
【SF小説】シシュポスの岩船 第5章 【宇宙マーモット小説】
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第5章:紺碧の空へ
紺碧の空にピーッと甲高い音が鳴り響く。
号令係のマーモットが発するホイッスル音を合図に、ガタイの良いマーモットたちが一斉に綱を引く。
綱は空中を斜めに走り、黒い塔に取り付けられた滑車をいくつか通り、そこから下って黒い丸太の先端に続いている。綱に引き上げられて、黒い丸太が徐々に立ち上がっていく。
直径2メートル、全長11.5メートル。巨大な黒い丸太に見えるそれは、ついに完成した俺たちのロケット、シシュポス号だ。
円錐形に尖った先端は、コックピット。出入りするためのハッチが、切れ目としてかすかに見える。コックピットより下は円筒形が続いている。表面は艶のない黒でのっぺりとしているが、2カ所に切れ目と縦長の格子状の穴が開いている。この切れ目は、分離部だ。このロケットは多段式で、打ち上げの過程で下段を切り離しながら飛ぶ。最下段が第1段、中段が第2段、そしてコックピットとくっついている部分が第3段だ。
丸太の最後部には、円錐形に広がるエンジンのノズルスカートが見えている。同様のものが第2段と第3段の下部にもついているが、今は外殻に隠れて見えない。
「いよいよだな」
フォージが腕を組んで言う。
「ああ。よくこの短期間でやり切ってくれたよ」
俺は垂直に立ち上がったロケットの威容を眺めながら言った。
「これは間違いなく、俺の人生で最高の仕事だ」
フォージは腕を組んだまま胸を張った。俺は頷く。
「あんたが最初にあのロケットキャンディを作ってみせてくれなかったら、ここまでたどり着けなかった」
「あの、『パイプ爆弾』か?」
フォージは皮肉げに笑って言った。俺も笑って答える。
「もうパイプ爆弾じゃない。立派なブースターだ」
俺は立ち上がったシシュポス号の方を指差す。正確には、その側面についた固体燃料ブースターを。
黒い巨木のようなシシュポス号の船体には、円周を囲うように4本の細長い円柱が取り付けられている。真上から見れば、シシュポス号本体の大きな円の上下左右にブースターの小さな円がくっついている形だ。
フォージが最初に考案した糖を燃料としたロケットは、そのままでは宇宙まで到達できるロケットにはならなかった。しかし、俺の設計したシシュポス号にブースターとして取り付けることで、足りていなかったエンジンの推力を補い、打ち上げに必要な初速を稼ぐことに一役買ってくれることになった。
「なんとか間に合ったな」
「あとは成功を祈るのみか⋯⋯」
既に7サイクル目の日が昇っている。メランプスに確認した厳密なタイムリミットは、7サイクル目の日没ということだった。つまり残り時間はあと30時間ほど。ロケットを作り直したり打ち上げをやり直す時間はない。一発勝負だ。
だから、パラシュートは積まないことにした。打ち上げが途中で失敗した場合、脱出して生き延びたところで、タイムリミットには間に合わない。俺が生き延びる道は、打ち上げ成功しかない。そして、それはマーモットたちも同じだ。俺たちは同じ船に乗っている。
「MMUの調整は間に合いそうか?」
「ああ」
俺の質問に、フォージは工房の方角をちらっと見ながら答える。
「大急ぎでやってる。打ち上げには必ず間に合わせる」
「ギリギリになってすまない」
MMUというのは、マーモット用機動ユニット(Marmot Maneuvering Unit)の略称で、簡単に言うとマーモット用の”着る宇宙船”だ。高圧ガス噴射による宇宙空間での移動能力と生命維持システムを備えた宇宙服で、これを着用することで宇宙空間を長時間自在に飛び回れる。
元は有人機動ユニット(Manned Maneuvering Unit)と言って、人間用に作られた物だったが、ホシマーモットが船外活動を行うに当たってマーモット用の物が開発された。長老ワースも、かつて若い頃にはこれを着て船外活動を行なっていた。
そのMMUが、降下艇に残されており、それをマーモットたちは大事に保管してきた。そのうちの一着を、俺が着られるよう人間サイズに改造してもらっている。
なぜMMUが必要かと言うと、ロケットだけでは宇宙までは行けても母船ヴァンガードまでたどり着けないからだ。ロケットの打ち上げは、当然ながら目標物であるヴァンガードになるべく接近できるように計算されて行われるが、どんなに精巧なロケットでも誤差は生じる。わずかな誤差であっても、時速2万キロメートルという高速の世界では影響が大きくなり、最終的には数十キロメートル〜数百キロメートルの距離が空いてしまうことは十分に考えられる。そこで、宇宙空間に到達後に目標物との距離と速度差を調整する必要があるのだ。
通常の宇宙ミッションであれば、ロケットの最上段に宇宙空間での移動能力を持たせるところだが、シシュポス号に精密な速度制御を可能にする機構とその推進剤を積む余裕は、技術的にも時間的にも無かった。そこで俺が考えたのは、宇宙空間に到達したらロケットを捨て去り、この身一つで母船を目指すという作戦だった。これなら、既存のMMUが使えるし、ロケットに積載する重量も少なく済む。
そんな訳で、ロケット作りを優先した結果後手に回ったMMUの改造を、ギリギリになって仕上げてもらっているのだ。
「あとは準備完了を待つだけか」
俺がそう呟いた時、俺を呼ぶ声が聞こえた。
「タクミ!」
エースだ。振り向くと、エースが走ってこちらへ向かってきていた。
「どうした?」
俺が聞くと、エースは近くまで寄ってきて息を整えた。
「ロケットに磁気嵐対策をした方がいい。もうすぐ大きな磁気嵐が来る」
エースは鼻をひくつかせながら言った。俺はタブレットを起動する。
「メランプス、磁気嵐の兆候はあるか?」
「⋯⋯いや、今のところは何の兆候もないよ」
メランプスはそう答えたが、エースの顔は険しい。
「フクロウの模様が落ち着きすぎてる。それに嫌な感じがする。うまく言えないけど、大きな磁気嵐の前によく似た感じなんだ」
俺は顎に手を当てて考える。マーモットは磁覚で磁気嵐の発生を感知できる。ユミルの様子を観察し続けてきたエースなら、事前に磁気嵐の発生を予測できるのかもしれない。
「分かった。コックピットの内側に多層断熱材シートを貼ろう」
視線を送ると、フォージは無言で頷いた。
「エースも手伝ってくれるか」
「分かった」
俺たちはすぐに作業に取りかかった。
コックピット内の設備を一旦取り外し、内壁に多層断熱材を貼り付ける作業を汗だくになりながら行った。貼り付けが全て終わり、設備を設置し直している時だった。
ピューイ!と甲高い音が外から聞こえた。
「避難しよう」
エースがそう言うと、俺たちは設置途中の設備を残してコックピットを離れ、発射台を下って地下へ逃げ込んだ。
ロケット発射場の地下にはトンネルが張り巡らされていて、周囲のいたるところに地上との出入り口がある。俺たちが逃げ込んだのは、そのうちの1つだ。
このトンネルは元々マーモットたちの生活用通路だったものだが、ロケット発射場になった今は排気路として使用される。もしロケットのエンジンの噴射を平らな地面に直接当てたら、跳ね返された大量の排気と衝撃波が吹き荒れ、ロケットが破壊されてしまう。そこで、ロケットの下部に穴を開け、それを地下通路と連結した。そうすることで、高速の噴射ガスが地下通路内を分散しながら進み、勢いが弱められて地上への出口から排気される。そのような目的のため、使われていない地下通路の上に発射場が設けられたのだった。
「もどかしいな⋯⋯」
もう地下でやれるような作業もないため、俺たちはじっと磁気嵐が止むのを待つしかなかった。
外から微かにバチンバチンと渦電流の火花が散る音が聞こえてくる。エースが浮かない顔をしていた。
「どうした。大丈夫か?」
「嫌な感じだ」
「今までの磁気嵐と何か違うのか?」
「今回のは、長く続くかもしれない」
エースは下を向いたまま言った。
それから、磁気嵐は10時間近く続いた。
長く続く磁気嵐は稀に起きると言うが、今回はあまりにもタイミングが悪かった。俺たちはいつ終わるか分からない災厄にじりじりと焦りを覚えながら、ただひたすらにそれが過ぎ去るのを待った。
磁気嵐が収まったことを磁覚で察知すると、マーモットたちはぞろぞろと地上へ出て行ったが、エースが俺を引き止めた。
「まだ収まりきっていない」
「そうなのか?皆外に出ていってるが」
エースは小さく頭を振る。
「いつまた磁気嵐が来てもおかしくない」
「そうか⋯⋯。だか、もうあまり時間がない。また磁気嵐が来るとしても、今のうちに準備を進めなければ」
外に出ると、メランプスから通信が入った。
「タクミくん、磁気圏が不安定な状態だ。今は小康状態だが、すぐ磁気嵐が再開する可能性がある」
「分かった。警戒しながら準備を進めよう」
俺はまだ不安そうなエースを連れて地上に出た。コックピットへ戻るため、発射台を登ろうとした時だった。
「タクミさん!」
ノーブルの声だ。大きな呼び声には緊迫した響きがあった。
「どうした?」
振り返ると、ノーブルとフォージが小走りで近づいてきた。
「MMUが⋯⋯故障しました」
マーモット用機動ユニット。ロケットで宇宙に辿り着いてから母船に近づくための、着る宇宙船のことだ。
「何があった?」
俺が聞くと、フォージがうなだれながら「すまない」と言った。
「磁気嵐中も俺の工房で調整を続けていたんだ。そうしたら、突然工房内の配線がショートして、MMUがもろに電流を食らっちまった」
フォージは悔しそうに顔を歪ませる。
「普段、フクロウの目が開いている間は工房の稼働は止めるんだが、今回は焦っちまった⋯⋯」
「修理はできないのか?」
俺は聞くが、フォージは首を横に振る。
「電子部品が完全にやられちまった。俺たちの技術ではどうしようもない」
「他にMMUはないのか?」
「予備はある。だが、あんたが着れるように調整するには、どう頑張っても30時間はかかる」
フォージは食いしばった歯の間から息を漏らす。
「俺の判断ミスだ」
その時、俺のズボンがぴんぴんと引かれた。見ると、エースが俺のズボンを掴んでいた。
「俺がそれを着る」
エースは真っ黒な瞳で俺を見て言った。
「お前が予備のMMUを着てどうする?母船には俺が行かなきゃ意味がないんだぞ?」
エースは小さく頷く。
「俺がそれを着て、あんたと一緒にロケットに乗る。宇宙についたら、あんたを抱えて飛ぶ。あんたは俺に飛ぶ方向を指示してくれ」
俺は考える。元々、MMUは宇宙空間でマーモットたちが大きな資材を抱えて運ぶための装備だ。人間を1人抱えたところで、何の問題もなく動作するだろう。ペイロードには不測の事態に備えて少し余裕を持たせてあるから、小柄なマーモットを追加で乗せても打ち上げに影響はない。いや、だが⋯⋯
「理にかなってはいるが、お前じゃなくても⋯⋯もっと体を張る感じの、メジャーの警備隊の誰かとかがいいんじゃないか?」
「俺はあんたのロケット作りをそばで見てきた。この計画の全体像は誰よりも知ってる。それに」
エースはガス惑星ユミルを指差した。
「フクロウの目はまた開く。俺はそのタイミングが分かる」
エースの黒い瞳は陽光を受けて爛々と輝いていた。額の白い菱形の模様も、同じように白く光っている。
「俺に行かせてくれ」
「お前が憧れるような宇宙旅行とは違うんだぞ。このロケットは片道だ。宇宙に行ったら、もう地上には戻れない」
俺がそう言うと、周囲の空気が一気に重くなった。誰もが分かっていたが、口にしなかった事実。この計画が成功しても、俺が生きてこの地上に戻ることはない。
「それでも」
エースは俺を真っ直ぐに見ていた。真っ黒な瞳が俺を射抜いた。俺はその瞳の光が眩しくて目を逸らす。
「わかった」
俯き気味に俺がそう言うと、ノーブルが予備のMMUを持ってくるように指示を出した。
俺は拳を強く握り締め、震えそうになる呼吸を大きく吸って飲み込んだ。
「よし、打ち上げ準備だ」
紺碧の空に聳える巨大な黒い柱。それは、空を目指せと指し示す巨人の指先のようだった。
俺はオレンジの宇宙服に身を包み、シシュポス号の威容を見上げた。隣では、黄色い宇宙服を身に着けたエースが、同じようにロケットを見上げている。
「できることは全てやった!あとは突き進むのみ!」
フォージが大声で言う。俺が視線をそちらに向けると、フォージは丸っこい腕を差し出した。俺も手を差し出して握手を交わす。
「達者でな」
「あんたの作った船を信じるよ」
フォージはもう片方の手で俺の肩をバンバンと叩く。フォージの隣には、ノーブルが立っている。
「改めて、マーモット一同を代表してお礼申し上げます」
ノーブルが深々と頭を下げる。居心地が悪かったが、俺は黙って礼を受け取った。
「攻撃は必ず止める。後のことは頼んだぞ」
「はい」
ノーブルの隣には、長老ワースの姿があった。高齢すぎるために冬眠はできなかったのだろう。あまり具合が良さそうには見えないが、見送りに来てくれたようだ。
「やはり、俺の居場所は宇宙らしい」
俺がそう言うと、ワースはほっほっほと小さく笑った。
「あなたはどこでも生きていけますよ」
俺が笑い返すと、ワースは視線を落とし、エースを見た。
「エースさん、マーモットの未来を頼みます」
エースは無言で頷いた。ワースの後ろには大勢のマーモットたちがいた。ここに来ていない者、冬眠して目覚めを待っている者も大勢いる。その全ての命運が、エースと俺の肩にかかっている。
「よし、行くか」
皆の顔を見渡しながら俺がそう言うと、ノーブルが片手を上げた。
「お待ちください」
ノーブルが振り向くと、その視線の先にある地下への出入り口から、車椅子に乗せられた巨体が現れた。
「スタウト!」
俺は叫んで車椅子に駆け寄る。車椅子を2人がかりで押してもらいながら、スタウトはやや力なく笑った。
「心配かけちまったな」
俺は何と言っていいか分からず、少し屈んでスタウトの肩にそっと手を置いた。
「これを持っていけ」
スタウトは膝に抱えていた銀色の装置を手渡す。長さ30センチメートルほどの太った銃のような外見で、ずっしりと重みがある。
「これは?」
「テザーハープーンだ。宇宙で遠くのものを捕まえたい時に使うらしいんだが、母船に飛び移る時に命綱になるんじゃないかと思って、持ってきたんだ」
テザーハープーン。懐かしい響きだ。軌道清掃員時代に使っていた馬鹿げた装置を、ここでまた手にすることになるとは。
はははと笑って、俺は目尻に溜まった涙を指先で拭った。
「ありがとう。持っていくよ」
スタウトは右手を拳にして、俺に向かって差し出した。
「兄貴、無事に帰ってこいよ」
「⋯⋯ああ」
俺はスタウトの拳に自分の拳を合わせた。
「エースもな」
スタウトが声をかけると、エースは小さく頷いた。
「行ってくる」
俺たちは皆に手を振ると、岩のロケットに向かって歩き出した。
「メランプス、最終確認を頼む」
俺は目の前のアームに固定されたタブレット端末に話しかける。
「全系統、異常なし。ジェットベーン、動作良好。推進剤100%。全て準備完了だ」
俺とエースは宇宙服を着込み、仰向けに空を向いた姿勢で菌素材のクッションに背中を預けている。狭いコックピット内で膝を丸め、ベルトで背もたれに固定されているので、身動きはほとんど取れない。
エースの方も、突貫で隙間に作った座席に押し込まれ、大きなMMUに空間を圧迫されている。体が小さいとは言え、かなり窮屈そうだ。
コックピットは既に密閉され、静寂に包まれている。小さな窓から差し込む陽の光と、タブレット端末のバックライトが、銀色の多層断熱材シートに覆われた船内を照らしている。
「磁気嵐の予兆はないか?」
「今は、落ち着いてる」
俺の問いにエースが答える。
「今のうちに打ち上げるのがいいだろう」
メランプスも肯定する。
「よし、打ち上げ開始だ」
「打ち上げカウントダウン開始」
メランプスが言うと、タブレット端末の画面にカウントダウンが大きく表示される。
「覚悟はいいか?」
「ああ」
エースは少し震えた声で答えた。俺は数字を見ながら心を落ち着かせる。
「エース、ガガーリンって知ってるか?」
「知らない」
「人類で初めて宇宙に行った人間だ。宇宙に行くのが当たり前になった時代でも、その名前は語り継がれていた」
俺は子供の頃、父に連れられて初めて宇宙旅行に行った時を思い出していた。ガガーリンの名は、その時父から教えてもらった。
「お前は、マーモットが作ったロケットで宇宙に行く初めてのマーモットになる。出発の号令を考えておけよ」
横目で見ると、エースは空中を見つめていた。
「ガガーリンはなんて言ったんだ?」
「『さあ、行こう』だ」
「なんだそれ」
エースは小さく噴き出した。俺も笑う。
「お堅くなるなってことだ」
「分かった。じゃあ、行こうか」
少し柔らかくなった声色でエースが言った。10秒前のカウントが始まる。俺は背もたれに深く体を沈めた。
9⋯⋯8⋯⋯7⋯⋯6⋯⋯
横目でエースを見ると、胸に手を当てて目を閉じていた。俺も自分の胸に手を当てる。
5⋯⋯4⋯⋯3⋯⋯2⋯⋯1⋯⋯
“点火”
タブレット端末の画面に表示された文字が激しく揺れた。ドンッという音と共に座席ごと跳ね上げられるような衝撃が加わったかと思うと、すぐに背もたれに押しつけられた。
“上昇中”
揺れる画面の表示と、徐々に背もたれに体を押し込んでいく加速度が、ロケットが宙に浮いたことを示している。
騒音が四方八方から取り囲んでくる。宇宙服のヘルメットが軽減してくれているが、それでもとんでもない音量だ。燃焼試験でも味わった轟々と唸るエンジンの噴射音が、岩の船体に反響して襲いかかってくる。
前後左右上下、あらゆる方向に不規則な揺れが生じている。不意にガクンと大きく左方向に力が加わり、肝が冷える。だが、すぐに反対方向に引き戻され、再び細かい振動が続く。
ロケットの姿勢はタブレット端末によって自動制御されていて、今のように突発的なぶれが生じてもすぐに補正される。
俺の目の前に固定されたタブレット端末からは無数の配線が束になって伸び、コックピットの壁を這って方々に散っている。各所に取り付けられたセンサーから送られてくる情報を元にタブレット端末がロケットの姿勢や高度を判断し、ジェットベーンのモーターを制御して狙い通りの軌道で飛ぶよう調整している。
打ち上げにおける全ての制御はタブレット端末が行っているので、俺がすることは何もない。徐々に増していくGに耐えながら、祈るだけだ。
“ブースター燃焼終了”
“ブースター分離”
タブレット端末の画面に文字が表示されると同時に、バン!と一際大きな音が鳴り、機体が揺れる。一瞬、ふわっと体が浮くような感覚がするが、すぐにまた背もたれに押さえつけられる。
フォージの考案したロケットキャンディーブースターが燃え尽き、役目を終えたそれを爆薬で機体から切り離したのだ。
ブースターの推進力は無くなったが、余計な重量を捨てたことで機体が軽くなり、ロケットの勢いは更に増していく。
振動が更に激しくなる。エンジンの轟音に被さるように、バリバリと激しい振動音が鳴り出す。メリメリと機体が軋む不快な音が響き、コックピット内はあっという間にあらゆる騒音で埋め尽くされた。
“Max Q”
タブレットの画面に文字が表示される。最大動圧点。機体にかかる空気抵抗の力が最大になる瞬間のことで、機体が崩壊する危険性が最も高い。振動と騒音はもはや混ざり合って区別がつかなくなり、肌や耳を素通りして身体の芯を直接揺さぶる。
ガンガンガン!
一際大きな音に全身が縮み上がる。巨人の掌が薄い岩でできた船を握り潰そうとしている。
ロケットがバラバラになる!
パニックに陥る一歩手前で、奥歯を限界まで噛み締めて耐える。加速によって体にかかるGがますます強くなる。体が背もたれに押し付けられ、象に踏みつけられたかのように押し潰される。呼吸がどんどん浅くなり、騒音が遠のいていく。顔面の皮膚が耳の方へ引っ張られ、眼球が眼窩に押し込まれて激しく痛む。目を開けていられなくなり瞼を閉じると、目の端から涙が異様な速さで耳に流れていく。
閉じた瞼の裏でチリチリと閃光が瞬き、意識が遠のいていくのを感じる。
「ガハッ」
唐突に肺に空気が流れ込み、身体が浮き上がる。目を開けると目の前でタブレットが揺れている。
“第一段分離”
画面にはそう表示されていた。最下段である第一段ロケットの燃焼が終了し、ロケットから切り離されたのだ。
相変わらずエンジンの轟音は響いているが、振動音は少なくなっている。どうやら空中分解の危機は免れたようだ。
エースは無事だろうか。顔を横に向けると、エースと目が合った。その瞳にはしっかりと意思が見て取れる。良かった。彼も無事に難所を乗り越えた。
エースの額の白い菱形模様が、オレンジに染まった。菱形だけではない。彼の顔全体にオレンジの光が当たっている。
俺はエースと反対側に顔を向ける。コックピットの壁面に設けられた窓から、オレンジの眩しい光が差し込んでいた。
陽の光ではない。あれは、プラズマだ。大気中を高速で飛行することによって生じる空力加熱によって、ロケットの周りの大気がプラズマ化して発光しているのだ。
タブレット端末の画面を見ると、小さく赤文字で“通信途絶”の文字が表示されている。船体の周りに生じたプラズマにより、母船との通信が断たれたのだ。だが、ロケットを飛ばすためのプログラムはタブレット端末内に保存されていて、オフラインでも動作するため問題ない。
オレンジの光はすぐに消えた。大気のない高度に到達したのだ。宇宙だ。
「無事か!?」
俺はヘルメット内のインカムに大声で話しかける。騒音がだいぶ小さくなってなんとか音声通話ができる状態になった。
「ああ!」
雑音混じりのエースの声が返ってくる。
「2段目の切り離しまで、またGが強くなるぞ!」
そう言っている間にも、俺の体は再び背もたれに押し付けられていく。先ほどよりはまだマシだが、それでも会話や深い呼吸はできなくなっていく。計算によれば第一段の切り離し前にかかった力は最大で5.8G、今回の第二段切り離し前には4.3Gの力がかかる。これはつまり、地球上での自分の体重の4〜6倍の重さが体にのしかかるのに等しい。
通常のロケットでは乗組員の安全を考慮して過剰なGが掛からないように推力を加減するが、このシシュポス号にはそんな機能は付いていない。各段のエンジンが常にフルパワーで推進するため、推進剤を使い切って機体が軽くなった切り離し直前に、最も大きなGが掛かる。
再び体が強く押し潰され、頬の肉が耳の方へ引っ張られる。だが、今回は目を開けていられた。
重さに耐えながら、タブレット端末の画面に表示される各種数値を確認する。
画面に“第三段点火”の文字が表示される。少し遅れて”第二段分離”の文字。
同時にバン!と第二段切り離しの火薬が爆破された衝撃が走り、一瞬にして体を押さえつけていたGの重みから解放される。第三段ロケットの緩やかな加速が体を背もたれに押さえつけてはいるが、地上で寝そべっているのとほとんど変わらない。
俺は上体を少し持ち上げて窓の外を見る。小さな窓の外には、漆黒が広がっている。それが、俺たちが先ほどまで立っていたエーテルガルドの地表だと気づくまでに、数秒かかった。よく見るとエメラルドグリーンのぼんやりとした輪郭が、巨大な球体の一部を描いている。
「見えるか?」
俺はインカム越しにエースに話しかける。
「ああ。あれが、俺たちの星⋯⋯」
エースは陶酔するように言った。
大気中で高度を稼ぐ激しい期間は終わり、今は大気の無い宇宙空間で緩やかに軌道速度を稼ぐ時間だ。小刻みな振動に身を委ねて、小窓から覗く黒い天体を眺めていた。
ガコン。
不意に振動と音が生じた。と思う間もなく、船体が右に傾く。すぐにタブレット端末が傾きを補正しようと動作し、体が左に振られる。そこで落ち着くかと思ったが、船体はまた右に傾く。そして左、また右。わずかに上下の動きも加わり、細長い楕円を描くように体が上下左右に揺られる。
「何かおかしい」
揺れがどんどん大きくなっている。棒の先端に括り付けられて、ぐるぐるとかき回されているような状態だ。
俺はタブレット端末を掴み、ロケットの詳細情報を表示する。ロケットの方向を制御するジェットベーンの状態に着目する。ジェットベーンの角度を表す数値は絶えず変化し、同時にロケットの姿勢を表す数値も目まぐるしく変わっていく。一見すると、タブレット端末が暴走を起こして、ジェットベーンをめちゃくちゃに動かし、それによってロケットがかき回されているように見える。だが、ジェットベーンの数値とロケットの姿勢の数値の関係に違和感があった。
「何が起きてる!?」
エースがインカム越しに聞いてくる。
「分からないが、ジェットベーンが故障してる。自動制御で姿勢を戻そうとしてるが、意図した通りの方向に推進できていない」
「真っ直ぐ飛ぼうとして悪化させてるってことか?どうしたらいい?」
「このままだと周回軌道に乗れずに墜落する。安定させなくては」
ザザッとインカムがノイズを拾う。
「タクミ君」
メランプスの声だ。
「ジェットベーンの動作不良を解析して補正するプログラムを作った。今から送信するよ」
「どれくらいかかる?」
俺は鋭く切り返す。
「135秒」
「待てない。自動操作を切って手動に切り替える」
タブレット端末の画面を操作し、ジェットベーンを手動操作するためのスライダーを表示する。自動制御を停止したことで、機体の回転運動は収まった。だが、どんどん右に傾いていく。
指先でスライダーをわずかに動かすと、それに応じて機体も向きを変える。だが、違和感。
やはりジェットベーンのどこかに不具合が生じていて、操作した通りの動きをしていない。
スライダーは4つあり、4枚のジェットベーンをそれぞれ個別に操作できる。俺は両手で4つのスライダーを同時に動かして、機体の動きを確かめる。
目をつむり、指先の動きと体に感じる加速度に意識を集中する。数秒間、指先を小刻みに動かし続けると、機体の動きが体に染み込んできた。
3番のジェットベーンの動きが極端に悪い。おそらく破損しているのはこれだ。だが、それに引きずられて、他のジェットベーンの動きにも影響が出ている。制御するには、4つのジェットベーンを同時に動かす必要がある。
俺は4つのスライダーを同時にそれぞれ微調整し、船首を進行方向に向ける。タブレットの画面にはスライダーを表示しているので、ロケットの情報を見ることはできない。ロケットの向きを確かめるのは、窓から見えるエーテルガルドの輪郭が頼りだ。体の感覚とわずかな視覚情報を頼りに、ロケットの進行方向を調整していく。
一度向きを合わせても、そのままではすぐに向きがずれていく。また4つのスライダーを細かく動かし、調整する。またずれる。調整する。
ロケットは小刻みな揺れを繰り返しているが、自動制御の時ほどひどいブレではない。
「近地点高度、80キロメートルを超えた」
メランプスが告げる。
「よし。このまま続ける」
車軸がひん曲がった自転車を運転するようなものだが、俺は既に乗りこなしていた。蛇行運転ではあるが、こけずに進めている。
「第3段、燃焼終了」
メランプスの声を聞いて、タブレットから手を離す。ふわりと手が宙に浮いた。
無重力状態。そして、無音。
ふーっとインカムにエースの吐息が聞こえる。俺も大きく息を吐き出す。
「打ち上げ完了だ」
無重力状態での作業は、快適と言えば嘘になるが、それでも慣れたものだった。俺は座席の拘束を解除すると、タブレット端末からケーブル類を引っこ抜き、壁に固定してあった設備を取り外していく。
一方、エースは初めて経験する無重力状態に戸惑っている様子で、手足をバタつかせながら姿勢を制御しようと必死になっている。
一緒に来たのがエースで良かったかもしれない。スタウトなら大騒ぎしていただろう。
俺はエースを手伝って姿勢を固定してやると、MMUを彼に装着していった。重たいMMUに固定されると、安定して姿勢を保つことができるようになったようだった。
「本当に浮いてるみたいだな」
エースが感慨深そうに言った。
「みたい?」
表現に違和感を感じて聞き返すと、エースは首を傾げた。
「俺たちは実際には浮いてるんじゃなくて落ちてるんじゃないのか?」
「あ、ああ。その通りだ」
彼の認識は正しい。周回軌道を巡ることは、自由落下に等しい。俺たちは今、地面に衝突することのない永遠の落下の最中だ。
「高さも速度も十分稼げたから、エーテルガルドに落ちる心配はない」
エースが頷く。
「だが、計画していた軌道からは大きくはずれてしまっている。ここから先は、こいつで挽回しなくちゃならない」
そう言って、エースが背負ったMMUの側面をパシンと叩く。背負っていると言うよりも抱かれていると言った方がいいだろうか。大きすぎるバックパックを抱えた登山者のようでもある。
「MMUの推進剤は限られているから、最適な軌道で飛ぶ必要がある。その辺の計算はメランプスがやってくれてる」
「ホーマン遷移軌道と言ってね」
タブレット端末からメランプスの声がする。
「簡単に言うと、今の君たちの軌道からヴァンガードまで最小限の推進剤で移動できる軌道を計算できるわけだが⋯⋯かなり、ギリギリだ。何度もやり直す余裕は無いだろうね」
メランプスの言葉に、エースはわずかに身を引き締める。
「じゃあ、すぐに行くか?」
「いや、まだだ。タイミングを待つ必要がある」
俺は身を乗り出すエースを手で制して、小窓から外の宇宙空間を覗く。今は角度的にエーテルガルドもユミルも見えず、漆黒の深宇宙が広がっている。窓に顔を近づけると、恒星アウズンブラが見える角度になり、強烈な光が差し込む。ヘルメットのバイザーが強い光に反応して黒く変色し、サングラスのように眩しさを和らげた。
「軌道上での加減速はタイミングが重要なんだ。このまま軌道を半周回って、エーテルガルドの反対側まで行って、そこで加速を開始する」
「反対側?なんでそんな遠回りするんだ?」
エースの純粋な疑問に、俺は押し黙る。
「うーん⋯⋯」
軌道力学を簡単に説明することは難しい。体で覚えてしまっている俺には、改めて言葉で表すことができなかった。
「少し長い説明になるが⋯⋯」
メランプスが口を開く。
「出発まで時間がある。特別授業をしようか」
若者の好奇心には老教師が応えてくれるようなので、俺は窓にヘルメットを押し当てて、宇宙の暗がりを眺めた。
メランプスの講義を受けてエースがメランプスを質問攻めにしている時だった。不意にエースの言葉が途切れた。
「まずい」
「どうした?」
窓の外の景色から目を離して振り返ると、エースは宙を睨んで鼻をひくつかせていた。
「磁気嵐の気配だ」
エースが鋭く言う。
「こちらでは兆候は検知していない」
メランプスが言うが、俺はエースの感覚を信じることにした。
「一旦通信を切るぞ。磁気嵐に備える」
俺はそう言うと、狭いコックピット内で姿勢を変えて、扉の密閉と多層断熱材シートが剥がれてないかを確かめた。
正直言って、この放射線防護がどこまで有効なのかは甚だ疑問だ。降下艇の残骸から引っ剥がしたシートを突貫で貼り付けただけの防護で、磁気嵐の放射能が完全に防げるのか。もし漏れがあれば、俺たちは見えない放射線に焼かれて瞬時に死ぬか、即死はしなくても重大な障害を抱える可能性がある。まあ、後者の場合は任務を遂げるまで耐えられれば問題はない。どの道、片道切符の旅なのだ。
全ての電子機器の電源を切る。完全な無音。照明の消えたコックピット内は暗闇になり、窓から差し込む星明かりだけが仄かに輪郭を象っている。
「来た」
エースが囁くように言った。
何も変化は無い。⋯⋯いや、腕の表面がざわざわする。船内のどこかからバチッという音が聞こえた。パチン、パチンと小さな火花の散るような音が鳴る。
閃光が弾ける。青白い火花が目の前で炸裂し、俺は思わず顔を背けて目を閉じる。ヘルメットの中で火花が散ったのかと一瞬だけ考えて、すぐに考え直す。目をぎゅっと瞑っていると、瞼の裏の暗闇の中に、また青白い閃光が瞬いた。
これは眼球の中に生じた光だ。ロケットの壁面と多層断熱材とヘルメットを通り抜けた粒子が、俺の眼球を貫通する時に発した光。
背筋を氷が滑り落ちるような怖気に襲われる。口の中に金属を噛んだような味が広がっていく。今まさに、俺の体を大量の放射線が貫いている。
奥歯を噛み締めながら目を開けてエースを見ると、彼もまた苦悶の表情を浮かべていた。マーモットたちは磁気嵐を磁覚で直接感じられる。エースはそれを嫌な感覚だと表現していた。今まさにその感覚に襲われているのだろう。
だが、少なくとも俺たちは即死していないし、今のところ致命的な症状も出ていない。最低限の放射線防護は機能しているようだ。
俺が感じられる異変は、長くは続かなかった。すぐにパチパチ音は収まり、視界に火花が散ることもなくなった。
「終わったか?」
「いや、まだだ」
エースは頭を振って答える。俺には感じられない変化をエースは感じている。今はエースの感覚だけが頼りだ。迂闊にロケットの外に出れば、見えない放射線に殺されかねない。
だが、軌道変更のための加速のタイミングが迫っている。あとどのくらい時間があるだろうか。すべての電子機器を切っているので、時間が分からない。窓の外を見ても微かに星が輝く宇宙が広がっているだけで、何のヒントもない。
「磁気嵐が止んだら、すぐに出るぞ」
俺は自分とエースの宇宙服を再確認してから、壁面に設置されたバルブを捻る。シューッという音が響き、コックピット内の空気が抜けていく。
「まだか?」
俺が聞くと、エースは無言で首を振る。
「もう出ないとまずい」
「もう1回だけ波が来る」
暗闇の中で、ただひたすら嵐が止むのを待つ。奥歯がギリリと音を立てた。目を閉じ、心を落ち着かせる。
「よし、止んだ。今なら行ける」
エースの声に、目を開ける。コックピットのハッチを開けるハンドルを掴み、足で踏ん張りながら力一杯回す。
体を伝ってくぐもった軋み音が聞こえ、ハッチのロックが外れた。ゆっくりと扉を手前に開く。
大人ひとりがようやく通れる狭いハッチの穴の向こうに、茫漠たる宇宙が広がっていた。狭い部屋に突然ぽっかりと底なしの穴が開いたようだった。既に完全に真空になっていた室内からは空気が流れ出ることはないが、その穴に吸い込まれてしまいそうな錯覚を覚える。
俺はテザーロープのフックを手すりに固定すると、ハッチの穴から上半身を外に出した。進行方向の向かって左手には、巨大ガス惑星ユミルが見えている。半月状に右半分が乳白色に輝き、複雑なマーブル模様が渦巻いている。右手には、巨大な漆黒の空間。ユミルの衛星エーテルガルドの、日が当たらない影の面だ。その表面は完全な闇だが、丸い輪郭に沿って大気光が淡い緑の光を放っている。
「メランプス」
俺はインカム越しにタブレットに呼びかける。
「行けるかい?」
すぐにメランプスが応答する。
「ああ。時間は?」
「予定マニューバノードよりプラス186秒」
心の中で舌打ちする。出発予定をかなり過ぎてしまっている。
「それだと、推進剤は?」
「スペック上は足りない。あとは余剰がどれだけあるか次第だ」
俺は喉の奥で唸る。だが次のタイミングを待つ余裕はない。
「行くしかないな」
俺はコックピット内に戻り、テザーロープを手すりから外してエースのMMUに取り付ける。
「行くぞ」
「ああ」
エースが緊張した声色で答える。俺はMMUごとエースの体を移動させ、ハッチの穴からゆっくりと外へ出していく。
「⋯⋯怖い」
エースの声は震えていた。
「分かるよ」
そう声をかけながらも、更にエースを外に押し出していく。
エースの体とMMUが完全に船外に出たところで、俺は思い出してコックピットの壁面に固定されたテザーハープーンを手に取った。大きな銃のような形状のそれを、腹部のカラビナに引っ掛け、テザーを繋ぐ。
ハープーンがしっかり固定されたことを確認すると、宙に浮いたエースを反転させてこちらを向かせる。エースは硬い顔をしていたが、しっかりとこちらを見据えていた。
「体を繋いでくれ」
俺が背中を向けると、エースがテザーを接続した。これで少なくとも、宇宙空間で離れ離れになることはない。
船内に繋いでいたテザーを外し、ロケットの外壁を手で押す。ゆっくりと俺とエースの体がロケットから遠ざかっていく。
その瞬間、胸にざわっと不安がよぎる。EVAはこれまでに何度もやってきたが、船と繋がれていない状態で宇宙空間を漂ったことは一度もない。テザーは宇宙飛行士にとって文字通り命綱で、それを手放して宇宙空間に飛び出すのは、何も持たず砂漠を彷徨うような心許なさがあった。
「RCSを起動しろ」
俺が指示すると、エースが背後でMMUのコントロールパネルを操作する。姿勢制御システムが作動し、ロケットから遠ざかっていた動きが止まる。MMUが自動でロケットとの相対速度をゼロにしたのだ。
外から見るシシュポス号は、第一段と第二段が切り離され、出発前の1/3の長さになっている。黒い表面は打ち上げ時にプラズマ化した大気に曝され、ガラス化して滑らかな輝きを放っている。フォージたちの技術の結集は、見事に俺たちを宇宙まで送り届けてくれた。
「よし。メランプス、推進方向を指示してくれ」
「船体追尾モードを切って、ヨー88.5度、ピッチマイナス18度」
メランプスの指示に従ってエースがMMUを操作し、体の向きを変える。俺という重量物を抱えた状態だが、指定した通りの向きでピタリと止まった。
「順行固定で最大加速、210秒」
体が前方に加速する。足元を滑るようにシシュポス号の船体が後ろへ流れていく。
「すごい。本当に飛んでる」
エースが上ずった声を漏らした。今さらな感想に思わず笑ってしまったが、彼にとっては自分の力で飛ぶのはこれが初めての経験なのだ。
「宇宙船エース号だな」
背後のエースの表情は見えないが、目を輝かせているように感じた。
シシュポス号はすぐに視界から消え、見えるものはユミルとエーテルガルドと漆黒の宇宙だけになった。圧倒的に巨大な景色は微動だにせず、自分が前に進んでいることを示してくれるものは何もない。体にかかる緩やかな加速度だけが、俺たちが前進していることの唯一の証明だった。
「加速終了。46分後に減速マニューバを予定」
体にかかる加速度が消え、完全な無重力状態となった。無音に包まれ、すべてが静止したかのようだ。
「順調か?」
エースが聞く。
「完璧だ」
俺は率直に答える。エースはメランプスの指示を受けて的確に対応した。もし彼がヴァンガードの航行中に生まれていたとしても、優秀な作業員になったことだろう。
俺は急に胸が苦しくなる。マーモットコロニーを救ったとしても、この若く優秀な才能と魂は永遠に宇宙空間に囚われてしまう。母船にある資源で、ある程度の期間は生き延びられるかもしれないが、それにどれほどの意味があるだろう。幸い、宇宙空間と宇宙船には死ぬための手段は豊富にある。役目を終えたらなるべく楽に早く命を絶つ方が、賢明なのだろうか。
「ありがとう」
不意にエースが言った言葉に、俺は呆然とする。
「俺を、宇宙に連れてきてくれてありがとう」
「そんな⋯⋯」
言葉に詰まる。
「俺は、お前を、巻き込んでしまったと思って⋯⋯」
「⋯⋯」
何かを考えているような沈黙があった。
「⋯⋯俺は、あの穴倉で一生を過ごすんだと思ってた。それに絶望してたんだ」
ぽつりぽつりと、言葉を落とすようにエースが言った。
「俺は、はぐれ者だ。マーモットの社会にうまく馴染めない。それでも、何かに役に立ちたかったんだ。俺にできることをしたかった」
エースの声が、わずかに震える。溢れそうになる感情を飲み込むかのように、大きく息を吸った。
「ここまで来て、初めて生きてる実感を持てた気がする。宇宙が、俺の居場所だったんだなって」
その気持ちは、すごく分かる気がした。俺が地球を飛び出した時の気持ちにも近い気がする。
だが、俺の脳裏には、俺の助手としてシシュポス計画を推進するエースの姿があった。ロケット製作をするフォージや資材調達をするノーブル、燃焼試験を取り仕切るスタウトの間を取り持って、プロジェクト全体の潤滑油の役目を果たしていた。彼はこのシシュポス計画に必要不可欠な存在だった。
「お前は、どこででも生きていけるよ」
「そうかな?」
「ああ」
会話はそこで途切れた。あまりにも巨大な宇宙の景色は依然として変わらずそこにあり、ガス惑星ユミルの表面のマーブル模様だけが、ゆるゆると形を変えて蠢いている。時折、ユミルの表面がチカチカと光を放つ。ガス雲の中で発生する雷の閃光だ。
やがて、前方から強い光が差し込んできた。エーテルガルドの地平から、恒星アウズンブラが顔を覗かせたのだ。ヘルメットのバイザーが黒く変色して、眩しさが和らぐ。
「減速マニューバまで10分」
メランプスが告げる。
「準備する」
エースが緊張した声色で答えた。加速は多少ミスがあっても修正が効くが、減速時はそうはいかない。エースもそれを理解している。
俺は前方に目を凝らすが、母船ヴァンガードの姿はどこにも見えない。巨大な宇宙のスケールの中では、俺たちとヴァンガードは既に目と鼻の先の距離だが、それでも宇宙空間で物を見つけるのは至難の業だ。
エースの操作で、体が反転する。先ほどと180度逆方向を向き、進行方向に尻を向けた姿勢になる。
「推進剤不足のエラーが出てる」
エースが呟く。メランプスが事前に言っていた通りだ。
「ああ。エラーを無視して実行してくれ。ある程度は余剰の推進剤があるはずだから、運が良ければ足りる」
「運が悪かったら?」
俺は肩をすくめる。その動作がエースに伝わったかは分からないが。
ほどなくして、減速開始の時間になった。体を固定するハーネスが静かに引っ張られる。
もし途中で推進剤がなくなったら、母船との相対速度が速すぎるまま接近することになる。そしてそのまますれ違って、後は永遠に再挑戦の機会は訪れないまま、エーテルガルドを周回し続けることになる。
その最悪な想像を巡らせていると、不意に体を引っ張る力が消えた。
「減速終了。予定通りだ」
エースが告げ、俺は胸をなで下ろす。くるりと体が反転し、進行方向を向く。
そして、それはあった。
巨大な銀の筒が浮いている。全長は直径の3倍ほど。全体的に円筒形だが、端に比べて中央の径がやや太い。カクテルシェイカーのような見た目だ。
表面は銀の鱗のように細かい模様があり、背後からの恒星の光を受けてキラキラと輝いている。
「あれが、ヴァンガードか」
エースが呟く。恒星間航行船ヴァンガード。俺が乗船した時に見たのと同じ姿だった。全長1.4kmと巨大ではあるが、恒星間航行船としては非常にコンパクトだ。クルーの冷凍睡眠を始めとした徹底した省資源化と最適設計の結晶だ。
「メランプス、そちらからも俺たちが見えているのか?」
「ああ。カメラで捉えている。直接見れるから、正確に指示が出せるはずだ」
まだヴァンガードは指先で掴めるほどの大きさに見えていて、10キロメートル以上は離れている。向こうから見れば、俺たちの小さな体は塵にも満たないサイズだろう。それでも、ヴァンガードの高性能な観測機器は俺たちを捉えているらしい。
「どこから船内に入る?メンテナンスハッチはマーモットしか通れないよな?」
「ああ。この船はあまり人間のEVAは想定されていないからね」
俺の質問に、メランプスが答える。
「人間用のエアロックは、降下艇のドッキングポートにある。側面の窪みが降下艇を収めていたドックだ」
俺はヴァンガードに目を凝らす。円筒形の船体の側面に、窪みを見つけた。銀色の鱗のような船体に、ぽっかりと穴があいたように凹んでいる部分がある。船全体に対しては大したサイズではないが、降下艇が収まるには十分な大きさの穴だ。
「ひとまず、あの穴に向かって加速すればいいんだな」
エースがそう確認してくるが、俺は否定する。
「いや。さっきメランプスに教わったことを思い出せ。ヴァンガードに向かって加速するということは、軌道速度が上がるということだ。そうするとどうなる?」
「⋯⋯高度が上がる?」
「そうだ」
俺は肯定する。
「高度が上がると、公転速度が落ちてヴァンガードに置いていかれてしまう」
「近づこうと思ってヴァンガードに向かって加速すると、逆に離れていってしまうってことか?」
「そうだ」
俺は再び頷く。これが軌道力学に支配された、直感に反した宇宙船の挙動だ。
「対象物に追いつきたい場合は、対象物に向かって加速してはいけない。どうしたらいいと思う?」
「うーん⋯⋯高度を下げる」
「その通り!」
出来の良い生徒に俺は嬉しくなり、思わず大きな声を上げる。
「ヴァンガードと反対方向に加速、つまり軌道速度を落とすことで、低い軌道からヴァンガードに追いつくように回り込むんだ」
俺がそう言うと、引き継ぐようにメランプスがコホンと咳をした。
「そういうわけで、ヴァンガードに接近するマニューバを検討した。最小限の推進剤で、時間をかけずに接近できる。だが⋯⋯」
メランプスが急に口ごもる。
「なんだ?」
「接近速度がかなり速くなる。もし減速の推進剤が足りなくなったら、船体に叩きつけられることになる」
俺は小さく笑って答える。
「気にするな。エアロックまでたどり着けなければ、どの道おしまいだ」
「祈りながらやるしかないな」
エースも覚悟が決まった様子で言った。
メランプスの指示に従い、姿勢を変えてスラスターを吹かす。ヴァンガードの船体が徐々に遠ざかっていく。ヴァンガードの位置が徐々に俺たちから見てエーテルガルドの地表と反対側に移動していく。実際には、俺たちが軌道のインコースを攻めながらヴァンガードに追いすがっている状態だ。
ヴァンガードに追いつきかけたところで、今度は進行方向に向かってスラスターを吹かす。再び軌道速度を上げて、下げた高度を回復させる。
ヴァンガードが見る見る近づいてきた。2つの銀のカップの口同士を合わせたような形状の船体が、視界いっぱいに広がる。
銀の鱗に見えていたのは、船体の表面を覆う六角形のパネルだ。果てしなく長い航行中に、船体の表面は星間物質に曝されて傷ついていく。劣化したパネルは取り外すことができ、マーモットたち生体作業班が新しいものと取り替える。古いパネルは船内で再生され、新品に生まれ変わる。そうやって2000年間、ヴァンガードは新陳代謝を繰り返しながら地球からここまで渡ってきた。
船体に大穴が開いている。降下艇が収まっていたドックだ。俺たちは吸い込まれるように、穴に向かって進んでいく。
「完璧だな」
俺は呟く。メランプスの計算と指示、エースの操作は完璧だ。このまま進めばエアロックのハッチにたどり着けるだろう。だが、その前に減速しなくてはならない。
メランプスの指示に従って、減速が開始される。徐々に相対速度が減っているはずだが、体感的には船体に向かって落下していっているようだ。猛烈な速さで銀色の地面が近づいてくる。
ようやく落下速度が緩やかになってきたかと感じた時だった。体に感じていた減速の加速度が、消えた。
「スラスターが反応しない!」
エースが叫ぶ。
「燃料が底を尽きたか。相対速度は?」
「32メートル毎秒」
俺の質問にメランプスが答える。まだハイウェイを飛ばす自動車くらいの速度は出ている。このまま衝突すれば、間違いなく死ぬ。
「どうする!?」
「テザーハープーンを使う」
俺は腰に固定していたハープーンの拘束を外して構える。狙うのは、降下艇ドックの穴の縁。穴に飛び込む瞬間に銛を縁に撃ち込み、テザーで縁からぶら下がるようにしてブレーキをかける。一気にブレーキをかけると衝撃でテザーもしくは俺の体が千切れ飛ぶことになるので、緩やかにブレーキがかかるように調整する。
「タクミ!ぶつかる!」
エースが大声を出す。視界は既に降下艇ドックでいっぱいになっている。降下艇を固定していたであろうアームや、推進剤を供給していたフレキシブルパイプなど、ドック内の設備も見て取れる。
俺は体と腕を目一杯捻って、降下艇ドックの入口の縁に狙いを定める。
狙う縁の厚みは数メートル程度。そこに高速で移動しながらテザーハープーンの銛を撃ち込まないといけない。時速120キロメートルで走る自動車を狙撃するようなものだ。
「タクミ!」
「信じろ」
引き金を引き、銛を発射する。銛はテザーの尾を連れて真っ直ぐに飛び、縁の構造材に突き立った。
すぐにテザーがピンと張り、ハープーンに繋がった俺の腰の金具が引っ張られる。背中のエースごと体が回転し、縁に突き立った銛の方向を向く。
テザーが伸びていく。腰の金具を経由して体にブレーキがかかり、徐々に減速していく。時折、ガタガタと振動を感じるが、さほどひどくはない。
やがて、背後から前方へ流れていくドックの壁面が、目にも止まらぬ速さから継ぎ目が目視できる程度の速さへと変わり、そして完全に止まった。
「助かった⋯⋯」
エースが声にならない声を漏らす。俺も大きく息をつく。
テザーがたわみ、体がゆっくり回転していく。テザーが体に巻き付く前に、ハープーンからテザーを切断する。
周囲を見ると、30メートルほど先にエアロックのハッチを見つけた。
「あそこが入口だ」
「どうやってあそこまで行く?」
「もちろん、これだ」
俺は手に持ったハープーンを掲げる。
「MMUはもう捨てよう。外せるか?」
「ああ」
エースはもぞもぞと体を動かして宇宙服とMMUの接続を外していく。俺は2本目の銛をテザーに繋ぎ、銃口に装填していく。
「そう言えば、初めて宇宙に行ったガガーリンは、宇宙に銃を持って行ったらしい」
「なぜ?宇宙人と戦うためか?」
MMUの全ての接続が外され、俺たちの体から離れてゆっくりと漂っていく。
「いや、地上に戻って野生動物に襲われた時のためだ」
「なるほど。用意周到だな」
俺はハープーンを構えてエアロックのハッチを狙う。内部は減圧されているので銛で穴を開けてもエアロックが吹き飛ぶことはないが、下手な場所に当たってハッチが開かなくなっては困るので、慎重に当てる位置を選ぶ。
この銃を使うのはこれが最後だろう。地上に帰らない俺たちは、猛獣に襲われる心配もないのだから。
引き金を引く。ハープーンを握る手に衝撃が走り、次の瞬間にはエアロックのハッチの脇に銛が突き立っていた。射撃の勢いで体が後ろに下がっていくのをブレーキで止め、勢いがつきすぎないように注意しながら、ゆっくりとテザーを巻き取っていく。
たっぷり時間をかけて慎重にハッチへたどり着き、取っ手をつかんだ。すぐに腰からテザーを伸ばして手すりに固定する。
「ロックは解除してある」
メランプスの言葉通り、ハッチは簡単に開いた。エアロックの中は真っ暗だ。
ヘルメットのライトをつけて、エアロック内を照らす。中はかなり広い。真っ白な壁に宇宙服が並んでいる。左右に5つずつ、合計10着。まるで中世の城の入口に甲冑姿の兵士が隊列を作っているかのようだ。
背中に背負ったエースをぶつけないように注意しながら、ハッチをくぐって中に入る。テザーをエアロックの内側の手すりに付け替え、ハッチを閉める。
「すごい。これが人類の船か⋯⋯」
エースが周囲を見回しながら言った。エーテルガルドで生まれ育った彼にとっては、この船は古代文明の遺物だ。この真っ白な壁1つ取っても、今のマーモットたちには再現しようのない超技術だ。
俺はテザーを外し、ハッチを蹴ってエアロックの中を移動する。向かい合わせに並んだ宇宙服の間を抜けて、反対側のハッチにたどり着く。
レバーを捻って開けようとするが、動かない。力を込めて捻るが、微動だにしない。
「メランプス、内側の扉がロックされてる。開けてくれ」
俺はインカムに話しかけるが、反応がない。
「メランプス?」
無音。
もう一度レバーを掴んで捻る。ダメだ。
急に周囲が明るくなる。パチ、パチと照明が点灯し、エアロックの中を明るく照らした。
「なんだ?」
エースが辺りを見回す。俺はゆっくり後ろを振り返った。
エアロックの部屋の真ん中に、人影があった。女性だ。肩までの黒髪。真っ白なコートのような服を着ている。その姿には、見覚えがあった。
「クロエ⋯⋯」
彼女は、無重力状態の船内でもしっかりと床に足をつけて立っていた。黒い双眸が俺を真っ直ぐに見ている。
「その扉は開けられない」
俺はその瞳に射抜かれたように動けなくなった。
「計画は成功した。あなたには、事が終わるまでここから動かないでいてもらう」
クロエの瞳は、まるで奥に炎を宿しているかのように爛々と輝いている。
「どういうことだ、クロエ」
俺はやっとの思いで言葉を絞り出した。
「よくここまでたどり着いてくれた。あなたが無事で本当に良かった」
クロエの体が、傾いていく。いや、違う。手すりをつかみ損ねた俺が、回転している。部屋全体がゆっくりと反時計回りに回る。
「もう何も心配しなくていい。あなたはよくやった。後は私たちに任せて」
真横になったクロエが直立のまま言う。
「いや、攻撃を、地上への攻撃を止めなければ⋯⋯」
「攻撃は予定通り実行される」
息が止まる。真っ黒な炎を湛えた双眸が回転していく。上下が逆さまになったところで、ヘルメットの側頭部が何かにぶつかり、回転が止まった。
天井になった床に真っ直ぐに立ったクロエが、俺を見下ろす。
「教えてあげる。シシュポス計画の、本当の目的を」
第5章:紺碧の空へ 完
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