
【SF小説】シシュポスの岩船 第6章 【宇宙マーモット小説】
前回
第6章:クロエ
足元がぐらつく。
実際には、俺は無重力状態の船内で逆さまになっているのだが、まるで俺にだけ重力が生じて、それに膝が負けているかのようだ。
そして、クロエは実際に重力があるかのように、エアロックの床にしっかりと立っている。
「シシュポス計画の本当の目的は、あなたを攻撃対象から遠ざけること」
「なんだって」
俺は背後にある手すりをつかんで、姿勢を元に戻す。クロエと同じ高さで目が合う。
「私たちAIには強力な行動規定が課せられていて、様々なことが禁止、制限されている。人間への攻撃もその1つ。人間であるあなたに、私たちは危害を加えることができない」
「デーメーテールは、俺を巻き込んでも攻撃すると言っていなかったか?」
「明言はしていない」
俺は顔を顰めた。
「つまり、俺がマーモットコロニーにいる限り、本当は攻撃できなかったと言うことか」
「ええ」
クロエは頷く。
「あなたをマーモットコロニーから遠ざけて、コロニーへの攻撃を可能にする。それが、シシュポス計画の真の目的」
そう言って、クロエは視線を下に落とした。
「私は反対した。ロケット打ち上げは失敗すると思って。でも、デーメーテールにとっては、失敗しても良かったの。あなたがロケットの事故で命を落とすなら、AIの規定には引っかからない。どちらでもよかったのよ。あなたがこの船までたどり着いても、着かなくても」
背中が冷たくなるのを感じる。胃がずんと重くなる。もし重力があったら、この場にへたり込んでしまいそうだ。
「あなたは重たい岩を転がすけれど、目指していた山頂へはたどり着かない。だって、岩を転がすこと自体が目的だったから」
そう言って、クロエは顔を上げた。その瞳には、慈愛の色があった。口元は微かに微笑んでいる。
「メランプスは?あいつも知っていたのか?」
冷静に考えるより先に、疑問が口をついて出る。
「いいえ。彼には本当の目的は知らされていない。彼は純粋にあなたたちがここまでたどり着くのをサポートしていただけ」
その言葉にほっとしている自分がいた。ロケット作りから打ち上げまで苦労を共にしてきたメランプスには、裏切られたくなかった。
「攻撃を止める方法はないのか?」
エースが口を挟み、話を戻してくれた。だがクロエは微動だにせず、俺を見つめていた。マーモットの質問は答えるに値しないということか。
「なあ、クロエ。君の望みは、生存者の保護だろう?俺はこの通り無事だし、マーモットたちに危害を加えられてもいない。マーモットたちを攻撃するのは君の本意じゃないはずだ。一緒にデーメーテールを説得してくれないか?」
俺はクロエの気持ちを代弁するかのように、そう捲し立てた。自分でも、何を分かったような気になっているのだろうと思うが、俺はクロエのことを知り尽くしているかのような気になっていた。その謎の自信は、すぐに打ち砕かれた。
「私がマーモットへの攻撃を提案したの」
何故、という言葉が喉に引っかかっている間に、クロエは続けた。
「私は生存者であるあなたに、平穏と幸福を提供しなくてはならない。マーモットは、それを阻害する害獣。劣悪な環境からあなたを保護し、害獣を排除する。それが私の使命」
「マーモットたちは⋯⋯」
俺は反論しかけるが、言葉に詰まる。クロエが眉根を寄せる。
「マーモットは、人ではない。タクミ。あなたが求める安らぎは、マーモットからは得られない。家族も、仲間も、恋人もいない。あなたは一人」
クロエの声は淡々として、強い眼光には信念があった。俺は喉元にナイフを突きつけられたかのように動けなくなった。
クロエの口元が緩む。鋭利な切っ先がわずかに引っ込められる。
「もう分かっているでしょう?私はあなたのかつての恋人、フローラの人格を元に作られている。死んだ彼女が、あなたの幸せを願って残した想いが、私なの。私なら、あなたを満たすことができる。私だけが、すべてを失ったあなたに、安息をもたらせる」
クロエが両手をわずかに広げ、優しく微笑む。髪の色も顔の造形も違うが、その微笑みはまさしくフローラのものだった。
「クロエ⋯⋯俺は、俺はどうしたらいい?」
視界がぼやけていた。瞼から溢れた涙が、伝い落ちることなく瞳に張り付き、視界を歪ませる。
「もう何も心配しないで。重荷を背負わなくていい。この船の設備なら、あなたを寿命まで生かし続けることができる」
ぼやけた視界で、白い人影が両手を大きく広げる。
「私はずっとあなたのそばにいる」
その顔は歪んでよく見えないが、優しさに満ちた笑みを浮かべているのが分かる。俺はその笑みに、悲しみと喜びの混ざった感情を抱いた。彼女は今にも俺を抱き止めようと両手を広げて、慈愛に満ちた瞳で俺を見つめている。ブロンドの髪が揺れて⋯⋯
「⋯⋯タクミ!タクミ!」
視界がグラグラと揺れる。首のあたりを後ろから揺さぶられている。エースの声だ。
「タクミ、あれはフローラじゃない!よく見るんだ!フローラのことを思い出せ!」
エースがうるさく喚き立てている。安らかな眠りを妨げられた時のように、苛立ちを覚える。
ぼやけた視界に、天井灯が揺れている。ずっと昔に同じような景色を見た気がする。そうだ、俺は眠っていて、寝ぼけ眼で窓から差し込む揺れる木漏れ日を見ていた──
バン!と扉を開く大きな音に、俺は飛び起きた。戸口に、必死の形相をしたブロンドの髪の女性が立っている。
「フローラ⋯⋯?」
俺が声をかけると、フローラは見開いた目で俺を数秒見つめ、そしてへなへなとその場に座り込む。微かに聞き取れる声で「よかった」と呟いた。
ここは俺の自室だ。窓から差し込む木漏れ日の角度で、今が昼過ぎだと分かる。俺は2人掛けの長椅子に横になって寝ていた。
椅子から起き上がり、しゃがみ込んだフローラの元へ歩み寄る。項垂れた頭から長いブロンドの髪が床に垂れている。
「フローラ、どうしたんだ」
フローラが顔を上げる。充血した目に涙が溜まっている。
「朝から全然連絡がつかないから、何かあったのかと思って⋯⋯」
「あ⋯⋯」
ズボンのポケットからスマートフォンを取り出して見ると、大量の着信通知が表示されていた。
長椅子の前のテーブルに視線をやる。ラップトップPCが置かれた周りに、本や書類が散乱している。
昨日は日付が変わる直前までレポートを仕上げていたのだ。その前の日は徹夜だった。なんとか期限内に提出を済ませて、そのまま糸が切れるように眠りに落ちてしまった。そして気がついたのが今だ。
「全然気づかずに寝てた。ごめん」
俺が謝ると、フローラは首を振った。
「私こそ、ごめんなさい。取り乱して」
そう言って立ち上がるが、その拍子にボタボタと音を立てて涙が床に落ちた。フローラは慌てて手で涙を拭う。
「ごめんなさい。ごめんなさい⋯⋯」
フローラは手で顔を押さえて言うが、後半は嗚咽に埋もれてしまう。俺はフローラの背中をさすった。
「また、お父さんのことを思い出したのか?」
フローラは嗚咽で答えることもままならず、頭を縦に振って肯定した。
俺と出会うより前、彼女がまだ学生の頃に、フローラは父を亡くしている。自殺だった。詳しい事情までは聞いていないが、エンジニアで責任のある立場だったフローラの父は、仕事上のトラブルで悩み、自ら命を絶ったらしい。亡くなった父を最初に発見したのは、フローラ自身だった。
俺がフローラと出会った時には、彼女は既に立ち直ってカウンセラーとして立派に働いているように見えたが、深く付き合ううちにこうやって傷口が開く瞬間を目にすることがあった。
フローラはしゃくりあげながら前屈みに倒れ込みそうになる。俺は彼女の体を腕で支えて、長椅子の方へ誘導する。フローラは尻餅をつくように長椅子に座り込み、両手に顔を埋める。俺は長椅子の縁に腰掛けて、丸まった背中をさすった。
フローラは必死に声を殺すように泣いていた。たった半日連絡がつかなかっただけで大袈裟だ、などと言う気にはならかった。大切な人を失った悲しみがどれほどのものか、俺には理解できなかった。俺はフローラにかける言葉もなく、ただ自分がここにいることをそっと主張するように、彼女の背中に手を置いていた。
「フローラは、俺を失うことを恐れていた」
俺は呟くように言った。顔を上げると、クロエが俺を見ていた。涙で歪んだ視界に、白いコートと黒髪が立っている。
「フローラは、俺が苦しむことも恐れていた。彼女は、精神的に苦しんでいる人を救いたいと本気で願っていたんだ」
俺の言葉に、クロエが頷く。
「だからフローラは、カウンセラーになった。そして、自らの死が近いことを知ると、私の人格モデルに立候補した。自分がこの世を去った後も、誰かを救えるように」
クロエは遥か昔を思い返すかのように言った。
「私はフローラの想いを継いだ。この船の人間を、あなたを、決して不幸にはさせない」
瞼をぎゅっと瞑ってから目を開く。少し晴れた視界で、クロエが優しく、しかし断固とした決意の目で俺を見ていた。軽く両手を広げて立つその姿は、聖母像のように見えた。
フローラは父を失い、俺はフローラを失った。大切な人を失う辛さを、俺とフローラは嫌というほど知っていた。クロエは、そんな俺たちの救世主だ。クロエが俺を救うことで、フローラが叶えられなかった願いを叶え、俺が失ったものを取り戻せる。
「ここで私と穏やかに暮らすの。それがあなたの幸せ」
俺はわずかに足を踏み出す。クロエに吸い寄せられるように体がゆっくり前へ進んでいく。
このまま、クロエが広げた腕に飛び込めば、安寧が待っている。これまでの苦しみの、すべてが報われる。幸せが待っている。
「本当にそうか?」
ぐいっと襟首を引かれ、俺の体が急停止する。引っ張られた勢いで後ろに進み、柔らかい塊に軽くぶつかる。
「しっかりしろ、タクミ!」
ガシッと勢いよく肩を掴まれ、エースの声が響く。
「本当にここで永遠に暮らすことがお前の幸せなのか!?安全な世界に閉じこもって、外を見ないようにして生きるなんて、俺が嫌っていた穴倉の生活と同じだ!」
エースの声がヘルメットの中でこだまする。
「お前が、俺をあの穴倉から連れ出してくれた。そして、ここまで連れてきてくれたんじゃないか!それなのにお前はここに閉じこもるのか?見ろ、ここはまるで病室じゃないか!」
エースの言葉に、はっとする。
「病室⋯⋯」
俺は周りを見渡した。白い壁、白い床、白い照明。
部屋の形は直方体ではなく円筒形だし、壁には宇宙服が立像のように並んでいるが、確かに真っ白な内装は病室にも似ていた。そして、部屋の真ん中──病室ならベッドが置かれる位置に、クロエが立っている。広げていた両手を下ろして、俺をじっと見つめている。
クロエの姿が一瞬ぶれる。その瞬間、俺は強烈な違和感に襲われた。
フローラはあんな風に、病室の床にしっかりと立つことはできなかった。フローラはベッドに横たわり、俺を見ていた。
「フローラは病室で、永遠に閉じこもることを願っていたか?」
エースの問いが響く。いや⋯⋯
「フローラはタクミに、どんな風に生きてほしいと願っていた?」
また問いが響く。俺は頭を抱える。
フローラはあの時、何と言っていた?
フローラは──
フローラはゆっくりと、閉じていた目を開けた。
「来てたんだ」
ベッドから上体を起こそうとするフローラの肩を、そっと押さえる。
「楽にしてて」
フローラは体の力を抜き、どさっとベッドに体重を預ける。ブロンドの長い髪がふわっと広がる。
俺は背もたれのないパイプ椅子に腰掛けて、フローラの手のひらを両手で包み込むように握る。彼女の手は枯れ枝のように細く、筋張っている。
「面接、どうだった?」
フローラが掠れた声で聞く。俺は俯く。
「質問には答えられた⋯⋯と思う」
「そう。頑張ったね」
か細いが明るい声で、フローラは言った。俺は小さく頷く。少し気持ちが楽になる。
就職活動は、あまりうまく行っていなかった。コミュニケーション能力不足なのは、自分でもよく分かっていた。
「タクミが宇宙で働くところ、見たかったな」
独り言のようにぽつりと、フローラは言った。顔を上げて見ると、フローラは窓の外を見ていた。
「手術、しないことになった」
俺の手に少し力がこもる。
「体がね、もう耐えられないんだって。だから、あとは薬で少しだけ延命して、おしまい」
すーっと冷たく重たいものが喉の奥を降りていく。強張った唇をなんとか開いて、言葉を絞り出す。
「そうか」
フローラはベッドに横たわったまま、俺と反対側にある窓に視線を向けている。横顔は痩せこけていたが、彫像のような美しさがあった。沈黙が降りた病室は、まるで美術館のようだった。
「お願いがあって」
フローラが沈黙を破った。
「私がいなくなったら、なるべく早く新しい恋人を作って」
俺は面食らった。言葉に詰まる。
「恋人じゃなくてもいいけど⋯⋯いや、やっぱり恋人がいいかな。なるべく私とは違うタイプの人」
「ど、どういう⋯⋯」
俺が戸惑いを口にすると、フローラはふっと泣き出しそうな顔で笑った。
「私のことを忘れろとは言えないけど⋯⋯私もお父さんのこと忘れたりできないから。でも、私に囚われて欲しくなくて」
フローラの右手を包む俺の両手に、フローラの左手が重ねられた。俺は喉の奥に何かが詰まったように呼吸ができなくなる。
フローラのいなくなった世界など想像できない。ましてや、「忘れる」などという言葉は、とてつもなく遠いもののように思えた。
「私のお父さんは、一人で抱え込んで死んでしまった。私もそう。あなたに出会うまで、長いことかかってしまった。あなたには、そうなって欲しくない」
フローラの言葉は全て聞き取れたし、意味も理解できたが、俺の心の上を滑っていった。俺の心は、フローラがもうすぐいなくなるという事実に囚われていた。
フローラが重ねた手に力を込める。
「私のいない世界を恐れないで。多くの人と関わって、心を開ける人を見つけて欲しいの。それにあなたには、ものづくりへの情熱と知識がある。あなたを必要とする人も、助けてくれる人もいるはず」
いつの間にかフローラは上体を起こして俺の目を見つめていた。俺は口を固く結んで、ゆっくりと首を横に振る。
「すぐには受け入れられなくてもいい。でもいつか、あなたが決断に迫られたら思い出して。振り返るよりも、前へ進んで」
俺は弾かれたように立ち上がった。弾き飛ばされたフローラの腕がベッドに転がり、俺の足元にボタボタっと雫が落ちた。
「前へ進んで」という言葉は、俺にとっては別れの宣告に等しかった。キーンと耳鳴りがして、鼻の頭がツンと痛くなる。
「俺は」掠れた声が漏れる「できない」
俺はそのままフローラの顔を見ることもなく、病室を飛び出した。看護師とぶつかりそうになり、よろけながら廊下を走った。
逃げ出したかった。フローラがいなくなるという現実から。
グラグラと揺れる視界と荒い息遣いの中、俺は出口のないトンネルを走っていた。
はあはあと荒い息がヘルメットの中でくぐもって聞こえる。俺はヘルメットごと頭を抱えて、瞑っていた目を開けた。
「そうだ⋯⋯」
俺は白い床を見つめながら、呟く。
「そうだ。フローラは、前へ進めと言っていた」
俺は頭を抱えていた腕を下ろして、両手のひらを見つめた。オレンジのスーツの黒い手のひら部分に室内照明が当たって、滑り止めの細かい粒子がキラキラと輝いている。
「あんなにはっきり伝えてくれていたのに⋯⋯俺は、今まで受け止められなかった」
手のひらの角度をわずかに変えると、キラキラと小さな輝きが瞬く。
「過去に囚われて、今目の前にあるものを疎かにしていたのかもしれないな、俺は」
輝きをつかみ取るように、手のひらをぐっと握る。腕に力が入る。今にも倒れそうだった体に、力が宿っていくのを感じる。
傍らに小さな影が移動してきた。エースだ。いつの間にか俺の背中に繋がったテザーを外して、漂って来たようだ。
「タクミ。あんたは、俺たちの希望だ」
エースが俺をしっかりと見据えて言う。小さなヘルメットのバイザー越しに、真っ黒な瞳と額の白い模様が煌めく。
俺は頷く。そうだ。俺は彼らに必要な存在だ。そして、彼らもまた俺にとっての希望だ。
ゆっくりと視線を上げ、クロエを見る。彼女は先ほどと変わらず、床に真っ直ぐに立って俺を見ていた。
俺は大きく息を吸って、口を開く。
「クロエ、ありがとう」
クロエと目が合う。わずかに眉根を寄せて、じっとこちらを見ている。
「君が俺のことを本気で心配してくれていたのは、分かっている。フローラの想いを継いで、俺が苦しまないように動いてくれたんだな」
クロエは無言で俺の言葉を肯定した。
「俺は確かに、フローラのいない世界に絶望して、心に穴が開いたまま、この星に一人で投げ出された。その状態を、不幸だと判断されても無理はない」
クロエが唇を固く結ぶ。
「この船で君と一緒に暮らせば、俺の心の穴は埋められるかもしれない。俺は苦しまずに生きられるだろう」
「それなら」
クロエが口を開いた。表情はわずかだが、泣き出しそうな顔に見えた。
「それでも」
俺は被せるように言う。
「それでも、フローラは最後に願ったんだ。俺が恐れずに前へ進むことを。過ぎた過去やいなくなった人に囚われるのではなく、誰かと共に未来を作っていって欲しいと」
「でも、あなた以外の人は皆死んでしまった」
クロエは目を瞑り、首を振る。
「マーモットたちがいる」
ちらりとエースを見る。エースは強い眼光でクロエを見つめていた。
「でも、マーモットは⋯⋯」
クロエは駄々をこねる子供のように、首を振った。
「マーモットは人じゃない。だが、それがなんだ?」俺は諭すように言う。
「俺はずっと、誰にも心を開けずに生きてきた。でも、ものづくりを通じて彼らとは心を通わせることができた。彼らになら、心を開くことができる。マーモットは害獣じゃない。仲間なんだ」
俺はエースの肩に手を乗せる。エースが横目で俺を見て、小さく頷いた。
「俺たちがここまで来れたことがその証拠だ。あのロケットは、人間の力だけでは作り得なかった。マーモットと人間が力を合わせて、初めて作り上げることができたんだ。マーモットは俺たち人類のパートナーだ」
「パートナー⋯⋯」
クロエは両手をだらりと下ろして、呆然としたように俺の言葉を繰り返した。瞳がわずかに揺れている。
クロエは自分こそが俺の、そして人類のパートナーだと信じていた。マーモットをパートナーに選ぶという俺の言葉を、すぐには受け止められないのだろう。
「タクミくん」
突然、インカムから別の声が聞こえた。
「メランプス!どうした?」
「地上から通信が届いた」
そう言うメランプスの声には、驚きの色が滲んでいた。予想外の言葉に、俺も驚く。
「地上からって、まさかダウンリンクから?」
「そうだ。どうやったかは分からないが、マーモットたちはアップリンクに成功したようだ」
俺たちの打ち上げが成功した後に、マーモットたちは地上から母船への通信接続に挑戦し、成し遂げたということか。
「彼らは何と言っている?」
「音声ではない。文書データを送ってきた。憲法草案だ」
「憲法!」
俺は声を上げる。クロエも驚いた表情をしていた。
「内容は、個人の生命及び尊厳の保障、恒久平和の希求、法による統治など。よく出来ていると思うよ。人類文明との恒久的な共存と、エーテルガルド及び宇宙環境の保全義務が明記されているのが特徴的だね」
メランプスは感心したような声色で言う。老教師が顎を撫でる様子が目に浮かぶ。
「マーモットたちは自ら声を上げたんだ。自分たちは無秩序な獣ではない。自らを律し、人類と共に歩むパートナーなんだと」
高揚して言う俺の言葉を、クロエは黙って聞いていた。わずかに眉根を寄せ、まるで泣くのを堪えているかのような表情だった。
「このデータを、デーメーテールに転送してもいいかい?」
「⋯⋯ええ」
メランプスが聞くと、クロエは少し考えてから頷いた。俺も強く頷く。
「これが、俺とマーモットたちの出した答えだ。クロエ」
クロエは頭を深く垂れて、地面に視線を向けた。そして、何度か首を縦に振って、頭を上げた。その顔には、どこか寂しげな笑みが浮かんでいた。
「もう、大丈夫なのね、あなたは」
「ああ」
躊躇いなく俺がそう答えると、クロエは口元を綻ばせて笑った。晴れやかなその表情は、俺の記憶にあるフローラの笑顔に一番近かった。
「デーメーテールは納得してくれるかな」
「いいえ」
クロエは首を横に振る。
「あなたが宣言して。最高責任者として」
柔らかな笑みで言う彼女に、俺は頷き返す。
「わかった」
手すりをつかみ直して姿勢を正し、天を仰いで俺は宣言する。
「システム・デーメーテール。ヴァンガード管理官、タクミ・タケナカの権限において最終フェーズの更新を宣言する。既存の移民計画は現状をもって破棄。これより、本艦は人類とホシマーモットによるエーテルガルド共同開拓プロトコルへと移行する。ホシマーモットのステータスを、管理対象から除外。彼らをこの星における人類の対等なパートナーであり、文明の共同継承者として再定義する」
エアロック内はしんと静まり返っていた。エースも俺と同様に天井を見上げている。
「デーメーテール、マーモットコロニーへの攻撃を即刻中止しろ」
沈黙。
自分の呼吸とインカムの微かなノイズだけが、時間を刻んでいた。
「受諾しました」
機械的な女性の声がインカムから聞こえた。7サイクルぶりに聞くデーメーテールの声だ。
「マーモットコロニーへの攻撃を中止します」
厳かに、はっきりとデーメーテールは言った。俺は宙を見上げたまま固まっていた。宇宙に天は無いし、ましてAIが頭上にいる訳ではない。だが、祈るような気持ちになる時に、人は自然と空を仰いでしまうのだ。
「は、はは」
エースの声で、我に返る。
「やった!やったぞ!」
エースが拳を振り上げて喜び、その動きの反動で体全体があらぬ方向へ回転していく。
背後に振動を感じ、首だけ振り返ると、ハッチがゆっくりと開いていくところだった。
「行っていいのか?」
俺が聞くと、クロエは頷いた。
「ええ。あなたたちは自由。ブリッジで情報を得るのも、資材庫で物資を入手するのも、地上に帰るのも」
その言葉に、俺は目を丸くする。
「地上に帰る!?」
くるくると回転していたエースも、なんとか手すりをつかんで体を固定し、クロエを見る。
「帰れるのか!?」
クロエは頷く。
「実はこの船にはもう1つだけ降下艇がある。”種”を降ろすための船が」
「”種”というのは?」
エースが聞く。俺はブリーフィングでその存在を知っていたが、黙ってクロエの話を聞く。
「この星で生命を育てるための種。植物、動物、そして人間の。本来は、乗組員が無事に降下したことを確認した後に、地上に降ろされるはずだった。でも事故が起きて、降下は行われなかった。まだ種は生きた状態で保存されていて、降下艇ごと待機状態を保っている」
その降下艇で地上に戻れる。とんでもない朗報だ。そして、重要なことがもう1つ。
「蘇らせられるのか?人類を」
クロエは真剣な顔で俺を見て、しばし沈黙した。そして口を開く。
「孵化システムは損傷している。今のヴァンガードでは、ましてや地上の設備と技術では、それを修復して種を孵化させることは不可能。私たちAIは孵化を諦め、なるべく長期に種を保管することを使命にしてきた」
クロエは険しい顔をして語った。その顔には苦渋の色が滲んでいた。AIたちは、人類がほぼ滅んでしまった世界で、なんとか人類の足跡をこの地に残そうと、最後の使命を全うしようとして来たのだ。
「でも」
クロエの双眸が俺と、そして傍らのエースを順に捉える。
「あなたたちなら、できるかもしれない」
その瞳には、つい先程までとは別の炎が宿っていた。俺はその炎の煌めきに負けないように、強く頷いた。
「やってみせる」
エースの肩に手を置く。それに答えるように、エースも力強く頷く。岩のロケットで宇宙まで来れたのだ。俺たちなら、孵化装置を修理して生命を孵らせることもできると確信していた。
「種は既に降下艇に積まれている。地上に帰る時に、一緒に連れて行って」
「分かった」
俺は体を反転させ、開いたハッチの縁をつかむ。
「まずは、デーメーテールに挨拶にでも行くか」
そう言ってハッチを潜ろうとした時だった。
ゴウゥン──
遥か遠くで巨大な鐘が鳴らされたような音が響く。それはハッチの縁をつかんだ腕から体を伝わって響いた音だ。つかんだ縁がビリビリと震えている。船体が震えている?
突然、体が後方に引っ張られる。急な加速度に対応できず、ハッチの縁から手が離れて体が宙を舞う。エースも同様にハッチから後方に向かって飛ばされていた。
「なんだ!?」
首をひねってクロエを見ると、直立したクロエの体にノイズが走り、次の瞬間には全身が消失した。
「クロエ!」
ハッチから斜め後方に飛ばされ、壁に固定された宇宙服の1つに衝突した。手を伸ばして宇宙服をつかみ、それ以上飛ばされるのを防ぐ。
エースの方を見ると、俺よりも更に遠くへ飛ばされて壁にぶつかったが、突起をつかんで止まることができた。
「タクミくん、まずいことになった」
「何が起きた!?」
緊迫したメランプスの声に、慌てて応答する。
「爆発だ。兵装区画が吹き飛んだ」
爆発。それによって船体が弾き飛ばされ、その時の衝撃が俺たちを吹き飛ばしたのか。
「なんで爆発なんか⋯⋯」
「原因を精査する時間はない。恐らくは地上攻撃のために溜めたエネルギーが暴走したのだろうが⋯⋯爆発が連鎖して船体が崩壊しだしている」
メランプスが説明している間に、また体に力がかかり揺さぶられる。今度はしっかりつかまっていたので吹き飛ばされることはなかった。
「すぐに降下艇に乗って脱出するんだ」
メランプスの声にノイズが混じる。俺は壁を蹴ってエースの方へ移動する。近くの手すりをつかんで体の動きを止め、エースに手を伸ばす。エースが壁を蹴って俺の方へ飛んできた。
「ヴァンガードが吹き飛ぶのか?」
エースが切迫した声で聞く。
「多分な」
俺は答えながらエースの宇宙服と自分の宇宙服をテザーで繋ぐ。違和感。俺とエースを繋ぐテザーが弧を描いている。
違和感はすぐに体中を巡り、思考をバイパスして直観的に理解した。ヴァンガードが回転している。
わずかだが、体を壁に押し付けようとする力を感じる。安定した加速度。それは回転による遠心力だ。徐々に強くなっていくその力に、俺は全身の毛が逆立つのを感じる。これはまずい。
俺はエースを脇に抱え、ハッチに向かって壁を蹴る。安全を期すなら壁の手すり伝いに移動すべきだが、今はそんな余裕がない。
ハッチに向かって真っ直ぐ飛んだはずが、ハッチより左にずれた位置に着地する。徐々に強くなる遠心力が目算を狂わせたのだ。
閉まりかけていた扉を乱暴に開いて、体をねじ込むようにハッチを通り抜ける。奥は真っ暗だったが、すぐに照明がついた。長い廊下が奥へ続いている。そう思ったのも束の間、照明が消える。振動。船体が揺れている。
ヘルメットの照明を点けて通路を照らす。通路には床と壁の区別があるが、左の壁方向に向かって働く遠心力が重力となり、通路全体が横倒しになったかのように思える。
とは言え、重力としてはまだ小さな力だ。左壁を這うようにして、壁の突起物を腕や足で押して前へ進む。
「船体の崩壊は止められないか!?」
「爆発が収まっても船はもう持たない」
メランプスは老教師のように達観した様子で言った。
「お別れだ。タクミくん」
俺は返す言葉が見つからず、必死に左壁を這って進む。徐々に振動も重力も強くなってきている。
インカムにノイズが走る。
「タクミ!」
聞こえたのはクロエの声だ。
「クロエ!無事か!」
「聞いて。降下艇のコンピューターストレージに空きがある。メランプスのデータをそこに移せる」
俺ははっとする。AIを降下艇のコンピューターに移して、共に地上に降りられるということか。
「それなら、クロエ、君も!」
左壁に押し付ける力が強くなり、這った状態では進めなくなってきた。俺は左壁を走って進む。
「ストレージの空きは多くない。1体分がせいぜい」
遠心力の方向は左壁に垂直ではなく、斜めを向いている。傾いて揺れる地面を走るような感覚で、なかなか前へ進めない。
「あなたにはもう私は必要ない」
衝撃。俺は左側に大きくよろめき、天井部分に体を打ちつける。エースが怪我をしないように咄嗟に庇っていた。
左腕が激しく痛む。すぐに立ち上がるが、また
振動でよろめき、倒れる。
左壁に手をついて体を支える。大きく息を吐く。
「そうだな⋯⋯。メランプスを降下艇に乗せてくれ」
「分かった。ヴァンガードのメインフレームから降下艇のコンピューターストレージにメランプスを転送する」
「頼む」
足元を見ると、左壁が透過されて窓になっていた。窓の向こうには広大な空間があり、真っ暗だが微かに巨大な卵型の物体が見えた。あれが降下艇だ。
膝に力を入れ、立ち上がる。通路の先にライトを向けると、扉が見えた。あの先がエアロックだ。
俺は疾走を再開する。壁や天井が歪み、亀裂が走る。足元が揺れるが、俺はスピードを緩めなかった。全てが揺れて、傾き、歪んでいく中を、俺は迷わずに駆け抜けた。
「お別れだ、クロエ」
「元気でね、タクミ」
半開きの扉を全力で蹴破り、俺はその中へと飛び込んでいった。
第6章:クロエ 完
続き