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2×3×4 ドスケベナノオスキーと? 【第三片】

       あらすじ

     二人の人間、三つのテーマ、四つの物語に沿って描かれる同時多発的連続作品。
     時に甘く、時にグロく、同じ名前であれど姿形や背景は様々。それは何も特別なことではなく、よく言えば普遍で、悪く言えばありきたり。ゆえに近しく、ほどよく暗い。見落としやすい。そんな薄暗がり。手元に広がる小宇宙。


      ドスケベナノオスキーと?


       1:発言

     ドスケベナノオスキーは言いました。

    「雲ひとつない青空に向かって、おもいっきり振り返ってみた。
     案の定、自分の髪の毛の匂いがした……。
     そう、自分の匂いだ。
     おかしい。
     自分の好きな人と同じシャンプーで今朝、髪を洗ったのだから、その人の髪の毛の匂いがしなくてはいけないのに……。やはり、頭皮を削り取って、それを自分の頭皮に植え替えるしかないか……?」
     と。

    ドスケベナノオスキーは言いました。

    「大根キムチとシュガートーストの組み合わせは、CPするならば、【三船敏郎とペコちゃんによる不純異性交遊】である」
     と。

    ドスケベナノオスキーは言いました。

    「アル中の良人がよく、【嫁と娘に逃げられた】とぼやくが、これは、お互いにとって公平な行為である。なぜならば、先に良人が、酒に逃げていたから」
     と。

     ドスケベナノオスキーは言いました。

    「ベッドと壁の間に生まれた隙間に手を入れると、【あんっ】と微かな嬌声が聞こえた。【おまえは誰だ?】と声をかけてみた。
     しかし、声の主は【あんっ。あんっ】としか言わない。小首をかしげていると、【もう……いけず……】とポツリ。
     せっかくできたばかりの隙間がなくなってしまった」
     と。

     ドスケベナノオスキーは言いました。

    「【ちんぷんかんぷん♪ ちんけちんけな♪ ちんちくりん♪ 
     うーん。ぜひとも、NHKの歌のおねーさんに歌ってほしいね。
     もし、やってくれるっていうのなら受信料払ってやってもいい】
     と。

     ドスケベナノオスキーは言いました。

    「ある女の話だ。
     自分の不細工な顔がイヤで、家に火をつけたそうだ。
     予定通り、顔だけが焼けただれた。
     溶けた顔を再構築して、自分の想い通りの顔に完成させることができたとのことだ……。おっと、ここでご本人様からの伝言を忘れていたよ。
     『少し焦げ臭いけれど、オシャレは我慢よ』
     と。

     ドスケベナノオスキーは言いました。

    「ある男の話だ。
     ムダ毛が茫々で、鬱陶しい。
     いざ、とカミソリで全身のムダ毛を剃った。
     『あれ……? 記憶が……? 思い出せない。思い出せないは、思い出せるのに、それ以外の何かが、わからない』
     なぁに心配することはない。ムダ毛が生え始めるとすぐ、記憶と共に当時の感覚も思い出すことができたらしいから」
     と。

     ドスケベナノオスキーは言いました。

    「客観視のギャグマンガ家とそれ以外の主観視の一般人で構成されているのがこの世だ。そんなあなたに私なりの処世術。
     憂うより慣れろ」
     と。

       
      2:私

     起床。
     寝ぼけ眼に見知らぬ男。
     私の寝ているベッドのすぐ横で、私の顔面をじっと見下ろしている。
     ベランダ側の窓を背にしているためか、逆光により、非常に荘厳な雰囲気を漂わせている。
     ちらと見たところ、背丈は六尺ほど。短髪黒髪、鼻の下を覆う立派な黒い髭、痩せこけた頬、真っ黒な瞳、真っ赤なネクタイ、泥が付着したロングブーツ、落ち着いた息遣い、外見とは程遠い甘い香水(?)の匂い、手の甲の血痕……といった出で立ちの男。
     枕元の電子時計を一瞥。針は十時を指していた。

     ――これは悪夢か……?

     悪癖。
     目の前の男の存在を、悪夢の中の人物であると思い込もうとした。
     さらに、悪癖。
     悪夢の内容を忘れる前にと、枕元に置いてある手帳に、極細の赤ペンで乱雑に書きなぐろうとした。
     
     ――悪夢をメモしなければ……。
     
     しかし、それは思わぬ方法で阻まれた。
    「キミ、また涎垂れてるよ」
     突如、男が私の口元を舌で舐めたきたのだ。的確に、涎だけを舌先で丁寧に掬い、器用にそれを落とさぬよう喉奥へゴクリと流し込んだ。
     男の表情(かお)。
     フラッシュバック。
     幼い頃に何度も襖の間から覗き見た、あの光景に似ていた。
     父が母を犯しているときの、あの……。
     
     ――性の支配。

     柔らかく、暖かな、母なる大地。無限にも思える肥えた肉体によって支配されていく。激しく点滅する脳内の快楽閃光。まさしく倶楽部UFOの舞台演出。
     倫理と理性と恥の砦は平安貴族の女。吐息だけで月にロケット。
     もう二度と、それが再建されることはない。復興されることはない。性の支配によって荒れ地と化す。そこには、肉と水と紙が混ざり合うだけの空間が広がっている。
     音に敏感な私を挑発するかのように、父は、あえて音が際立って聞こえるような態勢と速度で母を凌辱していた。 

     ――私は今、目の前の男に、犯されているのだな……。

     薄い薄いゴムを纏った奇妙な玩具でチクチクと頬を突かれる、あの、情けなさと恥ずかしさ。弱みを握られた放課後の令嬢と学校のオジサマ事務員との不純異性交遊の一幕。
     それも寝起き。素性も知らない男に。

     ――私は感動していた。

     垢抜けない、底辺を突き抜けた底なし沼の弱者野郎である私にも、このような感覚が訪れる、この唐突な出会いに。
     教頭に弱みを握られた放課後の令嬢も、異星人のクールビューティ女学生と身体だけの関係にあった校長の一人娘も、精神疾患でもないのに無理矢理に精神を汚染され、操作され、人権を剥奪された挙句に精神病棟の院長に強姦された若い数学女教師も、強制的に二重人格に身体と精神を改造された四十路の未亡人も……。

     悦に浸っていると、男は、出で立ちと雰囲気に不釣り合いな、少々軽い調子で私に話しかけてきた。
    「キミ、起きる前にもね、涎を垂らしていたから……。
     ほらこれ。キミの涎を採集した試験管と画像だ。試験管に入っているこれは、試しにキミのクローンとして生成するためのもの。ついでにキミの人体の情報もカメラにおさめたから、実のところ、用は済んでいる。
     だが、ちょっと、気になるものが目に入ったもので、キミの起床を待っていた。無理強いはしない。答えられる範囲でいい。私の質問にこたえてほしい。
     この壁に書いてあるものは、一体なんだね? 
     小説? 大胆なダイイングメッセージ? はたまた、生きているのに遺書を書き続ける、人の言う無難で、地上波や健全電波全般で特集できる範囲の、安易で正当で人の目を引くようなキ印人間もどきを孤独調に演じているのかね?」

     ――やはり、これは悪夢?
     再び脳内に過る思惑。
     一応、頬はつねってみた。鈍い痛み。
     
     ――現実。
     
     初体験の出来事に逃げ出したくなった。だが、それもすぐに姿を消し、ひょいと顔を出したのは好奇心だった。男に対する好奇心であることは事実だが、何より、自身の変化への好奇心がひどく刺激されてしまっていた。男の一挙手一投足に見事に、やられてしまっていたのだ。
     乾いた口内を置き去りに、ありったけの好奇心で質問に応じた。
    「え、ええと、それは詩です……。ポ、ポエム。小説でも、遺書でもないんです」
    「詩……」
    「そ、その、私。長ったらしい文章が書けないんです。だから、細かく、ちまちまと言葉を紡ぐことのできる詩であれば、そんな自分にもできるかもなって……。それから詩を壁に書くようになりました」
    「ほぉ。どうやって思いつくのかね」
    「そ、外を歩いているとき、公園で絵を描いているとき、彼女と寝たとき、友人が飲みに来たとき、辛気臭いニュースが目や耳に入ったとき、性欲の頂点に達しているときなんかに思いついたものなんかを壁に書いていくんです」
    「どれくらいの期間でこれを?」
    「一年ほどです。今思うと、何だか辛気臭くて嫌ですね。少し前に流行った不健康思想の体現のようで……。
     こんなもの、十九世紀末期に始まって、二十世紀初頭には忘れ去られるような代物なんですよ。それを今更、時代錯誤式人間のように虚栄の胸を張って、贅沢にも利き手を使って壁に書いているんですから。醜いったらないですよね。世にも出していない落書き。単なる自己満足。
     そんなもんですよ。
    「……」
    「もし、あなたが現代時限式キテライ:刹那型パラダイス人間であるとするならば、私は、あなたからの評価を信用することはないと断言しておきます。
     褒められたとしても、それはお世辞でしかないんです。
     母が、私に口酸っぱく言うんです。『誉め言葉は信じるな』、『全部社交辞令だ』って……」
    「…………」
    「壁に書くことでしか自己表現できないような臆病者なんです。
     生きているだけ。生活できていない。
     絵を描いても、評価はされませんでした。
     『何を表現したいの?』、『キ印の描いたものだから評価してはならない』、『こっわw』など、どれもこれも、稚拙、粗雑、表面な評価未満の評価……。カレーの表面に浮かび、群がり、眠る脂。そんな、冷や水を詰めた評価袋しか投げつけてもらえなかったんです。プールサイドの温まった水たまりでパシャパシャ跳ねていたんです。大量の言い訳で身を固めていたんです。
     現在の私が、過去の私を救うことなんてできないんです。現在を苦しめるフラッシュバックの点火材料として思い出の玉座にズドンと鎮座、ノホホンと暮らしているだけなんです。
     家事すらできない無職の中年が、実家の両親の良心を利用して家計と家系を苦しめる。そんな精神状態なんです」
    「………………」
    「こんな私にまだ、興味がありますか?」

     私は男の表情を一瞥した。
     男は、モナ・リザのようなアルカイックスマイルを保っている。ボッティチェリの描いた聖母のような眼差し。哀れな罪人を抱きしめ、赦しを与える温かみでもって、私のお気持ちを始終聞いていたのだろう。
     ズゥンと重ったるい空気なんて知らんぷり男は素っ頓狂な調子で答えた。
    「……ほぇ。そんなことがあったのだねぇ。さぞ、大変だったんだろうねぇ。
     なぁに、心配することはない! 私がいる! 安心しなさい! 私されいれば、過去に現在を侮辱されることもなくなる! 自己啓発本を買うための無駄な出費も抑えられる! 
     キミに足りないのは鉄と私だ! 
     さぁ! 立ち上がれ若者よ! 私に続けぇ! 私の思想のもとでたっぷりと自己表現していこうではないか! 
     いいかい? この部屋は、自由であるべきキミにとって、窮屈な鳥籠に過ぎないのだよ……。
     それに、この部屋はキミにとって、とっても小さすぎる。
     キミの持っている翼は大きい。生きているだけで苦しいのは、それが理由だ。
     自室の真っ白な壁に書きなぐる……。自然の体現を感じる。実に素晴らしい」
    「ど、ども、ありがとうございます……?」
    「キミの先ほどの思想を打ち砕くわけではないが、一つ先人からのおせっかい。
     誉め言葉とは、人間を鼓舞する重要な栄養源だ。目に見えないところが厄介だが、あるに越したことはない。内心にあるものを言葉や絵にして、目に見えるものとして作品にしてきたキミのことだ。通らない理屈ではないだろう?」
    「たしかに」
    「コロッセウムの戦士たちを鼓舞させたのはなにか。
     観客の応援だ。
     会場の四方八方を飛び交う単純明快な誉め言葉の連続。
     つまり、私は、キミを褒め続ける! 応援する! ということを言いたいわけだ! ムリに信じなくてもいいが、私は、私なりの思想でもって今後、キミを推すと宣言する!」
    「え、えぇ、構いませんけど……。で、でも! 私は私なりの考えのもとで、あなたと接しますから」
    「うむ、それでいい。あ。ところで、この詩もキミが書いたものなのかい?」
    「あぁ、これですか。そうです。私の友人の独り言へのアンサーのようなものです。でも、当時泥酔状態で、よく覚えてないんです。
     何度見返してみても、これは、そうですね。自分の中では納得しきれません」
    「どうして?」
    「ここに、私の主観と思想がないから、です」
    「へぇ……。
     えぇっと、モノクルモノクル♪ 
     キミの字はキレイなんだが、ちと小さい。老眼にはキツイのだよ。
     んん~と、どれどれぇ……?
     『異世界へ行ったら、もしくは死んで生まれ変わったら、女として生まれたいとボヤく男は、所詮、そこまでの考えで行き詰っているような精神的な怠け者である。
     また、女として転生できたところで、こんな考えを根底に持って二十余年生きてきた人間なのだから、転生前と大して変わらない人生の運び、顛末になるだろう』。
     …………はぁ、なんとまぁプログレッシブ。イマドキに異世界転生思想を真っ向から否定するとは! ますますキミに興味が湧いてきたぞ。そうなのだよ、うんうん。人というのは、死んだらそこで終わりなのだよ。終わりの先にあるものは無。何もない。『何もない』があるのだよ!」
    「……あ、あの、盛り上がっているところ申し訳ないんですけど、あなたは少し勘違いをしています。道端に転がる小石のような固定観念、表面に浮かぶ言葉のイメージで拘束しないでください」
    「お、おお……。これはとんだ地雷を」
    「単なる思い込みや愚直な決めつけで、現代病のように蔓延する、即席の転生思想に牙を剥くような、そんな野暮なことはしません。  
     これは、否定しているのではなく、現在の人々の思想をそのままに、ありのままに、自分が安心できるように、見えるように言葉にしているだけなんです。ゆえに、この詩に私の主観と思想がないんです。六本木の公衆便所に『泉』と題して展覧会に出展するようなものなんです。
     私にとって、詩とは、そこにあるものを言葉として表現するものだと思うんです。そこに主観が入った途端、言葉が崩れてしまう。東西を隔てる思想の壁が崩れてしまう。主観という化け物が思想の炎で言葉の美しさや意味合いをいとも簡単に無意味の灰塵にしてしまう。おかしいですよね。主観と思想を重んじてるくせに、ここに書かれたものはすべて、それらが排除されたものしかないんですからね……。
     肯定も否定もない、そこにあるものをそのままに。
     個々の知見や体験に前例がなかっただけの話。これもまた前例となり、過去にとっての前衛と化す……」
    「……キミは自分の作品が他人によって忘れ去られることを恐れている、ということであっているかい?」
    「は、はい。常に、そんな感じです。作品とは、表現者にとっての身分証明書なんです。
    それがなくなった途端、私たち表現者は何者でもなくなる。最悪な結末には何者未満の非人と化す。それが恐ろしくてたまらないんです。壁に詩を書けば書くほど、その不安と恐怖が募るばかり。悶々とした日々を送っているんです」
    「……うむ。やはりここに長くいたがために精神の疲労と蓄積が凄まじい。一刻も早く私のラボに案内しなければ……。よし、ここから出よう。このままでは、キミが本当に無になってしまう。
     キミは、まだ生きている。キミの人生は始まったばかりだ、終わってなんかいない。無に向かって生き急ぐな。若者よ。立ち上がれ! 着替えろ! 顔を洗え! 歯を磨け! 私と共に来てくれるか? 未来を担う詩人よ!」
     男の眼光はポンペイのマグマのように濃厚に輝いていた。
     私を構成する全ての要素が破壊、再構築され、新たな私が形成されていく。
     
     ――畏敬。

     この人の言っていることは確かだ。精神的不健康な私を見事に鼓舞してくれている。流氷のように漂っていた、自身の中で怠けていた血液が、ぐんぐんと春の小川の流れに乗じ、快活に全身を巡っていく。
     この体感したことのない高揚感。素晴らしい。
     音もなく息を呑む私をよそに、この人は、またバカみたいに明るい調子で私に語りかけてくる。
    「あ! 言い忘れていたが、さっきのキミの唾液、実に美味しかった! 商品として出してもいいほどだ! 世に自慢できるぞ! マヨネーズかなんかと混ぜて、焼きたてのトーストにベターっと塗ってガブリ! わんぱくにかぶりつく日曜日の朝の食卓。海の見えるテラスでご満悦の笑みを浮かべるのだぁ~」
    「あ、ありがとうございます……?」
    「キミ、他者の唾液に興味は?」
    「ないわけではないです。試しにオンラインショップで買ったことはありますよ。唾液の瓶詰。半年前ほどなんですけどね。
     たしか、【父子家庭の環境で育った十五歳の薄幸少女の唾液味】を一月ぐらいかけて少しずつ……。冷やご飯にぶっかけて食べたのを覚えています。とても薄暗くて窮屈な生活味を感じる舌触り。思春期と反抗期の混ざった、目も眩むほどの香りと風味。美味しかったですよ。現在は在庫切れで入手は困難であるとか。お値段もそんなに高いわけでもないので、また買う機会があればぜひ――」
     と話していると突然、男が突然身震いを始めた。巨体であるため、小さな自室がガタガタと揺れる。私は、ベッドから半身を起こし、身構えた。
     震えを保ったまま、男は口を開いた。
    「ここに、希望の光! やはり、キミは希望の光だ! 唾液をごはんにかける! その性への実直さ。まさに天性の感覚! しかも、それを美味しいと感じることのできる体質! そこにまとわりつく詩への執念、爆発寸前の気高き思想、類比のない自己表現……。
     くぅ~! 私の求める人材が、今まさに! ここに! さぁ! あとはラボへ! 私のラボへ! さあ! さあ!」
    「え、えぇ……? き、急すぎて準備が――」
    「人生に準備なぞない。あるのは砕け散った我が身の残骸あるのみ。キミは、大きな翼でもって、数多の残骸を飛び越える力がある」
    「そ、そう、ですか……」
     私はもう、この人の言うことに頷くことしかできなかった。
    「で、どうなのかね。キミ自身の言葉で答えてほしい。ラボに行くか、行かないか。今、決めてほしい」

     ――そんなの決まってる。

    「……も、もちろん。行きます。もう、行くしかないんです。居場所がないのなら、新しく開拓するしかないんです……」
    「よくぞ、よくぞ言った! 若者よ! さあ! 私のラボへと出発だ!」
    「あ! ちょ、ちょっと待ってください。その前にひとつ質問してもいいですか?」
    「ちょーい! なんだね!? 出発直前にエラーはまずい! チャレンジャー号の失敗を無碍には――」
    「そ、そうではなくて! 名前! あ、あなたの名前は?」
    「私? ふはは! そうだった、そうだった。自己紹介をしていなかったな。ごほん。ええと、私の名前は――」


     ※注意

    【ここまでの話は、博士の思惑により大幅に修正と編集が施されている。
     博士との出会いから今にかけての出来事を物語にし、世に出したいと私から博士に持ちかけた。公募に出そうと思ったのだ。安心安全のために、半年前から慎重に事を進めていた。だが、最後の最後で問題が生じた。先述した修正と編集だ。
     『出会いの場面はもっと簡素でいい』、『私とキミとのやりとりをもっと事細かく書け』、と様々な注文を、公募締め切りのギリギリのところで突きつけてきたのだ。いや、強制してきたと言ってもいい。最初の段階から何度も、何か不備があったら言ってくださいと確認していたのにも関わらず……。
     そのため、冒頭の描写が史実よりも至極単調になっている。
    本来、私がトイレで小便を出しているときの音を博士が無許可に録音していた珍事があったり、朝食の目玉焼きを勝手にヒヨコにして近場にいた鶏マニアに売りつけてしまったりと、朝からてんやわんやだったのだ。他にもキリがないほどに騒ぎを起こしていたが、それを全部書き残すことを博士が許してはくれないので、惜しくも割愛させていただくことになった。これも、世に出すために必要なことなのだから腹を括れと博士にしつこく咎められてしまった私には、こうすることでしか、この物語を世に出す方法がない】

     ※本文

      ⁂

    「恒例のっ! 質疑応答だ。精神病院で専ら、伝統行事のように行われている語学療法、認知療法を模倣した、ちょっとしたお遊びだ。キミみたいな好奇心旺盛な人間をこのラボに招待するとなれば、毎度毎度、この質疑応答を事前に施行することにしている。前もって対象者の些細な部分を知ることができる方法としては最も手っ取り早い。色々な方法を試してみたが、はやりこの方式がしっくりくる」

     ⁂

    「日常生活の中、私に対して度々疑問を浮かべていたら、実験過程や研究結果にもムラが生じてしまう。そんな人間問題が極力起きないようにと、設けたわけだ……。
     さぁさ、楽にしたまえ。ふはは! 何もそんなに固くならなくていい。個人面接でもお見合いの席でもないんだ。自室のベッドでくつろいでいるときの心境をイメージしてみてくれ。もしくは……、自分の想い人を自室に招いた日の夜のベッドで一つになった甘いひととき……。どうだい? まだ?        では、想い人がキミの隣にいることを想像して……。お? 少しは楽になったかい? 案外キミもちょろいね。信用できる人に対してはとことん素直になる。出会ったばかりの私が言うのも何だが、それは人に利用されやすい人間の特徴だ。初めて指摘された本人は何に気を付けてよいのかわからないと思うが、まぁ怪我をして痛みを知るのもまた人生。ま、今はそんなことはどうでもいい。ほら、リラックスできただろう? 流石だよ」

     ⁂

    「もっと、背もたれ倒していいんだよ? ああ、そこのでっぱりをゆっくり引いて。そう、そんでもって、もっと深く座ってくれたまえ。リラックスだよ、リラックス。緊張することはない。これから行われるのは、簡単な質疑応答だ。質問と回答の連続だ。途中で躓いたり、考えて答えたりした場合、最初からやり直しになってしまうから、そこだけには気を付けてくれ。そう、口頭で答えていくだけ。簡単だろ? 繰り返すようだが、質問には即答してくれ。考えてはいけないよ。常に自分の内に抱えている主観と思想でもって口に出すだけでいい。それだけでいい」

     ⁂

    「間もなく始める。私の腕時計の短針がテッペンに掛かったときに号令をかける…………。さあ、準備はできたかね? できたようだね。
     よし! では、問答開始」

     ⁂

    【第一問:あなたの名前は?】

    「匿名希望です」

    【第二問:あなたの住んでいる場所は?】

    「地球」

    【第三問:あなたの職業は?】

    「無」

    【第四問:家族はいますか?】

    「はい」

    【※はいと答えた場合。第六問:あなたの家族構成は?】

    「父、母、祖母、猫」

    【※はいと答えた場合。第七問:家族を愛していますか?】

    「はい」

    【※はいと答えた場合。第八問:家族を殺したいと思ったことはありますか?】

    「はい」

    【※はいと答えた場合。第九問:家族の中で、誰を最も愛していますか?】

    「母」

    【※はいと答えた場合。第十問:家族の中で、誰を最も殺したいですか?】

    「母」

    【※母と答えた場合。第十一問:母を犯したいと思ったことはありますか?】

    「幼い頃に幾度か」

    【※母と答えた場合。第十二問:母が寝取られてほしいと思ったことは?】

    「何回もある」

    【※母と答えた場合。第十三問:母から産まれ直したいと思ったことは?】

    「ない」

    【※母と答えた場合。第十四問:見ず知らずの母から産まれ直したいと思ったことは?】

    「ある」

    【第十五問:あなたの好きな女性の部位は?】

    「首」

    【第十六問:それはどうして?】

    「噛んだときの反応や熱、息遣いの変化が著しいから」

    【第十七問:それによって、人体を創造することができると思いますか?】

    「はい」

    【第十八問:それによって、惑星を創造できると思いますか?】

    「はい」

    【第十九問:それによって、現在のあなたとは異なるあなた自身を創造できると思いますか?】

    「はい」

    【第二十問:あなたに恋人、想い人はいますか?】

    「います」

    【※いると答えた場合。第二十一問:それによって、自身の思い描く想い人を創造できると思いますか?】

    「はい」

    【※いると答えた場合。第二十二問:想い人の趣味は?】

    「PCゲーム、動画視聴」

    【※いると答えた場合。第二十三問:想い人の得意料理は?】

    「アボカドサラダ」

    【※いると答えた場合。第二十四問:想い人の身体的特徴は?】

    「項の産毛、腋の香り、臍の皺、膝頭の陰影」

    【※いると答えた場合。第二十五問:その身体的特徴は、自身の掲げる女性の好きな部位の質疑においての自身の回答と常に同等であると、現在のあなたの主観と思想でもって自身の内において変化なく継続すると考えられますか?】

    「いいえ」

    【※いると答えた場合。第二十六問:その身体的特徴から生み出された、場所、空間は、現在のあなたの主観と思想でもって安全安心に生活できるような環境として変化なく継続すると考えられますか?】

    「いいえ」

    【※いると答えた場合。第二十七問:結婚を前提に関係を構築していますか?】

    「はい」

    【※いると答えた場合。第二十八問:結婚によって自身の中に芽生える後退的思考は?】

    「倦怠」

    【第二十九問:その思考から生まれたものは、主に何が原因で生成されたと考えられますか?】

    「愛」

    【※愛と答えた場合。第三十問:それは人類にとって必要なものですか?】

    「必要です」

    【※愛と答えた場合。第三十一問:それによって人類は滅亡すると思いますか?】

    「はい」

    【※愛と答えた場合。第三十二問:それは生物にあるものですか?】

    「はい」

    【※愛と答えた場合。第三十三問:それは建造物にもあるものですか?】

    「はい」

    【※愛と答えた場合。第三十四問:それによって、建造物同士または、建造物が異種との交配により新たな生命、名もない新生物が誕生すると、現在のあなたの主観と思想でもって、この先の未来の環境においても変化なく継続すると考えられますか?】

    「はい」

    【※愛と答えた場合。第三十五問:それによって巨大な美少年は、建造物でもって自涜を行った場合、散布した精液により新しく建造物を誕生させる。建造物との異種間による新生物の誕生を誘発。さらに、巨大な尿道の中でのそれらの誕生をも連鎖、さらに誘惑。未来において、これらの起こり得る出来事は、現在のあなたの主観と思想でもって、変化なく継続すると考えられますか?】

    「はい」

    【第三十六問:性癖は存在すると思いますか?】

    「いいえ」

    【第三十七問:パラフィリアは実在すると思いますか?】

    「いいえ」

    【第三十八問:異常性癖は異常であると思いますか?】

    「いいえ」

    【第三十九問:異常とされる事物は存在すると思いますか?】

    「いいえ」

    【第四十問:異常性癖は精神疾患であると思いますか?】

    「いいえ」

    【第四十一問:セイヘキを性の壁と書いて、性壁と改める運動、現代人の不能優性思想の変化は、現在のあなたの主観と思想でもって可能であると考えられますか?】

    「はい」

    【※はいと答えた場合。第四十二問:それが未来において、流行、定着、浸透、普遍、形骸、忘却の流れに沿って運動することは、現在のあなたの主観と思考でもって可能であると考えられますか?】

    「はい」

    【※はいと答えた場合。第四十三問:それが忘却した後、現代人に愛は残ると思いますか?】

    「はい」

    【※はいと答えた場合。第四十四問:愛は、忘却されると思いますか?】

    「いいえ」

    【第四十五問:愛は何によって生まれますか?】

    「恋」

    【第四十六問:恋は何によって生まれますか?】

    「愛」

    【第四十七問:愛と恋の位置関係は可逆ですか?】

    「はい」

    【第四十八問:愛の対義語は?】

    「憎悪」

    【第四十九問:恋の対義語は?】

    「嫉妬」

    【第五十問:両者に当てはまるものは?】

    「母」

    【第五十一問:ここが折り返しです。休憩を挟まずに、このまま最後まで続けますか?】

    「はい」

    【第五十二問:あなたの好きな音楽のジャンルは?】

    「プログレッシブロック、サイケデリックロック」

    【第五十三問:あなたの嫌いな音楽のジャンルは?】

    「ありません」

    【第五十四問:あなたの好きな空間は?】

    「ほどよく音のする場所」

    【第五十五問:あなたの嫌いな空間は?】

    「自室」

    【第五十六問:あなたの好きな言葉は?】

    「性」

    【第五十七問:あなたの嫌いな言葉は?】

    「制」

    【第五十八問:あなたの好きな人物は?】

    「主観と思想が自立している人物」

    【第五十九問:あなたの嫌いな人物は?】

    「主観と思想のない人物」

    【第六十問:自分なりの思想はありますか?】

    「あります」

    【第六十一問:自分だけの思想はありますか?】

    「ありません」

    【第六十二問:あなたの好きな匂いは?】 

    「想い人を愛撫したときの濡れた秘肉の匂い」

    【第六十三問:あなたの嫌いな匂いは?】

    「雨」

    【第六十四問:あなたの好きな声色は?】

    「想い人の囁き」

    【第六十五問:あなたの嫌いな声色は?】

    「自分の家の向かいに住んでいる人妻の喘ぎ声」

    【第六十六問:あなたの好きな瞳の色は?】

    「鳶色」

    【第六十七問:その瞳の色は何色の瞳と相性がよいか、現在のあなたの主観と思想で答えなさい】

    「青と緑」

    【第六十八問:豊乳は美乳と相性がよいか、現在のあなたの主観と思想で答えなさい】

    「よい」

    【第六十九問:それぞれの乳房の特徴を持つ女性が互いに愛し合う仲となり、初夜にて、上と下の位置関係になった場合、どちらの乳房を持つ女性が上になるかを現在のあなたの主観と思想で答えなさい】

    「前者」

    【第七十問:このような女性愛は長く続く関係性であると現在のあなたの主観と思想で考えられますか?】

    「はい」

    【第七十一問:絶対領域は好きですか?】

    「いいえ」

    【第七十二問:絶対領域を好きな人は好きですか?】

    「いいえ」

    【第七十三問:絶対領域、そのものとしての言葉は好きですか?】

    「いいえ」

    【第七十四問:想い人を愛するために使う指は何本?】

    「二十本」

    【第七十五問:母を愛するために使う指は何本?】

    「十本」

    【第七十六問:自分を愛するために使う指は何本?】

    「五本」

    【第七十七問:あなたの好きな色は?】

    「赤」

    【第七十八問:あなたの嫌いな色は?】

    「青」

    【第七十九問:校舎の屋上で空を仰ぐような女学生は好きですか?】

    「いいえ」

    【第八十問:路地裏の黒猫に懐かれるような女学生は好きですか?】

    「はい」

    【第八十一問:あなたの好きなゲームジャンルは?】

    「ホラー」

    【第八十二問:あなたの嫌いなゲームジャンルは?】

    「ホラー」

    【第八十三問:あなたの好きな女性の顔のタイプは?】

    「キツネ顔」

    【第八十四問:あなたの好きな女性の髪型は?】

    「ショートボブ」

    【第八十五問:あなたの好きな女性のホクロの位置は?】

    「鎖骨、鼠径部、太腿」

    【第八十六問:『病弱+薄幸+色白=美少年』は成立するか、現在のあなたの主観と思想で答えなさい】

    「成立します」

    【第八十七問:『チビデブハゲの中年男性+良家の未成年の長女=不純異性交遊による性搾取の見本』は成立するか、現在のあなたの主観と思想で答えなさい】

    「成立しません」

    【第八十八問:安易な擬人化の流動とそれに付属する思想の浸透は、止められますか?】

    「いいえ」

    【第八十九問:擬人化された事物から得られる情報の人々の理解に理解できるか、現在のあなたの主観と思想で答えなさい】

    「理解できません」

    【第九十問:『肌の露出』を抑制する運動に参加していますか?】

    「いいえ」

    【第九十一問:『肌の露出』という言葉そのものは好きですか?】

    「いいえ」

    【第九十二問:『肌の露出』という言葉そのものはあるべきであると現在のあなたの主観と思想で考えられますか?】

    「いいえ」

    【第九十三問:終わりが近づいて来ました。このまま、質疑応答を最後までやり遂げますか?】

    「はい」

    【第九十四問:このラボにおいて、自身で自立するべき主観と思想を失うことなく、目的が果たされるまで、自身の主観と思想を貫き通すことができますか?】

    「はい」

    【第九十五問:このラボにおいて、あなたの掲げる主観と思想が、何らかの理由により失われた場合、こちら側では、一切責任を負いません。それでも、質疑応答を最後までやり遂げますか?】

    「はい」

    【第九十七問:このラボにおいて、あなたにまつわる全てが、このラボのもとにあることを理解できていますか?】

    「はい」

    【第九十八問:このラボにおいて、あなたにまつわる全てが、このラボのもとで実験、研究の材料に成り得ることを理解できていますか?】

    「はい」

    【第九十九問:次の質問で最後です。最後まで質疑応答をやり遂げますか?】

    「はい」

    【第百問:では、最後の質問です】

    「はい……」

     ※注意

    【この質疑応答において、私は、安易で簡素な認識阻害じみた幻魔作用に犯されていたようである。それは今更に降り返り、やっと理解できたこと。当時では考えることさえ許されなかった。事の顛末の善悪、その重要性、世間体、道徳、倫理、純粋な感覚が阻害され、ラボの思想のもとで自立できるように改造されていた。この時点での私は、目的であった主観と思想の自立が達成されることだけを考えていたため、このような洗脳が浸透しやすかったのだろう。
     しかし、これが表現者としての私の自立の第一歩を手助けしたのは事実である。答えていくたびに自分の中の全てが失われていく。ある精神分析者は、失うことで歓びを感じることができると言っていたが、生憎、私には、そのような最悪な状況下での最適な反応ができなかった。そんな私を見て、博士は心底呆れ、私のことをラボから追放しようと考えていたらしい。やはりあの人は恐ろしい。しかし、今の私がある以上、当時の私の選択は正しかった……と思い込むしかない。
     私の掲げる主観と思想は正しかったのだ。あの博士の主観のもとでは。このラボの思想のもとでは。
     私は、人の言う世捨て人になったのだ。しかし、私には、そのようなキレイな言葉が当てはめられてはいけないし、自分で胸を張って当てはめてもいけないとも思う。そんな人間になったのだと自覚している。人は、それを作家というが、私からしてみれば、逃亡者である。世を捨てたなんていう、大袈裟なものではなく、もっと卑近で弱々しい生命に密着した言葉……。だからこそ、逃亡が適している】

     質疑応答が無事に終わった。
     どっと疲れが出てきた。
     時計の針はテッペンを指している。
     まだ、昼か。
     朝から猛スピードで色々な出来事に巻き込まれて、その場その場で費やされるはずの感想や疲労さえも置き去りにされていたほどに、全てが急速に流動している。
     博士は毎日、こんなことを繰り返しているのかと思うと腰がヒヤリとしてくる。
     私はこのときから、博士に恐怖のレッテルを貼り付けていた。
     所詮、私の主観と思想は、平々凡々で無難で普遍で、いつしか、人々から忘れ去られてしまうような、名もない命として虚栄の自涜に耽る晩年になるのではないかと、急激に自信を失くしてしまった。
     私は、こんな薄弱で非力な主観と思想で、博士と対峙しようとしていたのか……。
     あわよくば、打倒してやろうかとも考えていたなんて恐ろしい…………。    


     【自覚とは、最も卑近な自殺であると思いますか?】

     ――自覚。

     それによって本来の自分の感覚は死に絶える。
     冷たくなった寝台に横たわる青ざめた老人と化す。
     元々自身の内で生きていた感覚や感情、感想を過度に恐れるようになる。
     注意、指摘、怒号、罪悪感、被害妄想、窃視の強制に悩む。極端を嫌う代わりに間(あわい)を愛するようになる。全てが、自覚に帰結し、自覚が発端となって、元々あった自分――最小単位の自分が死ぬようにできているという主観と思想が脳の皺――に隙間なく浸透していく。
     地上から高さ一メートル。そこからポケットナイフを落としただけで、落下地点にいる人間は死ぬ。
     それほどまでに、最小単位であった自身、それに付属する感覚や感情、感想は脆い。
     自覚とは鋭利なポケットナイフであり、巨木を穿つ斧である。
     博士は私に対し、百本の横槍でもって自覚を突き刺してきた。
     自覚の純粋交遊。
     星空でドライブ。
     幼児用のバイク。
     ひまわり畑に猫。

     ここで、自覚が強烈に自身の中で反芻される原因として、この質疑応答を施行中、博士は、最初から最後まで、私のもとに、いなかったことが挙げられる。この質疑を施行していたのは、PCの文字の読み上げ機能だったのだ。その間、博士がどこに行っていたのか、何をしていたのかは、わからない。この何分かの関係の剥奪。これにより私は、博士の存在を極度に欲していた。博士に会いたい気持ちが、一気に吹き上がってきたと自覚した。

     ――会いたいな。

     ガチャ。

     私の気持ちを察したのかと思われるほどにタイミングよく、その人が目の前に現れた。朝のときよりも、少し血の匂いが強くなった気がするのは、不安と恐怖に囚われた私の気にしすぎであろうか……。

    「お! 終わったみたいだね」
    「えぇ。何とか。あの、質疑は、博士が読むわけではないんですね」
    「うん。その日、そのときの気分次第だ。所詮、この質疑応答は、単なるお遊びだからね」
    「そうですか」
    「もしかしてぇ~。私に会いたくなったのかい?」
    「!」
    「図星だね。やはり、唾液分析はドンピシャに当てはまる。
     ところで、疲れただろう。少し休憩しよう。私も外出していたものでね。あるものを運んでいたんだ。キミ自身にとって、とっても関係しているものだ。期待して損はない。あとでイヤでも見ることになるから、今は気にしなくてもいい」
    「……」
    「いやぁ疲れた! 何せ大荷物だったからねぇ。疲れた疲れた。喉が渇いたな。キミ、飲み物は何がいい?」
    「え、えっと――」
    「いや! 答えなくていい! うぅんと、キミは、お茶だ。冷えた麦茶!」
    「はい。当たってます」
    「正解だろう? 好きだろう? 私は知っている。もう、キミの主観と思想もばっちり、この自分自身の全ての器官が理解している。もちろん、このラボも、キミのあらゆることを知っている。だから、キミの考えている些細な事柄も、何もかもが自分のことのように理解できるわけだ」
    「へぇ……」
    「はいはい! そんなことは置いといて! ちゃっちゃと冷えた麦茶を冷蔵庫から持ってくるからね。ちょっと待ってなさい」
    「は、はい。ありがとうございます」
     私は、完全に牙を引き抜かれたのだ。
     博士にとって、都合の悪い主観と思想は、もうこのラボのもとでは、完全に消え失せた。私のこの、現在の自分が持っている主観と思想は、決して、自分だけの主観と思想なんていうものではなく、自分なりの主観と思想でしかないのだ。

     ――博士のものである。

     自覚によって、自分で自分を殺させた上に、博士の手によって直々に、これまでの私の主観と思想が玉砕されたのだ。二十余年に渡る蓄積が、博士との出会いから質疑応答までのこの短時間で、崩落したのだ。それが復興されることも、再建されることもない。
     一体、博士は、私の質疑応答の間どこで何をしていたのか。あの博士のことだから、今さっきの血の匂いを強く感じたのは気のせいなんかじゃない。 
    おそらく、血の匂いのことや些細な疑問も、博士とラボには筒抜けなのだなと思うと、胃のムカムカする不安と恐怖がゴボゴボと体内からこみ上げてきた。

     ボーっとしていると、ニュッと博士が横から顔を覗いてきた。手をブンブンと振り、大丈夫か? と声をかけてくれた。
     
     ――冷たい麦茶だ。

    「キミ、不安と恐怖を感じすぎだよ。リラックスを継続したまえ」
    「は、はい……。すみません」
    「謝ることはない。だが妙だな。先ほどの質疑応答で不安と恐怖は消失されているはずなのだ。うん。やはり発明品に頼りすぎてはいけないな。私自身で施行するべきだったのだろうが、何せ、キミが相手だ。装置に任せることになったのは仕方のないことだ」
     博士の機嫌が悪い。やはり先人といえども、直面する問題に対してはヤキモキするのだろう。博士も人なのだなと安心しているのも束の間、
    「麦茶、ありがとうございます。美味しいです。おかげで少し、不安と恐怖が和らぎ――」
     と言いかけたそのとき、博士の態度が急変した。
     断罪者の面持ちで博士はカッと目、口をかっ開き、叫んだ。
    「キミ、そんなつまらない嘘はいかんぞ! 冗談でもいかん! 嘘は不幸を冗談は笑いを誘う点で異なるが、この場合、キミの発言はその両者を含みつつ、かつそれらを尽くけなしている! たしかに、麦茶が美味しいのは本当だ。
     嘘は、不安と恐怖だ。これっぽっちも和らいでなんかいないだろ」
    「そ、そんなことは――」
    「言い訳無用。これ以上、私の主観と思想に反するような言動を続けるのであればラボから追放せざるを得ない。ゆえに、キミの目的も果たせなくなる。それに、必要な犠牲が無駄になってしまう……。
     質疑応答の約束事を思い出したまえよ。
     即答だよ。
     真実を要求している。
     嘘や冗談、偽善、表面的な主観と思想を排除するためにね。
     よって、この些細な言動の中でも、真実でもって話し相手と自分自身に対峙しなければならない。
     いいかね? おいおい。そんな顔するな。慣れていないのだから仕方ない。これも、キミの主観と思想のためだ。悪く思うな」

     ――目眩。

     今にも気絶しそうだ。
     座っているのに、座りたい。
     
     ――錯乱。

     この場にいるのに、この場にいない。
     超高速の自問自答。
     私は、何を感じればいい? 
     真実? 
     それは……。
     それは……。
     私が博士の目の前にいるということ? 
     私が不安と恐怖を未だに感じているということ? 
     私が、今、生きているということ? 
     博士は、私が考えていることを何もかも理解している。
     
     ――真実。
     ここで、私は、何を言うべきなのか。
     今、考えていることを口に出せばいいのか? 
     いいや、そんなのはかえって二度手間だ。
     知っていると言われるだけ。   
     私が考えていること? 
     やはり真実? 
     これは、即答ではない? 
     ゆえに、これは――。

     ――嘘? 

     答え。
    「これからの発言は嘘です。今、私が考えていることは、嘘です。これは、即答できなかったがために、自分を保護するためについた嘘です。私は今、嘘をついています。これこそが紛れもない、真実。それは私が、考えてしまったという真実。即答こそ、本物の真実であり、今、現在のこの私の博士に対する発言は正真正銘の嘘であります。これが真実です。」
    「うん。うん……! 実に素晴らしい答えだ。やはり、私の見込んだ男だ」
    「即答できなかった時点で、そこにあるのは嘘。ゆえに、博士が私を理解するまでに出した答え。
     それが私の主観と思想の真実。
     これが主観と思想の自立。
     それ以外は全て嘘になる。
     これが、真実」
    「そう……。即答こそが真実で、考えてしまうとそれそのものが嘘になるってわけだね。まぁ慣れてしまえば、こんなことはどうってことない。考えていたものが嘘になったとしても、それをお互いに理解していれば、苦しまずに済むからね」
    「そ、そうですね――」
     突然。視界がモザイク状になった。博士の言葉を聞いているうちに、私の意識は、どこか遠くの方へと歩みを進めていた。人の多い電車内でパニック発作を起こす直前の、あの、意識の遠のき。
    「は、博士……。ちょっと、あの、しんどいです……」
    「ようやく効いてきたか。カフェインが……」
    「博士……?」
    「すまないが、キミを実験に利用させてもらう」
    「じ、実験……?」
    「キミがいなければできないことだ。従うか、従わないか、このどちらかだ」
    「ま、まさか……。最初からそのために私を……!」
    「ようやく、理解してくれたようだね」
    「ひ、卑怯だ……。こんなの……」
    「卑怯で結構。このラボにおいての幸福は、従うことだ、ということを忘れるな」
    「従う……? 何をする……?」
    「地下の実験だ。それに協力するだけでいい。ただし……」
    「た、ただし……?」
    「詩の形式で実験の記録を書いてもらう」

     もう、身を委ねることしかできなかった。
     避けられない運命。
     諦めるしかない。
     そこに主観と思想が入り込む余地はない。
     涙や赤面はない。
     そこには表情。
     名前があってはならない。
     思考が葉の先端からポトリと落ちていく。
     鼓動が波打ち際に横たわる。
     とても落ち着いている。
     博士が地下へ行くための扉を開ける。
     血と潮と埃と鉄の匂いがする。
     螺旋階段を下る。
     博士は、力の入らない私を肩に担ぎ、奥へと進む。
     

     ザバァン…………。ザバァン…………。

     真っ先に目に入ったものは、巨大な底なし水槽に入った真っ赤な巨大イカであった。
    「そいつの目を見てはいけない。触手を伸ばして水槽の中へ引きずり込まれるぞ。こっちの水槽もそうだ、常に空腹でイライラしている現代病の巨大サメだ。水槽の底や汚れを意識すると途端に暴れ出すから、ここでは何も考えないのが得策だ。死にたいのであれば考えるだけでいいから楽ちんだね! ふはは!」
     博士の笑い声が地下に響く。水槽の天井部分が開いているため、水槽の中の水がバシャバシャとこちらに溢れてくる。亡者の唸り声のような鳴き声が四方八方から聞こえてくる。視界の隅の方で巨大イカの大きな大きな眼が見えた。寒気が止まらない。思考の隅の方で巨大サメの水槽の暗さを想像してしまった。暴れ出す巨大サメ。必死に想像を掻き消し、淡々と先を歩く博士の背中に集中した。すぐに冷めは落ち着き、イカの視線も気にならなくなった。
    「さぁ、着いたぞ。ここが実験室だ」
     博士が実験室の扉をギィ……と重々しい音を立てつつ開けていく。
     真っ暗。
     何も見えない。
    「よし。照明(あかり)をつけるぞ」
     目の前が急に明るくなる。
     ゆっくりと、徐々に、視界が鮮明になる。
    「さあ、実験を始めようか……」

     ――寝台の上で眠っていたのは母だった。

      
      3:発明品

    「博士~! ついにできましたっ! 声から人体を生成する装置! 名付けてバイスです!」
    「ふむ……。どれ、見せてみなさい」
    「はい! どうぞどうぞ~! どうです? いかがです?」
    「キミ」
    「はい!」
    「キミは、これがイイ発明品だという確固たる意思があって、私に飛びついてきたのだね?」
    「は、はい。そうです」
    「はぁ……」

     ぐすん。また叱られてしまった。
     博士とはもう五年の付き合いにもなる。それなのに、まだボクのことを認めてくれない。いい加減、『キミのような完璧な助手はいないよ!』と背中を叩いてくれたっていいのに……。
     たしかに、今回発明したバイスは残念なことに失敗作。
     所詮、博士の真似事だったのかな……。
     声から人体のシルエットは産み出せたものの、人体そのものを形成するには快感エネルギーが欠けていたことぐらい、ボクにだってわかりきっていた。でも、焦ってしまった。結果を求めすぎて、気合が空回りしてしまった。ボクって一生、こんななのかな……。

     快感エネルギー。
     ボクの恩師であるドスケベナノオスキー博士が、五年前に発明した無限の可能性。主に人体から発生する快感。それがエネルギーの基となる。五年前までの知見であれば、そのエネルギーは『汗』――単なる排泄物――としてただ性的興奮材料扱いされていた。
     例に挙げるならば、スポーツドリンクのCM。ペットボトルをクポッと咥え、ゴクゴクと喉を鳴らし、発達途中の身体に流し込む。透明感マシマシ少年少女を起用した『汗』。

     しかし、博士は違う。

     愛する人との純粋異性交遊の際、この『汗』に含まれる人体神秘を発見した。  
     人々は人体から発生する快感エネルギーこそが無限の可能性であると断言できるまでに五年ほどかかった。動植物はもちろんのこと、飛行機やビル、望遠鏡から見える星々にまで真偽の調査が及んだ。

     博士の名前はボクが喃語を発していた時分のずっと以前から世界中に知れ渡っていた。
     やはりと言うべきか。博士のような偉大な人物には名声の裏に悪評はつきもののようで、『世界中の出生率が年々減少しているのはあいつのせいだ!』、『地球温暖化はヤツの仕業に決まっとる!』なんていうとんでもないデタラメを声高に主張している人がたくさんいる。そんなアホらに目もくれず、博士は研究を続けてきた。だからこそボクは博士の助手でいたいと思うと同時に、このままでは解雇されてしまうかもしれないと危機感を募らせている。

      ⁂

    「あら。また失敗したの?」
    「はい……。初歩的なミスをやらかしてしまって……。ホントにダメですね。ボク」
    「もう、そんなに落ち込まないで、ね? あの人、研究には秀でてるけど、人付き合いは人並みだから。慣れるしかないのよ。気長に、気楽にいきましょ」
    「……やっぱり、すごいですね、あの博士をここまで支えてきただけあります」
    「そう? 誉め言葉として受け取っておくわね」

     ⁂

    「まぁ。でも、そうね……。確かにこのままだと、あの人のことだから、ら、いつ、どのタイミングでも、キミを解雇しかねないわね」
    「そうなんです~。気まぐれで、こう、なんというか行動派の方なので、内心、ずっとビクついてます」
    「そんなビビらなくていいの。五年もそばにいるんだから。アタシとあの人みたいなもんよ。堂々と胸張んなさいな」
     ガーラさんは優しい。それに強い。
     ボクが博士と出会って間もない頃、ラボの案内係を担当していたのがガーラさんだった。最初は博士のいる前で、ガーラさんと名前で呼んでいたのだが、博士がそれを快く思わなかったようで、後々ガーラさんから、『ガーラを名前で呼んでいいのは、私だけだ! ってうるさくってもう……。だからね、その……。面倒だとは思うけど、あの人の前でアタシを呼ぶとき、何か、名前以外でイイの見つけたら、それで呼んでくれる? 本当、世話の焼ける人でごめんなさいね』と言われてしまった。その件以降、博士のいる場面では、ガーラさんを奥様と呼ぶことにしている。
     開発の失敗にトホホとなると、ガーラさんは、ラボの休憩スペースで慰めてくれる。自分の慕う人物の大事な人であるがゆえに、ありがたいと思うのと同時に、世話を焼かせてしまって申し訳ないなぁという気持ちでいっぱいになる。奥様は『気にしないで。お互い、あの人の世話に苦労している仲でしょう?』とフォローしてくれるけれど、それでも現実からは逃れられない。

     ⁂

    「あ、そうだ。博士は、快感エネルギーを奥様から供給してもらっていると――」
    「ええ、そうよ。キスをしたり、手を繋いだり、そんなことで発生する快感エネルギーを供給しているの」
    「それです! その快感エネルギーが、ボクの今回製作したバイスに不具合を起こしたんです!」
    「……欠陥。快感エネルギーは対象者の幸福感も大きく関係しているっていうわよね。対象者が幸せでないと、産出されるエネルギーは薄く、少ないものしか発生しない。あの人も『こればかりは、ガーラがいたからこそ発見できた』って言ってたっけ……。なんだこの熟した惚気。ごめんなさいね」
    「いえいえそんな! ありがたいお話です! あ。おそらく、ボクが今考えている方法であれば、バイスを修正することができるはず……。ですから奥様! 奥様の快感エネルギーをボクに分けてくれませんか!」
    「…………そうね。やってみましょう。じゃあベッドに――」
    「ちょ、ちょっと! 奥様、何を! 奥様、服を! 服を着てください!」
    「え? ほしいんでしょ?」
    「そ、そうですけど。ボクの想像していたものとは、ちょーっと、違うかなーって……。と、とりあえず、服を! 着てください!」
    「あらそう? ごめんなさいね。てっきり直(じか)かと」
    「はは……。あれ? もしかすると……」
    「もうっ。そんな、見つめたって何も出ないわよ? 味の薄い母乳くらい?」
    「な、何も喋っていません! 思ってもいませんよ!」
    「あはは、そんなに驚かなくてもいいのに……」
    「そ、その思いついた方法があるんです」
    「へぇ。アタシは何をすればいいの?」
    「そうですね。それじゃあ……。ちょっと待ってくださいね……。よし、これをば~」
    「これって……」
    「はい、快感エネルギー吸収装置です。バイスに直接供給するよりも、一度、こちらに溜めてから改めて修正に取り掛かろうと。不具合の原因もここにあらかじめ溜められていた快感エネルギーによるものだと推察できるので」
    「なるほど……。でも、今のアタシの状態だと、キミのそれとほんの少ししか変わらない量しか供給できないんじゃない?」
    「おっしゃる通りです。本来、キスや愛撫、性交などの直の接触により多量の快感エネルギーが発生します。それも短時間で。しかし、直の接触でなくとも。他に方法がある……とは考えられませんか」
    「ほぉん。他に方法が……」
    「はい。あります。より負担の少ない方法で発生させることが可能です。少々時間はかかるでしょうが、質、量は変わらないはずです。」
    「で、どんな方法?」
    「それは、自分にとって好意のある人の写真もしくは動画を見ることです」
    「……それだけ?」
    「はい。これだけです。まぁ、聞くよりも実際にやってみたほうが、奥様も納得しやすいかと……。奥様はよろしければ、今すぐにでも実行に移そうかと……」
    「そうね。やってみましょう。最近あの人、疲れてるっていうのもあるし。
     それに……、この研究の成功には、あの人にキミを認めさせるっていうもう一つの目標もあるし。ね?」
    「あ……! ありがとうございます!」

     それから五日間、博士の助手としての生活を全うする傍ら、時間があるときには奥様の下へ訪ね、写真と動画の視聴から得られる快感エネルギーの推移、日ごろの体調を報告してもらった。
     やはり、ボクの思った通りで、直の接触でなくても、それに匹敵するほどの快感エネルギーが発生することが分かった。博士の生み出した従来の直接的アプローチは、短時間で強力な快感エネルギーを生み出すことに長けている。しかし、対象者の疲弊が発生の循環を妨げてしまうという大きなデメリットがある。対して、ボクの生み出した間接的アプローチは、長時間ではあるものの、対象者の疲弊によってエネルギーの発生に必要な循環が妨げられない。

     ――実験内容

    ①:奥様の書斎、トイレ、寝室などに博士の写真を貼ってもらう。
    ②:一日に一回でもいいから、博士にまつわる動画を観てもらう。

     お互いに愛し合っていること(幸福感の有無)が必要最低限の条件であるため、これをパスしている二人なら可能。これは賭けだった。確信はあったものの、なかなか自分に自信が持てなかった。奥様からの献身的なサポートは非常に助けになった。しかし、最もボクの心を支えてくれたのは博士の言葉だった。
    『人がやろうとして、やらなかったことをやっただけだよ』。
     この言葉を忘れたが最後、ボクは博士の助手をやめ、どこかで、誰にも知られずにノホホンと息絶えていたかもしれない。今までの恩返しをしなければならない。そのためにも今度こそ、博士を認めさせる。

     ⁂

     奥様との実験は無事に終了。報告するためのデータもまとまった。『何かあったら飛んでいくから、コッソリ見守っとくね』と奥様からエールを貰った。
     あとは、自分がやるだけ。
     時刻は一二時過ぎ、研究も終わり、一息ついた頃合い。
     大広間のソファでくつろぐ博士が目にとまる。
     ゲンコツをつくり、自身の胸をドンドン叩いて気合を入れる。
     よし、やってやるぞ……。

    「博士、この間の失敗作(バイス)についてなのですが――」
    「なんだね。声を裏返して。五年経っても尻すぼみ癖が治らないみたいだね」
     うろたえるな。
     博士のいつものちょっかいだ。
     気にすることはない。
     博士からイニシアチブを取り返し、本題を即座に切り出す。
    「博士、率直に言います。最近、奥様とヤりすぎではありませんか?」
    「…………ほう、なぜそう思うのかね」
     見たことのない反応だ。
     ボクではなく、博士がうろたえている。
     両目が泳ぎまくっている。
     やはり、奥様のことになると弱いのか。
     先日、奥様がボクに神妙な面持ちで『あの人、アタシのことになると滅法弱いの。大事にしてくれてる証拠なのだろうけど……。でも、夜が激しすぎるから抑えてほしいなあ、とは思うの。アタシもね、次の朝に用事があるからって注意はするんだけど。言うこときいてくれないのよね。ついついやりすぎちゃうの。そうなると一日中身体が持たない持たない。歳も歳だしね……。
     ただ、心の底からの愛情だってわかってるから、断りきれないアタシの責任でもあるんだけど、やっぱりほどほどにしないといけないこともあるから……ゴニョゴニョ』とおっしゃっていた。ようはノロケ。
     そこは置いておいて。お互いの意思がすれ違い、仲睦まじい関係が破綻してしまわないためにも、ボクがこの問題を解決する必要がある。もちろん、博士に認めてもらうことがボクにとっての最優先事項。
    「先日お見せしたバイスの修正を行いました。併行して、供給するための快感エネルギーをボクなりのやり方で発生させました」
    「ほぉ……。教えた方法とは異なるもので……」
    「ちなみにこれは、奥様から供給させてもらいました」
     博士の表情がガラッと変わった。三桁を超える連続殺人鬼の目をしていた。『こいつ、何を言ってくれてんだ』、『ガーラに何かよからぬことをしたのならば殺す』、顔に書いてある。
    「博士、落ち着いてください。奥様とは直の接触は行っていません。すぐそこに奥様本人もいらっしゃいますから直接奥様に尋ねてもらっても構いません」
    「キミが、ガーラと……」
    「五年間、博士に付き添ったボクのことがそんなにも信じられませんか? 今回のボクの目的は、バイスの修正結果と、奥様から得られた快感エネルギーにまつわる実験報告です。そこに直の接触があると疑われるのは無理もありません。何せ、それを発見したのは、博士自身なわけですから。しかし、ボクの生み出した方法による快感エネルギーは従来のものとは異なります……。博士。とりあえず、バイスの修正結果から話を聞いてください」
    「わかった……。話を続けてくれ」
     こんな消極的な博士、初めて見た。いつも全てに前のめりでズバズバと発言するタイプの人間なのに……。
    「バイスの起動に成功、正常に作動し、無事、声から人体を生成することができました」
    「……ほう。となると、前回の失敗は、やはり快感エネルギーの不足によるものか……?」
    「部分的には合っています。たしかに、エネルギーの不足はありました。それが主な原因であることは事実です。しかし、もう一つ、事実があります。 
     それは、快感エネルギー吸収装置に溜められていたエネルギーを使ったからです」
    「なに……?」
    「あれは、博士が奥様から直に発生させたもので、間違いないですよね?」
    「ああ、間違いない……。まさか、対象者の体調と関係があるのか」
    「はい、おっしゃる通りです。大いに関係がありました」
     人が失態を犯したときの仕草は、どれだけ偉大な人物でも共通している。  
     拳をこめかみに当てて、肘をドンとテーブルに突き刺す。
     見ているこちらの心が痛まれる。
     しかし、現に今起きていることをそっくりそのまま報告しなければ、本当に何もかもが終わってしまうかもしれない。
     ボクは慎重に、そして確実に言葉を繋げていく。
    「博士、落ち込むことはありません。バイスに供給したエネルギーは、ボクが新たに発見した間接的に発生させた快感エネルギーです。詳しいことは、こちらのデータにあります。目を通してください」
    「…………なるほど、非常に安定している。エネルギーそのものの大きさも変わっていない。キミは、これを間接的に、と言ったね?」
     やはり博士だ。物分かりが早い、しかし、奥様のことに関しては目の届かないところもあるようだ。そこが人間らしくて大変可愛らしいところなのだが、それが今回の問題の引き金となっている。少しずつ、直による発生の機会を減らしてもらいたい。
    「はい、間接的アプローチです。非常に単純明快な実験により、間接的であってもエネルギーが発生することが判明したのです。その介あって、バイスを正常に作動することが可能になりました。今回は、加齢臭による中年男性の人体生成です。後ほど、確認をお願いします」
    「うむ、わかった……。まさか、ガーラの身がもろに関係していたとは……」
    「あ、あの、すみません。博士にとっては耳の痛い話が続きます。続けてよろしいですか?」
    「……ああ、続けてくれ。今の話を聞くに、先日のバイスの失敗は私の責任でもあるからな。聞かないわけはない」
    「わかりました。では……。
     従来の方法において快感エネルギーの発生は直で行われていました。『ここに欠陥はない、まさしく未来のための無限のエネルギーである』と世間からも、内部からも言われてきました。
     しかし、ここにたった一つだけ欠陥がありました。それは、対象者の疲弊よるエネルギーそのものの劣化です。直によるものでは、対象者から得られるエネルギーは短時間で効率よく発生させることが可能です。その代わり、対象者に多大な負荷がかかる。一、二日であればエネルギーそのものに影響はあまり出ませんが、先日のバイスに供給したものは一ヶ月間連続モノ。エネルギーの量は変わらないものの、それそのものに質がなかった。そのため、本来正常に作動するはずのバイスは不発に終わりました。おかしいなと思い、不具合の原因がどこにあるのか探っていると、『奥様の体調』という問題に行き着きました。そこでボクは、奥様に五日間、ボクの考案した実験に協力してもらい、二つの条件を設けて実行しました」
    「……たった二つで」
    「はい、五日間でこの二つです……。博士、この五日間、奥様に夜の誘いを断られましたよね」
    「……だからか。いつもだったらベッドへ直行だったのにどうして、と思ってはいたが、まさか秘密裏に実験を……」
    「博士に実験が気づかれてはいけないと思いまして、写真や動画は、博士が普段立ち入らない場所で見てもらうようにしました……かなりの賭けではありましたがうまくいったようでホッとしました。これは、奥様と博士の真摯な愛があってこその成功でした。でなければ、ボクの製作したバイスも今ごろ廃棄場に行ったきりになっていたでしょう」
     ボクの話すべきことは、もうない。
     やりきった。
     やれることはやった。
    「キミ」
    「は、はい……!」
    「ガーラを、私を救ってくれてありがとう……」
    「博士……!」
    「これからは一日三回ではなく、一日一回にする」
    「博士……」

      4:ダベリズム

    ドスケベナノオスキー(以下:ド)「いかん!」
    アホンダラ(以下:ア)「博士」
    ド「なんだね」
    ア「急に叫ばれると、ボクの左腕のチック症に響くとあれほど……」
    ド「ああ、すまんすまん。ちと悶々としていてね。つい声がでかくなってしまった。ついでに、キミに言われたこともポカンと忘れてしまう」
    ア「いや、いいんですよ。わかってて博士のラボに寝泊まりさせてもらってるんですからね」
    ド「キミ……」
    ア「なんです?」
    ド「ちょろいね!」

     低糖のコーヒーで低脂肪牛乳を割ったコーヒーミルクを二つ。真っ白な、小さな丸テーブルに置いた。ボクたち二人以外に誰もいない、やけに広い空間。ラボの一室。ただ喋るだけに使うなんて、もったいない。

    ド「で、好きなのかい?」
    ア「気遣いですか?」
    ド「違う! 人としてだ!」
    ア「うーん……。今のボクにはわかりません」
    ド「ほう」
    ア「意外ですか?」
    ド「いんや! ちっとも!」
    ア「なんですかそれ」
    ド「話を切るぞ!」

     この人はいつもこうだ。言いたいときに言って、聞かないときは聞かない。いつもこんな調子で振り回されている。常に暴走し、時に死んだように黙る。その緩急によって、新たな作品が生まれるのだと自覚している、らしい(自覚できているのがなんとも博士らしい)。
    博士が会話をプツン! と切ったのは、コーヒーミルクが常温にならないうちに、冷えたまま飲みたい衝動にかられたからであろう。

    ド「けちんぼ!」
    ア「はい?」
    ド「コーヒーが一滴分濃いぞ! これで小便を漏らしてしまったらどうする! もうこれ以上、駄弁りができなくなってしまうぞ!」
    ア「博士。でしたら、ご自分でコーヒーミルクをつくって、飲めばいいのでは?」
    ド「それがな。自分ではどうにもうまくいかんのだ。他人にも任せるわけにもいかない」
    ア「ボクは、他人ですよ」
    ド「いんや! キミと私は一心同体も同然! 絶妙な距離感だ! 今、まさに、ガッチリとかみ合っているんだ。だから、私であるキミに、コーヒーミルクをつくってくれと頼んだんだ! そう! 私であるキミにね!」
    ア「はいはい……。じゃあ、作り直してきます」
    ド「いんや。いいよ、これはこれでおいしいから。そういう気分になってきたな」
    ア「はぁ……」

     コーヒーミルクを一口、二口と飲み進めていく。博士の目が、次第次第に創作を始めるときの、冷たく鋭いものに変わっていくのに気がついた。
    話は整頓され、急激に真理へと押し流される。

    ド「好きかね?」
    ア「ええ。もちろん」
    ド「する、される?」
    ア「される」
    ド「手前、奥?」
    ア「手前」
    ド「いかん! いかんいかん!」
    ア「手前では、いけないのですか?」
    ド「ええい! 紛らわしい! いけなくもないが、いけないことなんだよ、それは!」
    ア「はあ。危ないから、でしょうか」
    ド「うむ。たしかに、それもそうなのだが、私の見解では、ちと違う。私からすれば、それは遠慮ではなく、後退だ。
    いいかい? キミは、あろうことか、その始発点とも言うべきところで、あえなく爆散することを願う夭折少年なのだよ! 後退するな! 邁進せよ! いざいかん!」
    ア「それは、相手のことを想って――」
    ド「ひとりよがり、にかい?」
    ア「そ、それは……」
    ド「相手に確認したのかい? 何の意見交換もなしに、勝手気ままに、手前の方だと、自己決定してはいないかい?」
    ア「た、たしかに、その通りです……。おっしゃる通りです」
    ド「だろぉ? 模倣は模倣なれど、真作に近い形である贋作ほど、側から見て美しく、真作からして恐ろしいものはないんだよ」
    ア「そうですよね……。考え直してみます」
    ド「よぉし。場所を変えるぞ!」

    ショッピングモールの一角。一角の隅の隅。真っ白な長テーブルが二つ、椅子が八つ。イベントがあると、何かと配置が変更される。それぞれの数も多かったり、少なかったりする。
     固い。とにかく、この場所には、自分たちの肉体以外に柔いものがない。造花でさえ、パキッとしていて、枯れる気配はない。時々、暖かい季節になると、ゾウムシやハエがブンブン飛び回り、這いずり回り、ゾワゾワするが、今日は、今のところいないようだ。見えないだけ。いることはわかっている、としたほうが、内心落ち着くため、そうしておいている。
     博士が私の隣に座る。二つの壁が収束する地点に博士が座る。いつものタキシードではなく。私と同じような半袖白ワイシャツに、サイケなネクタイ、フリーサイズのダボダボズボンという出立。これならば、しきりに通る警備員にも声をかけられるなんてことはないだろう。

    ド「いつもここにいるのかい?」
    ア「ええ。なんとなく、いろんなところを巡って、落ち着いたのがここでした」
    ド「うむ。なかなか、子どもの叫び声やおっさんの咳払いでやかましいね。おい! 見たまえ! あの老紳士! 昼間っからロング缶の安酒を二本も開けとるぞ!」
    ア「今日は弁当が半額になりやすい日ですから。それを狙ってきたんでしょうね。ほら、弁当、二個買ってるでしょう」
    ド「おぉ! ほんとだ! 一個だけにしておけば腹も出ることなく、今以上の生活が少しずつ構築されていくのに! どうして気がつかないのかね!」
    ア「言ってもわかりませんよ」
    ド「言ってもないのにかい?」
    ア「言ったんですよ。それ、あの人に」
    ド「へぇ」
    ア「半額の弁当を二個買うたびに、目の前に立って、博士とおんなじこと」
    ド「そしたら?」
    ア「一瞬止まって、ボクのことがいると分かった上で、無視を決め込んで、弁当ぱくついてました。何度も何度も、一週間に二度ぐらいのペースで言ってたんですけどね。ダメです。びくともしない」
    ド「キミ……」
    ア「なんです?」
    ド「おせっかいだね!」

      ⁂

    ド「怪奇幻想文学は何味なのかね?」
    ア「うーん。ブルーハワイ、でしょうか?」
    ド「季節は夏か」
    ア「そりゃそうでしょう。夏に食べるブルーハワイ味のかき氷は、鬱屈したときに読む怪奇幻想文学なんですよ」
    ド「へぇ。そうなると私は干し葡萄かな」
    ア「あるんですか? そんな味のかき氷」
    ド「知らん。好きにあるもないも関係ない」
    ア「それって、あなたの乾燥ですよね?」
    ド「うむ。紛らわしいからやめよう。話を戻しなさい」
    ア「いや、すみません。どうにも他人の蠢めく環境で生きていると、イヤでも言葉が侵入してきてしまって……。困ったものですね。あ! これって、ボクの感想ですよね! これ、ボクの感想です! データじゃないです!」
    ド「いいから! 戻しなさい!」
    ア「干し葡萄にですか? あるかないかもわからないのに戻れるっていうんですか?」
    ド「ええい! こうなったら……。ブルーハワイ!」
    ア「はっ……! ボクは、一体何を……」
    ド「キミねぇ。知恵熱で暴走していてはいかんぞ。私の前だからよかったものをねぇ」
    ア「そ、そんな! 痴態を晒したみたいな言い方しなくても!」
    ド「いんや。今のは痴態だよ」
    ア「せ、精神の遅滞ですか?」
    ド「ええい! ええい! ブルーハワイ!」
    ア「はっ……! すみません。また熱が……」
    ド「はぁ。キミ、今日はもう休みなさい。半年前から同じ作品の同じところでずっとグツグツしているじゃないか」
    ア「何かないですかね。そういった症状を治す処方箋みたいもの」
    ド「あるぞ!」
    ア「それは、一体……?」
    ド「怪奇幻想文学さ」

    #創作大賞2026 #ファンタジー小説部門


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