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【短編】深夜、古ビルの地下で歩く霊 壱

    【あらすじ】
    「このビルには幽霊が出る」

    そう噂された古ビルで、瀬戸涼太は輸入雑貨会社のアルバイトとして働く。
    高齢のアルバイト佐藤や上司の冬木。彼らと関わり、薄暗い地下倉庫で働くことで、涼太の日常は唐突に終わって行く。

    #創作大賞2026 #ホラー小説部門


    序

    古いビルの解体が決まったのは、今年の春のことだった。

    長年、解体についての話が難航していたが、工事関係者の間で、ひそかに語られている話がある。
    夜遅くまで残った作業員が、地下へ続く通路の奥で、誰もいない場所で足音を聞いた。女の幽霊が、こちらを指差している、と。

    声は聞こえない。
    ただ、幽霊の口の動きだけが、やけにはっきりと視界に残ったという。

    そのビルで、いったい何があったのか。
    真実を知る者は、もう誰も残っていなかった。

    一、

    都心の外れに立つ古びたビル。外観は昭和の残骸そのものだった。

    瀬戸涼太がこの輸入雑貨会社で働き始めたのは、今年の四月。
    求人には「一年勤務で正社員登用検討」とあった。
    仕事内容は単純だ。輸入雑貨の梱包、宛先シールの貼付、在庫管理。事務作業は一切ない。

    面接に現れた社長は恰幅の良い男だった。
    「うちは他にはない独特な品揃えが売りだ」
    そう自信たっぷりに語り、涼太の履歴書に目を通した。数日後、採用の連絡が届いた。

    不安はあったが、実際に働いてみると「一年」という雇用条件の理由が判明した。作業現場が相当に古く、しかも地下だったからだ。

    会社が入るビルは五階建てで、都心の喧騒を外れた路地裏にある。
    築四十年の雑居ビルは、一九八〇年代の好景気の名残を纏ったまま、そこに居座っていた。
    排気ガスと雨で煤けた茶色のタイル。近隣の定食屋から漂う油の匂い。そこに地下の冷気が混ざり合い、停滞した空気を形成している。

    涼太は職場となる古ビルの前に立った。
    地下にある倉庫へ向かうには、玄関を抜け、狭い通路の奥にあるエレベーターを使う必要がある。
    玄関扉を開け、通路を進む。どこか陰のある雰囲気のエレベーターが、そこにはあった。
    密室が軋みながらゆっくりと下りていく。嫌な気持ちになる音だった。

    このまま扉が開かなかったらどうしよう。
    閉塞感への不安が頭をよぎる。涼太はそこに長居したくないと感じていた。

    その不穏さは、職場である地下倉庫で確信に変わった。

    地下に倉庫があるとは知っていた。だが、明らかにメンテナンスがされていない。
    コンクリートの壁は黒ずみ、天井の配管からは正体不明の異音が響く。
    照明は明度が高くなく、ぼんやりと部屋を照らしている。それが一層、薄気味悪い空間を演出していた。

    倉庫には、社長が海外から買い付けてきた商品が、床から天井までぎっしりと詰まっている。それらの商品も異質だった。
    色が褪せ、いぶしたようにどす黒い、奇妙な木彫りの像やエキゾチックな仮面。
    職人が執念深く彫り込んだそれらは、とてもではないが、部屋に置いておきたいと思える代物ではない。商品を取り扱うたび、涼太は背筋が凍る思いをした。

    そういえば、入社してすぐの頃、一度だけ社長のこんな姿を見たことがあった。

    倉庫の隅、社長と社員のデスクが置いてある場所。
    そこで電話を片手に、社長は誰かからのクレームらしきものに、やけに平然とした声で対応していた。
    「はい――はい、申し訳ございません。すぐに代替品を送らせていただきます」
    型どおりの言葉を並べながら、社長の目だけが、どこか虚ろに倉庫の商品の山を見つめていた。

    電話を切った直後、社長は誰に言うでもなく、小さく呟いた。

    「ああ……このビルも、そろそろか」

    聞き間違いだろう。そのときはそう思って涼太は聞き流した。
    だが今にして思えば、あの社長の言葉だけが、妙に耳の奥に残っている。


    「涼太君、おっはよー」

    上司であり正社員の冬木蓮が、ニタニタとした笑みを貼りつけて声をかけてくる。
    茶髪で、耳にいくつもピアスをつけた十代後半のような若者。いわゆる『ギャル男』の外見だ。
    スーツ姿であるものの、どこか不格好だった。それでも三十近い涼太には、相手の立ち位置がうらやましくて仕方ない。冬木を見ると、早く社員になりたいという嫉妬と競争心が、心のどこかで小さく渦巻いていた。


    そばにはもう一人のアルバイト、高齢で七十近い佐藤恭平が立っていた。佐藤は定年後の小遣い稼ぎのために働いていると、以前に話していた。

    朝のミーティングが時間通りに始まる。
    「それじゃあ、今日一日のタスクを確認します。まずはリストを見ながら商品のピッキング。それから検品作業で確認事項があり――」
    冬木が話す内容は、いつものように単調だった。仕事と同じですらある。

    涼太はちらりと佐藤を見た。佐藤は真面目に話を聞き、メモを取っている。
    以前に冬木が自慢していたのを聞いたが、ビルのオーナーが社長の親戚であるため、冬木は社長の子どもとして、この会社に雇われたようだった。

    生活のために、涼太は感情を押し殺し、倉庫の床に座って作業を続けた。
    それ以外に、この仕事を続ける理由などなかった。

    「おーい。涼太君、こっちの検品も頼むわ」

    ヘラヘラ笑いながら、冬木が箱いっぱいに詰められた木彫りの猿像を押しつけてくる。
    いかにも何かの生贄を捧げそうな形だった。段ボールをカッターで切り開き、緩衝材をかき分けてそれが現れるたび、涼太は毎回のように冷や汗をかいた。
    輸入雑貨だとは言え、この会社の商品は、誇らしいとか万人受けする商品とはとても思えない。どうしてこんな仕事を成立させているのかは謎だったが、一部の趣味人に売りつけているのかもしれない、と涼太は思うことにしていた。

    足元を何かが走った気がした。ネズミだろうか。それとも、もっと別の、湿った音を立てて移動する何か。
    空気には古い紙の匂いと腐った木の匂い、そして得体の知れない生臭さが混じっていた。

    物理的な汚れだけではない、もっと重苦しい『何か』が、この場所に溜まっている気がしてならなかった。
    倉庫の奥、こちらからは見えない角地に、涼太は一度だけ足を踏み入れたことがある。奇妙な感覚を覚えてからは、二度と近づいていない。

    佐藤が無言で像の埃ほこりを払っている姿が、ふいに異様に見えた。彼はこの澱よどんだ空間に完全に同化し、懸命に働いていた。

    涼太は作業を続ける。
    まるで、地下に眠る無数の仮面たちが一斉にこちらを見ているような錯覚。箱を開けるたびに増していく身体の重みが、涼太の精神をじわじわと蝕むしばんでいく。
    手に取った面の一つ。その奇妙な面が浮かべる嘲笑が、過去のブラック企業で会った上司の顔と重なる。

    「もう、やめてくれ……」

    涼太の呟いた言葉が、誰に聞かれることなく、湿った空気の中に溶けて消えた。


    二、

    地下倉庫の冷え切った空気の中、佐藤と涼太は黙々と作業を続けていた。
    休憩時間を挟んだが、会話はほとんどない。年齢差のためか、話が続かなかった。

    佐藤は年齢のわりに指先が器用で、無駄のない動きで複雑な形状の雑貨を緩衝材に包んでいく。
    涼太はその隣で、発送リストと現物を照らし合わせる管理作業に追われていた。今日は全国の顧客へ向けて、大量の『異質な品々』を送り出さなければならない。

    「ここからは、これに詰めていきましょう」
    佐藤が商品を確認した後、涼太に言った。

    大きめの段ボールを組み立て、クッション材を隙間なく詰める。ガムテープで厳重に封をする。誰がやっても同じ結果が出る作業だが、涼太の心に充足感は訪れない。ただ時間が過ぎるのを待つだけの、苦行にしか思えなかった。

    苦行。今でも、ふとした瞬間に思い出す。

    ――ノルマ達成のために深夜まで怒鳴り散らされたあの部屋。
    理不尽な叱責、終わりのない会議、自分の時間がすり潰されていく感覚。
    何のために生きているのか、自分が何者なのかすらわからなくなるほど、精神を削り取られた日々。

    「どうしたんです?」
    佐藤が珍しく、気遣うように言った。涼太は顔を上げる。

    「昔のことを思い出して。この職場に来る前は、ブラック企業で、本当に辛いまま働いて――」
    「そうだったんですか。それは、大変だったでしょう」
    「大変だった、なんてものじゃないですよ。心理カウンセラーとも何度も面談して、失業保険ももらって、鬱になりかけて……」

    指先が微かに震える。
    あの頃の自分が、今の自分を地下倉庫の隅で見下ろしているような気がした。
    逃げて、たどり着いた先の現在。
    環境は違うが、労働だけは続いている。
    出口の見えないトンネルの中で、商品を梱包して発送伝票を貼ることだけが、今の涼太の労働価値として積み重なっていた。

    金属製の換気口が、今夜は一段とうるさく鳴っている。
    ガタガタ、と規則的なようでいて、時折ひどく不規則に風を巻き込む音。倉庫奥のあの換気口からだった。

    「佐藤さん、倉庫の換気口が変なので、ちょっと様子を見てきます」

    佐藤は一瞬、間を置いたものの承諾した。
    「わかった。音がね、さっきから変だと思っていた。作業は、こっちでしておくよ」

    涼太は持ち場を離れ、倉庫奥へと歩く。社長達のデスクを通り過ぎ、そびえるような棚を通過する。棚を右に曲がり、隅にある錆びた換気口が視界に入った。手の届く位置にある。
    本来なら空気を吸い込むはずのその口から、今は淀んだ空気が逆流している。ツンと鼻を突く、アンモニアと腐敗が混ざり合ったような悪臭。格子の隙間から、暗闇の奥で何かがこちらを見ているような、湿った気配が漂っていた。

    換気扇の羽は正常に作動しているはずなのに、その奥から「すっ、すっ」と、何かが規則的に這はいずるような音が鼓膜にこびりつく。

    涼太は顔を近づけた。
    喉の奥が急に渇き、唾を飲み込む音だけが妙に響く。
    それでも、顔を近づけた瞬間、暗闇の中からこちらを値踏みするような視線と目が合う。肌を刺すような冷たい風が吹き抜ける。

    「な、なんだよっ……!」

    驚いて離れる。佐藤が気づいて歩み寄った。
    「どうかしたの?」
    「見てくださいよ、これ。換気口が変で……!」

    佐藤が目をしょぼつかせながら覗のぞく。何度か瞬きした後に言った。
    「別に、何も変じゃないけどねぇ。ただ、古いだけだよ」

    涼太はもう一度、目を細めて換気口を覗く。
    先ほど感じた異常は、そこにはない。いたって普通の換気扇が、機械的にクルクルと回っているだけだった。


    三、

    涼太が顔をしかめると、隣で作業をしていた佐藤が手を止め、視線を中空に泳がせた。彼は一度だけ小さく咳払いをしてから、まるで遠い昔の出来事を語るようにぼそりと呟いた。

    「思いだした。近くの居酒屋で、噂を聞いたことがあったんだよ。このビルに幽霊が出るっていう噂。特に、こういう夜は」

    心臓が跳ねた。佐藤の表情は至って真剣で、冗談を言っているようには見えない。

    「いや、これね、冗談じゃないんだよ。当時は酔っていたけど、はっきりと人から聞いた。まさか、このビルの噂だとは知らなかった」

    佐藤は続けて何事かをぶつぶつと呟き、涼太の顔をじっと見てくる。
    「涼太君、この会社について、何かおかしいと思わなかった?」
    「それは、まあ、変な商品を扱っているとか、おかしいとは思っていますけど……」
    「そういうことじゃない。この会社ね、輸入雑貨も怪しいものばかりだけれど、最近、社長の姿をぱったりと見なくなったんだよ」
    「社長の姿が消えた……?」

    佐藤が頷うなずき、声をひそめる。
    仕事の監督者である冬木は、とっくのとうに職場を離れ、記録上だけの「在宅ワーク」になっている。

    「ここの会社の商品、変なお面や像が多いだろう? 自力で調べてみたんだが、どうも猿神を模したものが多いらしくてね。猿神にまつわる信仰はアジアにも多い。インドの猿神、ハヌマーンが代表的だ。ただね」

    商品の一つである、猿のお面を佐藤が手に取る。怪しい笑みが浮かんでいる面だった。
    「以前、社長の引き出しが偶然、開いていたことがあってね。会社の登記と一緒に、社長の戸籍謄本を見たことがあった。何かのときに、写しを役所に申請したんだろう。それで、今、ようやく思いだしたことがある」

    少しだけ間を置いた後、佐藤が口を開いた。

    「社長の故郷。具体的にはちょっと言えないけど、日本で古くから猿神信仰を行っている場所でね。それが、普通ではないものなんだ」
    「普通じゃないって、たとえば、どんなことを?」

    佐藤は手にした面を持ち上げる。涼太に示すように見せた。
    「聞いたことはないか? 『忌まわしい儀式』――村人が猿の肉を喰らうという儀式をしていた村だよ」

    涼太が押し黙る。佐藤が言葉を続けた。
    「ハヌマーンは空を飛び、山を運び、胸を開いて神を示す。勇気や献身、限界を超える力が宿るとされる神様だ。そんな神様を信仰するのは構わないが、なぜ社長はそうしたお面や像ばかりを買い付け、売れないのに溜め込んでいたのか。その理由が、社長の故郷でわかったよ」

    「社長は、じゃあ、今どこに……」
    「さあね。でも、一つだけ言えることがある。社長はね、猿神に魅入られてしまったんだ。心も舌もね。だから、こうした商品を買い付け、最近になって姿を消した。つまりはね、そういうことだよ」

    戦慄が走る。涼太は佐藤の顔から視線を離すことができない。

    「それに、おかしなことは、もっとある。この会社の商品の発送先、ちゃんとした住所もあるが、でたらめみたいな住所もある。それでも、なぜか届いてはいる。幽霊会社を手伝っているみたいで、何かがおかしい。商品が何らかの代価となっているのではないかと、時々、そう思うんだ」

    涼太は梱包中の段ボールから手を離し、背後の暗闇を振り返った。
    そこには何もいないはずなのに、重苦しい視線だけが確かにそこに存在しているような、冷たい悪寒が背筋を伝った。




     
     
    東西 美音都(とうざい みおと)です。 どんでん返しで予想を裏切る結末。多彩なジャンルの物語。主に短編小説を中心に書いています。 予想外の展開をお届けできるように頑張りますので、ぜひお楽しみください。

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