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近䞖フランス最倧の闇ゞャンセニスム⑥倪陜王の死

    1715幎倏、ルむ14䞖は臚終の際にあった。73幎ずいう䞖界最長の統治期間を経お最埌たで心残りであり続けたのは、りニゲニトゥス勅曞を発端ずする囜内の宗教界の分裂であった。王は生涯最埌の仕事ずしお、勅曞の受入れを拒絶するノアむナ枢機卿の砎門準備に取り掛かる。だが、9月1日、事態は倧きく倉化する。。。本皿は知られざる䞀人のゞャンセニストの倉転に぀いお、圓時の新聞分析から远った筆者の独自研究に基づくものである。

    6-1 ルむ14䞖の黄昏

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    晩幎のルむ14䞖の顔の暡型(ノェルサむナ宮殿)

    「いずもキリスト教的な王」le Roy trÚs chrétien
    これは代々フランス王を衚す尊称である。18䞖玀初頭、最晩幎のルむ14䞖は信心深いマントノン倫人ず秘密結婚をし、党ペヌロッパを敵に回した自身の戊争政策を苊い、ノェルサむナ宮殿北の翌棟に自身最埌の傑䜜建築ずなる新瀌拝堂を増築させるなど、信仰節き生掻を送っおいた。そんな倪陜王にずっお、ゞャンセニスム問題ずりニゲニトゥス勅曞による論争の拡倧は、最埌の懞念事項ずなっおいた。王は教皇の意向に沿い぀぀、囜内の聖職者らに無条件に教勅を受入れるよう願い、受入れ拒吊掟の聖職者らを諮問するための王什も発垃した。しかし近䞖フランスでは、王什はパリ高等法院の登録でもっお初めお、有効なものずなる。パリ高等法院は、教皇の意向に沿った囜王の王什はガリカニスムの原則に反するずしお、王什の登録を拒絶した。この堎合の匷硬手段ずしお、囜王自らが高等法院に赎き、芪裁座Lit de Justiceを開いお、囜王の芁求を面前で受入れさせるずいうものがあった。芪裁座の開催は8月末を予定しおいた。 

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    ルむ14䞖が最埌に建築させたノェルサむナ宮殿附属瀌拝所

     1715幎8月10日ルむ14䞖は離宮マルリヌ宮で熱病を発し、その日以降毎晩熱病に苊しむこずになる。8月25日にはかねおより持病を患っおいた足に壊死が生じ、王の最埌の宮廷生掻は激痛ず共にあった。死ぞのカりントダりンである。しかし8月29日においおもなお、囜王はりニゲニトゥス勅曞反察掟の聖職者を諮問するための王什の登録をパリ高等法院に認めさせるため、芪裁座に向かおうずしおいた。

    6-2 窮地の枢機卿

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    Louis-Antoine de Noailles, le Cardinal de Noailles, 1651-1729 (musée Carnavalet)

     18䞖玀ゞャンセニスム運動の銖領ずしおやり玉に挙げられおいたのはパリ倧叞教こずノアむナ枢機卿であった。1700幎ノアむナが枢機卿に列せられるず、囜王の説教垫ラ・シェヌズ神父やその埌任ル・テリ゚神父らのむ゚ズス䌚士は、苛立ちを隠そうずせず、囜王や教皇を懐柔し、ノアむナ枢機卿の远い萜ずすための画策を始める。1708幎、教皇クレメンス11䞖はケネル神父の著䜜を攻撃する声明を出す。パリ高等法院はフランスでの流垃を拒吊したが、ケネルの著䜜は教皇ずむ゚ズス䌚士らによるノアむナ枢機卿攻撃にずっおの最良の道具ずなっおいた。か぀お賛同を瀺しおいたこずから、ノアむナ枢機卿は「教䌚ず教皇、そしお囜王の敵」ずみなされおいたのである[1]。

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    2024幎の修埩工事䞭のパリ倧叞教座聖堂ノヌトル・ダム

     1713幎りニゲニトゥス勅曞が発行されるず、ノアむナ枢機卿は䞀応は教区内でのケネルの著䜜の認可を取り消したが、しかしむ゚ズス䌚士以倖の倚くの神孊者らが反論する教皇勅曞それ自䜓の受入れは認めなかった。これにいらだった教皇はロヌマぞの召還を求め、ルむ14䞖は1715幎「教勅反察掟を諮問する王什」を公垃し、党囜叞教䌚議の召集の準備に取り掛かる。そしおノアむナ枢機卿が立堎を倉えないのであれば、枢機卿䜍のはく奪ず宗教界からの砎門をさせる぀もりであった[2]。

    6-3 新聞に描かれたルむ14䞖の死

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    ルむ14䞖の死を報じる『ガれット・ダムステルダム』(1715幎9月10日号別冊)

     1685幎のルむ14䞖によるナント王什の廃止は、倚くの有胜なナグノヌを囜倖に逃亡させるこずずなった。圌らの䞭には貎族の者も含たれ、倚くはオランダなどのプロテスタント囜に逃れ、持ち前の才芚ず情報網を駆䜿しおフランス語新聞を創刊する者もあらわれた。それらの新聞はフランスに逆茞入され、怜閲されたフランス政府公匏の『ガれット』よりも、より倚く詳现な情報を埗られるずしお宮廷人に重宝された。その代衚栌がオランダの新聞『ガれット・ダムステルダム』Gazette d'Amsterdamである。同玙はオランダの新聞でありながら、ペヌロッパ各囜に普及し、圓時もっずも倚く読たれたフランス語新聞であるずされる[3]。
     ルむ14䞖の死1715幎9月1日の前埌には、圓然王の病状に関する詳现が现かく掲茉されたが、同時にゞャンセニストで窮地にあったノアむナ枢機卿に関する蚀及も倚くなっおいる。ずいうのもオランダの新聞は亡呜ナグノヌによっお創刊された経緯から、異端ずしお断眪されるゞャンセニストに芪近感を抱き、特別の関心を寄せおいたのである。
     圓時の新聞の䞻流は週に1回か2回発行で、蚘事の゜ヌスずなる曞簡の受け取りなどに時間がかかるため、1週間ないし2週間のタむムラグが生じおいた。それでも週2回刊行の『ガれット・ダムステルダム』は、できうる限り最新のフランス宮廷ず宗教界の動向を䌝えおいる。䟋えば8月30日パリ発の蚘事によれば、フランス政府はロヌマの高䜍聖職者臚垭による聖職者䌚議の開催を予定しおいたが、囜王の病によっお䞭止されたずする。たた9月10日発行の『ガれット・ダムステルダム』によるず、8月29日朝6時、ルむ14䞖はりニゲニトゥス勅曞を拒吊した高䜍聖職者に察する宣蚀曞を通過させるための芪裁座ぞの出垭を䌁おたが、病状の悪化により断念したずされる[4]。たた同号は、ルむ14䞖が次期囜王ずなる5歳のアンゞュヌ公に自身の宗教政策を匕き継がせようずしおいた旚も蚘しおいる。圌は幌王が自ら高等法院に赎いお、高等法院に王什を登録させるこずを望んでいたようだ。倪陜王が死際たでゞャンセニストの廃絶に血県になっおいたこずがわかる[5]。

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    アンゞュヌ公(未来のルむ15侖)に遺蚀を蚗す病床のルむ14侖
    (https://www.meisterdrucke.lu/)

     こうした絶䜓絶呜の状況においお、ノアむナ枢機卿は二぀の手玙をしたため挜回を狙う。䞀通は旧知のマントノン倫人にあおたもので、䞀通は囜王その人にあおお曞かれた。それらの内容は慈悲に満ち、囜王の病気をなげき、最埌の瞬間たで恩人である囜王に面䌚しお「最埌の忠誠の蚌を敬意ず共に」瀺したいずするものであった。同玙によれば、この月䞊みず思えなくもない手玙は、なんず最期の老王の心を打぀こずに成功したルむ14䞖はロアン枢機卿ずビシヌ枢機卿に盞談する。圌らは「陛䞋が教皇ずカトリックの聖職者の助蚀に埓われおきたこずは、䜕ら悔いるこずではありたせん」ずたしなめたが、囜王は「しかしノアむナ枢機卿は、䜙に䌚いたいず申しおいる。そしお䜙は圌を垞に愛しおきたし、面䌚するこずにいかなる抵抗もないのだ」ず反論した。それに察しル・テリ゚神父は「陛䞋、陛䞋は今たで陛䞋が䞀生をかけお築かれおきたもの信仰の平和を䞀瞬で壊そうずなさるのですか今、枢機卿殿にお䌚いになれば、すべおが無駄になるのです。」ず説いたが、囜王はたじろがなかった。「しかし䜙は圌に察しお䞀切の個人的恚みはない。垞に圌を評䟡し、愛しおきた。せめお倧法官に返事を曞かせ、䜙の芪愛の情を䌝えなさい[8]」。囜王のこの死際の蚀葉が、ノアむナ枢機卿の名誉を回埩するこずずなった。それどころか、のちの宗教界の秩序を䞀倉させるこずに぀ながるこずずなる。

    6-4 新時代

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    死の床のルむ14侖(BnF)

     1715幎9月1日朝、ルむ14䞖は぀いに77幎の生涯を終えた。フランス政府の公匏新聞『ガれット』Gazetteは、蚃報蚘事を「囜王は最埌の瞬間たで、宗教的な信仰に支えられ、教䌚の子ずしお、キリスト教埒の英雄ずしおふさわしい嚁厳を保ち続けた[12]」ず結んでいる。同じく政府公認の月刊誌『メルキュヌル』Mercureは、「真のキリスト教埒で、真の英雄であり、英雄的な囜王[13]」ずいう修蟞を繰り返し、荘厳に囜王の最埌の日々の詳现を報じおいる。
     䞀方で、オランダの新聞『ガれット・ダムステルダム』の報道は、特殊である。9月13日号は、通垞䟿ず号倖でルむ14䞖の死を詳现に報じおいるが、号倖の筆臎の䞻軞は、明らかに囜王の死そのものよりもむしろノアむナ枢機卿の名誉回埩劇に充おられおいる。ここではルむ14䞖厩埡の翌日、ノアむナ枢機卿ず新摂政オルレアン公爵の邂逅、新囜王ルむ15䞖ずの謁芋が描かれおいる。オルレアン公ずは敬虔な故王ずは察照的に自由䞻矩者を暙抜するリベルタンlibertinであり、宮廷の様盞の倉化を劂実に衚しおいる。『ガれット・ダムステルダム』においお、ノアむナ枢機卿は誰よりも早く、ルむ14䞖死埌の宮廷に招かれ、新囜王ずその他の王族に謁芋を蚱された。オランダの新聞は王の死の報道においお、砎門ずいう人生最倧の窮地を王の死によっお乗り越えた䞀人のゞャンセニストの起死回生の埩掻劇を報じたのである。

    9月2日
     囜王は昚日の午前8時15分に厩埡され、ノアむナ枢機卿殿は10時にその知らせを受けずられた。猊䞋はそれたで公開されおいた聖遺物をしたわせ、正午にノェルサむナに発たれた。そこでは最初にオルレアン公爵殿(新摂政)の居所に向かわれた。猊䞋の到着が知らされるず公爵は倧声で「わかっおいる。私が呌び寄せたからだ」ず答えられた。Son Altesse Royale尊顔麗しき殿䞋(オルレアン公)は控えの間の䞭倮たで出向かれ、枢機卿殿ず抱擁を亀わされた。その埌お二人は別の曞斎に移動し、30分ほど話し蟌たれた。枢機卿殿はその埌、新囜王(ルむ15侖)ずその他の王子、王女のもずを蚪れ、倚くの人々から友奜的な歓迎を受けられた。ただし(オルレアン公爵の仇敵)メヌヌ公は誰ずも䌚われず、メヌヌ公倫人に至っおは倖出されおいた。
     昚日たで远攟の危機にあったこの囜で、かの枢機卿殿を迎え入れるこずは、党宮廷にずっお圢容しがたい喜びであった。泚目すべきは、枢機卿猊䞋が王女の居宀に向かわれる際、鉢合わせしたル・テリ゚氏が同䌎の者の歩みを止めさせ、猊䞋に道を譲られたこず。その埌ご自身は歩みを早めお腹心でありノアむナ卿の仇敵であるロアン枢機卿殿ず゚クス、ラオン倧叞教の居所に向かわれたこずである。(その埌)ノアむナ卿はマントノン倫人に謁芋するためマルリヌ宮に向かわれた14。

    9月13日号倖より

     同時にこの新聞は、ル・テリ゚ずノアむナずいう宿敵同士の思わぬ邂逅も描いおいる。先述のようにりニゲニトゥス論争のそもそもの発端はル・テリ゚神父のノアむナ卿ぞの個人的な嫉劬にあった。しかしながらフランス宗教界の頂点に君臚したル・テリ゚神父が、自身が远攟しようずしおいたノアむナ卿に道を譲るずいう描写は、時代の倉化を象城的に衚しおいる。それ以䞊に、腹心のもずに足早に向かおうずするル・テリ゚の姿は、フランス宗教界におけるむ゚ズス䌚の陰りを予芋させるものであった。

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    ルむ14䞖の墓碑サン・ドニ聖堂

    䞀぀の時代が終わろうずしおいる。
    新摂政オルレアン公は、それたで倪陜王が築き䞊げおきた王囜の党おを倉えた。ゞャンセニストずしお匟圧されおきたノアむナ枢機卿は新政府の聖職者顧問䌚議の座長に就任し、む゚ズス䌚士ずしお暩勢を誇っおいたル・テリ゚神父は宮廷を远攟されるこずずなる。時代は信仰節き倪陜王の時代から自由䞻矩者が闊歩する自由䞻矩(リベラリズム)の時代ぞず移り倉わった。フランス宗教界の秩序は逆転し、さらなる混沌が埅ち受ける。すなわちむ゚ズス䌚ぞの「粛枅」がはじたるのである。

    2025幎11月2026幎6月


    【参考文献】

    [1]Comte E. de BARTHÉLEMY, Le Cardinal de Noailes, Évêque de Chalons, Archévêque de Paris, d'aprÚs sa correspondence inédite 1651-1729, Paris, 1886, pp. 7-22.  
    [2]蔵持䞍䞉也『奇跡ず痙攣近代フランスの宗教察立ず民衆文化』、蚀叢瀟、2019幎、61-64頁。
    [3]Marion BRÉTÉCHÉ, Les compagnons de Mercure. Journalisme et politique dans l'Europe de Louis XIV, Paris, Champs Vallon, 2015, p. 163.
    Michel LE GUERN, « Le Jansénisme : une réalité politique et un enjeu de pouvoirs », Recherches de Science Religieuse, 91-3, 2003, p. 480.
    [4] Gazette d'Amsterdam [désormais G. A.], le 6 septembre 1715, p.432.
    [5] G. A., le 10 septembre 1715, p. 437.
    [6] Ibid., p. 437.
    [7] Antoine, op.cit., p. 63
    [8] G. A., le 13 septembre 1715, p. 445.
    [9] De plus, la feuille du 13 septembre est non seulement citant l’article de la Gazette de France, il ajouté aussi un long Mandement du Cardinal de Noailles pour ordonner qu’on célébrer Services solennel dans toutes les Églises pour repos de l’âme du feu roi. Ibid., pp. 441-442.
    [10] Ibid., p. 446.
    [11] Jean SGARD, « Le jansénisme dans les gazettes françaises de hollande (1713-1730) », Pierre RÉTAT (éd.), Les gazettes européennes de langue française (XVIIe-XVIIIe siÚcles), Publications de l’Université de Saint-Étienne, 1992, pp. 281-283.
    [12]Gazette, le 7 septembre 1715, p. 431.
    [13]Le FÚbvre de FONTENAY, Journal historique de tout ce qui s'est passé depuis les premieres jours de la Maldie de Louis XIV jusqu'au jour de son Service à Saint-Denis, in Nouveau Mercure Galant du mois d'Octobre 1715, Paris, 1715, p. 44.
    [14] G.A., le 13 septembre 1715, p. 446.
    ※泚釈のない写真はすべお筆者撮圱によるものである。

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