
ユメヨミの家③ 過去世の交換
「海ってね、あっち側の記憶がいっぱい沈んでるんだよ」
子どもは砂を蹴りながら言った。
彼は夢中で網をふりまわして、波打ち際の小さな魚を追いかけていた。
すくいあげたかと思えば、すぐに放してしまう。
まるで記憶を確かめては、水に返しているようだった。
「魚って、記憶なの?」
「うん。ときどきすごく懐かしいのがいる。
たぶん前世で食べたやつ」
ケラケラと笑う彼の声の奥に、どこか冷めた響きがあった。
「そんなに、前世のこと覚えてるの?」
「いや、覚えてないよ」
あっさりとそう言って、彼はまた網に集中するふりをした。
けれどわたしには、その“ふり”がよく見えた。
帰り道。
夕方の光が長くのびて、砂の上に影が揺れていた。彼は不意にこう言った。
「ねえ、僕の過去世と、キミの過去世を交換しない?」
わたしは立ち止まった。
風が耳を抜けていく。
「……それは、見てみないとわからないね。
交換したら、今もすり替わりそうで。
面白そうだけど、ちょっと怖いかも」
彼はうんとも言わず、前を歩いていく。
そして、まるで思い出したみたいに何度も、楽しそうに言った。
「パパ!ねえ、パパ!まってよパパ!」
その声が、やけに耳に残った。
明るい声なのに、離れていく背中と一緒に、何かが引っかかったままだった。
「それは夢でしたか? それとも、記憶の混線ですか?」
ユメ読みのカナは、新聞紙をちぎりながら言った。
灰皿のそばには火の気配だけがあった。
「夢だったのかもしれません。でも……現実みたいに、感触があったんです。
あの子の声が、ずっと耳に残ってて。
あれから、海の音がなんだか遠く聞こえるようになって……」
「“交換しよう”って言われたのね」
「はい。過去世の交換。
僕は断ったつもりだけど、今でも、自分の記憶に“異物”が混ざってる気がして……」
カナは新聞紙を灰皿に落とした。
だが、火はまだつけない。
「過去世の交換は、物々交換じゃないのよ。
視点と記憶の重ね書き。交換を“提案された”時点で、もう片足は突っ込んでる」
「それって……もう、書き換わり始めてるってことですか?」
「可能性としてはね。
ただ、すぐに全部が入れ替わるわけじゃない。
声が耳に残ってるうちは、あなたの“今”が抵抗してる」
「……でも、パパって何度も言われたんです。
あの感じが、夢とは思えなくて。
もしかして、本当に前世で……」
「たぶん違うわ」
カナはやわらかく言った。
「“前世で親子だった”という記憶を、その子が使っただけ。必要な絵を選ぶみたいに、関係の枠をつくるの。夢の中の魂は、そうやって繋がりを組み替える」
「じゃあ……あの子は?」
「その子はね、“風のような存在”なの。
まだ名前も、番号も持っていない。
でも、人の記憶のすきまにふっと入り込んで、
誰かの過去に座ってみたり、名乗ってみたりする。戸が少しでも開いていれば、入ってくる。風ってそういうものよ。
ときどき、“交換”を提案して、誰かの魂に滑り込もうとするの」
そのとき、換気扇がジリジリと音を立てた。
カナは静かに火を灯した。
「もう会えないんでしょうか」
「また来るわよ。
夢の中か、どこかの波打ち際で。
ただ次は……あなたが子ども側になってるかもしれないけどね」
火の粉が、静かに立ちのぼっていった。
そのとき、なぜか“パパ”という声がまた、遠くから聞こえた気がした。