
16年婚活【私が知る、本物の芸者】52歳婚女性
■元芸者・友子さんの話
こんにちは、TOSHIです。男性不信気味もあって、16年間婚活して、52歳で、同じ年の男性と幸せな結婚をした女性です。
もう、ずいぶん前のことです。うちは、芸者だった女性とお付き合いがありました。
母が詩吟を習っていた頃、教室までの送迎で、お年寄りのクラスメイトを、数人まとめて、車で送っていたのです。
その中には、互いに口もきかず、ひどく嫌い合っている2人の老婦人がいました。1人はお寺の住職の奥さんでした。
もう一人は――仮に「友子さん」と呼ぶことにしましょう。友子さんは未亡人で、息子夫婦とその家族と同居していました。
友子さんも住職の奥さんも、こう主張するのです。
「あの人じゃなくて、私を先に迎えに来てちょうだい!」
そのため、母は板挟みになり、困り果てていました。
母は、なぜ2人がそれほど仲が悪いのか分かりませんでした。そうするとある日、同じ教室の男性が母にこう言いました。
「あなたはよそから嫁いできたから知らないよね。友子さんは昔、芸者だったんだよ」

確かに、私の街は歴史のある街で、かつては賑やかな花柳界がありました。
昔は、この街で評判の若い芸者が京都へ行き、そこで芸妓になることもあったそうです。そのさい、この街の出身の人は、踊りの試験を免除されたそうです。
母が嫁いできた頃には、昔ながらの「本物の芸者」は数えるほどしかおらず、私も、ただ街を歩いている姿を見かける程度でした。ある日、そのうちの1人が東京の有名な雑誌に出ていたのを見て、私は驚きました。
友子さんがこの街で芸者をしていたのか、それともよそでだったのか、私は知りません。
ただ、彼女は、母を気に入って、よく電話をかけてきてくれたので、私はその声をよく知っていました。快活な人で、
「お母さんには感謝しているわ、いつもありがとう、ありがとうねえ」
と言ってくれるのがかわいらしい感じでした。
「芸者さんだったんだ! わあ、かっこいいな。その話、もっと聞いてみたいなあ」
私がそう口にすると、母は、
「誰にも言ってはだめよ、知らないふりをしましょう」
と言いました。私もそれに同意したのです。

けれど、私の心は複雑でした。
東京や京都でなら、芸者、舞妓、芸妓さんの姿を見たり、言葉をかわしたりする機会もありますが、この街ではそうはいきません。
当時はこの街にもまだ芸者がいましたけれど、会うつてもないし、いくらくらいかかるものなのかも分かりませんでした。
それでも、地元の芸者さんが歌う、短い録音を耳にしたとき、そのあまりの美しさ、人を惹きつける魅力、この世のものとは思えないような響きに、私は涙を流しました。いつまでも聴いていたいと思いました。まさに別世界だったのです。
同時に、私の同級生の友達が、やはり、元芸者さんのことを知っていました。
その人は、芸者だった時に「えぐいこと」をされて、子供が産めない体になってしまったため、その子のことを、自分の子供のように可愛がっていたのです。
その話を思い出すと、
「芸者さんだったんでしょう?」
などと友子さんに聞くべきではないと思いました。
友子さんはとても芯が強く、かわいい人でした。
母と一緒にうどんを食べていると、「お汁もちゃんと飲まなきゃだめよ」と言ったり、
食べ終わると「これじゃ足りない!」と言うこともありました。
病気や老いで何度か死にかけたこともありましたが、彼女はたくましく、入院のたびに回復して生還しました。
ある時は、お見舞いに来た人全員に1万円札を配り、後でそのことをすっかり忘れてしまっていたこともありました。
私は一度、偶然、友子さんに会ったことがあります。彼女は立ち上がって私の手を握ってくれました。年老いてなお、口紅を塗り、身なりをきちんとしていました。
友子さんは公園で鳩にパンをやるのが好きでしたが、母が忙しくて公園に連れて行ってあげられないと、
「しばらく公園に連れて行ってくれなかったから、パンが腐っちゃったじゃない!」
と、まるで子供のように不満を漏らすのでした。

90代でついに彼女が亡くなり、母が葬儀から帰ってきてこう言いました。「友子さんはね、3回も結婚してたんだって!」
私は仰天しました。彼女は激動の時代を生き抜いてきたのでしょう。
正直なところ、葬儀の後、私は後悔の念に駆られました。
「そんなに波乱に満ちた人生を送った人だったのに……もっと話を聞いておけばよかった」
しかし、気持ちが落ち着いてくると、こうも思いました。
「彼女が芸者時代の過去を話さなかったのなら、無理に聞く必要もなかったのかもしれない」
■芸者の自伝

実は、私は、芸者について調べていたのです。
これまで数多くの本を読んできましたが、増田小夜の自伝『芸者 苦闘の半生涯』(平凡社)は、その衝撃的で凄惨な内容ゆえに、最後まで読み通すのが困難でした。
芸者 苦闘の半生涯
彼女は貧しい家庭に生まれ、不遇な幼少期を過ごし、子供の頃に親によって芸者として売られてしまったのです。
この本の中では、「少女たち」があっけなく非業の死を遂げたり、あらゆる酷い目に遭わされたりします。ここで言う「少女たち」とは、著者である「小夜」自身と、当時の彼女の周囲にいた芸者たちのことです。
甘いものをこっそり食べたという理由で罰を受け、命を落とした少女さえいました。小夜は1925年生まれですから、ずいぶん昔の話ではありますが、彼女の体験談を聞くと、本当に言葉を失ってしまいます。
小夜は、この本でこう語っています。
「人の心を持ち、人の親になったら、たとえ精魂つきようとも、その子がひとり歩きできるまで、親としての義務をはたしてもらいたい」
と。誰がこの言葉を否定できるでしょうか。
実は、私はこの本を高校生か中学生の頃に買ったのですが、あまりの恐ろしさに読み終えることができませんでした。けれど捨てることもできず、長い間、自分の部屋に置いてあったのです。
今回、彼女の作品を紹介するにあたって調べてみたところ、波乱の人生を送った小夜が故郷で店を開き、晩年も精力的に働き続けたことを知り、心から安堵しました。
ネット社会となった現代でも、この本は多くの読者から高く評価されています。

「小夜」の声が、もっと遠くに届けばいいと思います。もっと遠くへ、より広く、永遠に。
もう一つおすすめしたい芸者の回想録は、中村喜春の『江戸っ子芸者一代記』です。
東京・銀座の医師の家に生まれた彼女は、16歳で芸者になりました。
1913年生まれの彼女は英語を学び、チャップリンやベーブ・ルース、ジャン・コクトーをもてなしました。外交官と結婚し、90歳まで生きた彼女の人生は、とても前向きで明るい物語です。
■現代の芸者(舞妓、芸妓)

一方で、私自身にも素敵な思い出があります。京都はうちからわりと近いです。京都で、食事をしながら舞妓の実演を見る機会がありました。
京都では、彼女たちは「舞妓」や「芸妓」と呼ばれますね。
彼女たちはよく赤い小物を使います。それに少しあやかって、その日私は着物に鮮やかな赤の帯揚げと帯締めをあわせていました。
その日登場した若い舞妓さんはまだ20歳にもなっていませんでしたが、美しく愛らしい方でした。着物や帯、小物も素晴らしく、踊りも実に見事なものでした。
客一人ひとりが彼女と少し言葉を交わすことができたのですが、私が赤い小物を身につけているのを見て、彼女はこう言いました。
「お姉さん(芸者さんが年上の女性客を呼ぶ時の呼び方です)、何か舞のお稽古でもされているのですか?」
私はこう答えました。
「そういうわけではないのですが……あなたの素晴らしい舞に深く感動しました! おきれい! 驚かれるかもしれませんが、私がこれまで直接お会いした女性の中で、あなたが一番美しい方です。これからもお稽古、頑張ってくださいね!」
彼女はとても喜んでくださり、その後の「お座敷遊び」の実演相手に私を選んでくれました。
彼女たちが本当に美しいこと、もしかすると世界で一番美しいかもしれないこと、それだけは言えます。ただ、正直なところ、彼女たちの本当の生活については、私はあまりよく知りません。まるで秘密に満ちた世界のようなものです。
昨今では、芸者として働く際に月給や産休が保証されるところもあります。その一方で、様々な問題が取り沙汰されることも絶えず、実情は定かではありません。
ともあれ、芸者の回想録はいくつか存在し、その中には他言語に翻訳されたものもあります。
※すべての記事は著作権で保護されています。
(C)TOSHI
筆者より
読んで下さってありがとうございます。今、専業主婦なので、少しでもチップいただけると、とても助かります。50過ぎでマンションも買うので。
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また、『美しい人々 人間の美しさを追う』竹井夙著(文芸社)という本を出しているのでよければぜひ。kindle、電子書籍版もあります。京都のことも書いています。
kindleのunlimited会員の方は、無料で読めます。
下記からのほか、「美しい人々 竹井」で検索してもすぐ買えます。
竹井夙(たけいとし)はTOSHIの筆名です。「夙」の字は「しゅく」で漢字に変換できます。
おかげさまで、kindle版がけっこう売れているのだそうです。
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