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【短編】深夜、古ビルの地下で歩く霊 弐

    #創作大賞2026 #ホラー小説部門

    【あらすじ】
    「このビルには幽霊が出る」

    そう噂された古ビルで、瀬戸涼太は輸入雑貨会社のアルバイトとして働く。高齢のアルバイト佐藤や上司の冬木。彼らと関わり、薄暗い地下倉庫で働くことで、涼太の日常は唐突に終わって行く。

    【話のはじまり】


    四、

    ビル最上階のフロア。そこには、別の店が入居していた。

    華山はなやま百合恵はようやく、最後の一仕事を終えた。
    ふと、昼過ぎにエレベーターですれ違った男の顔を思い出す。

    段ボールを両手いっぱいに抱え、疲れた顔で小さく会釈だけしていった。下の階に入っている、あの輸入雑貨会社の社員だろう。荷物の梱包や宅配だけで一日が終わるような仕事は、百合恵には想像もつかない。

    誰もいないオフィスに、静寂が満ちている。デスクに深く沈めていた体を、勢いよく後ろに反らせ伸びをした。
    手入れの行き届いた、艶やかな金髪が肩から流れ落ちた。

    胸の内には、静かな優越感が満ちていた。
    ビルの下の階でうずくまるように働いている人間たちと自分とは違う。ここまで来られたのは、自らの『賢さ』のおかげだと百合恵は信じていた。
    汗を流して真面目に這い上がるようなやり方は、百合恵には縁遠い。
    そんな遠回りをしなくても、要領のいい人間は近道を知っている。

    派遣やアルバイトで日銭を稼いでいる人間を見ると、いつも心の中で小さく笑ってしまう。
    真面目に働いたところで、時給はいつまでも変わらない。融通の利かない、つまらない生き方だとさえ、思っている。
    何かを勘違いして生きていると、百合恵は傲慢にも思っていた。

    使えない男ほど、機嫌を取るのは簡単。多少のことは割り切り、甘い言葉と、百合恵の外見さえあれば、契約はいくらでも転がり込んでくる。

    このビルも、そうして手に入れたものの一つだった。
    店のナンバーワンという肩書きだけでは満足せず、顧客や金持ちの男たちに、うんざりするほど愛想を振る舞い、時に金を脅し取った。
    生活のため、資産を得るためだ。そう、自分に言い聞かせながら。

    下請けのデザイナーやパタンナーに支払う金額も、契約書に書かれた額よりずっと低く抑えた。百合恵は自らのブランドを、何としてでも獲得したかった。
    経費の差額は、百合恵自身の『経営努力』として、当然のように懐に収めていた。
    弱い人間、騙される人間の方が悪い――そう、百合恵は本気で信じていた。


    「疲れた……そろそろ、帰る時間ね」

    独り言が静かなオフィスに響く。深夜のビルは、時が止まったようだった。窓の外には冷たい夜景が広がっている。

    窓ガラスに映った自分の顔の後ろ。
    誰もいないはずのフロアの奥から、何かの気配を感じた。

    「誰っ!」

    振り向いても、誰もいない。
    百合恵一人だけがオフィスの中にいる。
    残業したせい。そう呟いて、広いデスクへと近寄った。

    雑然としたデスクを百合恵は見下ろす。
    指先には赤い派手なネイルに、キラキラしたビジューがいくつも付いている。昔から、この派手な長い爪が百合恵のイメージ、そのものだった。

    数枚のデザイン画がデスクの上に広げられている。今週末の新作ラインナップの構想だった。

    視線を上げると、デスクのすぐ隣に女性用のトルソーが直立していた。
    昼間は美しく見えたドレープの生地が、真夜中の薄暗い光の中で淡く輝く。まるで別の生き物のようだった。

    百合恵はトルソーに軽く触れ、その無機質な冷たさにわずかな安堵を覚えた。仕事が舞い込んでくることを信じて、そっと離れる。
    明日になれば、またいつもの騒がしい日常が戻ってくる。
    きっと、明日も――。
    彼女は重いバッグを肩にかけ、オフィスの明かりを消した。


    無人の廊下には足音が異常に大きく響く。
    古いビルのエレベーターの前に立つと、操作盤の照明が弱々しく点滅していた。ドアが開き、彼女は中へ乗り込んだ。

    扉が閉まるまで、背後にある鏡を見つめる。自分自身の顔が、ぼんやりと映っていた。疲労の色が濃い。百合恵は何日も寝不足だった。
    さすがに働きすぎだと自分に言い聞かせるが、エレベーターが動いた瞬間、心臓が大きく跳ねた。


    ガタガタと異音がしている。
    建物全体が軋み悲鳴を上げているのか、それとも何か別の力がこの箱を揺らしているのか。
    突然、エレベーター内に異常が起き出した。

    上昇するはずの階数表示は繰り返し明滅した末に消える。不自然な静寂の中で、急激に空気が冷え込んでいく。
    脳内に低い耳鳴りが響き、先ほどまでの疲労とは別種の、正体不明の恐怖が百合恵の身体を駆け巡った。

    「地震……? 何だったのよ、今のは」

    さっと、鏡に映った自分の背後に不穏な影が揺れた。
    慌てて振り返るが、そこには何もない。首筋をなでる冷気の感触は消えない。
    今、背後に黒い影が現れたように見えたのは何だったのか。

    百合恵は息を呑んだ。エレベーターは依然として降下していく。室内の照明は、ゆっくりと元に戻っていった。
    異音を耳にすることもなくなり、百合恵は壁に背を預け、自分に言い聞かせる。

    きっと、これは他の階のせい。このビルには奇妙な輸入雑貨の会社が入ってきたから。
    以前、地下で気味の悪い像や仮面を囲み、怪しげな儀式のようなものを行っていると噂で聞いた。
    古い信仰だかなんだか知らないが、いい加減にして。
    このビルは、あたしの……。

    百合恵は爪を噛んだ。子どもの頃からの、イライラしたときの癖だった。
    何らかの呪法か何かが、このビル全体を乱している。彼らのせいだと考えなければ満足できなかった。

    エレベーターが突然停止し、ドアが開いた。表示を見ると、二階だった。
    深夜には珍しい。
    百合恵は、こんな時間まで働く人間に親近感を覚えた。

    空っぽだったはずの廊下から、足音も立てずに数人の人影が入ってくる。
    なぜか、全員が深い沈黙に包まれていた。
    お互いに視線を合わせようともしない。

    突然、一人の女が顔を伏せて体を震わせる。髪は乱れ、肩が激しく上下している。
    百合恵は恐怖を忘れて本能的に身を乗り出した。かつて顧客にしたように、愛想よく声をかける。

    「大丈夫? 気分が悪いの?」

    手を伸ばし、女の肩に触れようとした。女がゆっくりと顔を上げる。

    鼻も口もない。滑らかな肌の表面が、ただ静かに光を反射している。
    それなのに、目のある部分だけが大きくえぐり取られたように、靄がかかり、黒く落ちくぼんでいる。
    女は何も声を発することなく、ただ顔を近づける。

    喉が凍りつき、悲鳴を上げることすらできない。周囲の人間が一瞬で影となり、こちらを向いた。

    やめて!
    来ないでよ!
    いったい、これは――……。

    百合恵は背後の壁に身体を打ちつけ、意識が遠のいていくのを感じていた。

    五、

    その日、涼太は無理やりまぶたを開き、覚醒した。
    体が重い。全身に、だるさがある。いつも通りのことだった。

    日銭を稼ぐためには、不満を言ってはいられなかった。
    上半身を無理やり起こす。カーテンの隙間から漏れる朝日が、妙に目に刺さる。
    朝から言いようのない憂鬱が、覚醒した意識にもたれかかる。

    昨夜は、酷い悪夢にうなされた。闇に引きずり込まれるような、あるいは誰かにじっと監視されているような、そんな息苦しい感覚。
    単純作業の労働で、身体的な疲労は確かにあったはずだ。だが、今のこの不調は、筋肉痛や睡眠不足といった類のものとは決定的に違う。


    洗面所の鏡に映る顔は生気がなく青ざめ、手のひらには、昨夜触れた商品の冷たさが残る気がした。
    木の面と像の、ぞっとするような感触。


    今日みたいな日こそ、誰とも会話せず、手早く仕事を終わらせよう。
    涼太はそう自分に言い聞かせ、逃げるように家を出た。通勤の足取りは、いつになく重い。

    普段より小一時間ほど早く職場であるビルに到着したが、静まり返ったオフィスにはすでに先客がいた。

    デスクに足を投げ出し、スマートフォンを弄りながら大声で笑っているのは、あの社員の『ギャル男』だった。

    冬木は通話中らしく、何やら高齢のアルバイトである佐藤のことを話している。

    「そう。マジで使えねーんだわ。あのジジイ。ノロマだし、指示も理解しねーしよ。さっさと辞めてくんねーかな」

    ケラケラと軽薄な笑い声が、オフィスに反響する。涼太はその場に立ち尽くし、胃の奥がせり上がるような不快感に襲われた。
    冬木の普段からの態度を思い出した。
    言葉遣いこそ丁寧なものの、いつも相手を嘲笑し、見下す態度を取っていた。

    見えないところでは、冬木は影で佐藤を非難していたのだ。それを言葉に出してこなかったのは、社長にきつく注意されたせいだろう。
    この調子では、涼太のことも、ひどい陰口を言っている可能性があった。

    朝からイライラが増し、貧乏ゆすりのように足を床に打ちつけたくなってくる。
    佐藤は冬木よりも遥かに年上の人間だ。その人に対して、軽々しく悪口を言うのはあり得なかった。
    社会人としての品格以前に、人間として何かが欠落しているとしか思えない。佐藤はいつも黙々と、誰に文句を言うこともなく仕事を引き受けてくれているというのに。


    しばらく時間を起き、タイミングを見計らって涼太は出社した。
    挨拶もそこそこに、単純な作業に手をつける。
    シフト表を見る限り、今日は佐藤はいない。冬木と二人きりで働くことになっていた。

    そのことを考えると、腸が煮えくり返りそうになる。
    冬木はデスクの上で、パソコンを触りながらニタニタと笑っている。日課のエンタメ系ブログでも読んでいるのだろう。以前に、ランキング上位のブログの名前を口に出していたことがあった。
    微かに漏れ出た冬木の笑い声が癇しゃくに障さわる。

    うるさい。とにかく、早く終われ……。


    作業を一人で進め、心の中では悪意を必死に抑えつけていた。
    時間だけが過ぎるのを待っていた。そんなときだった。

    ふと、佐藤の言葉が脳裏をよぎる。
    社長の姿が消えた、という言葉だった。

    涼太は、そっと仕事場の片隅を見る。
    山積みにされたインドの猿神ハマヌーンの面や像。それらは、光の届かない倉庫の隅で、まるで見開いた眼球をぎらつかせ、誰かが戻ってくるのをじっと待っているかのようだった。

    涼太は、佐藤から聞いた『社長の失踪』と『でたらめな発送先』という言葉が、どうしても頭から離れなかった。
    それに、社長の故郷である奇妙な村のことも。


    六、

    「ちょっと、お得意先をまわってくるわ。涼太君、あとはよろしく」

    冬木が軽い調子で言って、涼太の横を通り過ぎる。そのまま、職場の扉から出て外に行ってしまった。
    通路の先を歩けば、エレベーターに乗って一階へと出られる。
    実質的なサボりと同じことだった。


    涼太は冬木が去ったのを何度も確認し、職場にある社長のデスクに向かった。
    社長の姿は、数週間、一度も見ていない。今までは、商品の買いつけに行くと言われれば、姿がないことも納得していた。
    佐藤に言われて、涼太はようやく社長の失踪を知ったくらいだ。

    社長のデスクに手を伸ばす。だが、どの引き出しも厳重に鍵がかかっていた。
    書類の一枚さえ、取り出すことはできない。

    涼太は立ち止まって、考え込む。
    今までに見た発送伝票の控えを思い出し、あることに気がついた。



    「……ここだ」
    涼介は、社長がかつて一度だけ、酒に酔った際に口にした「XXの方の生まれだ」という言葉を頼りに、携帯を使って検索を開始した。
    商品の届け先に、おかしな住所が一つだけあったからだった。
    その名も――『猿逆さるさか村』。


    『猿逆村』に関する情報は、ネットの表層にはほとんど現れなかった。語っている記事も目にすることはできなかった。
    やっと情報を見つけることができたのは、データをもとに堅実な調査を行う地域研究家のブログだった。

    そこには、現在は廃村となり、行政区分からも抹消された『猿逆村』という名が記されていた。

    かつて、深い山々に囲まれた、猿を神の使いとして崇める特殊な信仰を持つ集落。しかし、大正初期、村を未曾有の干ばつが襲った。

    「……雨が降らず、川は干上がり、作物はすべて枯れた」

    涼太は画面に映し出された、解像度の低いスキャン画像を読み進めた。
    村人たちは餓死の淵に立たされ、信仰していたはずの『猿神』に祈りを捧げ続けた。しかし、空からは一滴の雨も降らず、作物を収穫することさえ叶わない。

    貧困と飢餓が極限に達した時、村はある『禁忌』を犯した。それが、断片的な記録に残る『猿喰さるくいの儀式』だった。






     
     
    東西 美音都(とうざい みおと)です。 どんでん返しで予想を裏切る結末。多彩なジャンルの物語。主に短編小説を中心に書いています。 予想外の展開をお届けできるように頑張りますので、ぜひお楽しみください。

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