
『水曜どうでしょう』放送時間の繰り上げが、なぜ転換点になったのか|第67夜
前回までの第63〜66夜では、『ヨーロッパ21ヵ国完全制覇 第一夜~第四夜』を通して、4人の関係がどのように変わっていったのかを考えました。
大泉さんをだますことができなくても、予定どおりに旅が進まなくても、ミスターと大泉さんたちの目的が食い違っても、その感情と関係性を撮り続ければ番組になる。
ヨーロッパの旅では、後の『水曜どうでしょう』につながる形が、はっきりと見え始めていました。
しかし、この旅が番組にもたらしたものは、内容の変化だけではありません。最終夜で記録した視聴率をきっかけに、『水曜どうでしょう』は深夜0時50分から夜11時25分へと放送時間を繰り上げることになります。
なぜ、北海道の深夜番組は、放送開始から約1年半で1時間25分も早い時間へ移ることができたのでしょうか。
そこには、番組が突然人気になったという単純な話ではなく、小さな成功を積み重ね、自分たちの形を崩さなかった制作陣と、それを見つけた視聴者の関係がありました。
「水曜どうでしょう」は、木曜日に放送されていた
『水曜どうでしょう』が始まったのは、1996年10月です。当初の放送時間は、水曜深夜にあたる木曜日の午前0時50分から1時20分でした。
番組名には「水曜」と入っていましたが、時計の上では、すでに木曜日になってから放送されていたのです。
この時間帯は、翌日に仕事や学校がある人にとって、気軽に見られる時間とはいえません。それでも番組は、サイコロの旅、闘痔の旅、オーストラリア大陸縦断、サイコロ2、サイコロ3と、旅企画を重ねていきました。
最初から高い視聴率を取り続けていたわけではありません。2006年9月20日の公式サイトの日記↗で嬉野Dは、当時のHTB制作部では「視聴率5%の壁」を越えることが難しいといわれ、『水曜どうでしょう』にも2%、3%という週が長く続いていたと振り返っています。
つまり、この番組は、最初から将来を期待された看板番組ではありませんでした。深夜0時50分という場所で、何が正解か分からないまま、自分たちの面白いと思うものを少しずつ積み上げていたのです。

(引用元:DVD東京2泊3日70km」より)
9%を超えた、ヨーロッパ最終夜
転機になったのが、1997年に放送された『ヨーロッパ21ヵ国完全制覇』でした。9週間にわたる長い企画の最終夜で、視聴率が突然9%を超えたのです。
それまで2%、3%の週もあった番組にとって、これは大きな変化でした。しかも、豪華な出演者を加えたわけでも、特別なセットを作ったわけでもありません。大泉さん、ミスター、藤村D、嬉野Dの4人が、レンタカーでヨーロッパを走り続けただけです。
その旅では、21カ国を回るという目標よりも、計画が崩れていく様子や、目的をめぐって4人が対立する姿のほうが強く記憶に残りました。
普通なら隠してしまいそうな険悪な空気まで放送し、それでも最後には再び同じ車で旅を続ける。その人間関係を視聴者が見つけ、面白がり始めた結果が、最終夜の数字に表れたのではないでしょうか。
嬉野Dは後に、その9%を超えた数字を頼りに、1998年から放送時間を23時台へ上げたと明かしています。
ヨーロッパの成功は、一つの人気企画が生まれたというだけでなく、番組が次の場所へ進むための根拠になったのです。
深夜0時50分から、夜11時25分へ
1998年4月1日から、『水曜どうでしょう』の放送時間は、水曜日の夜11時25分から11時55分へ変更されました。それまでより1時間25分も早くなり、番組名どおり、水曜日のうちに放送されるようになります。
夜11時台は、深夜0時50分よりも多くの人がテレビを見ている時間です。全国ネットの番組が並ぶなかで、HTBが自社制作の『水曜どうでしょう』を放送することには、局としての判断と覚悟が必要だったはずです。

(引用元:DVD東京2泊3日70km」より)
ただし、放送時間が早くなったから、すぐに視聴率が10%を超える番組になったわけではありません。嬉野Dは、23時台へ移ったことで全体的な視聴率は底上げされたものの、その後もなかなか10%には届かなかったと振り返っています。
ここが重要です。ヨーロッパ最終夜の9%は、番組の完成を示す数字ではありませんでした。「この番組には、まだ広がる可能性がある」と局が判断するための数字だったのです。
放送時間を動かしたのは、積み上げた実績だった
『水曜どうでしょう』の放送時間は、一度の偶然だけで動いたわけではありません。
サイコロの旅で大泉さんを突然連れ出し、オーストラリアで長距離移動を番組にし、サイコロ3で大泉さんと藤村Dの掛け合いを育て、カントリーサインの旅で4人の関係そのものを見せる形をつくりました。
そしてヨーロッパでは、旅の成功だけでなく、失敗や対立まで物語になることが分かりました。一つひとつの企画で得たものが重なり、視聴者が「この4人をもっと見たい」と感じる番組へ変わっていったのです。
これは、第58夜で考えた「どうでしょうらしさの完成」ともつながります。ただし、今回注目したいのは、番組の型が完成したことではありません。
その型が視聴率という形で伝わり、HTBのなかでも、より多くの視聴者へ届ける価値のある番組として認められたことです。
放送時間の繰り上げは、制作陣だけで起こせる変化ではありません。番組を見つけ、深夜まで見続けた視聴者が数字を積み上げ、その数字がテレビ局の判断を動かしました。
視聴者もまた、『水曜どうでしょう』を23時台へ押し上げた存在だったのです。
放送休止が、番組の質を守る時間になった
23時台への移動は、制作の進め方にも変化をもたらしました。当時、この時間帯では『大相撲ダイジェスト』の放送期間に番組が休止となり、『水曜どうでしょう』は毎週途切れることなく放送される番組ではなくなります。
通常であれば、放送が休みになることは不利に見えます。視聴者が離れてしまうかもしれず、番組の勢いも途切れます。しかし『水曜どうでしょう』にとって、この休止期間は、次の企画や編集に時間を使える貴重な余白になりました。
この番組は、少人数で長期間のロケに出て、膨大な映像を30分に編集します。藤村Dの細かなテロップや、出来事の順序を組み替える編集が番組の面白さを支えていた以上、撮影だけでなく、その後の作業にも時間が必要でした。
毎週新しいものを出し続けることより、休みを挟みながら番組の質を保つ。放送時間の繰り上げによって生まれたこの制作サイクルは、後に『水曜どうでしょう』が休止や復活を繰り返しながら続いていく姿とも重なります。
人気になっても、番組の核は変わらなかった
放送時間が早くなれば、より多くの視聴者を意識して、番組の内容を変えたくなるものです。出演者を増やし、スタジオを豪華にし、誰にでも分かりやすい企画を用意するという選択肢もあったはずです。
しかし、『水曜どうでしょう』は大きく姿を変えませんでした。放送時間が深夜0時50分から夜11時25分になっても、基本にあったのは、大泉さんとミスターが旅に出て、藤村Dと嬉野Dが同行するという小さな番組です。

(引用元:DVD「マレーシアジャングル探検」より)
変わったのは、番組の中身ではなく、番組が置かれる場所でした。より見られやすい時間に移っても、4人の会話、予定の崩壊、疲労や不満まで見せる姿勢は守られました。
だからこそ、新しく番組を知った人も、それまで深夜に見ていた人と同じ面白さを受け取ることができました。人気に合わせて別の番組へ変わったのではなく、自分たちの形を保ったまま、届く範囲だけを広げたのです。
放送時間の繰り上げは、信頼を与えられた瞬間だった
『水曜どうでしょう』は、夜11時台へ移ったことで人気番組になったのではありません。
深夜0時50分から始まり、失敗を繰り返しながら旅番組としての形をつくり、ヨーロッパ最終夜で9%を超える視聴率を記録した。その積み重ねがあったからこそ、夜11時台へ進むことができました。
そして、見られる時間が変わっても、番組は変わりすぎませんでした。むしろ、制作に使える時間を守りながら、4人の関係を丁寧に見せる番組として、さらに深まっていきます。
放送時間の繰り上げは、『水曜どうでしょう』を人気番組に変えた出来事ではありません。それは、すでに育ち始めていた番組が、視聴者に見つけられ、テレビ局から一段上の信頼を与えられた出来事でした。
深夜の片隅で始まった番組が、自分たちの形を変えることなく、少しずつ大きな場所へ進んでいく。その歩みそのものが、『水曜どうでしょう』らしい成長だったのです。
(※記事中の画像は、作品紹介および考察を目的として、解像度を下げて引用しています。著作権は各権利者に帰属します。)
次回は、『水曜どうでしょう』を象徴する曲「1/6の夢旅人」を生み出した樋口了一さんを取り上げます。番組のために作られた曲ではなかったにもかかわらず、なぜ4人の旅と重なり、視聴者の記憶に残る歌になったのか。番組と音楽が結びついた理由を考えます。
この連載は、これからも『水曜どうでしょう』の魅力を一つずつ読み解いていきます。「❤️スキ」「👤フォロー」で応援いただけると励みになります。
📌今回の内容を踏まえて、皆さんは……
A:評価されたら、より多くの人に届くように変化したい
B:評価されても、自分たちのやり方をできるだけ守りたい
どちらに近いでしょうか。理由もあればぜひコメントで教えてください。
(コメントには必ずご返信させていただきます)
今後の『水曜どうでしょう』考察の参考にさせていただきます。
--
■運営者(ユウナ)について
このnoteでは『水曜どうでしょう』をテーマに執筆しています。以下の別アカウントでは、普通の会社員だった私が、FIREを達成するまでの資産形成の実体験を記録しています。