
未草 第一章 第二話 【外出】
香菜子は
洗面所の棚の奥から、
ヘアアイロンを
取り出した。
コードを
指でほどきながら
コンセントに
差し込む。
金属が
ゆっくりと
熱を帯びた。
毛先を軽く挟み
くるりと巻く。
玄関で
靴箱の
暗がりに
手を伸ばす。
細い
ヒールを
掴んだ。
足を入れると、
体の重心が
わずかに
前へ移動した。
香菜子は
意識して
それを
後ろに戻した。
扉の向こうには、
まず
匂いがあった。
木と酒と、
少し古い空気。
洋楽のBGMが
大きな音で
流れていた。
壁に目をやると、
色鮮やかな
落書きがあった。
分厚いペンキが
何層も
重ねられている
ようだった。
背後で
グラスの触れ合う
音がした。
バーカウンターで
何人かが
慣れた様子で
言葉を交わしている。
やがて
奥から
サポートのメンバーが
歩いてきた。
それぞれの
位置につく。
観客の拍手は
揃って
いなかった。
それぞれの
タイミングで、
それぞれの
大きさで、
手が叩かれる。
最後に
その人が出てきた。
香菜子は
心の中で
名前を呼んだ。
「シン」
その瞬間、
ギターが鳴った。
空気を一枚
はがす音だった。
音に押されて、
香菜子の
重心が
動いた。
一曲目が終わると、
拍手は
揃っていた。
シンが
マイクに向かって
短く
息を吐いた。
「こんばんは」
照明が
明るくなった。
最後列に立つ
自分が
急に意識に上った。
シンが
客席を見渡す。
視線が、
香菜子の前を
通った気がした。
次の曲が始まり、
その感覚は
音に溶けた。