
『TOKURYU』5
第5話:猟犬の境界線
あらすじ
深夜のロビーに現れた刑事・鬼塚。彼は卓越した直感で、トクリュウの資金を奪うハッカーが蓮(れん)であり、現場を制圧したのが葵(あおい)であることを見抜く。蓮は行動経済学の防衛本能を突きながらも、追うべき真の本尊の存在を仄めかす。
緊迫した対峙の中、鬼塚の端末に警察上層部から非情な命令が下る。案件は全て公安部へ移管、捜査令状は白紙撤回――。国家の黒幕による強引な介入だった。
捜査権を奪われつつも「一度嗅いだ血の匂いは忘れねえ」と言い残し、闇へ消える鬼塚。警察の耳目すら遮断した国家の怪物を前に、蓮と葵は檻の主・新城との最終決戦へ向けて覚悟を決める。緊迫の第5話!
「夜分遅くにすまねえな。コンシェルジュさん、それに……そっちの兄ちゃんも」
深夜の静寂が満ちるロビーに、鬼塚の低く、濁った声が響いた。
濡れたトレンチコートから、雨の匂いと安タバコの香りが容赦なく漂う。鬼塚は警察手帳を掲げることもなく、ただポケットに手を突っ込んだまま、フロントカウンターへと歩み寄ってきた。
葵は完璧な「仕事の笑み」を張り付けたまま、一歩も動かない。
「刑事様、このような時間にどのようなご用件でしょうか。当マンションのセキュリティに関して何か?」
「セキュリティねぇ……」
鬼塚はわざとらしくロビーを見回し、最後に蓮のリュックへと視線を止めた。
「昨日、24階でトクリュウのガキどもを文字通り『瞬殺』したコンシェルジュがいるってんで、本庁が色めき立ってな。おまけに、捕まったガキどものスマホから、トクリュウの全資金が煙みたいに消え失せた。……ただのハッキングじゃねえ。奴らの裏の裏をかいて、最初から待ち構えてなきゃ不可能なスピードだ」
鬼塚はカウンターにゆっくりと体重を預け、蓮の目を正面から覗き込んだ。
「世田谷のヤマの時もそうだ。信号機がバグり、1億円を積んだ車が高架下に誘導された。……なぁ、兄ちゃん。お前、何者だ?」
ロビーの空気が、一瞬で凍りつく。
蓮はポケットの中で静かにスマートフォンを握り直した。画面は見ずとも指の感覚だけで分かる。いつでも鬼塚の警察無線と、周囲の防犯カメラのログを強制シャッフルできるコマンドの待機状態だ。
「……ただの、通りすがりの住人ですよ」
蓮は感情の抜けた声で返した。
「行動経済学じゃ、人間は『目の前の明確な脅威』よりも『見えない未知の恐怖』に対して過剰に防衛本能を働かせると言われている。刑事さん、あんたが追うべきなのは、俺たちみたいな一般人じゃなく、そのトクリュウを泳がせている”本尊”の方じゃないのか」
「本尊、ねぇ……」
鬼塚の目が、わずかに細くなった。蓮が何かを掴んでいることを、百戦錬磨の刑事の直感が察知している。
「……兄ちゃん。お前、トクリュウに身内でもやられたか」
鬼塚の声は、尋問ではなく、確認するような静けさだった。
蓮は何も答えなかった。
だが、その沈黙が、答えだった。
鬼塚は蓮から葵へと視線を移した。葵の目は、何も語らない完璧な無表情だった。それがかえって、この女も同じ側の人間だということを、鬼塚の勘に告げていた。
「……そうか」
鬼塚はそれ以上追及しなかった。ただ、タバコを1本抜き取り、火をつけずに口に咥えた。
その時、鬼塚の胸ポケットで、スマートフォンのバイブレーションが不気味に長く震えた。
プライベートの端末ではない。警察内線用の特設ラインだ。
鬼塚は蓮から目を離さないまま、端末を耳に当てた。
「……俺だ。今、湾岸特区の現場に――」
『鬼塚警部補。今すぐそこを離れろ』
スピーカーから漏れ出たのは、鬼塚の直属の上司ではなく、さらにその上の、警察庁上層部の冷徹な声だった。
『世田谷の強盗事件、および湾岸特区内の一連の案件は、すべて本日付で「公安部・特命捜査課」へ管轄が移った。所轄の捜査令状はすべて白紙撤回だ。お前は今後、特区の一切の事案に関与することを禁ずる。直ちに帰署せよ』
「……なんだと? 冗談じゃねえ、現場は今まさに――」
『命令だ、鬼塚』
声には、一切の交渉を拒絶する「国家の意志」が宿っていた。
『これ以上首を突っ込めば、お前の警察官としての籍が消えると思え』
ツ、ツ、と無機質な切断音が響く。
鬼塚はゆっくりと腕を下ろし、信じられないものを見る目でスマートフォンを見つめた。
そして、目の前にいる蓮と葵を見る。
「……おい。お前ら、一体何と戦ってやがる」
蓮は何も答えない。ただ、悲しいほど冷たい目で鬼塚を見つめ返した。
国家が動き出した。自分たち義賊だけでなく、正義を貫こうとする警察の猟犬すらも、一瞬で噛み殺すほどの巨大な怪物が、この特区の裏で完全に覚醒したことを、その電話が証明していた。
鬼塚は深く、呪詛のような吐息をもらすと、タバコを口から外し、ロビーの灰皿へと押しつけた。火もついていないそれが、くしゃりと潰れた。
「……令状が消えちまった。今日のところは帰るさ」
背を向け、泥のついた革靴を鳴らしてエントランスへと歩いていく鬼塚。
だが、自動ドアの手前で、彼は一度だけ立ち止まり、振り返らずにボソッと言った。
「だがな、俺は猟犬だ。一度嗅いだ血の匂いは、上が何と言おうが忘れねえからな」
一拍置いて、鬼塚は付け加えた。
「……お前らも、無茶すんなよ」
ドアが開き、鬼塚の背中が豪雨の闇へと消えていく。
ロビーに残された蓮と葵。
葵は静かに捲り上げていた袖を下ろし、蓮を見た。
「……外堀は埋まった。次は、本尊が来るね」
蓮はノートPCを再び開き、あの暗号ログを見つめた。
「ああ。警察の耳目を完全に遮断した。……いよいよ、この檻の主が姿を現すぞ」
葵が、ふと呟いた。
「鬼塚って刑事、悪い人じゃないね」
「ああ」
蓮はモニターを見つめたまま、短く答えた。
「だから、巻き込みたくない」
(第5話・完)
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