
紀州百点の果て 第14話 喜三郎の果て
鍬が、重かった。
いつもと同じ重さだった。でも違う重さに感じた。手が覚えていた。体が覚えていた。でも頭がついてこなかった。
廃藩から、半年が経っていた。太一はちょうど元服の年を迎えていた。
土を耕した。草を抜いた。水を引いた。以前と同じだった。でも以前とは違った。何が違うのか、言葉にならなかった。ただ、違った。
夕方、庄之助が畦道を歩いてきた。
「よう」
「ああ」
庄之助は畑を見た。
「戻ったな」
「ああ」
「俺も戻った。案外悪くないで」
喜三郎は鍬を持ったまま、庄之助を見た。
案外悪くない。
その言葉が、頭の中で転がった。
庄之助の顔は、以前と同じだった。芸州口で震えていた顔でも、数字が一番だったときの顔でもなかった。ただ、庄之助の顔だった。
「そうか」
「お前は?」
喜三郎は畑を見た。
「分からん」
庄之助は少し間を置いた。
「まあ、また百姓やで。それだけや」
それだけや。
庄之助はそう言って、歩いていった。
喜三郎は鍬を持ったまま、その背中を見ていた。
翌朝、喜三郎は訓練場の前を通った。
通るつもりはなかった。でも足が向いた。
訓練場は空だった。
壁に数字はなかった。太鼓もなかった。銃もなかった。ただ、広い空間だけがあった。
喜三郎は入らなかった。
外から見ていた。
自分の班が一番だった日を思った。ケッペンに褒められた日を思った。長州が見に来た日を思った。
喜三郎はしばらく立っていた。それから、畑へ戻った。
夜、太一が帰ってきた。
農兵として外ばかり見ていた数年の間に、息子の体はいつの間にか大きくなり、声も低くなっていた。かつて囲炉裏の横で眠っていた幼い太一は、もうどこにもいなかった。目の前にいるのは、一人の男だった。
太一が言った。
「父ちゃん、俺な、来月から鍛冶屋で働くことになったんや」
喜三郎は太一を見た。
「そうか」
「うん。手に職つけたくてな」
喜三郎は何も言えなかった。
太一に言える言葉がなかった。努力すれば報われると言いたかった。数字が証明すると言いたかった。でも今は言えなかった。
太一は喜三郎の顔を見た。
「どうしたん?」
「何でもない」
太一はしばらく喜三郎を見た。それから奥へ行った。
サヨが来た。隣に座った。
火を見た。
喜三郎も火を見た。
鍬が重かった。銃とは違う重さだった。
サヨがいた。火があった。太一がいた。
火が、小さく爆ぜた。