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紀州百点の果て 第15話 入隊前夜、再び

    太一が明日から鍛冶屋へ行く。

    その前夜だった。

    飯の匂いがした。麦と米を混ぜた、いつもの匂いだった。喜三郎は土間の柱に背を預けたまま、囲炉裏の火を見ていた。

    外では虫が鳴いていた。紀ノ川の方から風が来て、萱葺きの屋根を撫でていった。

    入隊を決めた夜と、同じ匂いがした。

    サヨが奥から来た。飯を並べた。何も言わなかった。いつも通りだった。

    太一が座った。大きくなっていた。声が低くなっていた。でも飯を食う顔は、子どもの頃と変わらなかった。

    「明日、早いんか」

    喜三郎は聞いた。

    「うん。夜明け前には出る」

    「そうか」

    それだけだった。

    太一は飯を食った。サヨも食った。喜三郎も食った。誰も何も言わなかった。でも静かではなかった。飯の音がした。火の音がした。虫の声がした。

    太一が眠った。

    サヨが片付けをした。喜三郎は火を見ていた。

    数字を思った。

    壁に張り出された数字を思った。侍の班より上だった日を思った。ケッペンに褒められた日を思った。長州が見に来た日を思った。給金が増えた日を思った。太一に草履を買った日を思った。

    全部なくなった。

    鍬だけが残った。

    サヨが片付けを終えて、隣に座った。何も言わなかった。ただ座った。

    喜三郎は火を見ていた。

    三十二年生きた。農民の三男坊として生まれた。兄には田が三枚あった。自分には畑が一つだった。農兵になった。数字が上がった。侍より上になった。廃藩になった。畑に戻った。

    それだけだった。

    奥から太一の寝息が聞こえた。

    サヨがいた。

    火があった。

    虫が鳴いていた。

    入隊を決めた夜、喜三郎はここにいた。サヨがいた。太一がいた。飯の匂いがした。それでも外を向いていた。自分を試したかった。もっと大きなものを掴みたかった。

    今夜も、同じ場所にいた。

    サヨがいた。太一がいた。飯の匂いがした。

    ずっと、ここにあった。

    喜三郎は火を見ていた。

    サヨが小さく言った。

    「寝ないの」

    喜三郎は答えなかった。

    火が、小さく爆ぜた。

    虫が鳴いていた。

    明日も同じ朝が来る。


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    「まず、試してみる」が私のスタイル。 うまくいったこともあるし、失敗したこともある。 その記録をここに残していきます。🐾

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