
菜那花とお兄さんはアタラヤで 3
第1話は こちら から
前話(第2話)は こちら から
アタラヤの戸はいつものように開いていた。
格子状に組まれた木に正方形のガラスがはめ込まれており、それぞれにいろんな模様が入っている。小さい頃にガラスを割ってしまったことがあり、代わりに富美夫さんは紅葉の模様が入ったガラスに付け替えた。それからひとつずつ模様が入っていき、富美夫さんはそれを嬉しそうに眺めていた。菜那花ちゃんのおかげで華やかになったね、と言った富美夫さんの柔和な笑みを今でも覚えている。
おそるおそる店の奥を覗き込む。学生服姿の男の子が棚の前で本を立ち読みしているのが見えるくらいで、他にお客さんの姿はなかった。店内BGMもなく静かな、いつものアタラヤだ。やはりここからではレジまでは見えない。
いつものような話をしてくれたらいいと富美夫さんは言っていたけれど、果たしてお兄さんはそんな話を聞いて喜んでくれるだろうか。多分お兄さんはそんな話を聞きたいとは思っていない気がする。共通の話題があれば聞いてくれるだろうが、いきなり質問攻めにしてきた小娘の話を聞こうとは思わないだろう。ずかずかと話しかけて、機嫌を損ねられる未来が容易に見える。騒がしい奴がいるからもう店番はしたくない、と言われてしまっては困る。しばらくは控えておくことが安全圏ではある気はするが。
けれど正直、リョーガさんに似ているから毎日拝みたいという気持ちはある。
毎週楽しみにしていたドラマが終わり、これからこの楽しみを何で補おうかと考えていたところだ。
本人ではないと分かっているけれど、遠目に見ていればリョーガさんにしか見えない。特に店の中は暗いし、薄めで見ればもうお兄さんはリョーガさんかもしれない。
スマホの画面を明るくして、背景に設定したリョーガさんの笑顔を拝む。クールな表情が砕けて、蕾が一気に開いたかのような眩しさ。どの花よりも成長が遅くて開花を心配していた蕾がようやく咲いた時の喜びを胸いっぱいに感じられそうなワンシーンに、何度見ても胸がときめく。
「いつまでも入り口におられたら困りますー」
「わっ」
私の体を覆うように地面に影が落ちている。咄嗟に店先に並べられている腰丈の物かごに身を隠した。
「今日も来てくれたんや。相当じいちゃんのことが好きみたいで」
目を細めるお兄さんを、物かごの隙間から見つめる。少し長めの前髪が目にかかり煩わしそうだが、お兄さんは気にしない様子で唇を薄く伸ばしていた。
この間のことは気にしていないのだろうか。嫌そうな顔どころか少し楽しそうに表情を緩めている。本当は気にしているけれど笑みで隠しているのであれば、それは愛想が良い分類に入る気がする。
「……ぶぶ漬けは食べません」
「は?」
富美夫さんと約束をしたから、簡単に帰るわけにはいかない。その意思を込めて言ったのだが、お兄さんは不思議そうに眉間にしわを寄せて首を傾けるだけだった。
お兄さんはすらりとしていて背が高い。サテン生地の黒シャツに淡いカーキのパンツというシンプルな格好も様になっている。着崩し方も違和感なく、とても大学で浮いているようには見えない。家族の前で不愛想にしているだけなのかもしれない。
「やることなくて暇やし、気が済むまでおってくれたらええからね」
そう言ってお兄さんは店の奥へ入っていった。
引き出しから取り出した本を開き、首から紐で下げていた丸眼鏡を掛ける。カウンターで頬杖をつく姿はモデルのポージングみたいで、店の雰囲気も相まって隠れ家を紹介する雑誌の表紙みたいだ。
近くの棚に目を向けつつ、常にレジが視界に入る位置に移動する。俯きがちの顔に浮かぶのは伏せ目で、先ほどまでの柔らかな印象とは打って変わって真剣な顔つきだ。横顔の輪郭のラインに無駄がない。
邪魔するのはいけないかと思いつつ、富美夫さんとの約束があるためただ見つめているわけにはいかない。お兄さんと富美夫さんが知り合いである以上、約束を破ったり嘘をついたりすればすぐにバレてしまう。
背負っていたリュックサックを前に抱え直してから、レジに近づく。
本から視線を上げたお兄さんの流し目は、黒目がはっきりと見えていないのに優しく感じられた。
期末試験に向けてノートやテキストを詰め込んだリュックサックに腕を突っ込む。たしかクリアファイルに入れたはず、と背中に近い部分に手を突っ込むとつるつるとしたクリアファイルに触れて、挟んでいた一枚の紙を取り出した。
「……お願いします」
レジの机に滑らせながら、ファンシーなイラストが描かれた紙を差し出す。
細めていた目が開いて、可愛いくまのイラストを見ている気がする。やっぱり男の人だからうさぎやねこよりも、強いくまが気になるのだろうか。
「なにこれ」
「プロフィール帳です」
小学生の時にクラスで流行っていたけれど、うまく馴染めていなかったため誰とも交換できなかった。富美夫さんにその話をしたらなんとプロフィール帳を仕入れてくれて、使い道のなかったお年玉で初めて購入した。ねこやいぬなどの可愛らしい動物のイラストがあちこちに散りばめられており、きらきらと輝くラメが指につくほどふんだんに使用されている。十枚セットの物を購入したけれど書いてもらったのは富美夫さんだけで、残りはずっと未使用のまま引き出しの中に置いていた。
「仲良くなるならまずはお互いのことを知る必要があるかなと思いまして」
「僕と仲良くなりたいんや?」
決して他意はない。富美夫さんに言われたから来たのであって、これを口実に距離を縮めたいとかは微塵も持っていない。この間は取り乱してしまったけれど、推しは画面越しに見ているくらいがちょうどいいのかもしれない。
というかむしろこの間のことで気まずいまである。
全てを誤魔化すように、歯の隙間から息を吸い込むとスー……と呼吸音がはっきり鳴った。
「……その、お兄さんも、自分のおじいちゃんが仲良くしている子がどんな人間なのか気になるかなと思いまして」
「あー、まあ確かに。こんなオンボロの店に通うくらいやし、いきなり質問攻めにしてくる変なヤツやし? そう言うってことは、あんたも書いたやつ僕にくれるん?」
「もちろん、自分で書いたのを持っていても悲しいだけなんで……」
あまりにもプロフィール帳が分厚くならず、架空の人物になりきって書いていたことを思い出してしまい、語尾が弱くなる。
お兄さんはプロフィール帳を手に取ると、ひとつひとつの項目を確認するようにじっくりと目を通していく。一番初めは穴埋めの自己紹介で、続いて好きなものを書くコーナー、あとは自分でランキングを作って順位を埋めるものもある。
「お兄さん、書いたことありますか?」
「見たことはあるけど、書いたことはないなぁ」
裏までしっかりと確認するお兄さんの眉間に少しずつしわが寄っていく。丸眼鏡を外して首元に引っ掛けると、ため息をつくように長い息を吐いた。
「まあ、気が向いたらしとくわ」
そう言ってお兄さんは、閉じているのかと思えるほど目を細めて笑んだ。こういう時は面倒だから後回しにして結局書かないという展開になると相場が決まっている。
ここで引き下がれば距離を縮める手段を失ってしまう。簡単に諦めるわけにはいかない。
「お兄さんのお名前を教えてください」
「は? あとで書くから置いといて」
「今やりましょう。今ならなんと私が書きます」
「それでええの?」
お兄さんが書いてくれないなら致し方ない。どんな文字を書くのかを知れるのもプロフィール帳の醍醐味だが、まずはプロフィールを知ることが一番だ。
「あとで書いとくから、また今度取りに来な」
「いえ、今やりましょう。私時間あるので。店も空いてますし」
お兄さんの目をじっと見つめて圧を掛けてみるけれど、お兄さんが狼狽えることはない。面倒と言わんばかりに眉をひそめている。
明らかに不快さを滲み出しているけれど、豊かになった表情に口角が上がってしまう。緩い言葉で話す人だと思っていたけれど、きっと素は今の姿なんだと思う。少しだけ荒っぽい。
名前は、生年月日は、星座は、年齢は、性格は、チャームポイントは、答えてほしい項目を口にするけれど、お兄さんは一向に答えてくれない。好きなものをひとつでも聞き出せれば好きなものコーナーが埋まるけれど、お兄さんは頬杖をついてじっと私を見ているだけだ。
こんなに話しかけているのに無視し続けるお兄さんは、案外意地っ張りなのかもしれない。性格のところに書こうかと思ったけれど、憶測で書けばそれこそ小さい頃と変わらないからやめた。
役目を果たせないシャーペンの先を空で踊らせる。
「楽しい?」
悪戯気に笑みを浮かべるお兄さんと目が合った。
顔に落ちた濃い影で高い鼻や頬骨が際立っている。今すぐスマホをお兄さんの顔に向けたいくらいだけど、そうしたら怪訝な顔をされてしまうから何とか抑える代わりに、視線を逸らした。
リョーガさんがヤンキー役をしたときの、ふらふらになった脇役に向けた表情に似ている。体力の底が見えても立ち上がろうとする相手に対して小馬鹿にするような笑みの美しさに心を持っていかれ、映画を観終えてからも何度も思い返していた。性格の悪さがにじみ出たリョーガさんを観たくて何度も映画館に通ったほどだ。
推しを前にして高鳴る胸を鎮める方法なんて分からない、と思ったところで、目の前にいるのはリョーガさんによく似ている別人であることを思い出す。ちがう、と頭を振ってから、プロフィール帳の文字を読む。
「何でもランキングは何にしますか?」
「何でもええよ」
「好きなドラマとか、最近読んだ本とか、お友達ランキングとか」
「お友達って、それ知って得するん?」
「じゃあ家族ランキングにしますか? 家族の中で一番大食いランキングとか、背が高いランキングとか。お兄さん背が高いからお父さんやお母さんも背が高いんですか? 兄弟とか──」
家族、とまで書いてから顔を上げる。
役に立たない仲間を見下ろすような──そうやってリョーガさんが演じた役に当てはめてしまうことが憚られてしまうほど、お兄さんは冷ややかな瞳をしていた。私に向けられていなかったことだけが幸いで、その目で見降ろされていたら、私はもう二度とお兄さんのいるアタラヤに来れないかもしれない。
「あんたがそこにおったら他の人がレジに来にくいわ。また今度書いとくから置いといて」
「わ、かりました」
シャーペンを筆箱に片づけてから、ランキングに家族と書いてしまっていたことを思い出す。消しゴムを探すがごちゃごちゃとした筆箱の中で姿が見えず、ようやく見つけたと思ったら小さくなって使わなくなった古い消しゴムだった。とりあえず早く消してしまおうと消しゴムを滑らせると、文字は消せたが黒い汚れが広がってしまった。手間が増えて勢いを強めると消しゴムがぼろぼろと崩れていく。消しカスと欠片を寄せ集めて手の平で握りしめる。プロフィール帳をお兄さんに寄せて、早足でレジから離れた。
ちらりと視線を向けると、レジにはひとりの女性が立っていた。待っていた人がいたという罪悪感から今すぐにでも店から出てしまいたかった。しかしここで出てしまえば逃げたも同然、次からどんな顔で来ればいいのか分からない。どくどくとうるさいほど跳ねる心臓を落ち着かせてお兄さんに挨拶をしてからにしようと思い、時間つぶしに店内を見て回ることにした。
商品はどれも一度はここで見た事のあるものばかりだ。平積みされた本は富美夫さんが毎日掃除をしているため比較的綺麗だが、今は少し埃を被っている。一体どこから仕入れているのか分からないような外国の人形や、芸術センスを問われそうな独特なデザインのお皿などがあり、そのどれもを富美夫さんは気に入っている。自分が気に入ったものしか置かないという信念のもと経営されているこのお店は決して繁盛しているとは言えないが、たまに遠方からアタラヤ目当てで来店する人がいるくらいには噂の店ではある。
最近は新しいものを仕入れておらず、商品は少しずつ減っている。年齢も年齢だし今回の入院もあり、もしかしたら店をたたむことを考えているのかもしれない。私の拠り所が無くなってしまうのは悲しいが、そう思うことが富美夫さんの負担になってしまうかもしれないと思うと、素直に気持ちを口にできないのがもどかしいところだ。
「あの、すみません」
考え事をしていたため、しかめっ面のまま振り返ってしまった。
いつの間にか、私よりも背が低く幼さの残る顔立ちをしている男の子が立っていた。見た事のない顔のため、来店は初めてだろうか。学校帰りにわざわざここに来るとはよほど気になっていたのかもしれない。
「盗みましたよね」
眼鏡のフレームが少し透明かかっているのが珍しいなと思っていたのも束の間、男の子の言葉に喉が詰まる。男の子は躊躇いなく伸ばした人差し指を、私のリュックサックに向けていた。
「鞄の中に商品、入れましたよね。さっき見ました」
より大きな声でそう言うと、じっと私の目を見つめてくる。
「え、いや、盗んでない、ですけど」
「鞄の中に入れましたよ。そこにあった木彫りのたぬき」
木彫りと言えばくまでは、と思った記憶があるため、近くの棚に木彫りのたぬきがあることは知っている。しかしいつもの場所に木彫りのたぬきは無かった。誰かが購入したのだろうか、それとも誰かが盗んで……。けれど盗んだ覚えも盗むつもりも一切ないのだから、私のリュックサックの中に入っているわけがない。
「入ってますって、見てください」
男の子の圧に押され、背負っていたリュックサックを前で抱える。教科書で膨れたリュックサックのチャックを開けると、茶色の木彫りっぽいものが顔を覗かせる。
リュックサックから出てきたのは、何度もここで見てきた木彫りのたぬきだった。
「ほら、やっぱり、僕見てましたから。入れるところ」
「いや、でも、私盗んでない」
無実を証明しようとするが男の子の耳には届かず、すみませーん、と店の奥に向かって声を上げた。すかさず手を掴まれ、逃げないように軽く拘束される。別に逃げるつもりはないどころか冤罪でしかないのに、果たしてこういう時はどうするのが正解なのか分からない。
「どうしましたー?」
少し明るめの関西弁が聞こえた。
きゅっと喉が絞まる。
「この人が鞄に商品を入れているところを見ました」
振り返るとそこには既にお兄さんがいて、男の子の声を聞いてわずかに眉をひそめた。分かりやすく疑いの目を向けられることはないけれど、仮面の裏に隠れているであろう般若を思うと、見えていない分恐ろしい。
「ちっ、違います! 入れてないです!」
「でも実際リュックサックから出てきましたよね」
「出てきた、出てきたけど、でも私は入れてなくて。ずっと背負ってたから、手とか届かないし」
「偶然入るものでもないし、故意じゃないとありえないですよね」
「ありえない、ありえないけど、でも」
必死に弁明したいけどうまく言葉が出てこない。この店に防犯カメラは付けられていないから無実を証明することもできないし、他に客もいないため証言も頼れない。男の子の圧に堪えかねて顔を隠すけれど、逃がさないとばかりに見つめられ体がちくちくと痛むようだった。
ちらりとお兄さんに目を向けると、疑うような目で私とリュックサックを見ている。中から頭を覗かせるたぬきの顔は間抜けで、ぼく何かやっちゃいました? と言わんばかりだ。やっちゃってるよ、やっちゃったんだよ、でも私はやってないんだよ。
歪んだお兄さんの顔を見ていると、富美夫さんのことを思い出した。このことが富美夫さんに知られたら、富美夫さんにも顔を合わせられない。無実を証明する術もない、終わった、さよなら私の心の拠り所……。
「びびっとるし止めたって、やってないって言うとるし」
ため息交じりにそう言ったお兄さんの顔が少し優しくて、少しだけ安心してしまう。
お兄さんの指が木彫りのたぬきの頭を掴む。すぽりと抜けて鞄には余裕ができたけれど、私の心に余裕などない。
「未遂で済んだから今回はお咎めなしな。あんまり騒ぎにしてほしないし」
お兄さんの言葉にほっと心を撫でおろす。できれば富美夫さんには言わないでほしいけれど、隠せばより怪しく思われてしまう気がするから、何も言えない。
しばらく男の子から刺すような視線が向けられていたけれど、失礼します、と頭を下げると店から出て行った。
「ほらあんたも、今日はもう帰んな」
しっしっと払われ、リュックサックを抱えながらそそくさと店を後にする。
ちらりと何度か店の方に目を向けてみるけれど、お兄さんはじっと木彫りのたぬきを見つめたままで、目が合うことはなかった。
第4話は こちら から