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【短編】深夜、古ビルの地下で歩く霊 参

    #創作大賞2026 #ホラー小説部門

    【あらすじ】
    「このビルには幽霊が出る」

    そう噂された古ビルで、瀬戸涼太は輸入雑貨会社のアルバイトとして働く。高齢のアルバイト佐藤や上司の冬木。彼らと関わり、薄暗い地下倉庫で働くことで、涼太の日常は唐突に終わって行く。

    【話のはじまり】

    【話の続き】


    七、

    その儀式の夜、村には待望の雨が降った。
    それは祝福などではなく、泥のような黒い雨だった。
    山々は崩れ、村は飲み込まれた。生き残った者も狂気に駆られ、誰もいなくなった。これが『猿逆さるさか村』が地図から消えた真相だった。

    「社長は……商品を買いつけて、何を変えようとしていた?」

    ハマヌーンは『限界を超える力』を持つ神だ。
    佐藤によれば勇気や献身の象徴だが、『猿喰さるくいの儀式』と照らせば恐ろしい別の意味が浮かぶ。
    涼太は職場の片隅に置かれた像を見た。

    血脈の呪い。社長は『動物たちの犠牲』をハマヌーンの神性で封じようとしたのか。
    あるいは、猿を食って生き延びた村人の執念を、強制的に『活用』しようとしたのか。

    そう考えなければ、社長が売れない品々を買い、負債を増やしている理由がわからなかった。


    佐藤の言う、発送先の『でたらめな住所』。今までに調べたことはなかったが、どう考えてもおかしいものがあった。
    ある考えがひらめき、涼太は発送控えが置かれた引き出しを探る。

    「あった。これだ――」
    疑わしい発送控えを何件も並べる。どれも、企業名が書かれている。
    ネット上で実在する会社かどうかを調べる。画像、書類――調べる点数はいくつもあった。
    調べていくうちに、ある一つの結論に達する。

    幽霊会社。そうした会社が、ごく少数ではあるものの、発送控えに混じっていた。

    この職場は、実在するように見せかけた住所に、不正注文を仕掛けている疑いがある。
    涼太が日々行っている仕事は、巧妙に仕組まれた犯罪が一部にまぎれていた。疲労が一気に押し寄せ、涼太の心は暗く沈む。

    一年間働き、正社員になる。その願いも、今や危ういものとなっていた。


    その日、涼太は珍しく家で酒をあおり、眠りについた。
    酒で疲労が取れるかと思いきや、まったく取れもしない。
    夢の内容ですら、仕事のことだった。

    パソコンが勝手に動き、画面に何も書かれていないメールを表示する。
    ウィンドウがいくつも開く。

    画面に、猿の手形のような黒い染みが浮き上がる。いくつも。いくつも。
    最後には無数の手形が画面を埋めつくす。その一瞬前に、手書きの文字が書いてある画像が見えた。

    『配達完了。冬木、次はどうする?』

    涼太は震える手でパソコンを閉じようとしたが、画面が固まって動かない。 ふと、背後の倉庫から、重い荷物が崩れるような音がした。

    「……社長?」
    涼太が振り返ると、そこには大量のハマヌーンの面が、床一面に散らばっていた。面が一斉に、ケタケタと笑いだす。
    血がどこからともなく垂れて、床を濡らしていく。

    ゆっくりと、水面を歩く足音が近づいてくる。その足音も、人間のものにしてはぎこちない。どこか獣じみていた。

    人間は涼太の一人だけ。ただ、体を震わせることしかできなかった。
    暗闇に響く獣の咆哮が、その哀れな命の終焉を告げていた。


    翌日、涼太は時間通りに職場に到着した。
    地下倉庫の澱んだ空気の中、冬木は相変わらず不機嫌そうに指示を飛ばしていた。涼太は「はい」と「そうですね」の二言しか使わない。
    思考を停止させたまま適当なあいづちを打っていた。
    目の前にある仕事の山をどう手早く処理するか、そればかりを考えていた。

    冬木の姿を見ているだけで、今朝に感じた身体の不調が、より一層悪化していくのがわかる。自分の中に芽生えたのは、怒りというよりも、深い嫌悪と、得体の知れない絶望感だった。
    仕事の連絡ついでに涼太は冬木のデスクに近づいた。

    「あの、最近、社長の姿を見ないですけど」
    冬木の通話が終わってしばらく経ったところを見計らい、涼太は声をかけた。
    訊かれたくないことだったのかもしれない。冬木の表情は、打って変わって青ざめたものに変わった。

    「さあ……。親父も旅行好きだから。どこかで時間をつぶしていると思うけど」
    「本当に旅行ですか? この会社、社長がいなくても、大丈夫なんですか?」
    「ああ、それは――」
    携帯を手で弄びながら、冬木は言う。どこか、たどたどしい口調だった。
    「オレも心配はしているけど、どうしようもなくて――」


    その時、倉庫の奥から「ギィ、ギィ」と、喉を鳴らすような不気味な音が聞こえた。 暗闇の中、天井の梁はりの上に、何かがしゃがみ込んでいる。
    「何だ……?」
    涼太が声を上げる。
    何かはわからないが、変な音が聞こえる。換気口の方を見た。だが、そちらの音とは違うような気もした。

    「何だよ、この音……!」
    冬木が絶望したように呟く。小さな黒い影が、そこら中をかけめぐる。赤ん坊くらいのサイズに涼太には見えた。
    倉庫の隅から不気味な音が聞こえている。こちらからも、あちらからも。
    音を聞いていると、子どもの頃に動物園で聞いた、猿の群衆の声にも聞こえなくもない。

    今や、倉庫中から、この不気味な声が聞こえている。甲高い声。耳障りな声。
    耳をふさごうにも、そこら中から音がしている。

    涼太は『猿逆村』を思い出す。
    『猿喰の儀式』を行った社長は、今や、どうなっているのか。
    脳裏に事実と想像が不可思議に溶け合い、一つになっていく。

    もはや人間としての形を維持できず、故郷の神と混ざり合ってしまった社長の姿。
    故郷の――猿神に魅入られた社長の姿。猿神と同化してしまった社長の姿。
    「キィッ」

    突然、近くで聞こえた金切り音に涼太は振り返った。
    冬木が恐怖で縮こまる。膝を抱え、胎児のような姿だった。幼児退行にしても、程度がひどすぎると涼太は思う。
    ガタガタと全身が震え、まさに岩陰に逃げ込んだ子猿のようだった。

    冬木は涼太の視線に気がつき、顔を上げる。
    「……ちょっと、オレ、今日は早く帰るわ」
    冬木は涙目になっているようにも見えた。すぐに持物を鞄に仕舞い、さっと職場の出口まで行ってしまった。

    「なんなんだよ、あいつ……」

    思わず悪態をつく。このビルに巣食うのは、猿神の呪いだけではないのかもしれない。そう思うものの、どうしようもできない。

    冬木が職場から出ていくと、不思議と音は鳴りやんだ。
    異質な影も、姿を消す。
    もとから異常がなかったくらいの静寂が、周囲に漂っていた。


    自分一人だけでも作業に取り掛かろう。そう思って作業を開始した。
    梱包作業がちょうど終わった頃だった。
    ばたばたと足音がして、冬木が戻ってきた。

    「涼太君! これも一緒に処分して」

    冬木が涼太に箱をぐっと押しつける。その顔は、まるで死人のように真っ青だった。冷や汗が額に滲み、彼の指先は不自然なほど小刻みに震えている。

    涼太は受け取った箱の重みに、思わず膝を屈めそうになった。やけに古びた段ボールは湿気を吸ってふやけており、剥がれかけたガムテープの隙間からは、あわてて補強したかのような荒い仕事跡が覗いている。
    何かに取り憑かれたように急いで梱包したのか、あるいは中身を隠そうとしたのか。いずれにせよ、まともな品物が入っているようには見えなかった。

    「家に帰ったら、これが届いて……梱包材と一緒に捨てておいて」
    「え?」

    冬木は、ちぎれた梱包材の詰まった袋も押しつけてくる。両手では抱えきれないほどだった。
    箱の方は予想以上に重く、中からは湿った、土のような独特の臭いが漂ってくる。

    「だから、中身を梱包材と一緒に捨てて! 商品じゃないからね、これ。ゴミ捨て場に放り込んでおけばいいから」

    冬木はそれだけ言い捨てると、振り返りもせずにオフィスへと戻っていった。残された涼太は、重い箱と袋を抱えたまま、薄暗い倉庫に立ち尽くす。地下倉庫へ続く扉の向こうからは、古い配管が唸るような低い音が聞こえてきた。

    ため息をつく。職場には涼太一人しかいない。
    任された仕事とは言え、軽く涙が出そうだった。

    涼太は箱を床に置き、その場で箱を開けた。不正な中身であれば、犯罪の片棒を担ぐ可能性がある。どうしても、確認したかった。

    箱の中。そこには、奇妙なものが鎮座していた。

    それは手のひらサイズの木彫りの像だった。黒ずんだ木肌は油を塗ったように鈍く光り、彫刻刀の痕が不規則に刻まれている。ニタァっと歪んだ口元には、人間とも獣ともつかない鋭い牙が覗いていた。全体的なフォルムは人の形を模しているようにも見えるが、関節の曲がり方や指の長さが決定的に異質な生物を思わせる。

    涼太はしばらくの間、その像を見つめたまま動けなかった。何の像なのか、疑問しかわかない。芸術品には見えないし、かといって子供の玩具にするにはあまりに悪趣味で、どこか悍ましい気配が漂っている。
    しかも、猿なのか人なのか、まったくわからなかった。今までに、見たこともない外見の像だった。


    地下倉庫の蛍光灯の下、像の表情が影の中で生きているかのように微妙に変化して見える。

    「なんだよ、これ……」

    涼太は像から手を離そうとしたが、指先が痺れるような感覚に襲われ、離すことができない。冷や汗が背中を伝う。

    「どうして、こんなものを人に押しつけられる……」

    誰に向けたわけでもない独り言が、しんと静まり返った地下室に虚しく響いた。
    像のニタァっとした口元が、涼太を嘲笑っているように見える。たまらず、その箱を地面に叩きつけそうになった。


    涼太は箱の梱包を丁寧に直した。箱と梱包材を抱え、職場を出てエレベーターへと向かう。
    梱包材は量がかさばり、視界を遮っている。その上、押しつぶされた梱包材が時間とともにかさばっている。重量もあった。
    イライラしながらエレベーターのボタンを操作しようとしたときだった。


    「……涼太君に言うのを忘れていたけど」
    通路の壁際に、冬木が立っていた。涼太は喉から叫びそうになるくらい驚いた。

    「な、なんです、か……。いきなり」
    「知っておいた方がいいと思って。その古いエレベーター、幽霊が出るから」
    「幽霊……?」
    涼太は、その言葉に引っかかりを覚える。
    確か、佐藤も同じことを言っていた。このビルには、幽霊が出るという噂を。


    「幽霊って、どんな?」
    「エレベーターに出ては、人を脅かす幽霊だよ。でも、見た奴によって、その姿が少しずつ違う。ヤバい感じがするって」
    「見た人間によって違う……?」
    「ああ、そう」

    ちょうど、エレベーターがフロアに降下してきた。
    涼太と冬木は二人で室内に乗り込む。冬木は腕組みしたまま、周囲を気にしている。
    先ほどの話を冬木が続けた。

    「オレがオーナーの知り合いから聞いた話では、幽霊は、目があるべき場所が、抉えぐり取られたように無くて、底知れない真っ黒な闇が張り付いている。その闇に見つめられると、まるで自分の命が吸い込まれるような感覚になったって」
    「……本当の話、なんですか?」
    「ああ」

    冬木が耳元につけた、いくつものピアスを触る。涼太は見ているだけで痛い思いがして、目をそらした。
    「だから、涼太君も気をつけて。佐藤のジイさんが倒れて、君もいなくなったら、仕事する人がいなくなっちゃうからさ」

    八、

    エレベーターが一階に到着し、ドアが開く。
    「そのゴミ、ビルの玄関出て、裏手にあるゴミ収集場の隅に捨てておいて。鍵は、これ。使ったら、オレのデスクの上に置いておいて」

    鍵を片手であずかり、涼太はどっと疲労感を感じた。
    すべては、あの冬木が佐藤を見下し、アルバイトにひどい扱いをしていたことが原因なのではないかと思う。

    冬木の表情も青ざめていた。具合がそれほど良くないのだろう。ざまあみろと涼太は思った。
    丈夫に働けているのは、涼太一人だった。
    職場が人手不足に陥ったのは、冬木のせいだろうに、ああいう人間ほど、鈍感で自分のせいだとは考えない。


    涼太はビルの裏手に回る。
    日が全く当たることのない路地裏に踏み入ると、湿ったコンクリートと生ゴミの匂いが混ざり合い、肺を圧迫するような重苦しさが漂っていた。

    壁の落書きは、古いタギングの上に新しいスプレーが幾層にも塗り重ねられ、建物の表面は隠しようもないほど傷ついていた。
    ゴミ捨て場は、無秩序の極致。生ゴミの袋の隣に、鋭利なガラスの破片が袋を突き破って飛び出し、中身をぶちまけている。分別されずに詰め込まれた空き缶やプラスチックが、歩く人間の足音に合わせ、不気味な金属音を立てた。

    箱と梱包材の詰まった袋を置くと、その衝撃で積み上がったゴミの山がわずかに崩れる。
    涼太の心に苛立たしさが押し寄せた。
    袋と袋の隙間、光すら届かない真っ暗な空間。地下倉庫に漂う深い闇と似ている気がして、吐き気と不快感を抑えきれなかった。


    倉庫に戻っても、やはり落ち着かない感覚を覚える。
    誰もいないはずの奥から、誰かの視線を感じるような不穏さがする。オリエンタルと言えば響きは良いものの、この会社の商品は明らかに異質だった。

    面倒極まりない仕事だった。時給分さえ稼げればいいと割り切っているつもりでも、こうも露骨に底辺の仕事を押しつけられると、心の底から昏い感情が湧き上がる。
    気持ちを抑えていても、言い様のない憎悪が内心に留まる。

    早く終わるように願いつつ、涼太は当日分の作業を終わらせようと、懸命にリストと商品を照らし合わせていた。

    九、

    同じビルの最上階のオフィスでは、百合恵が乱暴に受話器を叩きつけていた。

    「……ありえない」

    ガチャリ、と耳障りな音が静かな室内に響く。
    連続して、客からの理不尽なクレームだった。商品は悪くない。明らかに客側の過失であるにもかかわらず、その客は声を荒らげ、責任の所在をこちらに押しつけてきていた。
    最後は一番嫌っている客からの電話だった。

    「おい、担当の女を出せ! 百合恵、お前のデザインだろ。新作だっていうから、高い金を払って買ったんだぞ!」

    受話器の向こうで吠えているのは、あの輸入雑貨会社の社長だった。
    表向きは商売上の顧客の一人に過ぎないが、最近では百合恵に馴れ馴れしく近づき、あろうことか愛人にしようと画策している。
    割高な特注デザインとして受注販売したのが、クレームのもとだった。

    「お客様、落ち着いてください。生地の不具合でしょうか」
    「不具合なんてもんじゃない! この生地、まるでなっちゃいない。シワは寄るし、ペラペラの薄い生地で、元を取ろうと画策しているのが見え見えじゃないか!」

    一方的に怒鳴り続けていた男は、ふいに黙り込む。荒い息だけが受話器越しに伝わった。
    しばらくの沈黙の後、男はぼそりと、呟いた。

    「いいか、あのビルに何を仕掛けたがわからんが、変な影が飛び回って仕方ない。あれは、あんたのせいじゃないんだな?」
    「え……?」

    わけがわからず黙っていると、客は「もういい!」と怒鳴ったまま、電話を一方的に切った。

    百合恵は、悲しくなって、デスクの脇に置かれたデザイン画を見つめた。
    確かに、デザインは百合恵が描いた。割高なデザイン料を差し引き、服を委託先でつくってもらった。
    その後のことなど、百合恵は全く知るわけもない。

    窓の外ではどんよりとした雲が広がり、都会の景色を灰色に染め上げている。洗練されているはずのオフィスが、今は冷え冷えとした檻のように感じられた。
    百合恵が求めたのは、凛としたシルエットと、着る者の格を上げる極上の質感だった。しかし、委託先で量産された服は、無残に変貌を遂げた粗悪品だった。

    「あたしがデザインした服を、ゴミみたいな商品にして……」

    絞り出すような声が、無機質な壁に跳ね返る。
    受話器を置き、百合恵はデスクに手をついた。
    イライラが収まらない。喉元までせり上がる罵詈雑言を飲み込み、オフィスを激しく歩き回った。
    ヒールの音が床を叩くたびに、フラストレーションが心の中に積み重なった。


    視界に入った、積まれた段ボールの山。
    百合恵は苛立ちに任せ、その角を強く蹴り上げた。鈍い衝撃が足に伝わるが、怒りは少しも晴れない。段ボールは無様に凹み、中身が少しだけ姿を覗かせた。

    「どうして、あたしがこんなクレームを受けなきゃいけない」

    不満そうに呟き、百合恵はただ、終わりのない怒りに身を任せることしかできなかった。

    デスクの電話が再び鳴る。受話器を耳に当てた瞬間、自然と口角が上がる。今夜、この時間にかけてくる相手は、いつも決まっていた。

    「お疲れ様です、セレクトショップの岩田です」

    受話器の向こうから聞こえてきたのは、先ほど納品したばかりの企画への称賛だった。
    「期待以上の出来」だの、「華山さんのセンスにはいつも驚かされる」という言葉に続き、男の声がふっと柔らかくなった。
    「――それより、今夜はどう? 家族には出張だと言ってあるから、少しだけなら顔を見に行けるけど」

    岩田は名の知れたセレクトショップの経営者であり、上客でもあった。妻子がいることは、百合恵も最初から知っていた。

    「ふふ、今日はもう遅いですから。また今度、ゆっくり――ね?」

    軽くいなしながらも、声のトーンだけは決して冷たくならないように整える。この駆け引きにも、もう慣れていた。

    「じゃあ、来週かな。楽しみにしているから」

    電話を切ったあとも、口元に浮かんだ笑みはしばらく消えなかった。
    この瞬間、今日一日頑張った苦労が報われる気がした。
    百合恵は上機嫌のまま、通話を終えた。


    その後も、仕事の調整や委託注文について指示を出し、時計の針はすでに深夜の二時を回っていた。
    窓の外には冷え切った街の明かりが広がっている。
    百合恵は重い荷物をまとめ、ようやく席を立った。

    足元が少しふらつく。適度な達成感と、それ以上に重くのしかかる身体の倦怠感。
    古いビルの廊下を歩き、突き当たりのエレベーターへ向かった。

    乾いた音がして扉が開く。乗り込んで、行き先ボタンを押そうとしたその時だった。

    「……あ、すみません」

    百合恵の背後から、影が滑り込んでくる。
    振り返ると、そこには見覚えのない男女が三人立っていた。
    挨拶も交わさず、彼らはエレベーターの隅に黙って立つと、低い声で話し始めた。

    「聞いたか? ここの取り壊し、もう決まったらしいぞ」
    「ああ、今月末には完全封鎖だそうだ。地上げが長引いていたが、ようやく話がついた」

    ひそひそと交わされる言葉は、エレベーターの閉鎖的な空間でやけに鮮明に響いた。百合恵は身を硬くし、ボタンから手を離したまま、必死に聞き耳を立てる。

    取り壊し? そんな話、聞いたことがない……。

    このビルで働き始めて二年になる。老朽化の噂は絶えなかったが、具体的な取り壊しの計画なんて、一切耳にしていない。それどころか、来月にはフロアの改装計画まで進んでいるはずだ。

    「このビルのオーナーも、じきに……」
    「しっ。誰かに聞かれたら、どうする」

    声をひそめ、なおも彼らの会話は続く。解体業者や、立ち退きの期限、何十年も前のこのビルの歴史について。まるで、その場を調査し、隅々まで知りつくしているような、ぞっとするほど淡々とした口調だった。

    エレベーターがゆっくりと一階を目指して降下する。気圧の変化か、それとも彼らから発せられる得体の知れない圧迫感のせいか、喉の奥がひどく乾く。

    「……ねえ、何言っているの」

    意識する前に、言葉が口から零れ落ちていた。

    「そんな話、聞いていない」

    百合恵は震える声でそう言い放ち、相手に詰め寄った。しかし、百合恵の言葉に、彼らの視線は動かなかった。

    エレベーターの扉は、何事もなかったかのように静かに開き、深夜のロビーへ向けて冷たい夜風を流し込んでいる。百合恵はただ、誰もいない空の空間に向かって、独り言を呟いていた。
    「ねえ、ビルの取り壊しって……」

    百合恵の声が空虚に響いた。

    誰の姿もない。けれど、先ほどまで確かに感じたあのひそひそ話の残響が、耳の奥にへばりついて離れない。寒気がした。一刻も早くこのビルから出たいと思った。

    百合恵は小走りでロビーを抜け、エレベーターへ向かった。早く、外の空気で頭を冷やそうとした、その時だった。
    エレベーターが一階に着く。そこに、先ほどエレベーターにいたはずの三つの影がいた。
    反射的に百合恵は影を追った。
    「待ちなさいっ!」

    百合恵の鋭い叫びは、埃っぽい空気に遮られ、コンクリートの壁に虚しく吸い込まれた。三つの影は、獲物を誘うかのように滑らかな動きで、奥の通路へと消えていく。

    追い詰めた先で彼女が見たものは、正気を疑う光景だった。

    通路の上に、点々と血痕が落ちている。
    その血の痕は、地下の倉庫へと続いてる。あの、怪しげな儀式を行っているという集団の場所へと。

    百合恵は血痕に目を近づける。長い、獣の体毛が落ちている。
    熊のようでいて、何かが違う。専門家ではない百合恵には、獣の正体を見定めることはできなかった。

    逃げよう。そう考えて翻した体は、泥に足を取られたように重い。鼻を突く強烈な悪臭が肺を侵し、脳を麻痺させていく。

    ――そのとき、右手に妙な感覚が走った。

    指を握ろうとして、握れない。関節が、自分の意思とは無関係に、内側へ内側へと折れ込んでいく。爬虫類か、獣のそれのように、指の先が黒ずんだ角質へと変わっていくのが見えた。
    一瞬前まで美しかった百合恵の姿が異質なものに変わっていく。

    「な、何……なに、これ……」

    叫ぼうとした声は、途中で別のものに変わった。喉の奥から出てきたのは、言葉ではなかった。獣の、低い唸り声。喉を鳴らすような、聞いたこともない自分自身の声だった。

    もう一度、言葉を発しようとする。「たすけ――」

    出てきたのは、キィ、という金切り音に近い、甲高い叫びだった。人の言葉として、誰にも届く形を成していない。

    膝が震え、その場に崩れ落ちそうになる。両手で顔を覆おうとしたが、右手はもう、指の形を保っていなかった。爪の代わりに、黒く鋭い鉤爪が、四本の指の先で歪に曲がっている。

    視界が急速に歪み、冷たい床に倒れ込む。
    苦しい。とてつもない息苦しさに襲われる。息をしようにも、力がうまく入らない。
    視界すら、段々と狭まっていく。
    何かに群がるようにして、三つの影が立ち尽くしているのが見えた。

    影は、ゆっくりとこちらを向いた。
    その足元には、誰かが倒れている。
    薄汚れたコンクリートの上に、だらりと投げ出された腕。見覚えのある、愛用しているはずの高級時計。

    百合恵の鼓動が、激しく鳴り響いた。

    恐る恐る、倒れている人物の顔を覗き込む。
    月明かりに照らされたその横顔。艶やかな長い髪。
    いつも鏡で見ている、それは、あたしの顔――。


    何……何が、起きているの……。
    朦朧とする意識の中、百合恵は『自分自身』を見つめている。

    喉から絞り出した声は、自分自身のものとは思えないほど震えていた。

    このビルのオーナーは、あたし。あたし以外にいない。
    それを取り壊すなんて、聞いていない。
    パパがあたしにくれた、大事なビル。苦労して脅し取った大事な『宝物』を――。

    それにも関わらず、床に倒れているのは、百合恵の姿だった。
    どうして。こんなことになる前、さっきまでは電話で笑っていたのに。
    残業を終えて、また翌日も頑張ろう。そう思っていたのに。

    今、ここに倒れている百合恵は、いったい誰……。
    何が起こっているの? このビルで何が起こっているの……?

    理解が、決定的に追いつかない。目の前の現実は輪郭を曖昧にして、百合恵の精神を泥沼へと引きずり込もうとしている。

    「死んでしまったか……」

    そばには警備員が立っている。いや、警備員の振りをしている男だ。
    百合恵はよく残業をするから、警備員の顔は知っている。
    今までに見たことのない警備員が、警備会社の服とは違う、警備員らしき服、、、、、、、、、、、、、、、、、、を着て、そこに立っている。
    恰幅の良い男性。
    顧客の、輸入雑貨を営む男性が――。


    男は周囲を見回すと、女性の遺体を持ち上げ、ずるずるとどこかに引っ張っていった。
    静寂だけを残して。


    終

    「悪かったね。あんな薄気味悪い話をして、怖がらせて」
    「いえ……佐藤さんの話のおかげで、ある意味、助かりました」

    佐藤は、風邪が治ってから職場に顔を出し、涼太に頭を下げた。
    手には退職届を入れた、封筒を手にしていた。

    「小遣い稼ぎに、もう少し働きたかったけど残念だ。カミさんに、他の仕事をしたらって言われてね。涼太君も、こんな職場を早く引き上げて、普通の生活をした方がいい。冬木さんも体調がおかしくなったと言っていたし、それに」

    ちらっと天井を見上げて佐藤が言う。
    「ビルの解体が、そろそろ行われるらしいからね。聞いたところでは、地権者の一人が急に相続を放棄したらしい。このビルと、もう関わりたくないってさ」
    その後、佐藤は少し声を落とし、付け加えた。
    「その地権者ってのがね、涼太君が調べていた、あの幽霊会社の名義人だったらしいよ。名前だけ貸して、実体のない会社をいくつも作っていたんだと。まあ、どこまで本当かはわからないけどね」

    見てきたように言う佐藤に涼太は疑問を覚えた。
    「どこで、そんな話を」
    「ここの近くにある、行きつけの居酒屋だよ。いろんな話が聞けるもんでね」
    「はぁ……」
    「それじゃあ、また。体調には気をつけて」
    手を振る佐藤に、涼太は久しぶりに訪れた和やかな時間を味わった。


    ビルの地下で、涼太は職場の扉を閉め、伸びをする。

    「今日も、一人で仕事か……」

    冬木から、今日行う仕事の指示は連絡されていた。
    何も変わらない、単調な仕事だった。
    まさに、募集内容通りの仕事。
    こんな時間と仕事が続けばいい。そう思っていた時期もあったというのに。

    梱包材と段ボールの束を所定の位置に置く。品物のリストを手にして、指示された仕事を行う。
    一人では、かなりの作業量で、集中力も次第に切れてくる。
    涼太の心に、疲労と孤独感が重くのしかかった。
    一人だけの職場は、普段以上に広く、そして重苦しい静寂に満ちているようだった。

    時計を見ながら、黙々と仕事に徹する。しかし、耳を澄ますと、建物全体が軋むような、嫌な音が聞こえた。

    ――なんだ、この音。


    最初、それは換気口から聞こえてくる風の音かと思った。
    古いビル特有の、金属がこすれ合うような微かな響き。しかし、よく聞くとそれは規則性を持っていない。まるで、何者かが通気管の中を這い回っているような、湿った足音にも聞こえた。

    「建築のせいか……いや、違う」

    涼太は立ち上がり、音の出どころを探った。壁に耳を当ててみる。
    冷たいコンクリートの奥から、ガサリ、ガサリと何かが壁の内部を削る音が聞こえる。
    壁の奥だ。配管の裏の、人が入れるはずのない隙間から。

    背筋を凍るような悪寒が駆け抜けた。
    涼太がその壁に手を触れ、わずかな隙間から中を覗き込もうとした瞬間、視界の端で壁の表面が異様に盛り上がった。

    コンクリートの質感が、まるでドレープを持った生地のようにたわむ。その裂け目から、青白く、血の気の引いた指先がぬるりと突き出してきた。

    「うそだろ! 壁から手が……!」

    涼太の叫びは、ビルの底冷えする闇の中で響いた。壁の中からは、塗りこめられた遺体が飛び出していた。

    指先には赤い派手なビジュー付きネイル。
    過去に、このビルで働いていた百合恵の遺体が壁の中に隠されていた。


    深夜に古ビルを歩く霊。
    それは、この女性のことだと、涼太は初めて知ったのだった。



    〈了〉



     
     
    東西 美音都(とうざい みおと)です。 どんでん返しで予想を裏切る結末。多彩なジャンルの物語。主に短編小説を中心に書いています。 予想外の展開をお届けできるように頑張りますので、ぜひお楽しみください。

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