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2×3×4 トオルとアキラ【第一片】

      あらすじ

     二人の人間、三つのテーマ、四つの物語に沿って描かれる同時多発的連続作品。
     時に甘く、時にグロく、同じ名前であれど姿形や背景は様々。それは何も特別なことではなく、よく言えば普遍で、悪く言えばありきたり。ゆえに近しく、ほどよく暗い。見落としやすい。そんな薄暗がり。手元に広がる小宇宙。


    トオルとアキラ【第一片】


    1:放課後

     ~ほんの少し先の未来には 数えきれないほどの現在と過去がある~

    トオル(以下:ト)「やんなくったって、わかる」
    アキラ(以下:ア)「いや、やってみなくちゃわかんないことだってあるだろ! たとえそれが自分のことだとしても!」
    ト「はぁ……。だる」
    ア「おいぃ……。自分の未来が見えるからって、ちと冷たすぎるんじゃないか?」
    ト「あのさ。それって、ホントーにアタシに対しての言葉?」
    ア「ほ、本当だ! 嘘じゃない!」
    ト「ふーん……。あ。ワイシャツ。乳首透けてる」
    ア「え! 嘘!?」
    ト「うん。嘘。だって、あんたタンクトップ下に着てるでしょ」
    ア「この……!」
    ト「うっさ」

    じっとりと湿った肌。
    十七時。
     立ち入り禁止の重たい扉の向こう。
    校舎の屋上。
     ――風。
     トオルの爽やかな匂いが、アキラの鼻腔に侵入する。
     その度に『青春』は、『思春』へと色を変える。
     青い空から赤い空へ。
     視線が、吹いてきた風とは反対の方へと吸い込まれる。
     トオルの視線は、どこか、望洋とした場所にあった。
     アキラの知らない場所。
     ――先。

    ア「だからな。オレが言いてぇのは、もっと自分を大事にしろってことなんだよ」
    ト「……そう? それなりに自愛してるつもりなんだけど」
    ア「いやいや。まだ足りねぇよ。そんなんじゃ」
    ト「はぁ……。暑苦し。あんたのその感じ」
    ア「な、なんだと! 今流行の冷笑よりはイイだろ! 心にも身体にも!」

     アキラは、なんだかんだトオルを好いていた。
     些細な会話でも、トオルにまつわる出来事全てを心地よく感じていた。
     溢れ出る好意を悟られぬよう、必死になってしまう。
    そのために、かえって暑苦しくなってしまう。
     アキラの白いワイシャツに、じんわじんわと腋汗が滲む。
     ――風。
     
    ア「見えた先のものを自分の先のものであると信じ、突き進み、その先にある未来に向かって歩み出すことができるのは、トオルのイイところだ」
    ト「あっそ」
    ア「でも、なんか……。こう、違うんじゃないか?」
    ト「……」
    ア「あ。いや、その……。これは怒ってるんじゃないぞ!」
    ト「大丈夫。わかってる。見えてるから。怒ってないってわかってる」
    ア「……ちくしょう。見えてたって変わらないだろ。変えることもできない」
    ト「それは違う」
    ア「なんだ。見たのか……? 何が見えたんだ? 変えられるのか? 今さっき起こったことが!」
    ト「いや、フツーに無理。過去を変えるのなんて無理。わかるでしょそれぐらい」
    ア「ぐぬぅ」
    ト「……そういうところ。昔から変わらない。変わろうとしない。だからアタシの見た、『ほんの少し先にある未来』のことも信用しきれない。そうやって、いつも失敗する。アタシのせいにしようとすることを避けようとする。でも、避けた先にはアタシがいる。どうしたってアタシに当たってくる。慰めるのもアタシ。怒られるのもアタシ」
    ア「……」
    ト「そんなに珍しいかな。そんなに羨ましいかな。……妬ましいかな。やっぱり持つものじゃない。傍から見ていて楽しむ程度の距離感でよかった、なのに……。アタシは持って生まれてしまった……。これから先どうやって生きていくかは誰よりもわかるけど、いままでどうやって生きてきたのかを変えることはできない……。そういうこと」
    ア「やっぱりオレ……。トオルとは釣り合わないんだな」
    ト「ふーん」
    ア「でも、オレのトオルに対しての想いは変わらない」
    ト「……」
    ア「おい……。どうなんだ……? どんな未来が見えているんだ……」
    ト「嘘」
    ア「は?」
    ト「ごまかしてるでしょ。そんなの未来を見なくたってわかる。何年一緒にいると思ってんの。その表情で変わりはないってよく言えたね。あんたに足りないのは蓋然性じゃなくて、人への好奇心」
    ア「そ、そんな! オレはトオルを嫌いになんかなってない!」
    ト「我慢は身体に毒。そうやって、ここでは必死になって抵抗してるけどさ。いざ家に帰ったら、ろくにご飯も食べず、お風呂も入らず、親の心配を無碍にして、枕を涙で濡らすんでしょ? アタシに振られて、悔しくて、ヤケになってさ」
    ア「なぁ……。泣いてもいいか?」
    ト「はぁ……。お好きなように」
    ア「うぅ……」
    ト「えぇ……。ホントに泣くんだ」
    ア「そりゃ、おま……! 泣くだろ!」
    ト「あのさ。別に、付き合ってなくてもさ、昔からの仲なんだしさ。変に気にすることもないんじゃない? ほら。アタシの膝、貸してあげる」
    ア「ぐすん……。かたじけない」
    ト「はは……。何それ、変なの」


      二:欠けたままの月


     ~すべてが欠けている ゆえに 美しい~

      ⁂

     「どうしてボクを好きになったの? キミみたいなイイやつがさ……。何回も訊いてごめんね」
    恋人のトオルに対して、未だにこういった言葉を求められたとき、最適解のそれを言えた試しがない。口に出せば必ず失敗する。そうなるようにできているとしか思えない。かといって、答えを出さないとなれば一生後悔する……だろう。どちらにしても、目の前の彼を納得させることはできないようにできている…………だろう。
    「オマエだから好きになったんだよ」
    「へぇ……」
    「それにオレは、オマエの思っているほどイイやつなんかじゃない」
    「ふーん……」
     こんなことしか言えない。街中ですれ違うカップルの会話の内容をそのまま切り取り、カレンダーの裏に米粒でくっつけたような言葉。
    頭の中で自分の不始末を反省する度に、ぎこちない笑みが内心から頬に伝う。
    こうして苦笑いがうまくなる。
    頬の肉が硬くなる。
    彼の真っ黒な瞳に映る自分。ますます写実的(リアル)。醜さが浮彫にされていく。
    その瞳を潰してしまえば……。いや、いけない。それよりも、彼の瞳に映る度に、どんどんと醜くなっていく――自分を叩き割り、殺すべきだろう。とことん卑怯で、死ぬほど意気地なし。愛する人ひとり、愛しきれない。救えきれない。そんな、どうしようもない男として生きている自分を――。
    濃く、太く、生き生きとした長い睫毛の奥の台座にはめられた青い宝石。
    ――キラリ。
    侵入する陽の光を受けて輝く。

    変声期前の少年のような、透き通った声色でトオルが話し始めた。
    「でもさ、ボクのことになると、とびきり優しいよね。なんで?」
    「なんでってそりゃ。愛しているからに決まってるだろ」
    「ふーん……。記憶のない人には優しくするのがイイ人でいるための鉄則ってやつなの?」
    「いや、そんなことは――」
    「例えるなら……。町の汚男たちに身体を売って、その悪銭を施設じゃなくて、自分の生活費にあてる修道女の道徳って感じ、かな……」
    「あ、あはは……。そう、なのか……」
    「だけど、キミの優しさはボクの例えたそれよりもわかりやすい気がする。もっと単純で明快。壁越しでもわかるぐらいにね」
     笑えない。
    反応できない。
    正直に、面白くないと主張できればいいのだが、どうにも言えない。どうして……。トオルには申し訳ないが、愛おしいからといったものではないと思う。もっと他に別の理由があるはず……。

    自分の意思を伝えられない時間が続く。
    苦笑いに苦笑いを。
    ぐちゃぐちゃの顔になっていく。
    前の方がよかった、と吐き捨てるだけの人間になっていく。
    「放置したままの絵具のパレットは汚い。洗っても落ちない」
    昔のトオルは、そんなことを言っていた。

    「面白くなかった?」
    「そ、そんなことは――」
    「ごめんね、笑えない冗談だったよね」
    「……」
    「陽の光が、うざったくてさ。うん。ごめん」
     自分が憎い。トオルは、どんな苦渋も背負ってはいけない。その重さに耐えられないから。心身が衰弱している人間には、陽の光すら苦渋に変わる。
    そんなトオルを支えてやらなきゃなのに、このザマだ。

    週に一回と決めている。
    ぎこちない会話の繰り返し。
    かみ合わない歯車同士をはめて無理に回せば、壊れるに決まっているのに。
    どちらかが修復不可能になる……。
    最悪の場合、お互いが――。

    「いや、面白かったよ……。オレが鈍いだけだ」
    「へぇ……」
    「ぼぅっとしててな。すまない」
    「ふーん……。ボクとのデートで、他のこと考えてるの?」
    「そ、そういうわけでは――」
    「そんなさ、他に女がいる男みたいなさ、浅はかな言い訳やめなよ」
    「……」
    「キミは、そんな軽率な答えを出すやつなんかじゃない。ボクにはわかるよ。だって、ボクは、キミの恋人だから」
     恐ろしいよ、トオル。オマエが怖いよ。何もかもが筒抜けのようなのに、それを知らないかのような純粋さでオレの内心をぐちゃぐちゃにかき乱す。
    「オレが全部悪いんだ……」
    「え? なに?」
    「……いや、何でもない」

      ⁂

     トオルとのデート。デートといっても、病院の敷地内の庭を散歩しているだけだ。
    デートは一週間に一回。
    彼の記憶を慎重に、確実に取り戻すための特別な治療方法。彼にとって近しい存在であるオレが、その治療のサポート役として選ばれた。

    一週間ごとにトオルの容態を院長先生に報告し、この先にやるべきことをあらかじめ決めておく。彼が何かしらの刺激で爆発したとき、これまで積み上げてきたものが一気に崩落する可能性があるため、よう慎重に取り組んでいる。
    「どうも。アキラくん。お疲れさん」
    「院長先生も、お疲れ様です」
    「ふむ……。その表情と様子だと、まだ、彼との関係には慣れないみたいだね」
    「はい……。恋人関係というのは、やはり難しいですね。それも同性、昔からの友人となんて……。ただ、全く見ず知らずの男じゃなかっただけ、よかったなというか、まぁ内心は混乱しっぱなしですけど。何とか落ち着けるように努めてます」
    「ふむふむ。同性、しかも親友を恋人にするなんてセラピー方法を知らなかったキミのことだ。無理もない」
    「でも、もう少し気持ちよく立ち回りたいものです……。ぎこちなさすぎて、恋愛に疎いんだなぁって痛く感じてます」
    「なぁに、そんなに落ち込まなくてもいい。上手に立ち回れているよ。大丈夫。自信を持ちなさい……」
    「あはは……。ありがとうございます」
    「んで、本題に入るが、今日のデートの様子は、どうだった? 何か変化はあったかね」
    「いいえ、変わりはありません。穏やかです」
    「ほぉ。それはよかった」
    「ですが、時折、あのときのような爆発の気迫に似たものを感じる瞬間はあります。ヒヤリとしますね。何度味わっても……」
    「あの爆発が、また機会をうかがっているのか……」
    「身体がそれを思い出して硬直するんです。頭に浮かんでいた言葉が真っ白になって、何も言えなくなってしまうんです」
    「あぁ……。実は私も、あの一件以降、疑心暗鬼になっていてね。主に、自分のやってきたことに対してなのだがね……」
    「すみません。あのときオレが――」
    「責任を負うべきは私だ。トオルくんでも、アキラくん、事故を起こした大型トラックの運転手……。誰でもない」
    「院長先生」
    「ははは……。すまんすまん。そうだな……。ちょっとばかし、仮眠をとってくる。今日はもう終わりにしよう」
    「……はい」

    【欠けたままの月は、いつまでも満ち足りることを夢みている】

      ⁂

    院長室から出てすぐの廊下の窓を見た。あたりはすっかり暗くなっていた。十月に入ると十七時を過ぎた途端、もう真っ暗。肌寒いせいか、無性に寂しい気持ちになる。かつての温もりを思い出してしまう。
    ポケットの中の手が、ひとつ足りない……。

    駐輪場へと続く廊下を歩く。カツンコツンと乾いた靴の音が響く。半開きの窓からは、下校途中と思われる子どもたちの元気な笑い声や激しく行き交う自転車の車輪の回る音が耳に入ってくる。騒がしいのは外ではない。内心だ。静かすぎる。音が少ない。
    ――爆発の前兆か。
    駐車場へ行くための出入り口から最も近い曲がり角のすぐそこに、トオルの病室(二十四号室)がある。それを忘れていた。
    無意識だった。
    ドアノブに手をかけようとした。
    ――ガシッ。
    腕をとられた。
    左目の目尻で、その犯人(?)を捉えることができた。
    白く薄く、骨ばった手。
    ――トオルだった。
    目つきは鋭利に研磨され、見ているこちらの目がギンとなるほど痛く輝いていた。満月を願い、虚空に吠える狼の目をしていた。昼間の太陽をその目に映す、少年のような純粋さは消えていた。頬の肉はそがれ、目元の窪みは、さらに深くなっていた。元々癖っ毛ではあるものの、恐山に住まう老婆を想起させるような荒々しさで、乱れに乱れていた。その容姿の極端な変貌ぶり、着ている衣服の乱れ方を見るに、病室で落ち着けず、パニック発作に苦しみもがき、許可なく病室から抜け出し、必死の思いで、帰ろうとする最中のオレのところに駆けつけたといった具合か。半年前まではよくあることだったが、ここにきてこの荒れようは珍しい。
    トオルは、オレの腕をギュウと強く掴み、重たい口を開いた。彼の声色は低く、ガサガサとしていた。鳴きすぎて喉の潰れた仔猫のようだった。
    「ねぇ……。帰っちゃうの? また、ボク、独りになっちゃうの? いやだよ。そんなのいやだよ。ボク、怖いよ、夜が襲ってきたんだよ。独りぼっちの夜が……。ねぇ、独りぼっちの夜が、どれだけ怖いかわかる? 女の子の声が聞こえるんだよ。シクシク泣き始めるんだ。『痛い、痛い』って泣き喚くんだ。時間が経てば経つほど、その声は大きくなる。叫んだり、嗚咽したり……。隣の病室で寝ているボクを邪魔するんだよ。キミは、そんな状況に耐えられるかい?」
    「トオル。何度も言っているが、彼女は――」
    「その声を聞くと、爆発しそうになるんだ……」
    「爆発……!」
    「蚊の羽音に耐えられなくなって、眠れなくなって、枕をベッドに叩きつける、あの感じ。一度でも耳にすると、耳からその音が離れなくなる。手で塞いでも、耳栓をしても、頭を布団で包んでも、ずぅっと聞こえるんだよ。そんな夜、耐えられるわけないだろ?」
    「彼女が…………」
    「キミや院長が言うように、ボクの記憶は曖昧で、わからないことだらけだ。だけど、夜に聞こえる少女の声。こんなの忘れられるわけないよ。どれだけボクの記憶が、すっからかんだとしても、覚えてしまうよ。とても鮮明なんだ。朝になっても、その次の朝になっても、ボクの頭の中で泣き続ける。叫び続けるんだ」
    「トオル。それには理由が――」
    「アキラくん。キミは、優しい人間なんだろ? だったら、独りぼっちにさせるなんて、そんな酷いことなんかしないだろ?」
    「オ、オレは……。オレは……!」
    「今日の夜、一緒に寝よ。少女の声が聞こえなくなるまで……。ね?」
    「い、いや――」
    言いかけた瞬間。彼の声ではない、別の声が廊下の奥から聞こえた。
    「いかん! いかんぞ! トオルくん! 今すぐアキラくんから離れなさい!」
     院長先生だ。はぁはぁと息を切らしている。仮眠室から走ってきたのだろう。
    院長先生の顔は青ざめていた。酸欠や運動不足のせいではない。
    ――欠けたままの月のせいだ。

     今、オレが置かれているこの状況。トオルと院長先生どちらをとるかで、大きく物事が変わる局面にあるのかもしれない。
    半年前の汚名を返上する。勘の鈍いオレだ。ここは慎重に考えるべきだ。即決できる話ではない。しかし、目の前の事態はそれどころではない。
    「トオルくん。もう一度だけ言うぞ。いいかい? 今すぐ病室に――」
    「いやだ! 二回も言われなくたって、あんたの言ってることぐらい理解できる! 記憶がなくたって、わかることぐらいわかる!」
    「だったらなおさらだ! 部屋に戻りなさい!」
    「いやだ!」
    「……」
    「隣の部屋の少女の声をどうにかするっていうんなら戻ってやってもいいよ」
    「……なに? うるさいだと……? もとよりそれは――」
     ダメだ。最初の爆発のときと同じだ。
    事件が起こる。起こらなくていい事件がまた起きてしまう。
    半年前と違う選択。
    ここで選ぶべきは、間違いない。
    「待ってください! 院長先生……!」
    「なんだね。アキラくん」
     院長先生のいつもの温厚さが見受けられない。この場所を統括する責任者としての気迫が、発言の勢いを弱めた。そう、これも最初の爆発と同じ。だからこそ、越えなければならない。棹を差し、流れを変えなくてはならない。
    「……トオルの意見を尊重させてください」
    「ほぉ……。まさか、アキラくんから、そんなことを」
    「たしかに、無許可に病室から出たことやオレとの接触は、あってはならないことです。何よりここは、院長先生が絶対の場所ですから」
    「……」
    「でも、このままの治療方法で彼の記憶が、自然に呼び起こされるとは考えにくい……。そうは思いませんか」
    「たしかに。慎重すぎて、停滞している気はしていた……」
    「もうそろそろ、方法を変えてみてもいい頃合いなのかと」
    「ふむ……」
    「あ、あくまで憶測なので、これ以上オレからは何も言えません。それと、記憶の再生についてですが、強制的な処置による呼び起こしは失敗なのは承知です。自然に記憶を思い出したことになりませんから」
    「ふむふむ……」
    「それに、治療期間が長引くとどうなるか、院長先生自身が最も痛感しているはずです。苦しみは、彼だけでとどまらず、彼の周りの人間、彼を管理する病院全体にまで伝染していきます。オレは、もうこれ以上、大事なものを失いたくないんです! どうか、どうか!」
    「……」
    「……今日の夜。オレは、トオルと一緒に、トオルの病室で寝ます。無事、朝を迎えられれば、院長先生に何かしら報告できる発見があるかもしれませんから。彼が夜を穏やかに過ごせるよう、オレなりにサポートしますし、何かあればすぐに報告します」
    「……わかった。許可しよう」
    「院長先生!」
    「ただし、何かあったら、すぐに私、もしくは従業員に報告するように。些細なことでも、何かしらの大事件、もしくは解決策に繋がるかもしれないからね」
    「……あ、ありがとうございます!」
      
    勢いよく頭を下げた。そこから、力強くオレの腕を掴むトオルの手が見えた。フルフルと震えていたが、それは恐怖によるものではなく、嬉しさや喜びからの震えであることが、何となくわかった。
    トオルの目は、欠けたままの月の青白い光を宿していた。

    【月の裏が、いずれは明るくなるなんて嘘。ずぅっと、真っ暗闇】

      ⁂

     どっと疲れた。最初の爆発以来の疲労感。
    トオルの一日の大半の時間を占める固いベッドの上でドガっと胡坐をかく。灰色の壁と自分との間に枕を挟む。ボフンと顔を横に、枕に乗せた。
    ――トオルの匂いだ。

    よほど疲れていたのか、月の動かぬうちにすぐに眠ってしまった……と記憶している。はっきりとは覚えていない。死ぬほど眠たかったのだ。
    月の影を見るに三十分ほど眠っていたようである。欠伸をするために腕を持ち上げようとしたとき、手に触れた違和感に気がついた。
    トオルの手だ。オレの髪を使って遊んでいたらしい。無駄に長い、伸ばしっぱなしの髪の毛を使い、様々なモノ・カタチを表現する。
    星空。
    カカシ。
    炎。
    猫。
    狂気。

    絵を描くことを生業としていたときの記憶を身体が覚えているのだろう。当の本人は、その能力で見る人全てを魅了させてきたことなんて微塵も覚えていない。
    彼の絵画の買い手やファンには残念ではあるが、この記憶の再生は、優先されるものではない。最優先事項を忘れてはいけない。彼の半年前までにあった記憶。これの再生が最優先だ。
    なんてことを考えていると、トオルは昼間のときと同じく、純粋さのある声で話し始めた。
    「キミの髪の毛。まっすぐでサラサラ。ボクのクルクルの髪の毛とは違う。キレイ。ずっと触ってたい…………」
    「伸ばしっぱなしにしているだけだよ」
    「あ! そうだ! ねぇ聞いて! ここの病院の看護婦さん! ボクの身体の洗い方、すごい雑なんだよ! デッカい犬をゴシゴシって力強く洗う感じ! ニ、三人の看護婦さんがボクの全身を一斉に洗い出すもんだからさ、すぐに泡でモコモコになるんだ! 羊さんみたいになるんだよ!」
    「あはは。そりゃあ大変だな。でも、痛くはないんだろ?」
    「そりゃそうだけどさ~。あ! ボクの全身のいたるところにつけてもらった、キミの噛み痕を見て驚く看護婦さんたちの反応が面白かったんだ!」
    「……おお」
    「『誰がこれを?』って聞いてくるからさ、『自分で噛んだ』って答えたの。そしたら、『項もですか!?』って、飛び跳ねたの! こんくらい!  笑っちゃうよね!」
    「あはは……! 笑えるな」
    「でっしょ~!」
     これで何度目であろうか。
    この話を何回、オレは聞いたのだろうか。
    デートのとき、必ず口にする話の内容のひとつである。正直、もう聞き飽きた。
    しかし、今日のような特別な日は、そんな繰り返し聞いた話でも、新鮮に聞こえてくるもので、自分の内でも面白いなと素直に思えた。自然に笑みがこぼれた。
    それに、欠けたままの月が動いたように見えた。
    トオルの目が青白くメランと輝いた。
    「あ、あのさ。その、ダメったらで、いいんだけどさ。ま、また……つけてって言ったら、つけてくれる? 噛み痕。全身のいたるところに…………ダ、ダメかな?」
     すっかり油断しきっていた。
    オレは、トオルの恋人であることを一瞬でも忘れてはいけなかった。気を抜いたその瞬間、トオルに丸呑みにされる。排泄されることなく溶かされ、そのまま愛でられる。
    間違った答えに辿り着くためには、不慮と無抵抗さえあればいい。
    そんな、自身の内心で渦巻く空しい葛藤をよそにトオルは――ええと、彼の言葉で例えるのであれば、修道女が汚男を豚小屋の裏へ隠・青姦に誘うときの声色――で、オレの右耳(利き耳)の穴に向けてポソポソと囁く。わざと吐息を多めに。
    「ねぇ……。今日はさ、隣の部屋の少女の声が聞こえなくなるぐらいに声、出していいんだよ? 今は静かだけど。そのうちまたうるさくなるだろうしさ。お互いに」
    「ゴクリ……」
    「いつもはさ。声、我慢してるけど。声、出すようになったら、もっと気持ちよくなれるって思わない? …………今日のキミ、すごいかっこよかったなぁ。惚れ直しちゃった。だから……。今日はいっぱい、褒めてあげるね。手とか、口とか、太腿とかで」
    「……」
    「……期待、してるの? ほら、手。聞こえる? ボクの心臓の音。さっきからドクンドクンって、うるさいんだ」
    「トオル……」
    「……キミのソレと同じぐらいに、今すぐにでもいいことしたいって暴れ出すんだ。ね? ボクのこと無茶苦茶にしていいからさ。ねぇ、しよ?」
     その声は、昼間のときの声とも、低くガラガラとした声とも全く異なる、人魚の声だった。男を海に引きずり込み、快感という名の溺死へと誘う。
    甘く、美しく、艶やかな声。

    病室の窓は鉄柵で保護されている。しかし、鉄柵と鉄柵の間からは外からの涼しい風が侵入する。その風で揺らめくトオルのクルクルとした黒い髪がユラユラとオレを手招く。欠けたままの月の光によって青白く光る華奢な身体は、オレのような男くさい、分厚くゴワゴワとしたものなんかとは全く違う。触れただけで、そこがオレの色や匂いのせいで、ボロボロと壊れてしまうのではないかと思われるほどに細やかで美しい。全体のシルエットとしてはスラっとしているが、胸や尻の肉は、触れてみるとプニプニしていて心地よく、ほどよい弾力と絹のような肌のきめ細やかさが際立っている。オレみたいな、ひとりの女しか知らなかったような男が触れてみても、その身体は興奮するに申し分なかった。
    「しようよ。はやく」
     スルスルとトオルは自分のズボンを脱いでいく。それも、オレのいる位置からトオルの全体像が見える角度と距離を考慮して。恐ろしいのは、オレの好みをどういうわけか熟知しているということだ。『なんか知ってる。誰かの頭の中から見つけた感じ』と彼は言っていたが、それがオレにとっては、なんというか、恥ずかしくてたまらない。しかし、絶景をそちらから見せてくれるのであるから文句の言いようがない。
    「上の服、脱がないの好きでしょ。知ってるよ。だってボクは、キミの恋人だから。そんなの当たり前。服の中に手や頭を突っ込んだときの、肌と服に挟まれる感覚がいいんだよね?」
     しかし、冷静に考えてみれば、これは妙な話である。どうして、親友という関係性だっただけのオレの性嗜好を尽く知りつくしているのか。それに、語るならまだしも、それを実行に移せるのか。記憶の欠落は、また新たな記憶を同時に植え付けるのか。
    そして、なぜ――。
    「耳、弱いからダメだって。くすぐったい。耳の裏も、ダメ……」
     オレも、トオルの感じる場所がわかるのか――。
    傍からの意見であれば、『相性がよかったんじゃない?』とか『運命よ! それ、大事にしなよ』なんて言葉が返ってくるようなありがたい言葉が定石だ……。
    しかし、これまでに数回、身を交わしてきただけなのに、ここまでお互いの性嗜好を隅から隅まで熟知できているのは、明らかにおかしい。やはり相性なのか……? それとも運命なのか……? はたまた、全く違う因果のせいなのか……?
    「力、入らない。耳ばっかりずるい」
     ピリピリとした快楽。初期段階(はじめ)の快感によがるトオルの姿は、率直に言えば可愛らしい。何だか、こう、焦らしてやりたいような、ほんのちょっとした加虐心(できごころ)が芽生えてくる。
    目を瞑ると目尻から零れる涙をオレは、それが枕に着かぬうちに素早く啄む。
    これがキスの合図になる。  
    最初は優しく、柔らかく。わざと音が出るように唇と唇を重ね、息継ぎのためにすぐ離す。これを何度も繰り返す。段々と呼吸が荒くなり、鼻息の出入りも激しくなる。鼻息が頬に当たってこそばゆいのか、トオルはフフッと笑い始める。
    これが深いキスの合図になる。
    絶え間なく続けられる浅いキスのせいで唾液を飲み込む瞬間(タイミング)がない。口の中にどんどん溜まっていく。それを深いキスの始まりと共に、お互いの口の中へ移していく。零れないように隙間のない深いキス。コクン……コクン……と耳を澄まさなくともトオルが、オレのと混ざり合った唾液を飲み込んでいく音が聞こえてくる。
    海底の洞窟に響く、沈没した豪華客船が揺れ動く。
    オレもそれに続く。口の中で、トオルのと混ざり合った唾液を一気に飲み込む。思っている以上に唾液がドロッとしているため、気をつけていないと咳き込み、吐きそうになる。  
    この危険を伴う快楽も、彼の知る、オレの性嗜好のひとつであるから、お互いに心配することはない。ただ気持ちいいだけ。それでいいと思っている。そこからダラダラと浅いキスと深いキスを交互に繰り返す。鉄柵と鉄柵の間から見える、欠けたままの月に自分たちの痴態を晒す。
    欠けたままの月が顔を背けたように見えた。
    「ん、んむ。ぷはぁ……。はぁ……。はぁ……。ち、ちょっと休憩」
    トオルが休憩を求めたら、それに従う。休憩を挟まないと本当に気絶してしまう。気持ちよすぎてではなく、息ができないぐらいにキスをしまくるから気絶しそうになる。
    快感の山を越え、ポーっと蕩(とろ)けているトオルの表情が目に入った。
    ちょっといじくってやろう。
    オレの食指(しょくし)を彼の半開きの口の中でチャプチャプと泳がしてやる。おまつりの屋台か駄菓子屋で綿あめを作るときの回し方だ。懐かしいな。熱くなったトオルの舌がオレの指に絡みつく。唾液で指がふやけて金魚のようだ。中指を加え、さらにかき回す。金魚鉢(きんぎょばち)の中で二匹の金魚が身を重ねてグルグル泳ぎ回っている……。蜂蜜入りヨーグルトを指と唾液で表現してみようか……。トオルのように上手に描けないとは思うが……。どうだろうか。
    食指と中指に絡んだ唾液が糸を引く。欠けたままの月に照らされ、青白く光っている。全盲(ぜんもう)の産みの親を食らうツチボタルの無情(むじょう)と飢餓(きが)。青白く輝く美しき魔物に呑まれていくだけ。
    幸せだ。

    【欠けたままの月には、愛する人がいるの】

     時間の経過によって、一か所に集中していた快感が全身にじわじわと広がっていく。トオルは、自身の左右の太腿を擦(す)り合わせ、時折、足の指で器用にシーツをグッと掴み、少し力(りき)んだかと思えば、パッと放すことを繰り返している。足の指の形を覚えたシーツの皺の凸凹(でこぼこ)が青白い光によって、地平線を越えてもなお永遠に続く砂丘に見えてくる。
    身体の中に残った快感にいじめられている姿が実に可愛らしい。仔猫が丸くなって眠っているようで、つい頭を撫でてしまう。どうしてだか、我が子を愛でる母のような、そんな庇護欲すら掻き立てられる。トオルもそれが心地いいのか、スリスリとオレの手に頬を擦り寄せてくる。ああ、愛おしい………………。
    ふぅ。一旦落ち着いてみよう。
    ベッドから立ち上がり、目の前に広がっている光景を冷静に分析する。
    互いの性嗜好の熟知……。愛撫の反応……。キスの合図……。快感の走り方……。これまでのトオルとの姦淫の一部始終を振り返ってみても、気がかりな点しかない。
    ありえないだろう、と度々浮かび上がるとんでもない疑惑を打ち消してきたが、ここまでくると、もはやそれしか答えが思い浮かばない。
    やはり…………。

    【耳、好きなの? べつに、勢い余ってかみ千切ったっていいんだからね。それぐらいで怒らないよ。だってアタシ、アナタの恋人だから】

    【唾液、好きなんだ。アタシも好き。だって、自分のだけだと味なんてしないのに、アナタの唾液が混ざっただけで、すっごく美味しく感じるんだもの】

    【キス。なっが……。あはは。息できないって……。でも、これぐらい長いと気持ちよさも変わってくるね。アタシは長くていいかな。気絶するくらいのやつ】

    【足……っていうか太腿が笑ってるんだけど、気持ちよすぎて。あはは。面白い。生きてるみたい足が】

    【ねぇ、アタシのこと、好き? 何回も訊いちゃってごめんね】

    【アタシの名前、呼んで。アキラくん。できるなら耳元で】

    「モア………………」

    オレは……。オレは……! ダメだ。今、連想しては。察しのいいトオルのことだ。気づかれてしまう。それは失敗に繋がる。大事件に直結する。半年前の出来事がそうだったように。
    頭の中のゴタゴタから逃げるために、快感が抜けきれない様子のトオルの耳を愛撫し続ける。快感で彼の勘を鈍らせるために。
    「また、あ」
     今、目の前にいるのはトオルだ。
    彼しかいない。
    【また、あ】
     ダメだ……。連想しては……。トオルが気づく前に止めなくては。
    「あはは。やっぱりキミの手、好き」
     ダメだ。やはり、愛撫そのものを止めなくては……。この手を止めるんだ。今すぐに。
    【あはは。やっぱりアナタの手、好き】
     それでもやはり、愛おしく、自身の手を抑えることができない。耳に手が吸い寄せられる。手が、耳に頬すりを求めている。
     ――突然だった。隣の部屋から叫び声が聞こえた。
    「ぎゃあああああ! いやぁああああ! あの人に会わせて! いや! いや!」
    トオルのいうところの少女、オレのいうところの彼女の声だ。
    オレは、バッとトオルの方を見た。
    彼の表情が段々と変わっていく。蕩(とろ)けた妖艶な顔つきから、脱走したときと同じような、血色の悪い表情へと緩やかに変化した。声もまた、人魚の声から老婆の声へと変わった。
    「ほら、この声だよ! これが聞こえてきたら、ボクは真っ先に耳を塞ぐんだ!」
     トオルは、自身の頭に敷いていた枕をガバッと取り上げ、それをすぐに自分の頭に被(かぶ)し、ぐぅっと深く押し付けた。オレはそれを注意深く確認し、隣の部屋から聞こえてくる声が、何を言ってるのかを確認するために耳を澄ました。
     ――彼女は、モアは、まだ生きている。
    「院長先生! やめて! アキラくんが、今、アキラくんが隣の部屋にいるんでしょ! 会わせてよ! ねぇ! 聞こえる? アキラ君! そこにいるんでしょ! そこにいるってわかる……。だって、アタシは、アナタの恋人だから!」
     まずい。本当にまずい。これをトオルに聞かれたら、半年前の出来事よりも深刻な大事件が発生しかねない。発生しなかったとしても、ダメなもんはダメだ。自然な記憶の再生が失敗に終わってしまう。
    「いや! いや! 院長先生! アタシの傷は治らないの! だからもう、ここにいる必要なんてないの! 殺して! こんな醜い姿で生き続けるなんて、そんなの死んだ方がマシよ! アキラくんに会えない場所に居続けるなんていや! アタシは……。アタシは……。アキラくんが好きだっただけなの……。ねぇ、アキラくんも好きだよね? アタシのこと。だって優しく返事、してくれたよね?『ああ、愛してる』って言ってくれたよね?」
    「モア……。オレは……。キミを……!」
    「いや! いや! 院長先生! また…………? 注射? やめて! いやぁぁぁ!」
     体重がガクッと横に傾いた。落胆からではなく、トオルの手によって体重が傾いたのだ。終わった。
    失敗だ。
    「ねぇ、隣の声うるさいからさ。めっちゃ声、出してもいいよってやつ。やっちゃおうよ」
     予想に反した言葉。
    深い夜への誘いであった。

    「ああ! もっと、そこぉ……」
     やけだ。
     くそだ。
     何もかもがめちゃくちゃだ。
     いつもより声を大きくしているせいか、トオルの感じ方は、見ているこっちが心配になるほどのよがりようだ。全身をバインバインと跳ねさせ、ギシンギシンとベッドが呻吟している。固いベッドが解(ほぐ)されて、絨毯(じゅうたん)になるのも時間の問題か。
    「おい。トオル。だいじょぶか? やめとくか?」
    「耳元で喋んのやめて」
     意図していない言動さえ、今の彼にとっては快感になってしまうらしい。本来、こういった快感の表れは、男からすれば『反応がわかって楽しい』、『オレですげぇ感じてくれてんだ。嬉しい』となるのだろうが、状況が状況だ。板挟みの中ではどうにも喜びきれない。もちろん、嬉しくないことはないが、そう感じることのできないほどに状況が混雑している。感情の処理が状況の速度に間に合っていない。
    「やっば! あはは! すぐにまた……っ。ねぇ、次はさ、肩、噛んでくれる?」
     トオルの命令に逆らうことはできない。逆らった瞬間、隣の声が彼に聞こえてしまうから。それだけは絶対にあってはならない。できるだけ快感が全身に届くよう、いつもより力を込め、要望通り、肩にガブリと噛みつく。できるだけ歯の先を喰い込ませ、骨に届くぐらいの勢いと力で。
    「ああ! これ、やばぁ……。骨、かみ砕いてもいいから。もっと強くしていいよ」
     今日一番の感じ方である。絶頂と表現すべきか。ガンディルのごとき荒々しさで肩に噛みついたかいがあった。しかし、もっと強いのを所望らしい。流石に骨を砕くことはできない。顎が持たない。それでも、一生痕が残ってもおかしくないぐらいに強いやつを食らわせる。真っ赤な愛の烙印を肩だけでなく全身に。耳、首、腕、手、胸、腹、尻、太腿、足…………。
    ――オーガズムを蠢くハナデンシャ。
    目の前の快感による絶叫と隣から聞こえる狂乱による絶叫に挟まれながら、必死に目の前の青白い身体のいたるところに歯を立て、噛むことを繰り返した。
    「ね、ねぇ……。最後にさ。好きって言ってよ。大きな声でさ」
    「ああ――」
    「隣の部屋にいる少女に聞こえるくらいの声でさ……。言ってよ。たぶん、ボクの声、隣にガンガン響いてるはずなんだ。だって、ボクが喘ぎ始めてからさ、それに負けてたまるか! みたいなテンションでさ、叫び返してくるんだもん。笑っちゃうな。めっちゃデッカい声出してたよね。隣の少女も、ボクも……。だからさ、キミも大きい声出してよ。すっかり大きくなった、ここ。スッキリさせたいだろうしさ。見てて辛そう……」
    「トオル。それは、いくらなんでも――」
    「キミも……。大きい声、出しちゃお?」
     
    トオルは、もしかすると……。いや、やはりと言うべきか。
    すでに記憶が回復しているかもしれない。
    それも、強制的ではなく、自然に、いつの間にか。
    トオルは、板挟みの状態に苦しむオレの様子を楽しんでいるのか…………? 
    彼と目が合った。
    彼の目は、半年前よりも以前――事件前の正常な時分――と同じ目をしていた。彼は、はっきりと、淡々とした口調で、オレの大きくなったソレを青白い手で掴みながら話し始めた。
    「何、考えてるの? また、他のこと……? いや、隣の部屋の……。元恋人のこと?」
    「トオル! やっぱりおまえ!」
    「それとも、ボクの妹って言った方が、今のキミの心境としては適切かな? だってほら、今にも破裂しそうなここで、反応してくれてるんだから」
     冷や汗がサッーと、項から背中を通り、尻の窪みへと流れていくのを感じた。その汗と同じ速さで、彼の顔は――下へ下へ――オレのブツの目の前で止まった。
    オレは素っ頓狂な、情けない声でトオルに尋ねた。
    「い、いつから記憶が?」
    「ん? 半年前だよ」
    「は? 記憶が、ないってのは……?」
    「ないなんてないよ。ずっとあるよ。ちょっと都合が悪いから、頭の隅でお休みさせてただけ」
    「…………じゃあ、一体、何のためにそんなことを?」
    「わからないのまじ? 鈍感すぎない? こりゃあ妹も苦戦したわけだよ。どれだけアプローチしても何も返ってこないって、散々キミの愚痴というか惚気話(のろけばなし)、聞かされてたからさ。『アキラくんが、アキラくんで、アキラくんだったの』の繰り返し」
    「オ、オマエ……半年間、オレや院長先生、隣の部屋で苦しんでいる妹を……モアを弄(もてあそ)んでやがったのか!」
    「は? 諸悪の根源さんが何言ってんの? 鈍感なのは色恋沙汰だけにしてよ」
    「な、何を――」
    突然、ビリッとした快楽が襲った。トオルがオレのソレを口の中で遊ばせている。思考がまとまらない。涙がボロボロと零れ、トオルの頭に落ちていく。
    欠けたままの月が、涙の一粒ひとつぶに反射し、青白く輝いている。
    ああ、うざったい。涙の中の月が数多に重なり、一つになったところで、満ちることはない。欠けたまま、増えていくだけ。
    「ねぇ、早く。好きって言ってよ。デッカい声でさ。隣で泣き崩れてるだろうキミの元恋人に聞こえるように、ボクの妹に聞こえるようにさ……。早く言わないと、これ、かみ千切るよ? いいの?」
    「そ、それは――」
    「痛くて死んじゃうかもね。でも、死なないよね。きっと。だって、ボクのこと愛してくれるんだからさ。これから先。隣の元恋人のことよりも、妹のことよりも、ずっとずっと長く、深く……」
    「トオル……。こ、こんなこと、もう――」
    「ねぇ、泣いてないでさ。ほら、これ、ボクのベロの上でキミの涙が動いてるの見える? 月が、涙の中で震えてる。なんでだろ。怖いのかな。それとも恥ずかしいのかな。ずっと欠けたままで、満ちることがないとわかっているからかな。あ~あ。かわいそっ……。ほら、言いなよ。早く」
     言えば楽になる。それぐらいオレにもわかる。
    しかし、言ったが最後、オレはトオルのものになる。
    いや、言わなくても、もうすでに…………オレには選択肢なんてなかったのだ。
    そうだ。
    そうだったじゃないか。
    彼女(モア)が助からないことは、半年前までにわかりきっていた。これまでのことは全て悪あがきだった。オレは、諦めることを諦められなかった。不治の火傷を負った彼女を受け入れることができなかった。
    欠けたままの月は、彼女だけではなかった。
    オレも最初から、決して満ちることのない、欠けたままの月だったのだ。
    「……好きだ」
    「んーん。ダメ、もっと大きい声で」
    「……好きだ!」
    「ダメ、そんなんじゃ。これ、スッキリさせてやんないよ?」
    「……好きだ!!」
    「あ~あ。かみ千切っちゃおっかな~。んぁ~」
    「好きだ! オマエが好きだ!」
    「誰よりも?」
    「ああ……」
    「キミの元恋人よりも?」
    「ああ……」
    「ボクの妹よりも?」
    「ああ……!」
    「ボクの名前を叫んで、好きって言って」
    「トオル! オマエのことが好きだ!」
    「……」
    「オレの元恋人、オマエの妹……モアよりも……。トオル。オマエが好きだ……!」
    「……はい、よく言えました。じゃ、これ、スッキリさせてあげるね」

      ⁂

    「…………こりゃ酷い。首元から下の肢体の皮膚が全て焼けただれている。もう少し早く車内から脱出できていれば、ここまでの酷い火傷にはならなかった」
    「ねぇ、妹は、ボクの妹は! だいじょぶなの? ねぇ! 先生!」
    「……何とか命は助かるかもしれんが、この身体はもう、完治することはない」
    「そ、そんな……。妹の身体が、治らない?」
    「……起こってしまった事故だ。それも、不慮の事故だ。あの勢いで大型トラックが突っ込んできて、一命をとりとめただけ幸運だったんだ。そう考えるしかないんだよ。トオルくん」
    「……」
    「今朝、大型トラックを運転していた運転手を担当していた病院から連絡があった。亡くなったと。重度の全身の火傷によるものだ」
    「……」
    「すまない。キミの妹にできることは、命を救うことだけだった。現代医療で、この傷を治すことはできない」
    「そんな……」
    「すみません! 遅れました! 彼女の様態は!?」
    「そ、それが――」
    「…………殺す。おまえも、おまえも!」

    半年前の事件。トオルの起こした殺人未遂事件。院長先生を殴りつけ、窓ガラスを割り、その破片をオレに向けて突きつけてきた。『殺す! 殺してやる! 妹の傷さえ治せない医者なんて! 恋人ひとり守れない親友なんて! くそお! くそお!』と、暴れ散らかした。幸い、即座にかけつけた従業員数名がトオルを取り押さえ、動きを止めることができた。その後、現在の病室である二十四号室に収容された。被害は少なかったものの、オレにとっては十分なトラウマとして、脳に深く刻まれた。
    たしかに、トオルの言う通りだ。妹を持つ兄として当然の主張だ。自分の妹を半殺しにした恋人を許すなんて、ありえない。
    トオルの記憶喪失は、まさにその事件の直後…………だった。長年、この病院の最高責任者として患者の救済に尽力してきた院長先生がそう判断したのだから…………。しかし、これら全てが、彼の仕組んだ巧妙な罠であったことが、今になって発覚した。
    もはや失敗も成功もない。
    これまでの全てが、トオルなりの半年間にわたる復讐劇(しかえし)だったのだ。オレや院長先生、モアまでもが、その劇の中の役者に過ぎなかったのだ。観客であったなら、それから目を背けることができた……。脚本家であれば、物語を変えることができた……はずだった。だが現実は、彼の思い描く大団円(だいだんえん)の向かう最中(さなか)のパレードの一員として踊り狂っていただけのシンバルを叩く猿に過ぎなかった。彼以外の全員が…………。

    アソコがスッキリしていくのに連れ、思考が鮮明になっていく。わかりたくないことがわかっていく。彼は手についた白濁を舌でチロチロと舐め取り、舌の窪みでオアシスをつくった。その濁った水面には青白い月の光、醜いオレ、歪んでいる。
    ゆっくりと、長い睫毛を生やした瞼が開かれる。欠けたままの月を映す瞳が青白く光る。
    ゴックン………………。欠けたままの月が一瞬、強烈に輝いた気がした。

    頭の中は真っ白だった。思いつく言葉はなかった。しかし、何か口に出さなければ、この雰囲気にやられ、気が狂いかねないと思った。頭の中にかろうじて残っている言葉を繋ぎ合わせ、何とか絞り出した。
    「じ、じゃあ……オレのことが好きって。あれは、嘘だったのか? デートでの言葉も、演技だったのか?」
     オレのつまらない質問に対してなのか、裏返った声に対してなのかはわからないが、トオルはくすっと笑い、そっけなく答えた。
    「ううん、本心からに決まってるじゃん。じゃなきゃここまでしないでしょ。あと、使ってる熟語(ことば)、重いよ。ボク、キミの言うところの嘘も演技もできるような質(たち)じゃないよ。そうだなぁ。キミがわかるように言い換えるなら……。いたずら、かな」
    「い、いたずら……? オマエ、どれだけの人と時間が費やされたかわかって――」
    「頼んでないよ。ボク。キミが勝手に始めたんだろ。全部。半年前に……。ボクは、妹を半殺しにしたキミを許した」
    「ゆ、許した……?」
    「気づいてるはずだよ。気づいてないとは言わせない。ホンモノに裁かれる妹の彼氏。なんていう構図、光景、ボクには耐えられない。だから、償いとして、キミにはボクを愛してもらうことにした……。これがボクなりの許し。つまりは、贖罪ってわけ。単純明快。ボクを愛するだけでいい。お気楽だね」
    「ど、どうかしてる……」
    「キミ。贖罪を果たしている最中だって自覚はある? 妹の傷と同じ時間、贖罪に費やしてもらおうって魂胆(こんたん)だったんだよね」
    「傷と同じ、時間……!」
    「いいアイデアだと思わない? ねぇ、ボクの言ってることわかる? ボクの妹の傷は完治しない。ずっと、死ぬほど激しい痛みに苦しめられてる。鎮痛剤を投与してやっとの状態。あの傷じゃあ、生きてても辛いだけだろうって思わない? だからボクは、最初から諦めてた。そのほうが妹も楽になれると思ったから。あ、あれね。楽になれるっていうのは、死ぬって意味ね。だけどキミは、妹を救うことを選んだ。きっと治る……なんていう傷のない人間だけが思いつく浅はかな考えだけで」
    「や、やめてくれ……。わかってるんだ……。オレは……!」
    「さっき、院長に注射打たれてたよね。あの中には鎮痛剤が入ってる。
    この展開は、キミが望んだんだ。『モアには、生きていてほしい』って。だから、今もこうして苦しみ続けてる。キミの未来予想図(ブルーフィルム)にピッタリの物語じゃない? 
    今日の夜みたいにモアが泣いたり叫んだりするのは火傷が死ぬほど痛いから。もし、院長が駆け付けることなく、注射を打たない夜があったなら、翌朝にはポックリだったろうね。いつでも。痛みで死ぬんだよ。モアは。やっぱり死んだ方がマシって表現は現実に当てはまるもんだよね。死ぬほど辛かったら、死ぬしかないんだよ」
    「オレは、間違っていた……?」
    「あ! あと、絵のことについてなんだけど。やめてないからね。描いてない理由、どうせ訊かれるだろうから言っとくけど、特にないんだよね。描けなくなった~とか、表現する対象がない~とか、そういう感じでもないんだよね。ただ単に、描いてないだけだから。絵を売ってできたお金も結構貯まってたし、そろそろ休みたいな~って思ってたところだっただけ。そこに悲劇要素(ぴえん)も伝記気質(やばい)もない。無駄な詮索(せんさく)とか心配(しんぱい)、いらないから」
     
    絶望――半年間にわたる復讐
    宣言――統治の始まり。
    そう……。何もかも、オレが始めたことだった。
    オレの思いつきだった。
    罪から逃れるために。
    でも、罪の意識から逃れることはできない。
    罪を許すか否かは、トオルとモアが決めることだ。
    オレは、何も決めるものなんてない。
    最初からそうだった。
    罪を引き伸ばし、分厚くしていただけの半年間だった。
    オレは、延長を救済と勘違いするような大馬鹿だったのだ。
    「……不治の傷。終わらない贖罪」
    「そういうこと。だから、キミは、ずぅっとボクのことを愛さなくちゃいけない。どんなことがあろうと、ボクのためのキミでいなくちゃいけない。妹の傷が治るまでね。ま、治ればの話だけど」
    「……」
    「裏切られたとでも思ってる? だとしたら都合よすぎ。相手からの好意に気づかない鈍感野郎のうえに、被害妄想ダダ洩れ野郎とか、やばいよ。自覚しな? 駅前で便所座りしながら煙草咥えてるだけで『死にたい』とか言っちゃってるプリン頭の男よりもやばいかんね? よくもまぁモアがキミを好きになったもんだよ。あれかな? よくできる女ほど、ダメな男とくっついちゃう感じ? 本人たちにとっては幸せ真っ盛りの桜爛漫って感じだったんだろうけど、傍から見てて危なっかしくてしょうがなかったんだよね。で、案の定、キミの運転する車で事故が起きた。たとえ、キミが起こしたものでなくとも、キミの運転する車にボクの妹を乗せている状態で事故が起きた。それが事故であることには変わりない。関係者であることには変わりない。当事者であることには変わりない。キミの思ってる以上に、罪は重いよ。ボクから見るに、今のキミは、自分にすんごい甘い人間にしか見えない。キミにたくさんの同情の声がなかったら、今頃ボクともこうして裸で語り合うなんてこともなかっただろうし、ボクだってここで半年間寝泊りすることもなかった。お互い、どこで何をしてるかもわからないような他人になっていたかもしれない。
    キミが逃げて……ね。そんなこと許されない。だからボクは、キミに罠をしかけた。色仕掛けってやつ? こんなにうまくいくとは思ってなかったけど」
    「……」
    「いやぁ、男を好きになるってこんな感じなのかって感心したなー。ほんと気遣う。こっちの身にもなってみろってんだよ。鈍感なのもいい加減にしてよ。フツーに腹立つんだよね。そういうの。ホントーに記憶がない人でもカチンとくるよ」
    「……」
    「もしかして、この半年間の出来事の発端が、ボクにあると思ってた? ってか今のいままで思ってた? 今日のお昼ぐらいまで……。
    それって言い換えれば、ボクのせいってことだよね。
    あはは、あのさ。どれだけ責任から逃れれば気が済むの? 目の前の現実を受け入れなよ。いつまで目、背けてんだよ。いっつもナヨナヨしやがって。殴られないだけありがたいと思いなよ。仕方なく付き合ってるって思ってるの。キミじゃなくて、ボクだから」
     次々とオレの隠していた弱い部分を容赦なく突き刺し、頭の周りで星空をドライブしている。左右を行ったり来たりする意識が、必死に自我を保とうと、憔悴(しょうすい)しているオレの肉体にしがみついてくる。
    待っているのは、共倒れ。          
    オレは逃げていた。
    彼女の人生を台無しにした責任は、大型トラックの運転手だけでなく、オレにもあるのに、それを他人事として内心で勝手に処理していた。そんな浅はかな考えは、察しのいいトオルからすれば、それこそ笑えない冗談だった。
    「キミの感じるところを知っているのは、モアの惚気話から得た情報。ボクの耳が感じやすいとか、全身のいたるところを噛んでほしいっていうのも全部。実践してみただけ。こんな感じだろうな~って。そしたらどうよ。大当たり。ボクは騙せて楽しいし、キミは見ているものに困惑しつつ、内心喜んでた。思った通り!
     キミさ、ボクの妹を大事にしてるって豪語(ごうご)してたわりには、結構な強姦(ごうかん)じみた激しいことやってるよね。厄介なんだよね。そういうの。自分を優しいって思ってる男ほど信用なんないものはないよね。ほら、キミに噛まれたとこ、消えそうにないよ。ずっと……。妹の傷と同じように。完治しないかもー。どうしよー。
    もうね、自分のことを優しいって思ってる人間ほど、大して優しくないんだよね~。相手をとことんダメにする。心も身体も。
    キミはよく『イイやつなんかじゃない』って自己批判するけど、できてないよ、批判。そんなことで、自分を許すことなんてできないよ。それで首吊った気でいるの? 電気椅子で感電死できたって思ってるの? 違うよ。それ、甘えって言うんだよ」
    「……」
    「ほんと、妹もボクもダメな男に惹かれちゃうんだなぁ。流石、兄妹って感じ? キミは兄妹丼を美味しくいただいちゃったわけで。その事実だけでも人生の余徳、微塵も残ってないよ」
    「……」
    「あとさぁ、自分を過度に卑下(ひげ)したり、謙遜(けんそん)したりさぁ。やめな~。『そんなことないよ』って慰められたいだけでしょ。それこそそんなことないことないよって言えるよ。しかもそれが口癖っていうか、思考の習癖になってるよね。かえって相手から悪い印象持たれるよ? どうせ、簡単には抜けないと思うけど。長期のスパンを考えて、治して生きましょうね~っってやつ? ざっくり半年間ぐらい? あはは! 散々聞いた言葉。散々キミがモアに言った言葉……。ねぇ、言われてみてさ。『そんなわけないじゃん』って言いたくならない? もし、言いたくならないんだったら、それは優しい人間でも鈍感野郎でもない。馬鹿だよ。救えない大馬鹿だよ」
    「……」
     オレにはもう、何も残っていなかった。
    ただ、時間が過ぎていくことを願っていた。
    ベッドが石畳に感じた。
    情けないオレを冷やかす風が、うざったい。
    吹くな、風。
    鉄柵と鉄柵の間から見える雲が消えた夜空、きらめく星々、欠けたままの月。青白く光る彼は、じっとオレを見下ろし続けている。その瞳がオレをしっかりと捉え、離さない。  
    「あ、院長にはこの話内緒ね。裏でバラしてやろうなんて考えやめなよ? もしバラしたら、キミも院長もみんな殺した後、妹と一緒に死ぬから。だから、そんな馬鹿な考え起こさないでよね。起こさないよね? キミの考えてること、ボクには全部わかるから。だってボクは、キミの恋人だから。…………このフレーズ、お気に入りなんだ。妹がよく使ってたから、キミに。今では、ボクとキミ、二人きりのときのフレーズ。これからも、いっぱい使ってくね。……いい?」
    「……」
    「へ~ん~じ」
    「…………はい」

      ⁂

     シャー……。
    二人で身を寄せ合い、シャワーを浴びる。
    シャワーヘッドの持ち方、お湯を浴びる姿、心地よさそうな表情…………全部がモアだ。ここまでくると、もう愛おしいとは思えなかった。気味が悪いとか、悪寒が走るとか……といった、とても恋人の裸を目の前にして浮かぶべきではない言葉しか浮かばなかった。
    すっかり冷え切った全身にお湯の温もりが染みる。
    このままお湯で溺れて死んでしまおうか。
    楽になりたい。
    オレの内心は、それでいっぱいだった。
     トオルがふいに、オレの右手首を掴んだ。彼の腹に当てられた。とても白い、やせ細った男の腹だ。スベスベで、ムダ毛の一本すらない。
    この触れたときの感覚、モアの腹に触れたときと同じものだった。
    まさか、アレを言うのか? 
    この状況……腹に置かれた手……流しっぱなしのシャワーの音……。
    「【子ども、できるといいな】」
     腰から崩れ落ちる感覚。何とか震える脚で自身を支えることができたが、来るとわかっていても、その衝撃は凄まじかった。もうトオルは、モアそのものだった。
    「どう似てた? こんな感じだったんでしょ。妹とのやりとり。事故を起こす前夜」
    「そこまで知って……」
    「【うん。だって、キミ・アナタの恋人だから】」
     目の前の景色が万華鏡のように散乱し、一斉に青白く輝き始める。立っていることができなくなり、尻もちをついた。
    冷たい。
    気持ち悪い。
    「ああ……。ああ……。オレは、オレは、こんなことを……それで、こんなことに」
    「ほら、立って。風邪ひいちゃうよ」
    「殺せぇ……こんなの……ああ」
    「はいはい。泣くならベッドの上でね」
    「殺せぇ……」
    「だ~め。ボクと妹が死ぬまで、キミは生き続けなきゃ」
    「ああ……。月が欠けている……」
    「うん。これからも満ちることなんてないから、いちいち心配しないでいいよ」
    「うぅ……」
    「だいじょぶだよ。安心して。独りじゃないよ。ボクも一緒……妹も、院長も、みんなが……欠けたままの月なんだよ」
    「……欠けたまま」
    「うん、当然」
     そのままトオルと一緒にベッドに潜り込む。うつ伏せのオレの顔面を受け止める枕が柔らかい。トオルの匂いだ。閉じた瞼から涙がトクトクと溢れ出る。
    それ以降は何も…………記憶にない。
    夢であってほしいと願い、眠りに落ちた……と思う。
     
    元気いっぱいに迎える朝が憎ったらしい。くたばってくれ。うざったい。おかげで、オレは生きているよ。生きてしまっているよ。
    ……どうして、トオルは、オレを殺してくれなかったのか。横で、殺したいほど恨んでいる相手が呑気に寝ているのに。自分の妹を半殺しにしたやつが、こんなにも無防備なのに…………それもこれも『恋人だから』なのだろうか、それともこれも贖罪のひとつなのだろうか。
    仔猫のように丸くなって眠る彼の髪を撫でる。薄い雲に隠れ、ぼやけた朝日に照らされている。雲の切れ間を黄金に、斑に輝く髪が美しい。その髪を手の平に乗せ、顔を近づけキスをした。わざと、小鳥の囀(さえず)りに聞こえる加減の音を立てた。耳元で。彼は、起きてはいないものの、くすぐったそうに歯を見せ、喜びを表現してくれた。
     寝ぼけていたせいか、この部屋と隣の部屋とを隔てる壁の、どことも言えない一点を見つめていた。これからは、この壁を見つめることすら許されない……。トオルが、そんなことを許すはずがない。
    この視線の先に、モアがいる。
    壁さえなければ、向こうにいる、彼女に声をかけてあげられるんだ。
    髪を撫でてやれるんだ。
    キスで朝を迎えられるんだ。
    ドンドンドン! と病室の扉を叩く音が聞こえた。
    ギィ……と、ゆっくり扉が開かれ、隙間からヒョコッと顔が出てきた。
    院長先生だ。
    「ぉぃ……おぃ……おい! アキラくん! アキラくん!」
    「うぁ! い、院長先生! おはようございます! すみません! こんな格好で」
    「いやいや、構わんよ……。で、どうだね、彼の様子は、何か変わったところはあったかね?」
    「あ、えぇっと。………………いいえ、変わりはありません。…………穏やかです」

       
      三:自信

    自身を持っていいのでしょうか。アナタが、アタシと付き合い始めてから、どんどんと表情が朗らかになっていく理由がアタシと恋をしているからであると。
    アナタの目の下のクマが、アタシと夜を共にするごとに、日に日に消えていくのです。どれだけ長い夜を過ごしても、翌朝には、アナタは笑顔のままにアタシの顔のすぐ近くでぐっすりと眠っているのです。これが、アタシの幸せであると自信を持ってよいのでしょうか。
    アナタは、アタシと出会った当初、失礼になってしまいますが、肢体や心、表情や言葉がとてもやつれていました。思ったことを言えない時間が、ほんの少しだけ、人より長かったんですよね。このことは、後々になって、夜を共にした後のグズグズの状態のときに、ポロッと漏らしていましたから、これがアナタの本心の言葉であり、長年の蓄積がやっと崩れた瞬間なのかなって思ったんです。
    これもアタシのおかげだと思っていいのでしょうか。

      ⁂

    やはり、どれだけあなたのことを想っていても、恥ずかしいものは、恥ずかしいですね。
    あなたの思いつきには、いつも驚かされます。なんだか、恋人になったはずなのに、子どもと一緒にいるときのような、そんな感じ? でしょうか。
    そんな膨れっ面しないでくださいよ。私なりにも褒めてるんですよ? 想いを伝えるときにかぎって、うまく言葉がまとまらないことは、あなたが一番知っています。知ってくれています。それが、生きていて、とても楽になった瞬間でした。
    重かったでしょうか? そ、それなら、この部分は……。わ、わかりました。じゃあ、この部分は、そのままにしておきます。
    恋人に甘い私には拒否なんてできません。ただ、衣服で隠せないところに歯形やキスマークを残すことには怒るって、ここに自信を持って書けますよ。私だって! あ、ああ……。い、嫌じゃないですよ?ただ、ほどほどに、と言いますか……。あ、あの! 今書いてますから! 書いてる途中ですから!

      ⁂

    自信を持っていいのでしょうか。アナタの病的に痩せ細った身体が、健康的な身体へと、少しずつですが、回復していることに。
    そんな過去があったこと、教えてくれたことだけでも、すっごく嬉しかったんですよ。でも、こんなことに嬉しいだなんて言葉、ホントは使いたくないんです。
    ただ、そんな過去のアナタでさえも、とても愛おしいんです。心を鷲掴みなんて言葉が、あるんだなって感心しちゃったぐらいなんですから。顔を隠さずに笑ってくださいよ。素敵な笑顔が見られないじゃないですか。アナタの笑顔を肴に飲むお酒、とっても美味しいんです。慣れないお酒でも、すんなりと喉を通るんです。これは、数多あるアナタのおかげの中でも、ほんの少し程度、アナタのおかげなんですよ。もっとたくさんあるんですから。

      ⁂

    どうして、書いていただけなのに、歯形とキスマークが、自分の身体中に敷き詰められているのでしょうか。ねえ、トオルさん。私の目の前で、肌をツヤッツヤにしながらペンを走らせているトオルさん。あなたですよ。あなたのせいですよ。明日は雨の予報でしたし、外に出る用がなくなったからよかったものの。
    駄目ですよ。そんなしんみりした顔しても。た、確かにデートができないのは、寂しいですけど……。一日中トオルさんと一緒にいられるのなら、いいかな、なんて。
    あ、ちょっと! どうして寝室に!? シーツの上じゃ書きづらいですよ!?

      ⁂

    ついに、名前を出してしまいましたね。
    読んでいる人たちが、『これってアタシのこと?』、『これって、私の実体験みたいじゃないか!』って色々な主張飛び交う内容にしたかったんですよ!? でも、幸か不幸か、アキラさんは、とても天然さんなんです。一応ですね、この思いつきをいざ実行するにいたる直前、お互いの名前を伏せましょうねと計画していたんです。イケるかなって思ったんですけど、出ちゃいましたね。可愛いですね。
    そんでもって、アタシに、もの凄いアプローチしてくるものですから。それに応えなきゃ、かえって失礼です。ええ、少し早めですが、味わっちゃいました。我慢しながらこっちだって書いてるんですからね! 身が足りませんよ!

      ⁂

    すみません。名前、出しちゃいました。そんな笑顔、慰めになってませんよ。慰めって……。ち、違いますよ! そっちじゃないですよ! あと、少しは我慢してくださいよ!明日の分の体力もとっておかないと、もったいないです! まだちょっとしかお手紙書いてないじゃないですか!

      ⁂

    また、書いてしまいましたね。アタシの思いつきの内容を。
    そうなんです。これ、お手紙なんです。
    目の前にお相手本人がいるのに、おかしいですよね。お手紙だなんて。だから、やってみよう! って思いついたんです。
    アキラさん。流石に今日はもう、もったないですからね。お手紙の続き書きましょ。うわ、そんな怖い顔しなくてもいいじゃないですか。そんな裸で。
    ええ! ええ! アタシです! 裸にしたのはアタシです! ですからね!? 服を脱がそうとしないでください!

      ⁂

    どうして、お互い、裸で手紙を書いているんでしょうか。
    いつも、トオルさんの裸を見るのは、薄暗い寝室かリビングで夜を共にするとき、一緒に浴槽に浸かっているときぐらいですから、よく見ていなかったなあ、なんて思ったんです。暗くて見えなかったり、浴槽に入っているときは、きまってトオルさんの開いた脚に私がおさまる形で囲んでいて、腕と足しか見えなかったりしますから。
    とてもキレイです。生きていることがわかります。相変わらず肋骨が浮き出ていて、手首の骨の凸凹が目立ちますが、前よりも健康になったようで安心します。
    私も、トオルさんと同じぐらいか、それ以上に痩せてしまっていて、いつどんな病気になってもおかしくなかったですから。
    そんなときに、トオルさんと出会って、全てが変わったんです。

      ⁂

    いやあ、いいですねえ。アキラさんの身体。前よりも健康的な身体になって、本当に安心します。元々お胸は、アタシよりも断然ありましたから、健康になった今は、もう、迫力がありますよね。今にも喋り出しそうなぐらい。結構なたわわですよね。柔らかいですし、弾力もありますし、いい匂いがしますし、大きいですし。アタシのも、アキラさんが揉んで、優しくしてくれたら、大きくなるんですかね。
    あ! お手紙の次は、豊胸大作戦といきましょうか。


      四:翼


    「治らないってさ。これ」
    「はぁ……。呑気すぎ。もっと心配しなよ。自分の身体でしょ」
    「ごめんて」

    ××総合病院の一室――半開きの窓――十七時前の夕陽が無神経に、二人の女の子にスポットライトを当てている。
     
    トオル。
    鳥になる奇病を患っている。ある日突然高熱に襲われ、病院に搬送された。目を覚ますと両腕が翼になっていた。
     アキラ。
    トオルの幼馴染。トオルが入院したと聞き、病院に駆けつけた。

     トオルは寝台から上半身を起こし、寝台のすぐ横で佇立しているアキラを茫然と眺めていた。対してアキラは、自分の幼馴染が半鳥人になっていることに驚きを隠せないでいたが、無理矢理それを心の底に押し込んだ。今にも溢れそうな涙と一緒に。
    アキラは、自分のうろたえる姿をトオルに見せたくなかったのだ。自らの動揺している姿を見て、トオルが傷ついてしまわないように。
    「案外冷静なんだよね。鳥になっていく実感がないからかな」
    「嘘つけ。自分の両腕見てみ。翼だよ。完全に」
    「あ。そっか。うっかりしてた」
    「はぁ……。ちゃんとしてよ」
    「あはは。ごめんて」
    「……」
     アキラはトオルをギロッと睨みつけた。トオルの無気力な乾いた笑い。それは、彼女が不安と恐怖を感じているときによくやる悪癖であると知っていたから。
    「……窓の外。キレイ。飛んでみたいな。気持ちいいんだろうな」
    「……!」
     トオルの真っ白な両翼がピクリピクリと痙攣するのをアキラは見逃さなかった。痙攣する度に細かな風。トオルの温かな匂いを含んだ風が、アキラの鼻腔に優しく侵入する。その匂いと温もりに、アキラは下唇をガリっと上の前歯で噛んだ。じんわりと血の味がするまで。
    それらが未来永劫、自分の苦渋を癒し、精神を安全に保つための支柱としての役割を果たす材料になってしまう。そんなことが頭を過ってしまったから。
     痛みに悶え、震えた声でアキラはトオルに訊いた。
    「……本当に、鳥になってもいいって思ってんの?」
    「……うん。最初はビックリしたけど、今はもういいかなって。だって、小っちゃい頃からアタシ、アキラに言ってたじゃん。鳥になってみたいって。空を飛んでみたいって。覚えてる?」
    「……お、覚えてる」
     アキラは嘘をつきたかった。「覚えていない」と言いたかった。信用を失ってでも、裏切られたと思われてでも、トオルが鳥になってしまう結末を避けたかった。しかし、鷹の目のように鋭くアキラを見つめるトオルを前に、抵抗できなかった。渡り鳥が羽ばたく前の、最後の止まり木になることを拒絶したかった。
    だが、できなかった。
    「夢が叶うってさ。いいことだと思わない?」
    「そりゃそうだけど、これは――」
    「んーん。これもそれもないよ。夢は、空と同じように繋がってるんだ」
    「トオル……」
    「アタシは夢を捨てきれなかった。この病気は、そんなアタシの夢に翼を生やしてくれた……」
    「で、でも――」
    「これだけ言っても、アタシの夢を止める? それが、アキラにとっての夢? そんな、人間になることが夢……?」
     アキラは何も言えなかった。上下に頷くことも、左右に首を振ることもできなかった。
     トオルの瞳には半開きの窓から差し込む茜色の光が宿っていた。色濃く、鮮明に輝く二つの夕陽……。照らされた真実と影をつくる虚構に挟まれたアキラは身動きが取れず、ただその場に佇むことしかできなかった。

    ほんの数分間、静寂が続いた。
     一瞬を永遠に感じられずにはいられない自分の若さをアキラは憎んだ。
     静寂を破ったのは、トオルだった。
    「その……ごめん。……違うんだ。違うんだよ。本当は、あんなこと言いたくなかったんだ。同情してほしかったんだ。怖いよ……。やっぱり、一人で鳥になっていくのなんて……。自分、家族、アキラ、何もかもがわからなくなるのが……。ごめん……。ごめん、アタシ……。こんな身体になっちゃった……」
    「……なんでトオルが謝んの」
    「あ、ありがとう……? ああ、わかんない。アタシ! これからどうなっちゃうんだろう……!」
    アキラはトオルを思いきり抱き締めた。自分の身体の奥底の見えないところに埋め込むように。
    「大丈夫……。大丈夫だから……。アタシが忘れない。だから、トオルが、家族が、消えることはない……」
    「ほ、ほんと? このまま鳥になっても――」
    「ならない。大丈夫……」
    「そ、そう、だよね……」
    錯乱しているトオルに対し、アキラは一つひとつ、言葉を丁寧に返していく。
    「アタシ、もう――」
    「やめて。何も言わないで……。お互いに感情的になったって何もイイ事なんてないんだから」
    「……うん」
     トオルはグリグリと額をアキラの胸に押し込んだ。
    涙を見せたくなかったのだ。
    トオルの頭を優しく撫でるアキラも、トオルの目の前で涙を流したくなかった。
    必死に堪えた。
    涙の落ちるとき――永遠の別れのとき――であると思ってしまったから。

    時刻は十七時。無神経なチャイムが赤い空に鳴り響く。その音を聞き、身を離したのは、トオルだった。
    「アキラ、そろそろ帰らないと――」
    「うん。わかってる。大丈夫……。明日また同じ時間に――」
    「ごめん」
    「ん? 何?」
    「……キス、したい」
    「いや――」
    「ダメ……?」
    「…………はぁ。わかった。ほら、目、閉じて」
     アキラは喜んでトオルからのキスの要望に応じたかったが、できなかった。このキスが、最後になってしまうかもしれなかったから。口元に残る温もりを忘れられずに生きていく未来の自分の後ろ姿が、微かに見えてしまったから。

    アキラは、涙と鼻水でグズグズになった顔で家路を走った。
    家に着くとすぐに玄関のドアを開け、靴を放り投げた。その音を聞きつけたのか、アキラの母親がリビングのドアから顔を覗かせ、声をかけた。
    「あ。おかえりなさい。トオルちゃんの調子、どうだった?」
    「知らない!」
    「ま、待って! アキラ!」
    母親の言葉を振り払い、二階の自室に続く階段をドタドタと駆け上がった。ドアをこじ開け、中に駆け込んだ。ベッドに身を投げ、布団で自分を覆い、枕に顔を埋め、思いきり叫び、涙を流した。おそらく、病室に独り残されたトオルもそうしているだろうなと思っていた。そうしてほしいとすら願っていた。
    眼前の鞄からガサゴソとスマホを取り出し、写真フォルダを見返した。数百枚ある写真のすべてにトオルが写っていた。
    「ああ……。また、このときみたいに、笑ってくれないかな」
     日付順に並んだ写真の中の全てのトオルに一枚ずつキスをした。

      ⁂

    翌朝。重たい瞼が開かれた。枕元の時計は八時を指していた。
    アキラは自室を出、一階のリビングへと続く階段をヨロヨロと下りて行った。眠気は尋常ではなかったものの、身体そのものが、アキラをリビングに向かわせるために動いていた。
    リビングのドアを開けるとすぐに、キッチンで朝食の準備をしている母親の姿が目に入った。アキラは昨夜の自分の言動について謝罪した。
    「お、お母さん、昨日はごめん!」
    「……ああ! あれ? あはは! そんなに気にしなくたっていいのに!」
    「いや、あんなキツイ言い方しなくてもよかったなって反省してる」
    「実はね。あれ。お母さんからするとね、娘の成長だって感じたの。いつまでも可愛いだけの女の子じゃないのねって」
    「それ、ホントに成長なの?」
    「本当に本当よ! だから気にしないで。それに、自分の言動を謝れる人間であることは誇らしいことよ」
    「そ、そうなのかな……」
    「そうよ! たまにはああやって反抗したっていいのよ? 自分の考えがある以上、衝突するのは仕方のないことなの。何事も経験。当たって砕けての繰り返しよ!」
    「お母さん……」
    「さ! 朝ご飯ができましたよ~! アキラ! これと、これ! テーブルに運んでくれる? お母さん、お父さん起こしてくるから!」
     平たく白いお皿の中央にポッテリと落とされた目玉焼きをカリッと焼かれたベーコンで四角く囲むようにして作られたオカズと、トースト(シナモンパウダーがかけられているためか、澄んだ甘い匂いが起きかけの頭をほどよく解してくれた)の盛り付けられたお皿を三枚、両腕に乗せ、テーブルのある方向に身体を向けた。
    テーブルの奥にあるテレビが目に入った。
     アキラはそれを茫然と眺めていた。
     ニュース番組が流れていた。
     アナウンサーが、真剣な表情で原稿を読み上げている。

    『速報が入りました。今朝八時頃、××総合病院で飛び降り自殺が――』

     ――風。

    『現場の近くにいた目撃者の証言によりますと、『若い女の子だった』『翼が生えていた』とのことです』

    #創作大賞2026 #ファンタジー小説部門

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