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メルヘンチック㉞新宿プリンスホテル

    執筆日㉞ 2026年10月04日

     何がバイバイキーンだ、チクショウ。

    「あのアマ……」

     思わず呟いてしまう。話している最中に電話を切りやがって……。

     公衆電話から掛け直してきたくせに、あの女が電源を切らせたのか。金はもらうだと……、ふざけやがって……。

     どんな思いであの金を貯めたと思っていやがんだ。俺は車の陰から様子を見るしかない。あの女は鳴戸の差し金で来たのだろうか?

     まだ何も分からない。

     今のところ分かっているのは、勝男と一緒にいる女が、俺の二千万円を盗ろうとしている事だけだ。

    「ん?」

     立ち上がったのか、窓から女の姿だけが確認できた。勝男はどこだ?

     様子を伺っていると、女がバッティングセンターから一人で出てくる。続いて勝男も後を追いかけるように出てきた。

     二人は区役所通りへ向かい、勝男は俺を探しているのかキョロキョロ辺りを見回している。ここで自分の姿を見せるべきか。

     いや、あの女が鳴戸の差し金だとしたら、一巻の終わりだ。

     勝男の野郎、女に声を掛けられて何やら話していやがる。女が笑顔で何かを言うと、デレッとしやがって……。

     女はすぐにタクシーを停めて、勝男を呼ぶ。このままじゃ俺はヤバイぞ。金を持ち逃げされても終わりだ。

     道は不幸中の幸いか混んで渋滞している。勝男と女が乗ったタクシーがちょっと進むのを待ってから、タイミング良く来たタクシーを捕まえた。

    「どちらまでですか?」

    「あの五台先にある緑色のタクシーありますよね? あれの後をつけて下さい」

    「いやー、お客さん、面倒は困りますよ」

     運転手は露骨に嫌な表情をした。俺は懐から財布を出して一万円札を二枚抜く。そのまま運転手の目の前に出すと、運転手は自然と金を受け取った。

    「全然、面倒な事じゃないんですよ。恥ずかしい話、あのタクシーに乗っている女、あれ私の女なんですよ。最近ちょっと怪しかったから、あとをつけていましてね。まあ、情けない話かもしれないですけど、男の嫉妬みたいなもんです……。ただ許せないじゃないですか」

    「お客さん! 私もその気持ち分かりますよ……。うちの女房も……、い、いや、何でもないです。では、任せて下さい」

     俺の嘘に騙されて、運転手は威勢よく強引に渋滞の列に割り込んでくれた。

     金を出すタイミングと巧みな話術で、ある程度の事は解決できる。こういう単純な人間には非常に効果的だ。

     それにしても勝男とあの女、どこへ行くつもりなんだ? 行き先が鳴戸のところなら、すべて終わりになる。

     勝男たちを乗せた車は区役所通りを左折して職安通りに入った。

     前の車の運転がトロい……。

     信号が黄色に切り替わった。このまま離されたら見失う。

     運転手は信号がほとんど赤なのに強引に左折してあとを追い駆けた。体が遠心力で右に倒れる。

    「大丈夫ですか、お客さん?」

    「ありがとうございます。本当に無理してもらってすいません」

    「いえいえ、これで見失っちゃー、お客さんに一生恨まれてしまいますから」

    「感謝の気持ちで胸いっぱいです」

    「そういえばお客さんの顔のアザ、どうしたんですか?」

    「いやー、あそこのバッティングセンターで張り切っていたら、自打球を顔にぶつけてしまいまして……、起き上がったところにまた一発……」

    「そりゃー、災難ですねー」

     さっきのバッティングセンターでの馬鹿なカップルを思い出してしまう。自然に笑みが広がった。

    「打てもしないのに格好をつけた私が馬鹿だったんですよ」

    「男なんて、そんなもんですって。あれ? また前のタクシー、左折しますね」

     何だかんだいって、タクシーの運転手も尾行を楽しんでいるようだ。タクシーは西武新宿駅前の通りに出た。この道の先には新宿プリンスホテルがある。

     一昨日、このホテルの二十五階にあるラウンジ『シャトレーヌ』で飲んだのを必然的に思い出す。

     あの時『ダークネス』の仕事がたまたま早く終わったので、俺は思い切って赤崎を飲みに誘った。彼にたくさんの金をあげ親切に接していたので、赤崎は快くついてきた。

     初めて行く場所で彼はたくさん酒を飲み、上機嫌だった。ろれつが回らなくなっていた赤崎の手に、そっと自分の手を重ね合わせる。今にして思えば、ここで失敗したのだ。

    「あ、あのー……、何かの冗談ですよね……」

     そう言って手を引っ込めた赤崎。あれで一気に酔いを醒ましてしまった。

    「冗談です」と笑いながら言えば良かったのか。

     今となっては分からない。ただ俺はどうにか赤崎をものにしたくて焦っていた事だけは確かである。

     あの時俺が、もっと赤崎を酔わせて潰していれば、望み通りの展開に持っていけたものを……。

     その事がずっと悔やまれる。あの次の日から仕事で俺を見る赤崎の視線は、まるで軽蔑の眼差しを向けているようで辛かった。平然を装ってはいたが、やはり内面的にはかなりショックだったのだ。

     やるせなさを感じソープランドにも行った。一回行けば六、七万円はする新宿の高級店『バルボア』に行っても、駄目だった。

     常に赤崎の事を考えている自分がいる。

     初めて赤崎を見た時、一目惚れに近い感覚がした。

     彼を想いながら部屋で、よくマスターベーションをした。途中まではいい信頼関係を築けていたのだ。そんな赤崎に冷たい目で見られるのは非常にショックだった。

    『シャトレーヌ』の一件で俺は彼からの信用を一気に失った。タイムマシーンがあるなら、一昨日に戻りたいぐらいだ。

    「お客さーん。お客さーん。前のタクシー、プリンスに停まりましたよ」

     運転手の声で我に帰る。

     前で勝男とあの女がタクシーから降りて、プリンスホテルの入り口に入っていくのが見えた。ダンボールは勝男が持っているようだ。

     俺はどうかしている。二千万円が掛かっている正念場なんだぞ?

     今は赤崎の事より、金の事を考えろ。じゃないと手痛い目に遭うぞ。自分に叱咤激励した。

     あの分じゃ、鳴戸がプリンスホテルで待っている可能性は高いだろう。警戒心が強まる。

    「横に男がいますね。それにしてもお客さんの彼女、すごく綺麗な彼女ですね……」

    「開けてくれ」

    「えっ?」

    「早くドアを開けろ。それ以上無駄口を叩くな。金は最初の二万で充分足りるだろ」

     俺の話し口調の急激な変化にビックリしたのか、運転手は黙ってドアを開けた。俺はすぐにタクシーを降りてプリンスの入り口へと向かう。

     ホテルに入り、左側の地下一階に行く階段を見る。慎重にゆっくりと警戒しながら降りて、階段の踊り場からフロントの様子を眺めた。

     勝男とあの女が、フロントでホテルマンと話しているのが見える。このままチェックインするのか?

     俺は気付かれないように階段を下りて、すぐに右側に曲がる。ロビーラウンジの開いている席に、二人からは死角になる場所を探して座った。コーヒーを注文し、二人の動向を探る事にする。

     勝男の野郎、あんな短時間で俺を裏切りやがったのか……。

     時計を見ると夜九時を回っていた。俺はある事を閃いた。

     ウェイトレスがラウンジ内を歩いている。俺は手を振り、席へ呼んだ。

    「はい、お待たせしました」

     ウェイトレスが笑顔で近づいてくる。

    「あ、従業員で江島さんっていますよね? ちょっと呼んでほしいのですが」

    「かしこまりました。少々お待ち下さい」

     ん、チェックインの受付が終わったのか? 勝男たちはフロントから離れていた。

     まだ江島が来るまで時間掛かるだろう。俺はトイレに行くふりをして、勝男と女のあとを気付かれないように尾行する。

     エレベーターに二人の姿は消えた。他に乗った人間がいないか横目で確認する。うん、あの二人だけしか乗っていないな。乗せたエレベーターは二十一階で止まる。

     ひょっとして鳴戸はその階にいるか?

     あの二人は二十一階にある部屋のどれかに行く。今、追い駆けるべきか……。

     いや、江島が俺の席にそろそろ来るだろう。

     再び席に戻り、思案を巡らせた。

     二人が向かった二十一階の部屋。そこに鳴戸がいたら俺に打つ手はない。それともあの女の独断でこのホテルへ来たのだろうか? できれば後者でいてもらいたい。

     遠くから一人のホテルマンがこっちに向かって近付いてくる。江島だ。さっきウェイトレスに呼んでくれと頼んだのがもう伝わったようだ。

     このホテルで働く江島は、今日まで俺が働いていた『ダークネス』の常連客である。完全なポーカー中毒者だ。いい台を教えたり、色々とサービスしたりしたので俺には愛想がいい。

    「あーどうも、いらっしゃいませー」

     顔は笑顔だが、視線は明らかに俺の顔にある無数のアザに向いている。

    「どうも、わざわざ呼んでしまってすいません。これ、恥ずかしい話、階段から派手に落ちてしまいまして……」

     左の人差し指で自分の顔を指してクルクルと回す。江島はホッと安堵の表情をやっと見せる。俺の右手の中には五枚の一万円札をあらかじめ用意してあった。

    「気をつけて下さいよ。大丈夫ですか?」

    「ええ、ありがとうございます。それより江島さんにお願いがあるんです」

    「お願い?」

    「まず、前屈みに自分の方へ近付いてもらい、テーブルの下に左手を入れて欲しいんです。もちろん全然変なことじゃないですよ」

     不審がる江島の表情をリラックスさせる為、精一杯の笑顔を作る。

    「え、何でそんな事を?」

    「信用して下さいよ。ほんとに変な事じゃないんですから」

    「こっ、こうですか……」

     すぐ江島の手に五万を手渡し、手をテーブルの上に戻した。江島は驚いた表情をしている。

    「すぐしまわないと目立ちますよ。ほらっ、あっちの席の人が……」

     江島は電光石火の速さで金をしまい込んだ。不安そうな表情を浮かべ、落ち着きがなくなっている。

    「冗談です。誰も見てやしませんよ。これはただの私からの気持ちです」

    「き、気持ちって……。い、一体なんのつもりで?」

     どんな手を使ってでも、あの二人がどの部屋に泊まったのかを聞き出さないといけない。最低でも鳴戸とあの二人が繋がっているのかどうか。その確認だけはしないと、何の行動もできない。

    「いえ、実は今さっきチェックインしたカップルがいるんですけど、二十一階で部屋をとったんです。江島さんにはそのカップルが、どの部屋に泊まったのかを調べてもらいたいんです」

    「岩崎さーん……、勘弁して下さいよー。プライベートの侵害だし、ホテルの信用問題にもなりますよ。それは勘弁して下さい」

    「友達の命が係ってるんです。詳しい事は言えないですが、時間が無いんです。ホテルの信用が堕ちかねない状況になるかもしれませんよ?」

     思いつく限りの嘘を言ってみた。ホテルの信用問題になるという響きに、江島は悩むはずだ。江島の態度が落ち着かなくなっている。

    「いっ、命……」

     待てよ。まずあの二人がチェックインしたなら、鳴戸は噛んでいないと判断してもいいんじゃないか? 鳴戸が先にいるなら、わざわざ大金を抱えたままフロントへ行く必要性など何もないはず。

    「難しい事じゃないんです。そのカップルは部屋をチェックインしたのかどうかだけ分かればいいんです」

    「へっ?」

    「ようは今さっきの時間で二人がチェックインしたかどうか、判明できるだけでいいんです。例えば受付の子に『さっき、カップル来たでしょ? 何階の部屋とったの? さっき見掛けたんだけど、俺の知り合いなんだよね……』って、言うような感じで聞けば、簡単な事じゃないですか」

    「あ、そうですね。それぐらいなら問題ないですよ。少々お待ち願えますか」

     安心したように江島は去っていく。これで五万円ももらえるのだ。江島にとっても悪くない話だろう。俺が煙草の二本目を吸い終わらない内に、江島は急いで戻ってきた。

    「ええ、問題ないですよ。ちゃんとチェックインしていますから」

     よし、鳴戸が絡んでいると思ったのは考え過ぎだったみたいだ。これである程度自由に動ける。あとは勝男たちがどこの部屋に泊まったかだけ分かればいい。向こうは俺がここに来ているのすら知らないはずだ。

    「二十一階のどこの部屋ですか?」

    「えっ……、そこまでは……」

    「このホテルの信用を落とす事件が起きるかもしれないんですよ? 江島さん、それでもいいんですか?」

     真剣な眼差しで江島を見た。彼から部屋番号を聞き出せれば一気に終わる。ゴミ捨て場から目覚めた悲惨な一日が、ようやく終わりそうだった。


     結局江島の野郎、五万も渡したのに部屋の番号を教えなかった。クソが……。

     俺は仕方なしに、二十一階の喫煙場所で待つ事にした。幸いに椅子が置いてある。西新宿の景色でも眺めながら待つか。

     いくつもの高層ビルが俺を見下ろすように建っていた。あのビルの中ではエリートのサラリーマンたちが忙しそうに仕事をしているのだろう。俺や歌舞伎町にいる連中とは明らかに住む世界が違う人種が、このホテルを境に分かれる。新宿って本当に面白い街だ。

     しばらく眺めていると、巨大な高層ビルが俺を嘲笑っているかのように見えてくる。

    「けっ、ふざけやがって」

     独り言を呟きながら自動販売機でコーヒーを買う。

     煙草に火を点け、再び窓の外を見回した。

     俺も真面目にやっていればこんな状況にならず、向こう側の世界にいれたのだろうか?

     やめろ、やめろ。

     そんな有りもしない妄想は……。

     今までの自分の生き方に誇りを持て。俺と同世代の連中で、一体誰がこんな金を稼げている? 仮に俺と同じぐらいの額を稼いでいる奴がいたとしても、様々な欲望を我慢してコツコツ貯めてきた奴ぐらいだろう。つまらない日々を送りながら。

     俺の生き方は正しい。これ以上迷うな。そう自分自身に対して言い聞かせた。

     時計を見ると十時ちょっと過ぎ。腹が減ったなあ。今日何も食べていなかったっけな。

     しかしここから動く訳にはいかない。いつ、勝男とあの女が部屋を出るか分からないのだ。今の俺にはここであの二人を待つ以外、方法は残されていない。

     あの女、電話で話した感じの印象だとかなりずる賢く、感情的な性格の持ち主である。あいつの目的はダンボールの中の俺の金、二千万円。

     そういえば何で勝男の奴、あれから電話一本もくれないんだ?

     勝男は悪い奴ではない。天然でボケているが、真っ直ぐな性格のいい奴だ。そんな男が何故あんな女の言いなりに?

     奴は女にあまり面識がない。チラッとしか見てないが、確かにあの女はいい女だった。しかし天性の魔性の女だ。勝男など簡単に利用されてしまうだろう。今回の件は、あの女にたぶらかされただけの話だ。

     今の俺はここにいながら勝男からの連絡を待つか、もしくは二人が部屋から出てくるのを捕まえるかしかない。

     待っている時間が長く感じる。非常にもどかしかった。

     鳴戸をうまく出し抜き、あとはあの女のところにある俺の金を取り戻すだけなのに……。

     コツコツ……。

    「ん?」

     廊下を歩く音が聞こえてくる。

     誰だろう?

     ハイヒールで歩いているような足音で、女だと分かる。あの女か? こちらに足音はどんどん近付いてくる。

     俺は息を殺しながら身構えた。

    「……」

     残念ながら、普通の宿泊客の女だった。自動販売機の横で煙草を吸っている俺を見て、怪訝そうな視線を一瞬だけ向けエレベーターを待っている。エレベーターが来ると、その女は中に入り俺の視界から消えていく。け、ウザいのはお互いさまだろう。俺はまた外の景色を見ながら、コーヒーを胃袋に流し込む。どうやら長期戦になりそうだ。

     ここに来て三本目のタバコに火を点ける。年末だというのに無職になり、こんなところで一人時間を潰している俺は、宿泊客にとって何者に映るのだろう。

     いくら金を取り戻す為とはいえ、惨めな気分になりイライラする。さらに空腹感は増してきた。

     ここから四階分上に行けば、ラウンジ『シャトレーヌ』がある。そこへすぐにでも行って何かを食べたい衝動に駆られるが、今は我慢するしかない。

     ジュースの自動販売機の横にスナック菓子など置いてある販売機があるので柿ピーを購入し、口に放り込む。何も喰わないよりはマシだ。そして二本目のコーヒーを買い、一気に飲み干した。

     その時、エレベーターのランプが二十一階に止まり、ドアが開く。中から仲良さそうに腕を組んでいる熱々のカップルが出てきた。

    「ひろゆきー、もう具合は大丈夫なの?」

     どこかで聞いたことのある声。よく見るとバッティングセンターで、球をぶつけ大騒ぎしていた馬鹿なカップルだった。それにしても、ものすごい偶然である。

    「ああ……」

    「ほんとー……? 私、すっごい心配したんだからねー」

    「ごめんよ」

    「今日はひろゆきの誕生日でしょ。だからここの上のラウンジ予約とっといたんだけど、キャンセルしてお部屋で一緒に休もうね」

    「別に平気だよ。部屋に荷物置いて、すぐ上に行こうよ」

    「だーめ。私が心配だもん」

    「分かったよ。おまえの言う通り、部屋で大人しくしているよ。その代わり今夜は寝かさないよ? うふっ」

     ひろゆきはいやらしい顔で彼女に微笑んでいる。こっちにまで熱々振りが伝わってくる恥ずかしいイチャイチャぶりだ。

    「ごめんね、ワガママ言っちゃって……。やっぱり、ちょっとしたらラウンジ行く?」

    「いや、俺はおまえがいるだけで充分だよ。それより今日は格好悪いとこ見せちゃったな。おまえが見ているから、いつも以上に張り切ってしまい、力が入り過ぎたみたいだ」

    「さっきのバッティングセンターの事、まだ気にしてるの?」

    「だって、実際に格好悪いところ見せちゃったじゃん……」

    「そんなひろゆきの格好悪いとこだって素敵よ。いつもはもっと素敵なんだもん」

     彼女がひろゆきのホッペに軽くキスをする。ひろゆきの動きが止まった。これから何か面白そうなことをしでかしそうだ。

    「キャッ」

     ひろゆきと呼ばれる男はエレベーターの前にも拘わらず、彼女にいきなり抱きつきだす。遠目に見ても、男の鼻息の荒さが伝わってくる。

    「やめてよ、ひろゆき。こんなところで……。人が見てるわよ」

     女の視線は、俺を見ていた。

    「そんなの構うもんかい!」

     完全に俺の存在は無視されているみたいだ。安っぽいメロドラマを生で見せてもらっているような気がする。俺は台詞のないエキストラ役か。しかし漫才でもやっているような馬鹿なカップルのおかげで、退屈だけはしないで済んだ。

    「やめてって! 言ってるでしょ」

     彼女がひろゆきを突き飛ばす。おや、ひろゆきの顔つきが変わりだしたぞ。

    「何だよ。そんなに俺の事が嫌いなのかよ?」

    「そんなことひと言も言ってないじゃない! わざわざ、人が見てるとこで抱きつく必要なんてないでしょ? ちゃんと部屋だってとってあるんだから」

    「ふざけんじゃねーよ! 俺に抱きつかれんのが嫌だったら、帰ればいいじゃん。どーせ、人がいて気になるレベルなんだろ? 何が俺の誕生日のお祝いだよ。笑わせんなよ」

     話を聞いていると、どうも男のほうがムチャクチャを言っている気がする。この騒ぎで勝男たちが様子を見に来るかもしれないので、放っておく事にしよう。

    「何でそんな事ばっかり言うの? いい加減にしてよ」

    「それはこっちの台詞だよ」

    「もー、今日はあなたの誕生日なのよ?」

    「そんな事で誤魔化すなよ」

     周りを一切気にしない馬鹿なカップルの口喧嘩は、まだしばらく続きそうだった……。


     二十一階の一番端の部屋のドアを開けて、勝男は部屋の中へと消えた。

     あいつの焦りようは大方あのむつきという名の女が素っ裸でベッドにでも寝ているからだろう。そんな事、俺にはどうだっていい。

     鳴戸が絡んでないのが分かれば、あとはダンボールの金だけがすべてだ。

     勝男の事で一つ願うことがあるとしたら、着替えて金を持ってくる最中、女に見つからないようにと祈る事ぐらいだ。それにしても勝男は俺を裏切った訳じゃなかったから良かった。仮に勝男とむつきという女が何かしようとしても、もう部屋は押さえてあるし、大した事はできまい。

     待っている間、色々ここまでの展開を思い出した。

     プリンスホテルに来るまで様々なトラブルがあったように思える。だが俺の考え過ぎのおかげで、余計な手間が掛かっただけなのだ。

     あの鳴戸をうまく出し抜き、ここまではまあ理想通りの展開といえよう。

     金を手に入れたら、あとは冷静に行動すればいいだけだ。

    「んっ……?」

     ちょっと先にある部屋からドアのキーを開ける音がした。鳴戸はもう関係ないと頭で分かっていても、ついつい警戒してしまう。

     徐々にドアは開いていく。俺はそのドアの隙間を瞬きもせずに凝視して身構えた。

    「ひっ!」

     バタンッ! 開きかけていたドアを勢いよく閉める音が、静かな通路に鳴り響く。さっきの馬鹿カップルの男だった。さっき俺にビビって部屋に駆け込んだまではいいが、やはり気になり様子を確認しようと顔を出した。すると俺が廊下にいたので慌ててドアを閉めたというところか。

     相変わらず馬鹿な野郎だ。何が一緒に飲みに行きましょうだ。見物しているだけならいい時間潰しになるが、関わるとこっちまでロクでもない目に遭いそうだ。

     勝男が来たら、上の『シャトレーヌ』へ行って話をする。状況を把握したら、部屋をとってゆっくり休もう。

     鳴戸がいる限り、安住は訪れない。

     今まで住んでいた部屋には二度と戻る事もない。もうあの部屋にはたいした物も残ってないだろう。この新宿で、俺の居場所は無くなったのだ。

     金さえ戻れば、ある程度の事はできる。渋谷や池袋辺りに行ってもいい。上野でもいいか。

     俺は少し、歌舞伎町のような繁華街に染まり過ぎてしまったようだ。新しい土地で自分を一から形成するのは大変な事だが、鳴戸のいる歌舞伎町にいるよりはマシである。

     とりあえず、この傷が癒えるまで新宿プリンスホテルでゆっくり休み、それからどうすればいいかゆっくり考えればいい。

     懐から財布を取り出す。中身を簡単に数えると百万円入っていた。ダンボールの金が戻ってくれば二千万以上ある計算になる。

     金を稼ごうと夢見て地元から出てきた。五年経ち、現在の俺はこうなった。

     東京に来てサラリーマンの世界には馴染めず肩身の狭い思いをしてきたが、今の俺には二千万以上の金があるのだ。当時のくだらない上司や、そのくだらない上司にへつらっている同僚に、この金を見せびらかしてやりたい。

     俺を白い目で見るだろうが、きっと心の中は羨ましさや嫉妬心でいっぱいのはずだ。もしそういう時が来たら、俺は絶対に目の前で大笑いしてやるだろう。

     世の中、金を稼ぎ、金を持っている事が一番すごい事なのだ。

     金を使わないと何もできやしない。

     金を使わないと分からない未知の境地がある。

     ゲーム屋にしたってそうだ。一晩で十万円負けた客の気持ちなんて、自分で実際十万負けないと分かる訳ない。

     競馬もパチンコもすべてそうだ。競馬で馬連一点に十万突っ込んだ時の快感。あれは突っ込んだ者じゃないと分からないだろう。

     以前ここで部屋をとり、テレビをつけて競馬のレースを見た事もあったっけ……。

     競馬で最後のGⅠレースの有馬記念。馬連四ー八、一点に二十五万円を賭けた。絶対に当たると思って自信満々で買った。

     ホテルの部屋で優雅にくつろぎ、好きなブランデーを飲みながらベッドに座る。椅子を目の前に置いて足を乗せふんぞり返りながらテレビを見た。予想倍率は十三倍。当たれば、三百二十五万になる。

     嫌でも興奮してくる。

     でもレースの結果は一着三着で、二着の馬とはハナ差だった……。

     せめて複勝を買っておけばな。ギャンブルにタラレバはないが、思い出すと今でも後悔してしまう。

     あの日は昼の一時にチェックインしたのに、テレビを蹴飛ばし四時にはチェックアウトしてしまった。そのままヘルスに行ってヘルス嬢に話したら、同情して本番やらせてくれたっけ……。

     あの時はラッキーなのか、ついてないのか分からない一日だったな。

     仕事終わったあと、十円の店が新規オープンするというので、そのまま行ったらビンゴを取りまくり、五時間程度で四十七万勝って、喜びのあまりキャバクラ行って豪遊していたら完全に酔っ払ってしまい、起きたら道路で寝ていて財布が無くなっていた事もあったよな。

     休みの日に歌舞伎町を歩き回っていたら、俺の好きなコニャックブランデー、ヘネシー最高級のリシャールヘネシーをコマ劇場裏にある信濃屋で見つけた時は感動したよな。定価は二十万。

     その時、財布を見ても十万しかなかった。すぐ貯金を下ろして財布の中身を三十万にして買いに行こうとして、つい一番街にある十円のゲーム屋に寄り道してしまった。気付けば負けが込み熱くなり、全部その店で金を使ってしまった。

     次の日信濃屋に行くと、リシャールヘネシーは品切れになっていた。

     思い出せばキリがないぐらい、馬鹿な事をした思い出が蘇ってくる。俺は歌舞伎町という街が大好きになっていたのだ。その街を離れないといけないのはやはり辛い。

     ギャンブルや酒の失敗とかを勝男に話すと、よくもったいないと注意されたけど、そのあとあいつはよく行く安い定食屋に連れてって無理して奢ってくれたよな。

     本当にいい奴だ。


     ひと通り、勝男の話を聞き終える。俺の勘は最初のマンションで鳴戸をかわしただけで、あとの勝男とむつきの行動は、自分の勝手な勘違いで考え過ぎだったのも分かった。

     ドッと疲れが出る。まあ、ダンボールの金も戻ってきたし、良しとするか……。

    「よろしかったら、和牛ヒレ肉の黒コショウ焼きなんですけど、これサービスなんで、食べて下さいよ」

     江島が色々とサービスして俺を気遣ってくれている。さっき地下一階のロビーラウンジで強引に渡した五万が効いているのか。いや、江島はそんな金を渡さなくても同じ事をしているだろう。

     二日前と同じようなシチュエーション。

     どうしても、赤崎とここに来た時の事を思い出してしまう。

     俺と赤崎がここで酒を飲み、江島が色々とサービスをしてくれる。

    「赤崎さん、グラス、空ですよ。何か頼みます?」

    「ん、えーとれすねー……」

     ろれつの回らない赤崎。もう一息だ。

    「カクテルの王様、マティーニにしましょうか?」

    「ふぁい……」

     運ばれてきたマティーニを一気に飲み干す赤崎。頭の中がグルグル回っているのだろう。

    「はい、赤崎さん。今度はXYZです」

    「ふぁい……」

     いい感じで酔っている赤崎。この男に抱かれてみたい。俺の捻じ曲がった欲望がどんどん膨れ上がっていく。

    「ここ、暑いれすねー。れも、気分ちゃいこうれすよ」

     駄目だ、もう我慢できない。

    「こんな夜景だけど、綺麗に見えますよね」

     焦った俺は、赤崎の左手の上に右手を乗せた。

    「何ですか、いきなり……」

     拒絶して手を引っ込める赤崎。一気に酔いも吹っ飛んだ感じに見える。

    「あれ、赤崎さん、やっぱりノーマルなんですか? うーん、残念だなー」

    「あ、あのー……、何かの冗談ですよね……」

    「本気って言ったらどうしますか?」

     もうよせ。今なら冗談で済む。それなのに俺はとまらなかった。

    「あ、あの……」

    「どうしたんですか?」

    「やめてください……」

     声を振り絞るように言う赤崎。嫌がる素振りも男らしく見えた。

    「いやー、拒まれちゃしょうがないですよねー。最初見た時から、男らしくていいなって思ったんですけどね。あっ、もちろん自分、女だって好きですよ。ただね、赤崎さん……。男にくわえてもらったことってあります?」

     何を言っているんだ、俺は……。

    「あ、ある訳ないに決まってんじゃないですか」

    「結構というか、かなりいいもんですよ。自分は無理にとは言わないですけど、男のツボは男のほうが絶対に分かりますって……。どうですか、試してみませんか?」

    「す、すいません。俺、彼女いますし……」

    「黙ってれば分かりませんて……」

     俺は精一杯微笑んだ。

    「トイレ行ってきます」

     赤崎は完全に俺を拒否してトイレへ行った。そうなるのは分かっていたが、やはりショックだった。表情に出さないようにしたが、赤崎の顔を見ていると堪らなくなる。拒絶されるのを分かっていながら、追い討ちを掛けるように話し掛けてしまい、さらに自分で墓穴を掘ってしまった。赤崎の目は、明らかに俺を薄気味悪いホモ野郎と語っていた……。

     もっと酔わせてからにすれば、あの時……。

    「ど、どうしたの、靖史?」

     黙って赤崎との事を思い出していたのが、勝男には気になったらしい。こっちを心配そうに見ている。まさか俺が好きな男の事を考えていたなんて言える訳がない。

    「いや、ちょっと考え事をしていただけだ。それにしても、むつきって女。俺の金を盗ろうとしやがって……」

    「あ、あの場に行っても靖史が隠れて出てこないからだよ。そ、それでむつきちゃんイライラしていたんだよ」

    「まあいいか。金も無事手元に戻ってきたしな」

    「あ、あの見かけはサラリーマンみたいだけど、ヤ、ヤクザみたいな鳴戸って言ったっけ?あ、あれに会った時は怖かったよ、ほ、ほんと……」

    「普通じゃないからな、鳴戸は」

     あの特徴のある甲高い声。以前は恐れたが、もう俺には関係のない人間だ。

    「ほんと悪かったな、勝男。おまえがいなかったら絶体絶命だったよ。これお礼代わりに受け取ってくれよ」

     俺はダンボールの中から札束を一つ掴み、勝男に渡す。

    「えー、も、もらい過ぎだよ。こ、これだいたい……、い、いくらあるの?」

    「百万だ」

    「そ、そんなにもらえないよ」

    「とっといてくれ。どっちみち、あのマンションには、おまえだって住みたくないだろ?たまにあのヤクザみたいな鳴戸がチェックしに来るかもしれないんだぞ。新しいとこ借りんだって金は必要だぞ」

     勝男は、鳴戸と今日初めて接触しただけなのに、その名前を聞くとブルブル震えだす。よほど怖かったのだろう。これで俺の持ち金は二千万円をきったけど、そのぐらいどうでも良かった。

    「俺は明日になったら携帯番号を変えるから、そしたら勝男に教えるよ」

    「な、何でわざわざ変える必要があるの?」

    「鳴戸のクソ野郎が、俺の番号知ってるじゃないか。ああいうタイプはしつこいんだよ。ちょっとした隙も見逃さない奴だからな」

    「じゃ、じゃーしょうがないね。ぼ、僕も靖史の立場だったらきっと変えてるよ」

    「俺も慣れ親しんだ番号変えるの、ほんとは嫌だけどな。まあ、明日になったらすぐにでも変えに行ってくるつもりだ」

     俺の抜きが見つかったのは今日。鳴戸に有無を言わさずボコボコにされた。無抵抗の人間の顔面に、思い切りつま先で蹴りができる男なんて、鳴戸ぐらいだろう。

    「ようやく気付いたんだよ。岩崎ー!」

     今でも鮮明に覚えている。あの時の鳴戸は表情自体変わっていないのに、声だけがいつも以上に迫力があった。聞いているだけで身がすくんだ。

    「立てよ。どのくらい抜いていたんだ、あっ? 立てよ!」

     またもあごに思いきり蹴りを入れられる。俺の顔が一瞬だけ上を向き、真正面の壁にあるボードの下辺りまで、鮮血が飛び散った。

    「立てよー、おいっ! 私は立ちなさいと言ってるんですよ!」

     あの時一緒にいた赤崎は、言葉を失い怯えていた。

    「赤崎ー。おまえは、岩崎から金をもらっていたのですかー?」

     鳴戸の怒りは赤崎まで及びそうだった。こんな状況でも俺は、赤崎を守りたかった。抜きが見つかったのは俺だけ。彼まで巻き添えにしたくない。心の底からそう思えた。

     だから俺は白い歯を一瞬だけ見せ、無理してウインクをした。絶対に自分の口から言っちゃいけないというゼスチャーのつもりで……。

    「赤崎ー、私の言ってることが聞こえないんですかー?」

    「い……、いえ……」

    「本当ですね?」

    「は、はいっ!」

    「じゃー、今日はもう帰っていいですよ」

     そう言って今日のでずらを渡す鳴戸。

    「よし、確かに渡したぞ。じゃー、明日十時な。お疲れさま」

     帰る際、赤崎は俺のほうをジッと見つめていた。それでいいんだ。君が無事ならそれで……。俺はそんな事を思いながらニヤリと笑った。

     明日十時と鳴戸は言っていたが、赤崎はまだあの『ダークネス』に出勤するのだろうか?そしてちょっとは俺の事を心配してくれているだろうか? あの店の最後で、赤崎をかばえた事に関してだけは、自分を誇りたい。

     それにしても鳴戸の野郎、俺をこんなアザだらけにしやがって……。

     いつの間にか俺は、『ダークネス』での最後を思い出していた。



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