
紀州百点の果て 第13話 陸奥、無言で去る
体が覚えていた。
廃藩から三日が経っていた。それでも朝になると、足が訓練場へ向かった。止めようとしなかった。止める理由も思いつかなかった。
訓練場には誰もいなかった。
太鼓がなかった。怒鳴り声がなかった。農民兵たちの足音がなかった。風だけが通っていた。
喜三郎は壁を見た。
数字がなかった。
昨日まで、毎日数字が書かれていた。射撃命中率。行進同調率。装填速度。自分の班の番号が一番上にあった。
今日は何もなかった。
壁だけがあった。
喜三郎はしばらく壁を見ていた。数字を探した。どこかに残っていないか探した。なかった。昨日消されたのか、一昨日消されたのか、知らなかった。ただなかった。
隅に銃が立てかけてあった。
忘れられたのか、置いていかれたのか、分からなかった。喜三郎は近づいた。手に取った。
重かった。いつもと同じ重さだった。
構えた。
照準を合わせた。でも的がなかった。数字をつける人間がいなかった。撃っても意味がなかった。
それでも構えたまま、しばらくいた。
体が、まだ覚えていた。
銃を下ろした。
訓練場を出ようとしたとき、人の気配がした。
振り返った。
男が歩いていた。
津田の横にいた男だった。いつも対等に立っていた男だった。喜三郎が名前を知らない男だった。
男は何かを持っていた。書類のようなものだった。足早に歩いていた。どこかへ急いでいた。
喜三郎は動けなかった。
声をかけようとした。何を聞きたいのか、自分でも分からなかった。でも声をかけようとした。
男が喜三郎に気づいた。
一瞬だけ、足が止まった。
目が合った。
男は喜三郎を見た。一瞬だけだった。それから目が外れた。
男はまた歩き始めた。足早に。どこかへ急いでいた。
喜三郎は見送った。
背中が遠ざかった。小さくなった。曲がり角で消えた。
訓練場に、また風だけが通った。
夜、喜三郎は太一の隣に座った。
太一は眠っていた。
サヨが来た。隣に座った。何も言わなかった。
喜三郎は火を見ていた。
男の目が頭から離れなかった。確かに見ていた。でも何も言わなかった。言えなかったのか、言わなかったのか、分からなかった。
恨む気にはなれなかった。
サヨが小さく言った。
「ご飯、食べる?」
喜三郎は少し間を置いた。
「ああ」
それだけだった。
太一は眠っていた。
火が、小さく爆ぜた。