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近䞖フランス最倧の闇ゞャンセニスム⑀りニゲニトゥス

    18䞖玀、ポヌル・ロワむダル修道院の解䜓により、ゞャンセニスムの火はほずんど消えかけおいた。だがパリ倧叞教ノアむナ枢機卿の曖昧な態床は、老王ずロヌマ教皇、そしおむ゚ズス䌚を翻匄し教皇勅曞の発行に぀ながる。この悪名高きりニゲニトゥス勅曞こそ、ゞャンセニスム問題を再燃させるどころか、アンシャン・レゞヌム瀟䌚に分断をもたらし、フランス宗教界を終わりなき闘争ぞず導くこずずなる。

    5-1 逡巡の人

     1713幎9月8日、教皇クレメンス11侖Clément XI, 1649-1721は勅曞「りニゲニトゥス」la Bulle Unigenitusを発する。これはオランダのオラトリオ䌚士パスキ゚・ケネルPasquier Quesnel, 1634-1719が著した『新玄聖曞に関する道埳的省察』(Reflexions morales sur le Nouveau Testament, 1694)の内容を異端孊説ずしお批刀するものであった。ケネルずはオランダ出身のオラトリオ開始であり、著曞の『省察』はアりグスティヌスの新玄聖曞の恩寵に関する芋解を擁護するもので、コルネリりス・ダンセンの著䜜ず共にゞャンセニスムの理論的支柱ずなり埗るものだった。しかしながらりニゲニトゥス勅曞発什の真の芁因はケネルの著䜜に察する懞念よりもむしろ、む゚ズス䌚士ル・テリ゚神父の個人的な嫉劬ず恚みにあった[1]。

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    Louis Antoine de Noailles, 1651-1729
    (Wikimedia commons)

     ルむ・アントワヌヌ・ド・ノアむナLouis Antoine de Noailles, 1651-1729は、1651幎オヌベルニュで初代ノアむナ公爵の次男ずしお生たれ、幌少から聖職に就くこずを運呜付けられおいた。1676幎に゜ルボンヌで神孊を修めた埌、Cahors次いでシャロン・スヌル・マルヌChâlons-sur-Marneの叞教に就任し、確かな知識ず熱心さで耳目を集めおいた。同時に、圌の甥の第3代ノアむナ公アドリ゚ン・モヌリスの劻がルむ14䞖が秘密結婚したマントノン倫人の姪であったこずから、囜王の寵姫の遠瞁であるずいう理由でも泚目の的であり続けおいた。そしお、1695幎パリ倧叞教のアルレヌ氏が死去するず、む゚ズス䌚の圱響力の拡倧を恐れたマントノン倫人が埌継ずしおルむ・アントワヌヌを掚挙したこずから、晎れおパリ倧叞教に就くこずずなった。パリ倧叞教ず蚀えば、あのノヌトル・ダム倧聖堂を拠点ずするフランスの垃教の栞ずなる重芁なポストであった。

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    フランスのカトリック教䌚の䞭枢
    パリ・ノヌトルダム聖堂でのクリスマスミサ

     同時代人の蚌蚀によれば、ノアむナ叞教の人柄は、「誠に敬虔で芏則正しかった」が、政争に打ち勝぀ほど噚甚な人間ではなく、垞に正矩ず䞭立を保ずうずするばかり、逡巡な人間であった。告解叞フェヌロンによれば、圌の心は「匱く柔軟で、気は短く䞍明瞭」であり、ゞャンセニストの゚テマル叞祭は、圌は神孊者だが皆が思うような人物ではなく、頑固で閉ざされた党掟の䞭では気匱な人物であるず評する。それゆえケネルの著曞に察するノアむナ叞教の立堎は䞡矩的で、人々を困惑させた。1698幎には、「シャロン叞教のノアむナを信じればよいのか、パリ倧叞教のノアむナを信じればよいのか」ずいう匿名の颚刺文が出版されるほどだった。シャロンの叞教時代のノアむナは、ケネルの『省察』を支持したが、パリ倧叞教に就任するずゞャンセニストの曞物の教区での配垃を犁じ、それどころか囜王の意思に埓っおポヌル・ロワむダル・デ・シャン修道院の取り壊しを呜じたのだから[2]。

    5-2 む゚ズス䌚士

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    ミシェル・ル・テリ゚神父(1643-1719)

     18䞖玀フランスのカトリック界は、囜王の聎聞僧le confesseurであるラ・シェヌズ神父le PÚre de la Chaise の倩䞋であった。ラ・シェヌズはケネルの著䜜を奜意的に受け取ったが、圌の死埌1709幎にその埌釜に座ったむ゚ズス䌚士ゞェズむットのミシェル・ル・テリ゚神父le pÚre, Michel le Tellier, 1643-1719はゞャンセニスムを攻撃するための新たな材料ずしお芋たのである。
     去る1700幎、パリ倧叞教アントワヌヌ・ド・ノアむナは枢機卿le Cardinalに列せられおいた。圌はゞャンセニスムの曞物に賛同しながら、マントノン倫人を通じお囜王に取り入り、ゞャズむットのル・テリ゚を差し眮いお、カトリック教䌚で教皇に次ぐ枢機卿の地䜍に就いたのである。さらに䞭囜での兞瀌問題をめぐる確執もあった。䞭囜枅での垃教においおむ゚ズス䌚は、珟地人の祖先の祭祀や孔子の厇拝ずいった䌝統儀瀌である「兞瀌」ぞの参加を容認したが、これをノアむナ枢機卿が批刀し、教皇庁に提蚎した。これを受けお、1704幎教皇クレメンス11䞖はむ゚ズス䌚の䞭囜での垃教を犁じたのであった。いわば、教皇に察するむ゚ズス䌚の面目をノアむナは぀ぶしたのである。そのためむ゚ズス䌚にずっお、ノアむナ枢機卿の存圚は奜たしからざるものずなっおいたのである。

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    む゚ズス䌚宣教垫ずしお䞭囜を蚪れたマテオ・リッチず埐光啓の肖像

     こうした怚恚から、ル・テリ゚はノアむナ枢機卿に察し、攻撃的で容赊ない批刀を济びせ、その批刀材料ずしお、圌が信奉しおいたパスキ゚・ケナルの著䜜をやり玉に挙げたのである。囜王付き聎聞僧になっお最初のル・テリ゚の仕事は囜王を説埗するこずだった。圌はケネルの曞物が倚くの聖職者にずっお倧倉危険なものであるず吹き蟌み、そしおルむ14䞖は教皇クレメンス11䞖にケネルの曞物を匟功する教勅の発行を進蚀したのである。教皇は圓初、倚くの聖職者の反察にあいながらも、結局はルむ14䞖の埌抌しがあらゆる障壁を退けたのである。
     1713幎9月10日、ルむ14䞖は教皇クレメンス11䞖より勅曞りニゲニトゥスla Bulle Unigenitusを埗、ゞャンセニスト远攟のための新たな埡旗を埗るのであった。

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    パリ、マレ地区のサン・ポヌル・サン・ルむ教䌚
    フランスにおけるむ゚ズス䌚の拠点だった
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    む゚ズス䌚に信を眮いおいたルむ14䞖は死埌、心臓をサン・ポヌル・サン・ルむ教䌚に安眮させた

    5-3 揺れる宗教界 倧シスマ

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    りニゲニトゥス勅曞フランス語版
    (Wikimedia commons)

     発行されたりニゲニトゥス勅曞は、ラテン語で20ペヌゞほどの小さな曞物であり、フランス語版はル・テリ゚が線纂し、教皇クレメンスが眲名し、ロヌマで発行されカプチン䌚士の手によっおルむ14䞖のもずに届けられた。蔵持䞍䞉也の指摘によれば、勅曞ではケネルの101の呜題が列挙され、それぞれ関連する聖曞の文蚀が付蚘されるこずで、それらの呜題を吊定する構造ずなっおいる。しかしながら、そもそも列挙された101の呜題はそれぞれ『省察』のどこに明蚘されおいるのか、出兞がなされず、聖曞ず呜題ずの関連付けもかなり類掚を芁するもので、そうした曖昧さが議論を招く結果ずなった[3]。そしお本来教勅は、郜垂郚の倧叞教、叞教らの手にわたり、それぞれの叞教区で配垃、斜行されるのが習わしずなっおいたが、パリの30人の叞教らは困惑した。ずりわけマン叞教の蚌蚀が圌らの混乱を的確に衚しおいる。

    私は䞀床も『教蚓的考察』を読んだこずはないが、しかし良曞であるずいう評刀だ。倚くの高貎な叞教がこれを絶賛するが、しかし教皇は非難しおいる。このいらだちは倧きな苊境をもたらしおいる。䞀方では著䜜に賛同する聖職者がおり、䞀方では教皇が非難しおいるのだ。䜕人かの叞教は、教皇のもうろくによっお曞かれた教曞を隠さねばならないず意芋する者もおれば、教曞がもう碌するこずはあり埗ないゆえ、著䜜は読むべきではないず意芋した。

     ここで議論ずなったのは、教皇の䞍可謬性infaillibilitéである。これはむ゚スの第䞀匟子パりロの埌継者たる教皇は、間違いを犯すこず可謬は絶察にあり埗ないずするカトリック信埒の倧原則のこずである。ゆえに教皇が眲名した教皇勅曞は絶察であり、それに埓うこずがカトリック信埒の定めであった。1714幎2月にスヌビヌズ通で行われた聖職者䌚議では、40名の叞教が教勅を受け入れ、宣誓曞に眲名したが、9名の高䜍聖職者らが抗議文に連眲した。囜王はこの宣誓拒吊叞祭らに察しお、パリから出るこずを犁じ、パリ倧叞教ノアむナにノェルサむナぞの出仕を犁じたのである。

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    教皇クレメンス11侖(1649-1721)
    (Wikimedia commons)

     こうしおフランスの宗教界は、倧きく二分するこずずなった。教皇勅曞を支持する立堎にずっおは、倧倉危険な曞物に察する䞍可謬の教皇による独断の政什であり、歯向かえば宗教界からの砎門、远攟、迫害そしお䜕より地獄行きの憂き目にあうこずずなるのだ。他方では、この勅曞は良曞を非難する犏音ず我らが自由l'évangile et nos libertésを砎壊する䞍敬虔な政什に他ならなかった。
     パリの叞教区の䜏民の倚くは、ノアむナ倧叞教を支持した。いらだった教皇は倧叞教に察する新たな政什を出すが、パリ垂民はこれを狂歌にしおあざけった。フランスの歎史においお、この時ほど教皇、教曞、ゞェズむット、聖職者を攻撃する颚刺歌が氟濫したこずはなかったのである。
     䞀方、囜王ずル・テリ゚の偎では、゚ストレ枢機卿やポリニャック叞教、ロアン枢機卿やビッシヌ枢機卿ずいった名だたる高䜍聖職者が味方に付いた。ずりわけロアン枢機卿はノアむナ卿の旧友であり、説教垫でもあったが、しかし誰䞀人ずしおこの分裂を抌さえるこずはできなかった。

    5-4 ゜ルボンヌ

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    パリ倧孊゜ルボンヌ孊寮

      やがおりニゲニトゥス問題は、宗教孊説の暩嚁であるパリ倧孊神孊郚゜ルボンヌLa Faculté de Théologie de l’université de Paris に持ち蟌たれる。ル・テリ゚は囜王による曞簡が倧孊に届けられるより前に、議事を取り仕切る孊郚長le Syndicに腹心のルヌゞュle Rouge氏を就任させ、幟人かの博士を取り蟌み、密偵も送り蟌むずいう工䜜を行った。1714幎2月19日、りニゲニトゥス勅曞は、その登録を呜ずる囜王の手玙ずずもに、䌚議に持ち蟌たれた。囜王の手玙には「教曞を読み䞊げ、登録し、信じるように、朕は呜ずる」ず蚘されおいたが、早くも゜ルボンヌの独立性を揺るがすものずしお、混乱を巻き起こすこずずなった。
     りニゲニトゥス教曞の内容は、パスキ゚・ケナルの神の恩寵に関する101呜題の神孊的誀りを匟功するものであったが、しかし゜ルボンヌにおいおは、教曞自䜓がスキャンダルずなった。すなわち博士らは、神孊的芳点から、教皇の指摘よりもケネルの101呜題を支持したのである。これは教皇の䞍可謬性の原理ず真正面から察立するものであった。それだけりニゲニトゥス教曞には無理があったのである。ある博士は「私の寿呜は短いが、しかしこの教曞を受け入れるくらいなら博士号を攟棄しお死んだ方がたしだ」ず嘆くほどであった。

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    ゜ルボンヌでの䌚合La Séanceの様子(1717幎)

     結果的に、非難ず怒号の䞭、む゚ズス䌚掟閥の博士らずルヌゞュ孊郚長らによる匷行採決によっお教曞は受理される。たたルヌゞュ孊郚長を筆頭に6人の神孊者らによっお、教曞受蚗の垃告が囜王の䞋に届けられた。1714幎3月5日、぀いに゜ルボンヌは教曞受蚗垃告le Décretを印刷、配垃する決定を行ったが、宗教界の䞍和はか぀おないほど高たった。ルヌゞュ氏は停装者呌ばわりされ、゜ルボンヌを远われそうになるが、ル・テリ゚が500゚キュの幎金ず共に圌を救う。たた反教曞掟の神孊者が排陀され、倚くの者が秘密曞簡によりパリ远攟を呜じられた。ボワロヌ叞教は「この秘密曞簡を受け取るこずは、高貎さの蚌である」ず皮肉っおいる。

     りニゲニトゥス勅曞に察するフランス宗教界の反応は急速で烈しかった。ガリカニスムの芳点からパリ倧孊神孊郚゜ルボンヌだけでなく、それに埓うパリの聖職者らやオラトリオ䌚、シトヌ䌚掟、ドミニコ䌚、ベネディクト䌚等、倚くの聖職者は受入れに反察の立堎を瀺し、玠盎に受け入れたのは、む゚ズス䌚を䞻ずした䞀郚の高䜍聖職者だけだった[4]。
     このように18䞖玀のゞャンセニスム論争はえおしお、教皇勅曞りニゲニトゥスを受入れるか、受入れないかによる察立の間で繰り広げられた。それは単なる聖職者の立堎衚明に過ぎなかったが、啓蒙の䞖玀、ゞャンセニスムの思想ずその抵抗の歎史は宗教界を超え、法服貎族や新興ブルゞョワずいった垂民瀟䌚党䜓に共有されおいた。やがおりニゲニトゥス論争は囜王ずロヌマ教皇、゜ルボンヌず高等法院ずいった瀟䌚党䜓を巻き蟌み、革呜に至るたで王囜を揺さぶり続けるこずずなる[5]。

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    りニゲニトゥス勅曞の寓意画
    (Estamps MAS)

    む゚ズス䌚に信を眮いおいたルむ14䞖は死埌、心臓をサン・ポヌル・サン・ルむ教䌚に安眮させた。「䞀぀の信仰」を目指した倪陜王であったが、りニゲニトゥスによっおゞャンセニスム問題は再燃する。「逡巡の人」こずノアむナ枢機卿は、ル・テリ゚の策略により図らずもゞャンセニスムの戊いの枊䞭におかれるこずずなった。1715幎倏、死の床のルむ14䞖はル・テリ゚神父らむ゚ズス䌚士の蚎えに抌され、぀いにノアむナ枢機卿远攟のための準備に取り掛かる。
    2025幎11月

    【参考文献】

    ・Docteur Grand-Colas, « De la bulle unigenitus en France; elle est tour-à-tour reçue et rejettée en Sorbonne. Du docteur Grand-Colas » in M. l'abbé J. DUVERNET, 'Histoire de la Sorbonne dans laquelle on voit l'influence de la Théologie sur l'ordre social', Chapitre LXIV, Paris, 1799, pp. 264-283.
    ※本皿の内容の倧郚は䞊蚘の18䞖玀の叞祭デュベルネによる『瀟䌚秩序に察する圱響から芋た゜ルボンヌの歎史』に寄っおいる。
    [1] Michel LE GUERN, « Le Jansénisme : une réalité politique et un enjeu de pouvoirs », Recherches de Science Religieuse, 91-3, 2003, p. 480.
    [2] Ibid., p. 479.
    [3] 蔵持䞍䞉也『奇跡ず痙攣近代フランスの宗教察立ず民衆文化』、蚀叢瀟、2019幎、59-60頁。
    [4] Jean-Christien PETITFILS, Louis XIV, Perrin, 2018, p. 75.
    [5] 珟代のゞャンセニスムの歎史家Monique Cottretは18䞖玀を「りニゲニトゥスの䞖玀」le siÚcle de l'Unigenitusず圢容しおいる。Monique COTTRET, Histoire du jansénisme, Perrin, Paris, 2016.
    ※泚釈のない写真はすべお筆者撮圱


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