焦点をぼかして話すのではないだろうか」
「そうですね。ほとんど何も隠すことなく、すらすらと話しましたからね」
「お前がカウンセラーとしてちゃんと仕事をするなら、必ず事件について調査をするのではないかと静江は考えたのではないか」
大塚は、静江を追い込んだという罪の意識を持ったことが誤った考えだったと悟った。
では何故、静江は追い込まれたと思われるような方向に持っていったのだろ。
「誰にでもあることさ。自分の人生をリセットしたいということは。だが、時は戻せない。
このまま誰にも知られずに外国に行って、現実を逃避するようなことをしても、
それでは静江は何も意味を持たないと考えたのではないのかな」
「どういうことでしょう」
「つまり、自分を追い込まれた情況にして、逃亡するように外国に行って身を隠す。
共犯者である、園子も連れていけば不安も少なくなる。
我々は、彼女の最後の第二の人生をやり直すお手伝いをしたまでのことさ」
父親はそういうと、目の前のコップにあったビールを飲み干した。
大塚はもう静江のことを忘れるしかないと思っていた。
そうしないと、空しさばかりが胸に押し寄せてきて悲しくなるからであった。
ふたりはその夜、正体が無くなるまで酔いつぶれた。
終わり。
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大塚の父親は、第二の事件での静江のアリバイを崩した。
さすが、元刑事だと大塚は感心していた。
その日、大塚と父親は、アリバイを作った、静江に背格好が良く似た深井園子の現住所に向かっていた。
深井園子は、女優を引退したあと、親の薦めで見合いをして結婚していた。
夫は十年前に病気で死亡し、今は一人で暮らしていた。子供はいない。
東京都板橋区練馬北3丁目に深井園子が住むマンションはあった。
三階に深井園子の部屋はあった。
グレーの鉄製のドアが古ぼけていた。
ドアの上に深井というネームプレイトが貼ってあった。
チャイムを押しても何の反応もない。郵便受けには何も入っていなかった。
父親はドアに耳をつけて中の物音を聞いていた。
「いないようだ。管理人に話しを聞いてみよう」
一階の管理人部屋には日勤の管理人がいた。
「深井さんは二日前からお留守ですよ」
深井園子は、留守にするので、郵便受けのものを取っておいてもらうように管理人に頼んでいたのだ。
「深井さんのところに60歳を超えたくらいの風体の変わった女性は訪ねてきたりしていませんか」
「分かりませんね。住人の客まではいちいち覚えていないので」
父親が口を開いた。
「深井さんが自殺する可能性があり、行方を捜しているのです。
手がかりを得るために管理人さんお立会いのうえで深井さんの部屋に入りたいのですが」
「あなたたちは何なんですか」
「深井さんと多分一緒に死のうとしている女性の心理カウンセラーを担当しているものです。ふたりの命がかかっています」
「分かりました」
深井園子の部屋に入ったが、何の手がかりもなかった。
部屋のなかには、宮城静江と関係があるようなものも発見出来なかった。
「深井園子はどこに行くとも管理人には話してないですね」
大塚は管理人に聞いた話を父親に告げた。
「静江と一緒かどうかも分からないし、もしかしたらただ旅行に行ったとも考えられる」
「とにかく手がかりがありません」
「静江の家に行ってみよう」
ふたりは静江の家に向かった。
静江が居なくなってもう何回も静江の家を訪ねているが、誰もいないことは確認している。
それなのに何故父親は静江の家に行こうと思ったのか。
「何かありそうな予感がする」
ふたりは静江の家に急いだ。
深井園子のマンションから、静江の家まで一時間ちかくかかった。
静江の家に着くころは町はすっかり夜の暗闇に覆われていた。
静江の家に灯りは灯っていなかった。
郵便受けを確認すると、なかに手紙が入っていた。
二日前に確認したときにはなかったものだ。
手紙の表には「大塚さま」と書かれてあった。
最終回に続く。
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大塚は、宮城静江の母親と会ってきた。
その母親は自分が真犯人だと告白した。
だが、母親は現実と妄想が混乱している状態であることが次の言葉で分かった。
「静江は現役の女優だから、醜聞は困る」
母親は、静江がまだ女優であると信じていた。
30年以上も前に引退をして、結婚していたこともすっかり記憶から抜け落ちていたのだ。
母親にとって、静江はまだ銀幕の世界で、華やかに演じている娘の姿を忘れられないのであった。
そのことが、自分が犯人であるという妄想を抱かせたのだ。
「母親は錯乱しています。自分が犯人と言っていましたが、信じられません」
大塚は父親と電話で話していた。
「そんなこともあるだろうな。娘を庇おうとしているのか。それよりも、俺は新しい情報をつかんだ」
「何ですか」
「静江のアリバイのことだ」
「第二の事件ですね。」
「そうだ、その日、彼女はパーティーに出席しており、目撃者も大勢いるということだったが、
そのパーティーは仮装のパーティーだったんだ」
「それではアリバイにならないではないですか」
「仮装といっても、目だけを隠したものだったので、目以外で他の人は静江本人であると証言したんだ」
「いくら身代わりを立てたとしても、声や背丈もありますから、全部の人を騙すことは出来ないのではないですか」
父親の話では、もう一度静江と仲が良かったメーキャップに聞いたところ、
静江と目以外で、口元も、声も、背丈もそっくりな新人女優がいたというのだ。
その女優と静江は、先輩後輩のなかだが、姉妹のように静江はその子を可愛がっていたということだった。
女優の名前は、深井園子と言って、静江と口元がそっくりなのと、背丈も同じくらい、
髪の毛もストレートのロングで、後姿などはスタッフが静江と何度も間違えるほどだったという。
「その深井という人はその後どうなったのですか」
「事件のあと、しばらく女優を続けていたが、芽が出ないので、30歳前には引退して、その後は知らないということだった」
「重要な情報でしたね」
「どうしてもアリバイのことが気になっていたもんでな。お前はすぐに東京に帰るのだろ」
「はい、東京に戻ったら、静江さんが東京で最初に住んだ叔母さんの家を見に行こうと考えています」
「そうか、では俺は深井園子の住所を調べてみる」
「お願いします」
大塚は、新幹線に乗り、東京へ向かった。
静江が東京に出て最初に住んだのは、池袋から山手線で上野方面へ3つ行った、
駒込という駅から歩いて10分くらいのところにある住宅地だった。
静江の母親のお姉さんが、東京の人と結婚して住んでいたからである。
大塚は、静江の母親から聞いた住所でその家を探した。
だが、もうそこには聞いた名前の家はなかった。
母親の話では、静江の叔母さんは、十数年前に死亡していて、
相続した子供が相続税を払えなくて、売却されたということだった。
静江が東京に出て、最初に住んだ思い出深い家はマンションに変わっていた。
この場所に静江も来たのだろうかと思い巡らせた。
変貌してしまった自分の大切な場所を見て、静江は何を思ったのであろうか。
大塚は、今、静江が何を思って姿を隠しているのだろうかと思案していた。
#33に続く。
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宮城静江は、大塚たちを旅館に残して、またしても姿を消した。
しかも、自分が真犯人であるという告白を残してである。
大塚と、父親は、仕方なく東京に戻った。
父親が提案した、静江の両親の所在を確かめるために、役所へ行って、
福祉課の課長に相談して、戸籍謄本の閲覧を許可してもらい、
静江の両親の名前と戸籍の住所の役所に両親の本籍がまだ残っているかどうかの確認をしてもらった。
翌日、大塚は東北新幹線で宮城県に向かっていた。
仙台市内の特養老人ホームに静江の母親が所在していることが分かったからである。
「母親が事件に関係している可能性もある。慎重に話を聞けよ」
父親が前の日に電話で言った言葉だった。
まるで部下の刑事に指示をしているようだと大塚は思った。
仙台に着くと、ローカル線に乗り換えて一時間かかり、静江の母親が暮らす場所への最寄の駅に着いた。
人影もまばらな駅前で一台いたタクシーを捕まえ、老人ホームへ向かった。
海が見える高台にその老人ホームはあった。
受付で静江の母親の部屋を教えてもらい、直接部屋へ向かった。
事前に連絡しておいたので、静江の母親は室内着ではなく、ちゃんと洋服を着ていた。
すでに90歳近い年齢のわりには背筋がピンとしていて、弱っている感じは皆無だった。
「遠いところをご苦労さまです」
母親はしっかりした口調で挨拶した。
大塚は、静江に似ていると直感した。
目の怪しい輝きも同じようだった。
「さっそくですが、静江さんはピアノの先生を殺害したのは自分であると告白されました。
こんなことをお母様に聞くのは酷ですが、本当だと思われますか」
母親は目を伏せたままだった。
「このようなことをあなたにお聞きするのは忍びないのですが、私がこの話を聞いた翌日、
静江さんが姿を消したのです。静江さんのことが心配なのです」
母親は、苦しそうに口を開いた。
「静江は犯人ではありません」
「どうしてそう言えるのですか」
母親はすぐには答えなかった。
「私が犯人だからですよ」
「何と言いましたか、あなたが真犯人というのですか」
「その通りです」
「では静江さんはなぜ自分が犯人と言ったのですか」
「それは私を庇ったのでしょう」
「もう事件はとっくに時効になっていますし、そもそも事件は犯人が捕まって、
裁判も終えている事件ですよ。いまさら何であなたを庇わなければならないのですか」
「それはあの子に聞いてください。このもうすぐお迎えが来る私を静かにしておきたいという思いではないでしょうか」
「では、あなたはなぜ殺害行為をしたのですか」
「あの先生が憎かったからです」
「では、どうして同級生が犯人と名乗ったのですか」
「それは静江への愛情だったと思います」
母親の言うことには、破綻がなかった。
単に静江を庇おうという意思だけともとれない。
「あなたがあんな古い事件を掘り返すからです。あの子は、あなたに追い詰められたのだと思います」
「静江さんの自白と失踪は私のせいだと言われるのですか」
「そうです。女優として第一線で活躍しているのですもの、醜聞が何より怖いのではないのですか」
母親は、静江がまだ女優であると思い込んでいるようだった。
年齢が年齢だけに、現実と妄想が入り混じっているようだった。
大塚は、最後に静江の行き先に心あたりはないかと母親に聞いた。
すると、東京で、最初に済んだ叔母の家が静江にとって一番思い出深いところなのではないかということだった。
#32に続く。
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