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近世フランス最大の闇ジャンセニスム④破壊

    太陽王ルイ14世の親政はフランスにかつてない繁栄をもたらした。しかしその栄華は、常に戦争と迫害という影と表裏を一体にしていた。王の野心と情事の気まぐれはヨーロッパ全土を翻弄し、ジャンセニストに破滅的試練をもたらすこととなる。
    第一部、完結。舞台は18世紀「啓蒙の世紀」へ。

    4-1 弾圧

     1656年、レ枢機卿によるポール・ロワイヤルでの「聖荊の奇蹟」の承認に先立つ、10月16日、新教皇となったアレクサンデル7世Alexandre VII, 1599-1667は、故インノケンティウス10世の教書を再確認する教書アド・サクラムAd Sacramを発行し、コルネリウス・ヤンセンの「5命題」を再び異端と認定した。これは1642年にコルネリウス・ヤンセンに向けられたイン・エミネンティ、1653年クム・オカジオネに続く3度目の教皇勅書だった[1]。1660年には国王顧問会議は『プロヴァンシャル』の焚書を決定した。アルノーとピエール・ニコルは逃亡を余儀なくされる。

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    傷病兵を収容したパリのアンヴァリッド廃兵院の天井画下絵より
    中央のイエスに対して下部左に跪くルイ14世が見える(トップ画像)

     1661年3月9日宰相マザランが死んだ。翌10日、22歳のルイ14世は諸大臣と顧問官を召集し、摂政や宰相を置かない自身の親政を宣言する。「舞台は変わる」La Face du théâtre changeとはこのとき、ルイ14世自身が発した言葉とされる[2]。
     17世紀、近代的な中央集権化政策を進めていた王は「一つの信仰、一人の王、一つの法」Une foi, Un roi, Une loiの旗印の下、異端廃絶にいそしみ、プロテスタント(ユグノー)に対する徹底的な迫害政策を行った。とりわけ1685年のフォンテーヌブロー勅令(ナント王令の廃止)は、プロテスタントに信仰の自由を認めることで宗教対立に歯止めを利かせていたアンリ4世のナント王令を廃するものであり、これを機にフランスのプロテスタント勢力約20万人は、一挙にオランダなどの新教国家に流出した。一方でカトリック教会は、高位聖職者が宮廷貴族化し、王権神授説の正当性を保証し、王権もまた教会に免税特権を与え、教会批判を犯罪者として取り締まった[3]。

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    修道院を追われるポール・ロワイヤルの修道女
    (ポール・ロワイヤルの友協会HP)

     当然ながらジャンセニストに対してもプロテスタントと同様のまなざしが向けられた。王は、1661年の『メモワール』で「(王国全体に)無秩序がはびこっている」と嘆き、「余はジャンセニストの破壊に専心する」と決意を固めている[4]。同年、聖職者会議は全国の聖職者に対し「信仰宣誓書」Formulaireに署名することを強制する決議を下した。この「信仰宣誓書」とはジャンセニストを弾劾する先のインノケンティウス10世、アレクサンデル7世の教書に対してのものだった。これに対しジャンセニストは様々な反応を見せる。パスカルの姉ジャックリーヌ・パスカルは、徹底した抵抗に賛同し「我々は真実の擁護者となるのではなく、真実のために死ぬのです」と表明していた。対して修道院長アンジェリック・アルノーは署名に否定的ではなかったが、同年70歳で死没してしまう。かようにしてジャンセニストらは様々な逃げ口上を行った上にルイ14世の怒りを買い、ポール・ロワイヤルの修道女、寄宿生らは退去を強制されることとなった[5]。

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    大迫害者パリ大司教ペレフィクス
    (Wikimedia commons)

     1664年夏、新たにパリ大司教に任命されたペレフィクスPaul Philippe Hardouin de Péréfixe de Beaumont, 1606-1671は、「信仰宣誓書」への署名を強制する教書を発する。ペレフィクスは当初ジェンセニストに対して温和な態度をとっていた。しかしジャンセニスト内部のタカ派で「第二の大アルノー」と評されていたモラリストのピエール・ニコルPierre Nicole, 1625-1695が執拗に反発するようになると、怒りを増大させるようになる[6]。そして1664年8月26日、パリ大司教はパリのポール・ロワイヤル修道院を訪問し、200人の武装した兵士に修道院を包囲させ、威圧した。これにより強硬な抵抗者は修道院からの退去、幽閉、国外逃亡を余儀なくされた。さらに1665年7月3日ペレフィクスは、ジャンセニストの非署名者を、ポール・ロワイヤル・ド・パリから追放し、郊外のポール・ロワイヤル・デ・シャンに結集させ、常に警視の監視のもとに置くように命じた[7]。また同年新たに出された教皇勅書に対して、4人の司教が反対を表明したが、このうち『新約聖書』の翻訳を企てたとしてフォンテーヌJean de La Fontaine, 1621-1694とサシー司教Le Maître de Sacy, 1613-1684の二人がバスティーユに収監された[8]。

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    Paris, Versailles, Chevreuseの位置関係を表した図
    Port-Royalが意外にもVersaillesの近郊であったことがわかる
    18世紀カッシーニの地図Carte de Cassiniより筆者作成

    4-2 戦争と平和

     パリ大司教ペレフィクスによる大弾圧が行われた1660年代前半に対して、1668年から1679年は王権がジャンセニストに対し友好的態度を示した「教会の平和」la paix de l’Égliseと呼ばれる時期に当たる。皮肉にもそれはモンテスパン夫人Madame de Montespan, 1640-1707が国王の愛妾として宮廷で権勢をふるい始め、国王自身が不信心な私的生活に溺れ、敬虔さを失い信仰に無関心であったからだとされる[9]。また時の教皇クレメンス9世Clément IX, 1600-1669も宗教界の「調和」Accomodationに積極的であり、1668年9月には駐仏教皇特使が大アルノーと友好的な面会を行っている。ジャンセニストは論争に対する「恭しい沈黙」le silence respectueuxを受入れることにより、協調が実現した。それ以上に彼らの立場を好転させたのは、皮肉にも戦争であった[10]。

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    宮廷寵姫モンテスパン夫人(中央)と王との間に生まれた4人の子供
    https://histoire-image.org/etudes/madame-montespan

     1672年より、ルイ14世はオランダへの侵略(オランダ戦争)la guerre de Hollande, 1672-1678に着手する。プロテスタントの新興国家オランダに対抗すべく、王はカトリックの連帯l’unanimité catholiqueを必要とし、ジャンセニストに対し友好的な態度をとるようになる。それに先立つ1668年10月には、国王が大アルノーと面会し、バスティーユに収監されたフォンテーヌとサシーを釈放させた。さらに1671年には大アルノーの甥ポンポンヌ神父Arnauld de Pomponne, 1646-1674をストックホルム大使に任命している。
    反プロテスタントの戦いに参画することで、ジャンセニストら自身も、文芸活動に邁進する。例えば1669年にアルノーとピエール・ニコルは『聖体拝礼に関するカトリック教会の信仰の永続性』La Perpétuité de la foi de l’Église catholique touchant l’eucharistie, 1669、1671年にはピエール・ニコルが『カルヴィニスト(プロテスタント)に関する正当な予断』Les Préjugés légitimes contre les calvinistes, 1671を著し、大きな反響を得るに至った[11]。

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    ヴェルサイユ宮殿鏡の間はオランダ戦争の勝利を祝って建設された
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    鏡の間の天井画はすべてオランダ戦争での出来事を主題とするプロパガンダ絵画となっている
    上は「フランシュ・コンテ地方を征服するルイ14世」がローマ皇帝に扮して描かれている

    4-3 亡命者たち

     クレメンス9世による「教会の平和」はもろく、長くは続かなかった。1679年、オランダに勝利したルイ14世はもはや教会の連帯を必要とせず、ポンポンヌは職を説かれ、ジャンセニスト最大の宮廷の保護者であったロングヴィル公爵夫人も世を去った。
     さらに1680年ごろは国王の私的生活にとっても転機となる。公式の愛妾モンテスパン夫人が黒ミサ事件で失脚し、篤信なマントノン夫人Madame de Maintenon, 1635-1719が新たな寵姫として頭角を現し始めていた。王妃マリー・テレーズの死後は国王と秘密結婚し、最後の愛人として晩年の国王に寄り添っていくこととなる。ルイ14世自身はガリカニスム的立場を固め、1685年にはフォンテーヌブロー勅令でナント勅令を廃止し、プロテスタントへの迫害を決定的なものとしていた[12]。

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    モラリストとしても知られたピエール・ニコル
    (la Bibliothèque de Port-Royal)

     ポール・ロワイヤルのジャンセニストは、基本的に国王の反プロテスタント政策には賛成の立場であった。しかし1680年代多くの論客は、最初の殉教者サン・シランにならい自らネーデルラント地方への亡命を選んだ。大アルノーはオランダ、ブリュッセルと各地を転々としながらも、ピエール・ニコルやニコラ・パヴィヨンNicolas Pavillon, 1597-1677などと神学論争を繰り広げていた。その途上、オラトリオ会士パスキエ・ケネルPasquier Quesnel, 1634-1719と出会う。ケネルは1694年に『新約聖書』に関する新たな解釈を投じた『新約聖書に関する道徳的省察』Reflexions morales sur le Nouveau Testament, 1694を刊行し、カトリック神学界に大きな反響をもたらした。『道徳的省察』はバチカンの聖職者にまで広まり、1703年から異端の書として断罪され始め、同年ケネルはブリュッセルで逮捕、投獄される[13]。新たな争闘が始まろうとしていた。この書物こそジャンセニスムを17世紀の宗教問題に終わらせず、18世紀に持ち込ませることとなるのである[14]。

    4-4 ポール・ロワイヤル

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    現在のポール・ロワイヤル・デ・シャン
    奥の建物は19世紀に再建されたもの
    (Wikimedia commons)

     対してシェヴルーズの谷、ポール・ロワイヤル・デ・シャン修道院は、かつての勢いを失い、荒廃の一途をたどっていた。女子修道院長アンジェリック・アルノー(1661年没)や最初の隠棲者アントワーヌ・ルメートル(1658年)、アルノー・ダンディ(1674年)、ブレーズ・パスカル(1662年)、姉ジャックリーヌ・パスカル(1661年)、大アルノー(1694年)、劇作家ジャン・ラシーヌ(1699年)といったソリテールや小さな学校を彩った偉大な創設者や論客の多くはすでに世を去っていた。1680年代には、アルノー家をはじめとする彼らの墓がデ・シャンに移されるようになり、「生者よりも死者の数のほうが多い」と評されるまでになっていた[15]。
     1690年代以降のルイ14世は、マントノン夫人の影響から自身の救済を気に病むようになり、次第に教皇とイエズス会と接近する。そして王はローマと和解し、教皇至上主義ultramontaineの立場に傾くようになる[16]。18世紀初頭ソルボンヌと高等法院が教皇クレメンス11世と対立し、ジャンセニスム問題が再燃しそうになると、王は教皇を説得し、1705年ジャンセニスム問題を「永久に収束させる」ための大勅書ウィネアム・ドミネーVineam domini sabathを公布させる。これを機に「最後の迫害」がはじまる[17]。

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    後に革命で破壊されるバスティーユ(BnF)
    ルイ14世の時代の異端にとっては劣悪な環境の牢獄だった

     パリ近郊のヴァンセンヌ、バスティーユの牢獄は、ジャンセニストであふれ、ヴェルサイユ近郊に位置するポール・ロワイヤル・デ・シャンは未だに反乱者の「セクト」(党派)の中心地とみなされるようになっていた。パリ大司教ノアイユLouis Antoine de Noailles, 1651-1729は1707年同修道院から秘跡(を行う権利)sacrementを取り上げた。翌1708年、教皇クレメンス11世が大勅書「アド・インスタンティアム・レギス」を発する。これは「異端ジャンセニストがかようなまでに有害な広がりを見せた巣窟を、完全に破壊し、根絶する」ための大勅書であった。これに従い翌1709年ノアイユ大司教は、ポール・ロワイヤル・デ・シャン修道院を廃止し、全財産をポール・ロワイヤル・ド・パリに移譲させる教書を発行した[18]。

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    1709年ポール・ロワイヤル・デ・シャン修道院の追放宣言
    (Musée National de Port-Royal des Champs)

     1709年10月26日国王顧問会議もまた同修道院の廃院を決し、10月29日にはシェヴルーズの谷に警視総監ダルジャンソン侯爵Marc René de Voyer de Paulmy d'Argenson, 1652-1721が300人の射手を伴って現れ、僧院を包囲し、修道女と構成員の追放を宣言した。当時そこにいた修道女は22人であり、荷造りに10分足らずの時間しか与えられず、警官隊の監視の下、正午過ぎには修道院を後にした。修道院長をはじめとする22名はそれぞれ、ブロワ、アミアン、ボーヴェ、コンピエーニュ、シャルトル、オータンなど各地への離散が命じられた[19]。

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    1710年ポール・ロワイヤル・デ・シャンの破壊を命ずるパリ大司教ノアイユ(右)
    左下で作業者が遺体を掘り起こしている
    (Musée National Port-Royal des Champs)

     翌1710年1月22日、国王顧問会議はポール・ロワイヤル・デ・シャン修道院のすべての建物の取り壊しを命じた。破壊は建物だけにとどまらず、墓地の取り壊しにも及んだ。1204年の修道院創設以来5世紀にわたって埋葬された3000人以上の遺体がすべて掘り起こされ、近隣の教会に埋葬し直された。膨大な労働者を雇いながら作業は1712年の年末まで続いたとされる[20]。

     なぜルイ14世はつぶれかけの僧院にたいしてかくも徹底的な破壊を行ったのか?一説にはイエズス会サン・シュルピス神学校からの次のような忠告があったからだとされている。

    ポール・ロワイヤル・デ・シャンは、それが存在する限り、地上から忘れ去られるべき人々の記憶のモニュメントとなるでしょう。王国に散らばったジャンセニストは、必ずやいつかこの修道院を復活させ、交渉や信用を武器に、これまでと同じくらい危険な隠れ家を作り上げるはずです[21]。

     しかしこのルイ14世の破壊は逆説的な効用を生み出した。修道院の解体という強硬策は、逆に人々に修道院の記憶を残そうとする動きを誘発したのである[22]。1723年『ポール・ロワイヤル・デ・シャン大修道院故人名簿』を作成したベネディクト会士ラ・グランジュAntoine Rive de La Grane, 1683-1749は「不当にして致命的な迫害は、その記憶をより尊敬に値するものとしただけだった」と記し、次のような詩を残している。

    この忠実なる羊たち
    名を汚しても無駄なこと
    彼らは破壊で輝きを増し
    その徳で記憶を永遠にする[23]

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    現在のポール・ロワイヤル・デ・シャン修道院跡地
    (Wikimedia commons)

    ジャンセニスム。それは弾圧と抵抗の歴史である。
    コルネリウス・ヤンセン、サン・シラン、アルノー、ラシーヌ、パスカル。。。偉大な創始者らとソリテールの多くは死んだ。ポール・ロワイヤルは崩れた。しかし修道院の記憶は彼らの抵抗のシンボルとして人々に刻まれた。そして次に抵抗の旗手を担ったのは、修道院の破壊命令を下したパリ大司教ことルイ・アントワーヌ・ド・ノアイユ、その人であった。
    (2026年4月)


    【参考文献】

    [1] Monique COTTRET, Histoire du jansénisme, Perrin, Paris, 2016, pp. 67-68.
    [2] Joël CORNETTE, Absolutisme et Lumières 1652-1783, hachette, Paris, 2014, p. 12.
    [3] グザヴィエ・ド・モンクロ(波木居純一訳)『フランス宗教史』、白水社、1997年。
    [4] M. Cottret, op.cit., p.83.
    [5] M. Cottret, op.cit., p. 85.
    [6] « Nicolas Pierre 1625-1695 – Société des amis de Port Royal », ‘ https://www.amisdeportroyal.org/societe/index.php/nicole-pierre-1625-1695/’
    [7] « L’emprisonnement des religieuses à Port Royal des Champs, 3 juillet 1665 – Société des amis de Port Royal », ‘https://www.amisdeportroyal.org/societe/index.php/lemprisonnement-des-religieuses-a-port-royal-des-champs-3-juillet-1665/’
    [8] M. Cottret, op.cit., pp. 93-94.
    [9] M. Cottret, op.cit., p. 108.
    [10] M. Cottret, op.cit., pp. 107-110.
    [11] M. Cottret, op.cit., pp. 110-115.
    [12] ユベール・メチヴィエ(前川貞次郎訳)『ルイ十四世』、白水社、1955年、101頁。
    [13] M. Cottret, op.cit. pp. 121-128.
    [14] 19世紀の宗教史家サント・ブーヴはパスキエ・ケネルの存在について、「(ジャンセニスム史にとって)欠くことのできない存在であるばかりでなく、18世紀ジャンセニスムの幕開け」であると評している。Sainte-Beuve, Port-Royal, 1840-1859, t. 3, p. 433, cité par M. Cottret, op.cit., p. 129.
    [15] M. Cottret, op.cit., p. 123
    [16] メチヴィエ、前掲書、104-105頁。
    [17] 御園敬介「啓蒙の世紀のポール・ロワイヤル序論―修道院の破壊とその余波をめぐって―」、『慶應義塾大学日吉紀要』、81、2025年、3-5頁。
    [18] 御園、同上、134-141頁。
    [19] 御園、同上、10-11頁。
    [20] 御園、同上、18-19頁。
    [21] P. GUILBERT, Mémoires historiques et chronologiques sur l’abbaye de Port-Royal des Champs. Depuis la Paix de l’Église en 1668 jusqu’à la mort de dernières religieuses et amis de ce monastère, Utrecht, s. n., 1755-1756, t. III, p.261(御園、同上、13頁)。
    [22] 御園敬介は修道院の破壊が18世紀以降の「図像と文章によるイメージの生成や歴史記述と史料編纂の企てを誘発した」のだと指摘する。御園、同上、28頁。
    [23] A. RIVET DE LA GRANGE, Nécrologe de l’abbaye de Notre-Dame de Port-Royal des Champs, ordre de Cîteaux, institut du Saint-Sacrement, Amsterdam, N. Potgieter, 1723, p. XIV, LXVII.(御園、同上、28-29頁)。
    ※注釈のない画像はすべて筆者撮影。

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