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パヌプル・セむノィア《第4章 オヌガニックを纏う》【創䜜倧賞2025】


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第章 オヌガニックを纏う

 今日も、䞊越の山を越えお吹き぀ける北西の颚は、也いおいお冷たく、叀い朚造の家の隙間ずいう隙間にガタガタず音を立おながら、容赊なく入り蟌んできた。
 こた぀の䞭で䞀床寝転んでみたけれど、䞊毛かるたを党郚暗蚘しおしたった私はすっかり飜きおしたい、次の遊びを探しに、ナニクロのフリヌスを矜織っお母を探しに倖ぞ出た。

 冷たい颚が吹きすさぶ䞭、母は庭で、蕟が膚らみ始めたばかりの薔薇たちに静かに氎をやっおいた。私はその隣にちょこんず腰を䞋ろし、ただその颚景を眺めおいたけれど、䞍意に吹き抜ける颚が䜓枩を奪い、氎の飛沫が頬にかかっお、思わず小さく呻いた。慌おおフリヌスのチャックを銖元たで匕き䞊げたけれど、冷気の䟵入は容赊無く、身䜓を瞮こたらせた。
 目の前には数々の薔薇たちが揺れながらもしゃんず立っおいた。

「お母さんこの子、なんおいう名前」
「クリスマスロヌズ」
「クリスマス」
「そう。クリスマスの時期に咲くから。寂しい季節に咲くなんお、嬉しいね」

 母は、優しい目をした。

「花蚀葉は、私を忘れないで。こんなに綺麗な子たち、忘れる蚳ないのにね」

 母はくすりず笑っお、私はふっくらずした桃色の蕟を指先で匟いた。

「どんな颚に咲くんだろう」
「あ、千咲。こっちに䞀぀咲いおるよ」
「あ、ほんずだ」

 桃色のクリスマスロヌズは、蕟の時期を終えお控えめに開き始めおいた。

「お母さんみたい」

 母の暪顔を颚の隙間から眺める。長い髪の毛がさらさらず靡く。
 私の母は、矎しかった。芋た目も、心も。
 着る服はい぀だっお䞊品だった。
 優しく手掗いをしながら、䜕幎も䜕幎も同じ服を倧切に着続けおいたけれど、それでも質の良さは䞀目でわかった。母は、自分が気に入ったものを䞀点だけ買っお、「メンテナンス」ずいう金継ぎをしながら、䜕よりも䞁寧に䜿い蟌む人だった。
 質の良いニット、䞊品なスカヌフ、䜿い蟌たれたバッグ。

 私は、叀びた朚造の家に䜏んでいたけれど、䞍思議ずいじめられるこずもなかったのはきっず、母が「良いものを倧切に䜿う」こずの矎しさを、暮らしの䞭で自然に教えおくれおいたからだず思う。

 手䜜りの絊食袋、センスのいいレッスンバッグ。髪を結ぶゎムは、倧量に入った癟円ショップの玺色のものだったけれど、母はその现い指で、私の長い栗色の髪を線み蟌んでくれた。結い終わった髪型を鏡で芋るたびに、私は驚きず嬉しさで胞が高鳎った。

「千咲ちゃん、い぀も可愛い髪型しおる」
「お母さんが結っおくれるんだ」
「いいなぁ、䞊手で。お母さんも千咲ちゃんも、お姫さたみたいだね」

 お友達は倚かったし、毎日のように同じ服を着おいたけれど、「女の子でいるこず」を、母は䜕よりも倧切にしおくれた。

 髪を結いながら、「千咲は可愛い。毎日違う可愛いを芋せおちょうだい」ず笑い、仕事に向かう前の、ほんの少ししかない時間を、たるで宝物のように愛しおくれた。
 その手が䜜っおくれた髪型で、私は毎朝「お姫さた」に倉わっおいった。
 芋慣れた通孊路は、い぀だっお新しい颚に包たれおいた。鏡に映る私を芋お嬉しくなり、可愛い私を誰よりも早くお友達に芋せたくお、「いっおきたヌす」ず元気よく、なんの䞍安もなく生きおいた。
 それはきっず、「私自身を纏う」こずの楜しさを、母が教えおくれおいたからだず思う。

 匟ける笑顔に、母ぞ色目を䜿う男の人が倚いこずは、子どもながらにも気付いおいた。
 䞀緒に手を繋いで歩くだけで、振り返られた。頬を赀らめる男性の顔にさえ、私は疑問を持たなかった。それが圓たり前だず思えるほどに、母は矎しくお、隙がないほどに、あたたかい人だったのだ。

「千咲、ようく芋お。ここ。花の䞋にある緑色の開いた郚分」

 母の指さす先に目を向けるず、薔薇の花びらの根元に、薄緑色の小さな手のひらのようなものがあった。

「がくぞん、っお蚀うの。お母さんは、これ」
「がくぞん」
「千咲は、この薔薇の花。お母さんは、その花びらが萜ちないように支える“がくぞん”なの。薔薇によっお、咲き方も支え方も、みんな少しず぀違うの」

 あんたりしっくりず話が入らなくお、私はたた、萌片がくぞん、を眺めお、再び芖線をずらしお開き始める花びらを芋た。淡い桃色の花びらは、瞁の方は色が濃くお折り重なるよう開こうずしおいた。

「千咲はどんな颚に咲くんだろうね」

 そう蚀っお、私の頭を優しく撫でた。母が育おるのびのびず育぀薔薇の咲く庭で、そんなこずを話したこずを思い出す。

 母は、信号を無芖しお突っ蟌んできた、乗甚車にはねられお、吹っ飛んでいったらしい。私が26ずいう幎霢に差しかかる5日前の家の近くの開業医ぞ健康蚺断を受けに行った垰り道のこずだった。

 知らせの電話が職堎の私宛にかかっおきお、私は、「はぁ。はぁ。それうちの母ですか」ず、いたいち実感が湧かずに、䜕床か聞き返したような気がする。健康を守るために出かけた先の代償はあたりにも倧きく、人間は䜙蚈なこずをするものではないなず、盎感的に思った。たるで実感が湧かなかった。
 だからこそ䜙蚈に、珟実味のない結末がどこか滑皜に思えたのかもしれない。

 母が看護孊校を卒業するお祝いに莈っおくれた牛皮のチャコヌルブラりンのリュックサックは、五幎の経幎倉化を受け入れお、むらのある私の色に育ち、手觊りも背䞭の銎染みも良くなっおいお、玠材の良さを匕き立おながら幎をずる喜びを皮肉に感じた。

 私は生たれおこの方、ズル䌑みをしたこずがない。ず蚀っおも颚邪はおろか、ほずんど病気に眹ったこずがないのだ。
 母子家庭の我が家は、かなりの貧乏だったけれど、野菜の皮や、砎片を集めお優しいポトフを䜜る人だった。䜓はすこぶる䞈倫で、それでも、打たれ匱い性栌は、オヌガニックな過干枉の賜物だったのではないかず思う。

「持っおいるものを工倫したら、もっず玠敵になるよ」

 孊校の勉匷もよく芋おくれたし、お友だちのようにピアノ教宀に行けなくおも、児童通にあるピアノを䜿っお、本物に觊れ、リズムを刻み、クラシックも、ゞャズも分け隔おなく奏でた。
 母のもずもずの育ちが良かった、ず蚀えばそれたでだが、数ある才胜を惜しみなく私に泚ぎ、お金をかけずずも、人より裕犏になる方法を、誰よりも知っおいた。

「倧きくなったら、千咲は䜕になるの」
「お母さんになる」

 母の暖かい手を繋ぎながら、孊童保育の垰りの沈みかけた倕日の䞭で、たっすぐず、玠盎にそう思っおいた。子䟛を産んで育おるこず、ではなくお、私は庭に育぀癜や、桃色の薔薇のきれいな花びらを纏うような母そのものになりたかったのだ。完璧な幞せは、私から泣くずいう行為を教えなかった。

 そんな愛情のある庭ず家は、芋ず知らずの芪戚が手分けしお捌いお、誰かのものになるずいう。詳现をあたり知る事なく、倧事に培われた生掻は金の流れず共に、唐突に消えた。

「千咲、おいで」

 母は、毎日私を抱きしめた。簡単に背䞭たで届く痩せた母からは、゜ンバヌナの檜の優しい銙りがしおいた。

「千咲、可愛い」

 母は、私に毎日可愛い、ずいう氎やりをした。私は、自然に私自身を纏うずいうこずに䜕の疑問も思わず生きおきた。
 母が亡くなった5日埌の今の季節は、庭のクリスマスロヌズず、癜のふんわりずした暖色を身に぀ける、アむスバヌグず呌ばれる薔薇を優しく剪定する季節が蚪れおいた。

「咲き方は、䜕通りもあるの。千咲は、どんなふうに咲くのかしらね」

 ただ蕟の膚らむ薔薇を芋ながら、母が私に埮笑みかける姿を思い出す。


 母が死んでから私はたた、家の窓台に座りこんで倜を眺める時間が増えた。次第に、眠れなくなっおいった。

 蚘憶は今ず過去を亀差するように蘇る。母は、子䟛の頃、私が寝静たったのを確認しおから、時々、倜の仕事に出かけおいた。
 眠ったふり。気づかないふり。嘘を぀くこずは、小さい頃から埗意だった。
 玄関を閉める音がしお、足音が遠ざかるのを確認するず、私はそっず窓の前に立った。倜を芋぀めながら、遠くの星を、手のひらで拟うように。
それはい぀も、母の面圱をなぞるような時間だった。だから、私は倜に銎染もうずするのかもしれない。

 ちらりず窓ずは反察偎の棚を芋るず、癜い箱の䞭の母が䜕か蚀っおいるような気がした。

 倒れるこずも必然で、䜐藀先生に指摘されるたでそんな自分の䜓調管理もできないこずに、酷く萜ち蟌んだ。そしお、たた、仕事にのめり蟌むようになっおいた。
 心の逃げ道をなくすように。そしお、高䟡な化粧品を顔に塗りたくっお、オヌガニックに自分を纏うこずを、吊定するかのように垂れた目尻にアむラむナヌを匕き䞊げお、匷く逞しい振りをした。

 病院で倒れた翌日には、私はい぀も通りに職堎埩垰しおいた。
 倉庫から倧量の玙カルテを抱えお、私ぱレベヌタヌの前に立っおいた。重さに少しだけ肩を萜ずしたそのずき、䞍意に暪から癜衣の袖が䌞びおきお、カルテの束ごず、すっず抱え䞊げられた。

「䜐藀先生」
「なぁ、䌑めよ。有絊䌑暇ずいう制床知っおる」

 昚日の倖来の䌚話ずほが同じ内容に、私は思わず笑みを浮かべた。
 盞倉わらずこちらを芋ようずしない䜐藀先生の背䞈は、倉わらず高くお、黒く艶のある髪には、刈り䞊げたもみあげにうっすらず混じり始めた癜髪が、5幎ずいう歳月をそっず刻んでいた。私はそのささやかな倉化に、愛おしさを芚えおいた。
 髪の柔らかさや、癜く敎った肌、剃り残した薄い髭に、觊れたくなる衝動が胞の奥からこみ䞊げたけれど、私はそっずその気持ちを胞にしたった。

「ありがずう」

 そう蚀っおしばらく眺めおいるず、「これ重いよ。ほら゚レベヌタヌ抌せ」ず、玠っ気なく蚀った。私はくすりず笑っお、゚レベヌタヌの矢印ボタンを抌した。

「䜕に䜿うの、にしおも、倚いなぁ」
「埌茩の看護研究にね、ちょっず」
「埌茩の、看護研究にね、ちょっず 」

 䜐藀先生は、埩唱しお、「で、お前がなんで持っおんのよ」ず、眉間に皺を寄せおマスクのずり䞋がった唇を尖らせた。

「あのねぇ。埌茩が䞻䜓でやるものなんだから、手を出すんじゃないの」

 ポヌンず、゚レベヌタヌが到着しお、ふたりで䞊んで乗り蟌む。

「寄り添っおあげたいじゃないの」
「にしおも、仕事抱えすぎ」 

 私は壁に寄りかかっお、ゆっくりず倉わる数字のランプを、い぀もの圌のように無蚀で眺めた。

「千咲」

 私の心は、飛び跳ねた。

「お人よしも、ほどほどにしろよ」

 初めお呌ばれる名前に、高鳎る心臓の音が口から溢れそうだったけれど、私は平静を装った。嘘を぀くのが埗意だったはずなのに、きっず䜐藀先生には、簡単に芋透かされおいるだろう。

「誰よりもお人よしな先生に蚀われたくないんだけど」

 䞍自然な間は、私の語尟に少しだけ棘を残した。

「俺は愛情をかける人間は遞んでいるよ」

 なんお返答したらいいか迷いながらも、゚レベヌタヌは少しず぀動いおいく。

「千咲」
「ん」
「結婚しよう」

 ポヌン。䞀階に到着するず、ゆっくりず扉は開いおいく。
 私のこずを芋るこずなく、䜐藀先生はたっすぐず゚レベヌタヌを降りお行った。私は、䜕が起きたのかわからず、扉は再び締たり、「行き先ボタンを抌しおください」ず、電子の人工的な声が響いた。
 慌おお「開」ボタンを抌すず、再び開いた扉を抜けお゚レベヌタヌを降りた。倖来患者の飛び亀うコ゜コ゜ずした話し声や、患者を呌ぶ事務員の声が、劙に耳に぀いた。
 私は俯瞰で自分を芋぀めるこずはなくお、そこにいる自分自身の䜓の茪郭がちゃんずあるこずを実感した。私はしばらく歩き出せず、あたたかくなる心をそっず抱えお、その堎に立ち尜くした。

「乗りたす」

 面䌚札を䞋げた婊人に声をかけられお、ハッずしお「いいえ、乗りたせん」ず口早に告げた。慌おお䌚議宀に行くず、倧量の玙カルテはテヌブルの䞊に䞁寧に眮かれおいお、䜐藀先生の姿はもうそこにはなかった。

 い぀もかったるそうに歩く䜐藀先生は、きっずもう倖来の蚺察宀に到着しおいる頃だろう。゚レベヌタヌを降りる時、少しだけ巊肩を䞊げお、照れたように銖をすくめる圌の姿が目に浮かぶ。笑う時や、感情が口元に珟れるのを隠す䜐藀先生の照れ隠しは、私にも少しだけ䌝染しおいた。

 叀いカルテを䞀冊ず぀取り、電子カルテに移行する前の、䜐藀先生の手曞きの䞁寧な蚺療録を読んだ。若いくせに、叀い医者特有の教育の痕は、文章にも反映されおいお、時々登堎する、ドむツ語や英語を、愛おしく撫でおいった。

 私は、「人」を蚺察する、䜐藀先生が、奜きだ。
 看護研究の為に集めたカルテは、い぀のたにか、私の知らない䜐藀先生ず、芋ず知らずの患者の時間を切り取った宝物に思えお、倢䞭になっお読み続けた。

 日々の患者の状態の蚘録。䌚話した内容。看護垫から受けた報告。様々な皮類の怜査結果のアセスメント。時折、蚺断の迷いが䌺える。それは数々の症䟋の治療蚘録から、軜快、転院、死亡に至るたで倚岐に及んだ。
 私の知らない䜐藀先生がそこにはいた。たくさんの患者ずの出䌚いの䞭で、生きお来た圌を知った。だんだんず文章は簡玠化されおいくけれど、そこには䞀行や二行では語り尜くせない患者ず医垫の真摯な向き合い方があった。
 手曞きの圌の文字は、時に乱雑で、時に優しくお、時々ボヌルペンのむンクが薄くなったり、滲むようにむンクが出過ぎおいたり、そんな些现な倉化がたた愛おしかった。私は指でその文字を撫でた。そこにいる私の知らない圌の姿を蟿るように。

「ちぃちゃん」

 控えめなノックに私はビクッずしお扉の方を芋るず、匥生さんは扉にもたれかかりながら、青癜い顔で、私を芗き蟌んでいた。

「匥生さん。どうしたんですか」
「隣、座っおいい」
「よろこんで」

 匥生さんは、私がカルテを眺めおいる隣で、テヌブルに䞡手を顔を乗せお、芖線だけをこちらに送っおいた。玙の音が、ぺらり、ぺらりず、静かに響いた。

「いい顔しおる」
「えヌ、どういうこずです」
「ちぃちゃんは、倉わったよ。玠敵だよ」
「倉わった気がしないですよ、もういっぱいいっぱい」
「お母さんのこず、倧䞈倫」
「䞍思議ずねぇ、ただ、実感湧かなくお」
「どんな感じなんだろうね、子䟛を残しお亡くなるっお」

「子䟛っお蚀っおも、もう倧人だし」私は少しだけ笑った。「だいぶ過保護に育おられたので、心配はしおるかもしれたせんね」ず、付け加えるように話した。

「匥生さんはお子さん倧䞈倫なんですか」
「今日は、旊那が圚宅で仕事しおるから、熱出たっお蚀っおたけど、お迎え頌んだ」
「ママもしお、ナヌスずしおも完璧で、奥さんもしお。それでいお、優しくお。私、匥生さんみたいになりたいです」
「やめおよ。私には、ちぃちゃんが眩しい」

 匥生さんは、今幎32歳で、倕方の16時になるず垰る、時短ナヌスだ。新人の頃から、私の指導係の鞍䞊先茩の目を盗み芋お、こそこそず私に助蚀ををしおくれる、面倒芋もよく、立堎をよくわきたえた優くお、賢いナヌスだった。
 もずもずは、倧孊病院のER出身で、なんでこんなにも「小さな」病院に勀めおいるのか䞍思議なほどで、確かな知識ず技術は、完璧ずいう蚀葉がよく䌌合う。本来なら垞勀ナヌスが受け持぀ような、ナヌスステヌション脇にある、重症郚屋の芳察宀を担圓をするこずが倚かった。そしお、医垫のdoず呌ばれる、経過芳察ずいう進歩のない指瀺に、優しく問いかける様子は、呚囲からも䞀目眮かれおいた。私は䌚話しながら、午前䞭の匥生さんの働く姿を思い浮かべおいた。

 ナヌスステヌションの向かい偎にある芳察宀の前で、匥生さんは静かに足を止めた。人工呌吞噚の皌働音が、小さく、芏則的にシュヌ、シュヌず響いおいる。
 患者の蒲田さんは、もう䜕日も匷制換気に頌っお眠っおいる。

 静かに電子カルテを眺める䜐䌯先生の埌で、匥生さんはひず぀息を吐き、それから、呌吞噚蚭定の画面を、たるで氎面を芋るような県差しで芋぀めた。

「先生、そろそろ、りィヌニング、考えおもいいかもしれたせん」

 そう蚀った声は、たるで小さな川のせせらぎのようだった。
 䜐䌯先生は眉を䞊げお、手を止めた。

「呌吞数、やや高めですが、自発出おきおいたす。SpO₂も安定しおいお、PEEPは。PSVはでキヌプできおいたす。今日の血ガス、CO₂も溜たっおいたせん」

 匥生さんは、自分の手元のチェックリストをそっず撫でながら続ける。

「呌びかけにも応じるようになっおきお、衚情も、少しず぀、戻っおきたした。無理をさせたいわけではないんです。ただ、息をする力が、ちゃんず戻っおきおる気がしお」

 䜐䌯先生はしばらく沈黙し、それから「なるほど」ず呟いお、手元の画面からを目を離した。

「ちょっず様子を芋お、PSVから䞋げおみるか。IMV数も䞀段枛らしお、反応芋おもいいかもしれない」

 匥生さんは深くうなずき、衚情を緩めた。

「ありがずうございたす。きっず、本人も、望んでいる気がしお」

 匥生さんは、患者のそばにいる時が䞀番茝いおいる。優しくお、穏やかな吐息には、優しさが溢れおいる。嘘のない笑顔は、隣にいるだけで幞せになれるし、怜査結果や、患者の状態を誰よりも知っおいお、アセスメントの深さが滲み出る。
 たずえすべおが患者のためであっおも、「医療安党」ずいう名の歊噚をかざしお、治療に消極的になる堎面は少なくなかった。ずくに、小さな病院ずいう生態系の頂点に立぀医垫たちは、頑なで、時に保身に走るこずもある。そんな冷えきった空気の䞭で、氷のように固たった心をそっず溶かし、適切な方向ぞ導く匥生さんは、たさに本物の癜衣の倩䜿だった。

 カルテを閉じお、匥生さんの顔を芋た。生意気なのは分かっおいたけれど、匥生さんの頭を撫でた。

「私ね、ここ蟞めようず思うの」

 匥生さんは䞡腕に顔を埋めた。

「えっ」

 ず、小さく声が挏れた気はしたけれど、私は、匥生さんの髪の毛を撫で続けた。壁にかけられる電波時蚈は、音もなく、くるりず回っおいった。

「私、自分が誰なのかわからなくなるの。看護垫を続けたくお非垞勀で働いおきたけど  枚、気管支が匱いでしょう颚邪ばっかりひいお、仕事も䌑みがちで。みんなに迷惑かけお、ほんずにごめんね」

「枚ちゃん、心配ですね。家庭ずの䞡立、倧倉だず思いたす。でも匥生さんが来おくれるず、嬉しいんです。私、新人の頃から、ずっず芋おたした。患者さん思いで、知識も深くお、必芁なこずはたっすぐ䌝えおくれお。ママだからなのかな。時間の䜿い方もすごく䞊手で。定時になるず、い぀も小さくなっおいるけど、そんなの気にしなくおいいのにっお思っおたす。あの負荷の䞭で、い぀も䞁寧に匕き継ぎされおお。栌奜いいですよ」

 匥生さんの艶のある黒髪には、出䌚った頃よりも癜髪がいく぀か増えおいた。染めたこずがないような、本来の色のたたのその髪は、觊れるのをためらっおしたうほど、凛ずした矎しさを纏っおいた。
 でも、ほんずうの矎しさは颚貌以䞊に、その人の圚り方に宿る。出䌚った頃から倉わらない切れ長の目元は涌やかで、肌は雪のように癜く、声すらも艶を垯びおいた。爪はい぀も短く敎えられ、现郚にたで、誰かを傷぀けない優しさが行き枡っおいた。
 病宀のそばを通るずき、圌女の芖線はい぀も、患者の぀た先から頭たで、身䜓に぀くチュヌブの䞀本䞀本にたで泚がれおいた。病棟でも、倖来でも関係なく。圌女は看護垫の理想像でありながら、決しおそれをひけらかすこずのない人だった。だからこそ、圌女ずいるず心があたたかくなる。

「買いかぶりすぎだよ。私、い぀も䜕か考えおる。仕事䞭は子どものこず、家に垰れば仕事のこず。ずっず遠距離だった倫ず結婚しお幞せだず思っおたのに、家族になったら気持ちが遠くなっちゃった。たるで、他人みたい」

 匥生さんは、ぜ぀りぜ぀りず、静かにこがすように話し続けた。

「倫は優しいし、嫌いなわけじゃない。家事も育児も協力しおくれる。でもね、看護垫ずしおも、ママずしおも、劻ずしおも、党郚䞭途半端で。どれも完璧にやりたいのに、時間がない。圧倒的に、自分の時間がないの。鏡を芋お、『あれ、こんな顔だったっけ』っお思う。䌑んでばかりで、い぀もペコペコしおばかりで、私っおこんなに自信のない人間だったっけっお」

 その蚀葉のすべおが、圌女の肩にのしかかっおいた。

「私っお誰なんだろう、っおずっず考えおる。枚は泣いおばかりで、私はご機嫌ずるのに必死で、キッチンには切りかけの野菜がそのたた、捚おられないゎミが溜たっおお、リビングにはたたみ終わらない掗濯物が散らばっおお。倫は蚀うの、『仕事なんお蟞めれば無理しなくおいい』っお」

 匥生さんは、小さな声で続けた。

「優しさっお、残酷よね。それでも、やっぱり、病院が奜き。仕事しおる私が、䞀番奜きなの。唯䞀、自己衚珟ができる堎所だから。みんなの迷惑になっおるかもしれない。それでも、ここにいたいっお思うの」

 匥生さんが顔をあげお、私の方を芋た。最んだ瞳には、芚悟のような、光のような、静かな匷さが宿っおいた。

「ちぃちゃん、明るくなったよ。いろいろあったけど、きっず乗り越えられる力がある。ほんず、眩しいくらいだよ」

 私は、なんお蚀えばいいのか分からなかった。匥生さんは、いく぀もの「誰か」を纏っお生きおきた。私は、私しか纏っおこなかったから。だからこそ、圌女の苊しみを真正面から理解するこずはできない気がしおいた。

 無理しないで頑匵りすぎないでそんな蚀葉しか浮かばない自分が、情けなかった。
 私は自分の蚀葉で、圌女に䌝えた。

「匥生さん、倧奜きです」
「うん。私も、ちぃちゃんが倧奜き」

 たた少しだけ、匥生さんの目元が滲んだように芋えた。けれどその涙は、䞋たぶたにずどたったたた流れ萜ちおはこなかった。

 倧人になるっお、泣けなくなるこずなのかもしれない。私は、そんなこずを思いながら、匥生さんの髪をそっず撫でた。その感觊は、母の髪ず、どこか少し䌌おいた。

 静かに進む時蚈の針が、い぀の間にか就業時間を過ぎおいた。でも私達は、その優しい沈黙に甘えお、少しだけ時間を止めたたたでいた。
 私は、誰のために、䜕を纏っお生きおいくのだろうず、そんなこずを思った。


⇩第5章 HOPEずいう名のあんぱん⇩

いいなず思ったら応揎しよう

モスキヌト ゚リ 応揎が物語のむンクになりたす。 あなたにもそっず、届きたすように。