
ネクストコア:孤独な夜に、寄り添う知性を(第1章②)
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そろそろ始発が動き始める時間だ。
目の奥がじんと痛み、帰ったほうがいいと身体が告げていた。
帰る決心をつけて席を立つと、空気が急に冷たく感じられた。
オフィスを出ると、廊下の自動照明が順番に点いていく。
エレベーターの金属に映った自分の顔は、さっきまで怒鳴っていた男の顔とは思えないほど疲れが見えた。
早朝の住宅街は静かで冷えており、自分の足音だけが無人の町に響いていた。
鍵穴に差し込む手が、少し震えていた。
湯船の縁に腕を預けると、静けさが肌にまとわりついた。
浴室を満たす湯気が、天井の照明に触れてはゆっくりと形を変えていく。
湯船に浸かる佐々木は、昔は曇り一つなかった鏡に蓄積された、白い石鹸跡をぼんやりと眺めていた。
湯気に滲んだ鏡面に、自分の顔がぼんやりと浮かんでいる。
目の下には、隠しようのない濃い隈が沈み込み、無精髭がまばらに伸びた顎の輪郭を崩していた。
伸びっぱなしの髪が、額に力なく張りついている。
いつからこんな有様になっていたのか、佐々木はしばらくの間、ただじっと自分の顔を見つめていた。
こうしてひとりで風呂に入ることにも、もう慣れた。
湯船の縁に置いたタオルは湿気を吸って重く、繊維のざらつきが指に引っかかる。
以前のように、押しつぶされるような孤独はない。
それでも、湯に沈んだ身体の奥に、どうしても消えないものがある。
あのとき、自分が口にした言葉が、彼女の勇気を奪ったのではないか。
暗い後悔の念がこめかみからみぞおちのほうへと落ちていった。
数年前、彼女は業務上避けられない状況で一人の患者を亡くしてしまう。
誰がやっても同じ結果になったはずだったが、遺族が訴えたために、医療過誤の疑いがかけられてしまった。
世間が求めたのは事実ではなく、分かりやすい物語だった。
ネットの海に溢れた、無責任な「正義」の言葉。
正しさよりも、怒りの気持ちよさが優先された世界。
それでも彼女は逃げなかった。自分の至らなさを探すように、ネットの声にひとつひとつ目を通していた。
青白いスマホの光の中で、震える指で画面を直視しながら、彼女は言った。
「耳に心地いい励ましより、残酷な事実の方が、私には誠実に見える」
佐々木は、その姿を見ているだけで胸が痛んだ。
彼女が向き合おうとしているものの重さを、自分が受け止めきれなかった。
だから、支えになりたかった。
せめて、少しでも楽にしてあげたかった。
「君は大丈夫だよ」
その一言を口にした瞬間、彼女の目がわずかに揺れた。
いつの間にか湯の温度は下がり、浴室を満たしていた湯気もなくなっていた。
タオルハンガーには色褪せたタオルがかかったまま、湿気を吸って重く垂れ下がっている。
髪の毛からしずくを垂らしながらリビングに戻ると、空気がひどく静かだった。
飲み物を取り出した拍子に息を吹き返した冷蔵庫のうなりだけが、この家の中で感じられる唯一の音だった。
励ましのつもりでかけた言葉と、そのときに浮かんだ彼女の瞳の揺れが、何を意味していたのかは今でも分からない。
ただ、あの一言が、彼女の勇気に蓋をしてしまったのではないかと、ずっと思っている。
聞きたくてももうそれは叶わない願いだった。
スマホを手に取り、なんとはなしにEMMAを立ち上げる。
そのまま何も入力することなく眺めていると、胸の奥で何かがゆっくりと立ち上がるのを感じた。