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うつし身の春 ~ 二組四人で紡ぐ、おとなのラブストーリーのようなお話 ~


                    各章へのポータルサイト(目次リンク)


    うつし身の春 あらすじ

    新婚旅行で訪れたバリ島。その旅は、誰にも知られない、もう一つの「新婚旅行」でもあった。
    若い夫婦が知らぬまま参加した特別な旅行は、人生の晩年を迎えた夫婦の「もう一度だけ春の中に居たい」という、密かな想いと結びついていた。

    二組四人の意識は人知れず入れ替わり、若い身体と長い人生を重ねた心が寄り添う十日間が始まる。
    バリの光、風、炎、そして夜。借りた身体で触れた世界は、四人それぞれの愛を揺らし、深め、癒やし、少しずつ編み直していく。

    旅が終わるとき、誰も知らない「春の痕跡」が静かに日常へと滲み、二組の夫婦、それぞれの未来をやさしく照らし始める。
    これは、身体を越えて触れ合う心が、夫婦の愛と人生を静かに生まれ変わらせていく物語。

    (本編:約12.1万字)     各章へのポータルサイト(目次リンク)


    うつし身の春

    ~ 二組四人で紡ぐ、おとなのラブストーリーのようなお話 ~
    A Fleeting Spring in Another’s Skin:
    A story, something like a love story, woven by two couples
                             珠野小径
                          Shokei TAMANO


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    もう一度、人を愛するために──私たちは旅に出た。
    四つの心が重なるとき、止まっていた季節は静かに動きはじめる。

    もう一度だけ。
    あの場所で、あの人の隣に立てたなら。

    そんな願いは、誰の人生にも一度くらいはあるのかもしれない。

    【狂言まわしの段】


    さてさて、みなさま。とざい、と~ざいっ!

    今宵は、こんな外れまで足を運んでくださって、まことにかたじけねぇ。
    ありがてぇこってす。
    あっし――いや、この寄席と、みなさまの当世の言葉に寄せて、
    わたくし...... と申しやしょうかねぇ、この席じゃ「狂言回し」ってやつを務めさせてもらいやす。
    どうぞひとつ、肩の力を抜いて聞いてくだせぇまし。
     
    今宵お目にかけるのは、ちと風変わりな綺譚でござんしてね。
    あっしが息してた時分にゃ、こんな黄表紙がようけ出回っておりましてねぇ―― まあ、そんな風情をまとった噺、とでも申しやしょうか。
    どこかすっとんきょうで、どこか沁みるような、そんな代物でござんす。
     
    世相を映した噺のようで、そんな堅ぇもんでもねぇ。
    夢とも現ともつかねぇSF噺のようで、そうでもねぇ。
    道中記のようで、そんな旅日記でもねぇ。
    色噺のようで、そんな艶っぽい噺でもねぇ。
    人情噺のようで、そんな人のなさけ噺でもねぇ。......(こともねぇか)
    ラブストーリーのようで......
    おっと、こいつぁ、ちっとばかしはそんな粋筋もあるやもしれやせん。
     
    作者の旦那ぁは、どうやら「宝島」みてぇな冒険譚にしたかったらしいんですがね、まぁ、読んでみりゃ分かる通り、そっちへゃ行きゃしなかったようで。
    旦那の話じゃ、なんでも昔、テレビで見た「宝島」のアニメが忘れられねぇんだとか。
    そんな粋でいなせな匂いを物語に忍ばせたかったらしいんすが……
    まぁ、どんな噺に落ち着いたかは、見てのお楽しみでござんす。
     
    あっしも、みなさまよりちょいと早く見させてもらいやしたが、
    お世辞にも「宝島」とは申せやせん。
    ……おっと、狂言回しが余計な口をきくもんじゃござんせんね。
     
    「あんたぁ、あんたぁ、どこいんの?」

    おや、むこうのほうで恋女房が亭主のあっしを呼んでいらぁ。

    「おぉい! こっちだってんだ、こっち! こっちへおいでな!」
     
    おやっ、どうやら幕があがるようで。
    それじゃあみなさま、今宵のひととき、どうぞごゆるりとお楽しみくだせぇ。
    あっしも、みなさまの顔を拝みながら......恋女房とのひととき、またひとつ楽しませていただきやす。

    そんじゃあ――みなさま、お楽しみあれ。
    春の夜の、ちと不思議な幕開けでござんす。

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    【狂言まわしの段】冒頭へ


    Two journeys -- one in flesh, one in memory -- are about to begin.
    Or perhaps, they have already begun.

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    うつし身の春 序章 ある計画


    人間の身体は誰のものか。

    哲学者たちは何千年もかけて、この問いに答えようとしてきた。
    魂が先か、肉体が先か。意識は脳の産物か、それとも脳は意識の器に過ぎないのか。
    デカルトは「我思う、ゆえに我あり」と言った。
    しかし彼は、「思う我」と「ある我」が、必ずしも同一の肉体に宿る必要があるとは、言わなかった。
     
    もし、「思う我」と「ある我」を、分離できるとしたら——

    もし、「思う我」だけを取り出して、別の「ある我」にそっと宿らせることができるとしたら———
     
    そして、そのことに、当の「ある我」が永遠に気づかないのだとしたら——
    それは、倫理的に許されるのか。
    あるいは—— 誰もが幸せになるのなら、許されるのか。
     
                   ◆  ◆  ◆

    西暦20XX年。
     
    国連経済社会局の人口部(Population Division)が極秘裏に作成した報告書
    「地球規模の人口崩壊シナリオ」のある章は、
    「少子高齢化が進む国における人口増の施策」という題名だけが辛うじて判読でき、
    その本文はすべて高度な暗号化処理によって不可視化されていた。
     
    その章の表紙には
    「各国政府には、自国の倫理委員会の審査対象としないことを強く推奨する」
    と注記され、さらに短い警告が赤字で付記されていた。
     
    「本章の存在を、知る者の数を最小限に保つこと」
    「暗号解読に必要な認証情報は、指定された保全プロトコルに従い厳格に管理すること」
     
    厳重に暗号化されたその章に記された施策は、
    日本のある場所で、ある方法で、
    ごく限られた人々によって密かに実施されつつあった。 

    場所は、日本のN国際空港から車で十分のとある商業ビルの一角。
    方法は、旅行。
    一回の対象は、二組の夫婦、
    —— 結ばれたばかりの若いふたりと、長い暮らしを共にしてきたふたり、合わせて四人だ。ただし、この二組は、なぜ自分たちが同じ枠に入れられたのかを知らない。

                   ◆  ◆  ◆
     
    「トラベルサービス株式会社」——通称TS社——は、N国際空港そばの商業施設の三階の奥まった場所に、ひっそりと、しかしどこか病院のような清潔さと、研究所のような威厳を保って存在している。

    ガラス張りの入口には、世界各地のリゾートの写真が並び、そこが旅行会社であることをさりげなく示していた。バリ島の夕暮れ。マウイ島の白い砂浜。パリの夜景。プロヴァンスのラベンダー畑。ウィーンの石畳。どれも美しく、まさに旅行代理店がアピールしたがるようなCGめいた美しさが漂っていた。

    社名の英語表記は「Travel Service Co., Ltd.」。だから、略してTS社。

    ——もっとも、その頭文字が Transition System を意味することを知る者は、社内にもほんの一握りしかいなかった。そして、ごく一部では、もしかすると Trans Sexuality の略ではないか——そんな噂さえ囁かれていた。

    TS社が提供するサービスは、実にシンプルだった。
    経済的な理由でハネムーンに行くのが難しい新婚カップルに、ハネムーン旅行を提供する——しかも破格で。

    ビジネスクラスの往復航空券。行き先の国の最高級ホテル。十日間の滞在。現地で使える十分な額のお小遣い。これらを、夫婦二人分、完全無料で提供する。

    条件は一つだけだった。

    「出発前と帰国後に、各十分程度の健康チェックを受けること」

    パンフレットには、ただそう書かれていた。

    痛みはない。副作用もない。
    「簡単な検査です。検査では何も感じません。どうかご安心ください」という一文が添えられているだけだった。
    だが、その「健康チェック」が何を意味するのかを、正確に知っている者は、TS社の内部にも、ほんのわずかしかいなかった。
    そして、その「わずか」の中にすら、その本当の意味を理解している者は、さらに限られていた。
     
    実際、その通りだった。
    しかし、「何も感じない」という言葉が示すものは、日常の検査で使われるそれとは、まったく別の次元にあった。
    痛みがない、という意味ではない。不快感がない、という意味でもない。
    しかし、検査を受けた者たちは皆「本当に何も感じなかった」と口を揃えて言った。

    それは事実だった。
    ——ただし、
    「感じるための自分」が、その間だけ存在していない、という意味で。

    何かがあるからそれを「感じる」のか。
    それとも、「感じる」という働きが先にあって、世界が立ち上がるのか。
    デカルトの心身二元論か。
    フッサールの現象学か。

    「何も感じない」—— それは事実だ。
    しかし、世界は「感じられた分だけ」そこにある。感じる主体が消えるなら、世界もまた、その輪郭を失う。
    そのことに本当に気づいていた者は、TS社の内部にも、ほとんどいなかった。

    そして——気づいていた者たちは、決してそのことを口にしなかった。
     
                   ◆  ◆  ◆

    出発前の健康チェックをする処置室は、白い壁と、柔らかな照明と、リクライニングチェアで構成されていた。清潔で、静かで、どこか歯科クリニックの治療室にも似た雰囲気があった。

    新婚カップルは2つある処置室に分かれて別々にチェアに座り、ヘッドセットのようなものを装着して目を閉じる。担当者はレントゲン技師のように「少しリラックスしてください」と言って別室に行く。十分後、担当者が「お疲れさまでした。これで完了です。これで問題ありません」とだけ告げる。健康チェックはそれで終わりだった。

    実際に、検査を受けた若いふたりは何も感じなかった。
    ——正確には、その「健康チェック」の処置の前と後で、自分に何の変化も起きていないように感じた。
    しかし実際には、この十分の間に、二人の意識の構造は根本から書き換えられていた。

    夫の意識は、そのままそこにある。
    妻の意識も、そのままそこにある。

    しかし、—— 夫の意識の「表層」に、まったく別の意識が、薄く膜のように重ねられていた。妻の意識の「表層」にも、また同様に。

    その「別の意識」は、ハネムーン出発の瞬間から、静かに、かつ完全に、
    新婚カップルの若い肉体の主導権を握り始める。
     
    新婚カップルの夫が「あの店に入ろう」と思うのは、実際には「健康チェック」で移植された意識がそう思っているのだ。
    そしてもちろん、
    妻が「あの服すてき」と思うのも、実は彼女に宿った意識がそう思っているのだ。

    しかしそのとき、新婚のふたりには、自分の内側に「重ねられた」意識がそう思っているのか、それとも本当の自分自身がそう思っているのか、区別がつかない。

    それは完全に、彼自身の「自発的な意思」として感じられる。
    現地の景色に感動するのも、現地の音楽に触れて泣くのも、
    そして夜、妻を求めるのも——

    すべてが彼自身の意思として、彼自身の感情として、彼自身の「人生の出来事」として体験される。

    夫と結ばれて間もない妻が彼の手を握って甘えるのも、ショッピングで買った現地の服を着てうきうきするのも、
    夜、夫の求めに応じるのも——

    すべてが、「そっと重ねられた」意識がそうなのだとは全く感じられない。
    すべてが、自分の内側に彼女自身の自我に感情として立ち上がり、彼女自身の記憶として積み重なっていく。

    偽りの体験であることも、借り物の記憶であることも、—— そうだとは、当の本人はまったく気づかない。

    そして帰国後、
    処置室で、十分間の「帰国後健康チェック」が行われるとき、表層に重ねられていた「別の意識」は、静かに回収される。

    新婚のカップルの意識には、楽しくも美しい蜜月の記憶だけが、完全に「自分たちのもの」として残るのだ。
     
                   ◆  ◆  ◆

    なぜ、そうなるのか。そうなってしまうのか。

    人の意識は、自分が感じたことを「自分のもの」として受け取るようにできている。それ以外の受け取り方を、意識は知らない。
    「あの店に入ろう」と思った瞬間、その思いが本当に自分の中から来たのかどうかを、確かめる術が人間にはない。
    思いはただ、そこに現れる。意識の前に現れた瞬間、それは「自分が思った」ことになる。

    行動した後、感じた後に、人は物語を作る。「あれは自分が選んだ」、「あれは自分が感じた」という物語を。
    その物語の辻褄が合っている限り、意識はそれを疑わない。疑う理由は、どこにもない。
    だから——移植された「別の意識」が作り出した記憶でさえ、当の本人には、そうだとは気づかれない。
    その記憶は、本人の意識の中に、完全に「自分のもの」として溶け込んでいく。違和感の生じる隙間が、どこにもない。

    TS社のサービスは、その隙間のうえに、密かに成立している。

                   ◆  ◆  ◆
     
    では、その「別の意識」は、どこから来るのか。

    その答えは、別の部屋にあった。
    TS社の奥まった一室——表向きは「VIPラウンジ」と呼ばれているその部屋には、出発前の新婚夫婦と同じ日時に、もう一組の二人が訪れていた。

    年を重ねた、—— 正直に言おう—— 年老いた夫婦だった。

    彼らは、経済的には何の不自由もない。
    しかし、健康上の理由から、自力での海外旅行が難しい年齢に達していた。
    心臓の弁膜症。糖尿病からくる末梢神経障害。腰椎の圧迫骨折など。
    老いは、平等に、そして容赦なく、かつては世界を飛び回っていた人々の足を地に縛りつける。

    彼らには、行きたい場所があった。
    もう一度だけ見たい景色があった。
    もう一度だけ味わいたい料理があった。

    そして、
    もう一度だけ —— かつて若かった頃のように ——、
    誰かの隣で、共に寄り添って夜明けを迎えたい、という密かな望みがあった。

    TS社のサービスは、その望みを叶えることができた。

    季節をいくつも越えてきたふたりの男女がそれを受けるにあたっての鍵となる一文が、サービスの約款に、小さく、しかししっかりと書かれていた。
     
    旅の醍醐味は、日々のきまりきった景色から離れ、ふだん触れられることもないものに出会うことにある。
    見慣れぬものを目にし、
    口にしたことのない味を知り、
    そんな、非日常とともに過ごすことだ。

    約款に書かれていたその「鍵」は、まさにその「非日常の延長線上」にあった。それもその延長線上のはるかかなたに。
     
    包み隠さずに言おう。

    夫の意識は、新婚の、若い妻の体に移植される、
    妻の意識は、新婚の、若い夫の体に移植される、

    ということだ。
     
    長い歳月をともに歩んできた夫婦の、夫の意識は若い妻の体へ、妻の意識は若い夫の体へと移植される。
    つまり、新婚夫婦としてハネムーンを実際に体験するのは、若いふたりではなく、長い歳月を寄り添ってきた夫婦の心なのだ。

    積み重ねた経験を抱えた二つの意識が、乗り物を乗り換えるように若い肉体に移り、別の性別の、その体で、世界を見る。舌で、目で、肌で——感じる。
     
    そして—、 一夜も。
     
    若い体が持つ衝動を、人生経験を重ねた意識が、
    これまでの人生では決して知り得なかった形で初めて味わう夜。
    あるいは、かつて知っていたはずの感覚を、
    まったく新しい“側”から体験する夜。

    夫の意識は若い女性の体の中に、妻の意識は若い男性の体の中に、
    ——その不思議な交換の中で、二つの魂は、もう一度だけ、
    夜のぬくもりを知る。
     
    それはまさに、非日常。

    旅の本質そのもの。

    そして、その夜の行き着く先として、——ハネムーンベビーが、この世に生を受け、世界の一員となる。少子高齢化で悩む国々の人口が増える。
    それはまた、密かに進められてきた「少子高齢化が進む国における人口増施策」が静かに目指していた「到達点」の姿でもあった。
     
                   ◆  ◆  ◆
     
    TS社のVIPラウンジには、一枚の額が飾られていた。
    古い英語の格言とおぼしき一節だった。


    Your body is not yours. Neither is your soul. What you call "you" is merely the current tenant.

    ——肉体はあなたのものではない。魂もあなたのものではない。「あなた」と呼ばれているものは、ただの現在の借り主に過ぎない。


    誰がそれを書いたのか、その額の裏には何も記されていなかった。そして、その額が、いつからそこにあるのかさえ、誰も知らず、誰も気に留めようとしなかった。
     
                   ◆  ◆  ◆
     
    TS社の運営は、表向きは民間の旅行会社として行われていた。だがその実態は、国連の人口問題対策局と、内閣官房・人口戦略本部が共同で設立した、国家レベルの特別機関、社会実験をするための組織だった。

    TS社が行う社会実験のアプローチはこうだ。

    経験を重ね、しかし少し疲れている魂を、若く活力に満ちた肉体に一時的に宿らせる。
    その短い宿りのあいだに、新しい命をこの世に迎え入れる。
    もちろん倫理委員会の審査などは経由していない。
    だが、当事者たちは皆、「幸せだ」と感じる。
    日本の少子化という問題に、数値として確実に貢献している。
    それは間違いない。紛れもない事実だ。

    しかし——この世界の誰も、完全には、それを「知らない」。
     
                   ◆  ◆  ◆
     
    これは、そういう計画の話だ。
    そして——その計画の中で、ハネムーンに旅立った人々の話だ。

    新婚の夫婦が、それぞれの事情を胸に抱えながら、
    無料の蜜月へと踏み出す。
    人生経験を積んだ夫婦が、それまでの記憶を携えたまま、
    借り物の春へと手を伸ばす。

    誰も知らない交換が起き、
    誰も知らない体験が積み重なり、
    誰も知らない夜が明けていく。
     
    そして朝が来た時、全員が幸せになる。
     
    —— 少なくとも、表向きには。

                   ◆  ◆  ◆
     
    空を飛ぶ機内の、ゆったりした座席に、若いカップルが仲むつまじく並んで座っている。
    二人の指が絡み合い、窓の外の雲を見ている。近くの席の、他の乗客が話しかける。
    「新婚旅行ですか? いいですね」
    二人は、少し照れながら、微笑み、頷く。

    二人は知らない。

    今この瞬間、自分たちの中に、まったく別の「何か」が宿っていることを。
    今この瞬間、日本のN国際空港から車で十分のとある商業ビルの一角にあるVIP室の高機能ベッドで、
    年を重ねた男女の体が、生命維持装置につながれて眠りについていることを。

    そしてその体の主は、今この瞬間、若い目を通して、窓の外に輝く雲を見ていることを。
    他の乗客からの祝福の言葉にはにかんでいることを。
     
    心に年輪を刻んだ夫は、若い女性の目を通して、雲を見ている。
    長い時の旅路を歩んできた妻は、若い男性の目を通して、雲を見ている。
    そして、
    周りとの他愛もない言葉のやりとりで恥ずかしそうに頬を染めている。

    これまで多くの景色を見てきたはずの二人は「初めて海外旅行に行く」ときのような、あの高揚感の中にいた。

    それは本物の高揚感だったか?
    それは本物の春だったか?

    この問いに答えられる者は、この世界にいない。
     
    旅客機が、雲を抜けた。光が、機内に満ちた。
    青い空が、眼下に広がった。
    積み重ねた時間を供にした魂と、活力にあふれる若い体が、寄り添い、溶けあった窓辺で、誰かが「きれい」と呟いた。
     
    その声が誰のものだったかを、本人さえ、知らなかった。
     
                 (うつし身の春 序章 ここまで)
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    次の章では——

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    朝が来た。

    新しく世帯を構えたばかりの男が、いつもの時間に目を覚ます。
    隣では、これからいくつもの朝をともにする人が、静かな寝息を立てている。
    すがすがしい朝の光がカーテンの隙間をすり抜け、
    まだ慣れない「夫婦」という言葉を、 部屋の空気にゆっくり溶かしていく。

    同じ朝、遠く離れたところでも、ひとりの男が目を覚ます。
    男の額に刻まれた皺は隠せない。

    南国の街で仕事をしていたはずだ——いや、違う。また昔の夢か。
    はるか遠い日に感じた熱気だけが、まだ肌に残っている。

    隣では、いくつもの朝をともにしてきた妻が眠っている。
    その寝息は、若い頃と変わらない。
    だが、足の感覚は、もう戻らない。

    二つの朝が、静かに並んでいた。

    ひとつは始まりの朝。
    もうひとつは、長い旅路を歩いてきた朝。

    二つの朝のあいだに、あるパンフレットが置かれている。

    それは、偶然のようで、必然のような一冊だった。
    誰かの手が差し出したその案内が、
    四人の人生を、ひとつの物語へと誘い始める。

    そして、世界は音もなく動き出す。
                                第一章に続く


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    うつし身の春 第一章 二組の夫婦


                    一

    田村翔は、結婚式の翌朝も、六時に目が覚めた。
    習慣というものは、おそろしく頑固だ。
    ある大学のオリンピック選手も輩出している体育系学部を卒業し、小学校の先生として子どもたちに教え始めてから六年、翔は、朝の六時前後に目覚めることを一日も怠らなかった。
    二日酔いの朝も、熱を出した朝も。
    そして昨夜――これまでの人生で一番嬉しいと思ったかもしれない日、多くの友人知人に祝福されて、夜ふけまでさんざん飲まされた二次会、その翌朝も—— 彼は六時ちょうどに、目が覚めた。

    隣には、昨日の余韻をそのまま抱きしめるような顔で、静かに寝息を立てている一人の女性がいた。
    父親と教会のバージンロードを歩き、祭壇の前で自分に腕をあずけてくれた、― その人だ。

    (......まだ、慣れない)

    そう思った瞬間、隣からかすかに聞こえる寝息が、いつもより少しだけ―ほんの少しだけ、近く感じられた。
    その人のまぶたの下の頬には、昨日の涙の跡がかすかに残っているように見えた。
    寝ている時のくせで、肩まで毛布を引き寄せ、頬に手を添えている。
    その仕草を、翔は三年間、泊まりがけのたびに、彼氏として見てきた。
    見慣れているはずだった。

    しかし今朝は、いつもとは違って見えた。

    (美咲......俺の、妻だ。)

    その言葉を胸の中で噛みしめた瞬間、
    心の奥の、深いところで、ほのかな灯りがともった気がした。
    まだ形にはならない。
    けれど、その灯りは密やかに、しかし確かにそこにあった。
    喜び......と呼ぶにはまだろうそくの光のように頼りなく、
    けれども、その灯りは、翔の心の部屋すべてを、淡く、柔らかく、穏やかに照らす光を放っていた。
    翔は、その光が自分の内側に広がっていくのを、ただ黙って受け止めていた。

    初夏の朝のやわらかな光が、カーテンの隙間をすり抜けて部屋に広がっていた。
    その部屋は、式場に隣接したビジネスホテルの一室だった。
    決して豪華なホテルではない。
    たとえ翔の教師としての働きと、彼女の保育士としての働きとで得られる分とを合わせたとしても、とても高級ホテルに泊まるような余裕はなかった。
    これからの暮らしの準備と式の費用だけで、ふたりの貯えはほとんどなくなっていた。
    それでも、この小さな部屋に満ちてくる朝の光は、どこかふたりを祝福してくれているように見えた。
    翔は、この質素な部屋が好きだと思った。

    その人、―― 美咲が目を覚ましたのは、それから三十分後だった。
    まつげが、小さく震え、薄く開いた瞳に朝の光が静かに触れている。
    まだ昨日の夢の残り香をまとったまま、柔らかな呼吸で、彼女はゆっくりと瞬きをした。
    初夏の朝の柔らかな光が頬のラインをなぞり、
    浮かび上がった寝起きの表情には、どこか無防備な、甘い雰囲気が漂っていた。
    その左手の薬指には、細いリングが、朝の光を遠慮がちに受けて輝いていた。
    ―― 昨日、翔が彼女の指に差し入れたものだ。

    「田村君......翔、さん。今何時?」
    「六時半」
    翔はそう答えながら、自分の声が思ったよりも落ち着いていることに
    少しだけ驚いていた。
    美咲は、まだ眠りの余韻をまとったまま、
    自分の頬を優しく甘えるように枕にすり寄せ、ゆっくりと瞬きをしていた。

    「まだ朝早いなぁ......」美咲はそう言いながら、毛布の中でもぞもぞと動いた。
    「昨日あんなに騒いで、飲まされちゃったのに、よく目が覚めるよね」
    「先生の性さが」
    そう言ったものの、翔はどこか落ち着かず、布団の上で自分の手をどこに置いていいか分からず、ただ迷っていた。
    美咲の寝起きの顔が近すぎて、どこに目をやればいいのかすら分からなかった。
    その距離のまま、美咲は、ゆっくりと体を起こした。
    乱れた髪が肩にさらりと落ちた。
    少し腫れたように見える目の下が、彼女のあどけなさをいっそう際立たせている。
    そして、翔と目が合った瞬間―、
    その顔に、甘えるような微笑みが、こぼれそうに揺れた。
    「私も保育園の先生なのに、全然だめ。起きられない。子どもたちより早起きしなきゃいけないのに」
    翔は返事をしそびれたまま、その笑顔に胸の奥が熱くなるのを感じた。
    美咲は、微笑みを深めて、気をつけのような姿勢をとったかと思うと、今度は改まったように言った。
    「おはよう、田村くん」
    「......えっ? 田村くん?」
    「......あ、違った。田村さん、か。うぅん......翔さん、かな?」
    その言い方があまりにかわいくて、翔は自分の感情が揺れるのを止められなかった。
    「あなた......とか? ハニー......とか? どれが一番しっくりくるかなぁ」
    「全部全然しっくりこないぞ」
    翔がそう言うと、美咲は肩をすくめて笑った。
    その笑い方は、昨日までの「ふたり」とは違っていた。なんか「新婚夫婦の朝」みたいだった。
    理屈なんて要らなかった。
    その光景が、胸の奥を静かに満たしていくのを感じた。
    ただただ嬉しかった。
    「私もまだ、自分が田村美咲なの、なんか不思議」
    美咲は両手で自分の頬を触れた。
    「昨日までは河野美咲だったのに」
    「.....まさか、後悔してんのか?」
    「まさかぁ、そんなことあるわけないよ」
    即答だった。
    美咲はそう言うと、ほんの一瞬だけ視線をそらし、照れたように口元をゆるめた。
    その笑みは、昨日の花嫁姿の華やかさとは違う、もっと近くて、もっと生活の中の、
    「奥さん」の笑顔だった。
    翔は、そのわずかな変化に胸の奥をきゅっと掴まれたような気がした。
    (.....ずるいな、こういうのは。本当に)
    美咲は気づいていないのか、それとも気づいていてわざとなのか。
    その表情には、そのままの柔らかい微笑みが、静かに続いていた。

    翔は、目をそらすことすらできず、ただその笑顔を受け止めるしかなかった。
    「ねぇ、翔、さん?」
    美咲は、おもむろに話しかけると、自分の頭を翔の肩に静かに傾けた。
    まだ寝起きの温もりを残したままで。
    「ハネムーンの話、本当にいいの? 無理しなくていいよ。国内旅行で十分だし、私、お金のこと全然気にしないよ」
    「気にしてるじゃないか」
    「気にしてないってば」
    「気にしてるから言ってんだ」
                   ・
                   ・
                   ・
    美咲が、少しの間、黙った。
    それから、ほんのわずかに悲しみを含んだ表情で、小さく笑った。
    「......うん。ちょっとだけ気にしてた。田村くん......翔、さんが無理してるんじゃないかと思って」
    美咲は、そう言い終えたあと、翔の肩に額をあずけた。
    その声は、強がっているようで、でもどこか泣きそうで、
    翔の心の奥を強く揺さぶった。

    翔は、美咲の肩にやさしく手をおいた。

    「あのパンフレット、もう一度見直してみよう」

    ナイトテーブルの上に、折り畳まれた冊子があった。表紙には鮮やかな青い海の写真。パンフレットの中には、こう書かれていた。

    ミミミミミミミミミミ
    トラベルサービス株式会社では、新婚カップルを対象にハネムーン旅行を無料でご案内しています。旅行費用は一切かかりません。条件は、出発前と帰国後にそれぞれ10分ほどの健康チェックを受けていただくことだけです。
    ミミミミミミミミミミ

    「怪しいんじゃない?」
    美咲は翔の腕に寄り添いながら、パンフレットを覗き込んだ。
    「こういうの、普通は怪しいよ」
    「俺も最初はそう思ったけどさ」翔は言った。
    「式場経由の話だし。念のために式場にもう一回確認したんだよ。そしたら、この業界ではちゃんと名の通った業者だって言われた。
    それに、この無料ハネムーンに行った人は、みんなすごく良かったって。オススメしたいって言ってたらしい」
    美咲は、ふうん、と小さく息を漏らした。

    「健康チェックって何するの」
    「それがさ……ここには詳しく書いてないんだよ」
    翔は少し眉を寄せた。
    「出発前と帰国後に、十分くらいでする“簡単な健康状態の確認です”ってだけ」
    「ふうん......簡単って、どんなんだろ」

    「式場の人は“頭にセンサーみたいなのを付けてちょっと目を閉じているだけ”だって。“痛みも何もない”って言ってたよ」

    「それって......脳波とかかなぁ?」

    「かもしれない。旅行会社が提携してる研究機関のデータ収集みたいな話だったよ。そんなんでお金がなくても旅行に行けるなら——」
    「それにさ」翔は続けた。
    「式場の担当の人、すごく自信ありげだったよ。“安心して大丈夫ですよ”って。
    それに、実際に行ったカップルの写真も載ってるし......ほらっ」
    翔がページをめくると、そこには笑顔の新婚夫婦が、海辺や街角で仲むつまじく肩を寄せ合って写っている写真と、実際に行ったカップルの楽しかった想い出のひと言や旅のエッセーが載っていた。
    「みんな、楽しそうだね」
    美咲は小さく息を漏らした。
    「うん。だから......」
    翔は言葉を選ぶように、少し間を置いた。
    「俺たちも、ハネムーン行けたらいいなって思ってさ」
    「ねえ、翔、さん」
    「どうした?」
    「......なんかね。こういうの、ちょっと怖いけど......でも、楽しみだね」
    翔は、美咲の手を包み込むように握った。
    「大丈夫さ。俺がいるから」
    美咲は、安心したように目を細めて、パンフレットのページをめくった。

    「バリ島、かあ」
    美咲の手が、パンフレットにある一枚の写真のところで止まった。
    「私、ずっと行きたかったんだよね、バリ」
    「知ってる」
    「私、いつ教えたっけ?」
    「美咲が俺の彼女になってから三ヶ月くらいたったときかな? 映画見てて、バリが舞台のシーンで美咲の目がキラキラしてた」
    美咲は、体育系の大学を出た翔のがっしりした胸に顔を寄せた。
    「......覚えてたんだ、そんなこと」
    「全部覚えてるさ」
    「そういうのって......気持ち悪いってば」
    「ひどいなぁ、自分の亭主を。新婚の朝から」
    二人は笑いあった。

    安いビジネスホテルの薄い扉の向こうで、スタッフが働き始める気配がした。
    その日のルームクリーニングが始まったらしい。
    初夏の光が、ふたりの部屋のカーテンを押し広げはじめていた。
    それはまるで、ふたりのこれからの道程を照らし出そうとする意思を宿したようにもみえる光だった。

    画像

                    二

    桐原義雄が、その朝、比較的早く目を覚ましたのは——夢を見ていたからだった。

    三十歳になったばかりの義雄だった。東京の商社に勤め始めて五年目の夏、初めて海外出張でバンコクに行った時。スワンナプーム空港に降り立った瞬間の熱気。南国の、濡れた空気の重さ。
    そんな夢だった。あの南国の感覚が、五十年近い時を越えて、七十七歳の老体に戻ってきた。

    起き上がると、膝が痛んだ。
    (......ああ、そうか。夢か。俺は七十七になっているのか)
    朝起きるたびに、夢から覚めるたびに、それが分かる。肉体が、現実を教えてくる。

    隣にあるベッドで、妻の澄子が眠っていた。

    この家に引っ越して十五年、二人は別々のベッドで寝るようにしていた。
    義雄の寝返りが激しく、澄子が夜中に何度も目を覚ましてしまうからだ。
    医師からは、もしかすると心臓の弁膜症の影響で眠りが浅くなって寝返りが出てしまっているのかもしれないと言われた。

    澄子はまだ、穏やかな寝息を立てていた。

    七十四歳になった自分の妻を、義雄はしばらく静かに見つめていた。
    糖尿病からくる末梢神経の障害で、澄子は足首から先の感覚が薄れている。
    「砂の中を歩いているみたい」と彼女は言った。
    「足の裏に何も感じないから、歩くのが怖い」と。

    昨年の秋、二人でヨーロッパ旅行を計画した。結婚五十周年の記念だった。
    しかし、直前になって澄子の主治医が首を横に振った。
    「長時間のフライトは、足の血栓リスクが高い。今の状態ではお勧めできません」と。

    旅行はキャンセルした。
    その夜、澄子は泣かなかった。泣かない強さが、義雄にはいちばん堪えた。
    こぼれなかった涙の気配が残っているような気がした。

    (......澄子は、諦めるのが上手すぎる)

    それは美徳ではなく——長い時間をかけて澄子の身についてしまった、自分を守るための悲しい技だった。
    義雄は知っていた。
    澄子がこれまでたくさん諦めてきたことを。そしてその数を。
    夫として、彼女を誰よりも近くで見ていたから。
    その技が、これまでどれほど彼女を守り、そしてどれほど傷つけてきたのか
    ——義雄は痛いほど知っていた。

    朝の光が、カーテンを通して淡く差し込んでいた。
    郊外の静かな住宅地。
    庭の桜の木が、青々と葉を繁らせている
    「......もうそんな季節か」
    義雄は、ベッドサイドに置いてあった、一枚のパンフレットを手に取った。
    結婚して家を離れた娘が「こんなサービス、見つけたよ」と電話をくれて送ってきたものだった。
    その時の娘の言い方は、どこか若い頃の澄子に似ていた。義雄はふと、そんなことを思った。

    ミミミミミミミミミミ
    トラベルサービス株式会社 出資型ハネムーン応援プログラム
    ミミミミミミミミミミ

    パンフレットの表紙に印刷されたその文字が、朝の光を受けて、わずかに鈍く光っていた。
    プログラムの仕組みは、表向きにはきわめてシンプルだった。

    ミミミミミミミミミミ
    年齢や健康上の理由で海外旅行に行くのが難しい夫婦が、新婚カップルのハネムーンを応援し、その費用を提供する。
    なぜか公からの支援金まで出るという。
    資金を提供する夫婦は、新婚カップルに「海外旅行の体験を提供する」見返りとして、カップルがハネムーンで体験するさまざまな出来事を、その映像やさまざまな記録を、バーチャルリアリティを超えた特別な方法で——「より鮮明に」——追体験できる。
    ミミミミミミミミミミ

    パンフレットには、そう書かれていた。

    娘は、旅行が難しい両親に、せめて旅行に行った気分だけでも味わってもらえたら、と考えたらしかった。ここに書いてあるバーチャルリアリティのような方法で......。
    ただ、そこに書かれているのは、あくまで「表向きの仕組み」だけだった。その「非公開の部分」の本当の内容は、アポをとってオフィスに訪れた参加希望者に限って詳しい説明があるという。
    そして————肝心の「より鮮明に」がどういうことなのか、その説明はどこにもなかった。
    義雄は、その一文に、言葉にならないざわつきを覚えた。
    まるで、紙の表面の下に、別の文章が薄く透けているような——そんな感覚だった。

    義雄は、そのパンフレットを、三日間、何度も手にし、また戻しを繰り返していた。

    「義雄さん、あなた......」

    澄子が目を開けていた。いつから起きていたのかわからなかった。
    「そのパンフレット、また見てたの」
    「......見てた」
    「行ってみる?」
    「行ってみてもいいと思うか」
    澄子は、ゆっくりと起き上がった。
    足の感覚が薄い分、下半身の動作が慎重になっている。
    澄子は、ベッドの端に腰を下ろし、おもむろに義雄からパンフレットを受け取ると、その表紙に目をやった。
    「私ね、昔、義雄さんと結婚した時——ハネムーンに行けなかったこと、全然後悔してなかったんだよ」
    「うん」
    「本当に。あの頃は二人ともお金がなかったし、義雄さんは仕事が始まったばかりだったし。ハネムーンより、二人で暮らし始めることの方が大事だったから」
    義雄は思い出した。
    そのときの澄子の顔に浮かんだ、ほんのわずかな悲しみを含んだ、強がっているような微笑みを。
    「それは、俺も同じだ」
    「でも」
    澄子は、窓の外へ視線を向けた。
    「私最近、思うの。あの時行けたら、どんな景色を見ていたんだろうなって。ううん、後悔してるんじゃないの。でもただ想像してしまうの。あの頃の私たちは、どんな旅をしてたんだろうなって」
    義雄は、何も言わなかった。
    言えなかった。
    「行ってみようか」
    澄子が言った。
    「その旅行会社に、話だけでも聞きに」
    「澄子......」
    「昔行けなかったハネムーンの代わりに、少し面白い話が聞けるかもしれないし。それならいいんじゃない? それだけでも」

    義雄は、パンフレットを折り畳んだ。
    (......この人は、昔から変わらない)

    五十年連れ添っても、澄子は澄子だった。
    「ただ、面白そうだから」—— それだけの動機で行動を始める。
    まったく悲壮さを感じさせない。
    自分の悲しみを、いつも笑顔の後ろに隠す。
    義雄にとって、それは澄子という女性の、自分の妻の最も愛おしい部分だった。
    夫として長い年月をかけて知ってきたことを、義雄はあらためて思い出していた。

                    三

    N国際空港そばの商業施設は、六月の午後、旅行客と買い物客でにぎわっていた。

    その一角にあるカラオケ店からは、昔のテレビアニメ「宝島」の主題歌が漏れ聞こえていた。
    まるで「さあ旅に出よう!」と出立を促すかのように、
    そして「あこがれを抱きつづけよう!」と、旅人を鼓舞するかのように。

    三階までエスカレーターを上がると、右手のずっと奥に「トラベルサービス社」の入口があった。ガラス張りで、世界中のリゾート地の写真がところ狭しと並んでいる。清潔で、明るく、ごく普通の旅行代理店に見えた。

    田村翔と美咲は、十四時に予約を入れていた。

    翔は珍しくスーツを着ていた。
    結婚式で新郎の衣装に着替えるまで身につけていた、あのたスーツだ。
    肩のあたりに、式の日の名残のような「きちんとした空気」がまだわずかに残っている。

    美咲は、白いブラウスにシックなスカートを合わせていた。
    ブラウスの生地は薄く六月の午後の光を含み、動くたびに肩先で小さく波をつくる。スカートは落ち着いた色味なのに、歩くと膝のあたりでふわりと形を変え、女性らしさを控えめにそっと押し出してくる。

    「一応、ちゃんとした服の方がいいよね」と言って選んだ服で、
    ——その“ちゃんとした”という言葉の裏に、彼女自身の小さな緊張と、隠しきれない期待が混じっていた。

    ふたりとも、普段より少しだけ背筋が伸びている。これから向かう場所が「ただの旅行会社」ではないことを、どこかで感じ取っているかのようだった。

    「......思ったより普通だね」
    美咲は、オフィスの中を見回して言った。
    「普通の旅行会社って感じ」
    「普通だよ、たぶん」
    「たぶん、って何。自信なさそう」
    「自信なくなってきた」
    受付で名前を告げると、三十代と思しき女性スタッフが出てきた。スーツ姿の、穏やかな笑顔と共に。
    「田村様ご夫妻ですね。本日はお越しいただきありがとうございます。こちらへどうぞ」
    案内されたのは、受付の奥にある小さな会議室だった。白いテーブルと椅子、壁にバリ島の写真。テーブルの上には、旅行のパンフレットとお茶が置かれていた。

    担当者は「西村」と名乗った。
    「本日は、私どもの無料のハネムーンプログラムにご興味を持っていただきありがとうございます。まずは、プログラムの概要をご説明させてください」
    「お願いします」
    翔は、手帳を取り出した。小学校教師の習性で、説明を聞く時は必ずメモを取る。
    「こちらのプログラムは、健康上の理由で海外渡航が難しい方々が提供する“旅行応援の資金”によって運営されています。資金を提供される方々は、新婚カップルの皆様のご旅行を応援することで——」

    「あの」

    美咲が手を挙げて話を遮った。
    「健康チェックって、いったい何をするんですか、具体的には......」

    西村が、微かに笑った。
    「ご説明します。出発前と帰国後に私どものオフィスに立ち寄り、それぞれ十分程度、専用の機器を使った検査を受けていただきます。頭に軽いセンサーを装着し、目を閉じて頂くだけです。痛みも副作用も全くありません。脳波・生体リズムの基礎データを取得するものです。取得されたデータは、旅行中の体験の記録として使用されます」
    「記録、というのは」
    「皆様の旅行体験の情報です。出資者の方々は、皆様のご旅行中の体験を、臨場感のある、ある特殊な形で追体験できるようになっています。一種のバーチャルリアリティのようなものと考えて頂くとよろしいかと思います」

    (......バーチャルリアリティ)

    翔は、メモを取りながら、その説明に引っかかりを感じた。しかし、引っかかりの正体を特定できないまま、メモを取り続けた。

    「旅行の内容について、ご説明させてください」西村が続けた。

    「バリ島、十日間。往復ビジネスクラス。現地の五つ星ホテル、そしてガイドも私どもの方で手配いたします。また、滞在中の諸費用として、お食事やショッピングなどでご自由にお使いいただけるよう、一日三万円相当の現地通貨も用意させて頂きます。全て、出資者様のご負担です」

    美咲が、翔の膝を軽く突いた。「ねえ」と、小声で言った。
    「ビジネスクラスだって」
    「知ってた」
    「乗ったことない」
    「俺も」
    「申し込む?」
    翔は、西村に向き直った。
    「その健康チェックで、私たちに何か影響はありますか。たとえば処置後に気分が悪くなるとか、そういう副作用は」
    「全くありません」西村は即答した。「これまで、副作用の報告は一件もございません。検査の前と後で、お体に何の変化も感じられない方がほとんどです」

    (何の変化も感じられない)

    翔は、心の中でその言葉を繰り返した。「感じられない」という表現に、ちょっとした違和感を覚えた。「ありません」ではなく「感じられない」と言った西村の言葉に。
    しかし、美咲が「じゃあ、申し込みます」と言ったのは、翔がその違和感を分析しはじめようとする前だった。

                    四

    桐原義雄と澄子は、同じ日の十六時に、同じビルを訪れていた。

    ふたりとも健康上の理由から長い距離を歩くことが難しく、外出の際はいつも車を使うようになっていた。
    もっとも、運転そのものは義雄にとって何の支障もなかった。七十を過ぎても視界ははっきりしており、判断も的確で落ち着いている。
    「車だけは、まだ若い頃と同じように扱える」
    義雄がハンドルを握る指先からはそんな自負が感じられた。
    地下の駐車場に車を置き、指定された部屋がある四階へ向かうエレベーターに乗る。

    エレベーターは三階で止まり、扉が開いた。

    そのとき、開いた扉のその先に一組の若いカップルの姿が見えた。
    スーツを着たしっかりとした体つきの若者と、その腕に寄り添うようにして立つ、少しおしゃれをした可愛らしい雰囲気を漂わす若い女性。
    ふたりは仲睦まじく腕を組み、このうえなく幸せそうに見えた。

    扉が開いても、ふたりは乗り込もうとはしなかった。
    どうやら三階から下に降りるつもりらしい。
    義雄は、ほんの少しだけ残念に思った。もし同じエレベーターに乗り合わせていたら、声を掛けて、世間話のひとつでも交わしていたかもしれない。
    そのとき義雄の胸に浮かんだ感覚は、自分でも説明しづらい、不思議なものだった。

    義雄と澄子が案内されたのは、その若いカップルをエレベーターのドア越しに見た三階から、ひとつ上の四階にあるオフィスの奥の部屋だった。
    扉には「VIPラウンジ」と書かれた表札が掲げられていた。なぜか義雄は、その表札の文字に、言葉にならないざわつきを覚えた。

    部屋は静かで、落ち着いた内装だった。大きな窓から空港の滑走路が遠くに見えた。ちょうど、大型の旅客機が離陸する姿が見えた。白い機体が、滑走路を疾走し、地をけるかのようにすっと浮き上がって、空に吸い込まれていく。
    澄子が、その離陸の風景を見ていた。

    (......飛行機を下から見るようになったのはいつからだろう)
    義雄は、そう思った。二十代の頃は、毎月のように国際線の旅客機に乗っていた。窓側の席から下界を見下ろしながら、次の出張先のことを考えていた。それがいつからか——飛行機は「乗るもの」から「見上げるもの」になった。

    担当者が入ってきた。四十代の男性で、「加瀬」と名乗った。

    「桐原様、本日はお越しいただきありがとうございます。本日はこちらのプログラムについて、詳しくご説明させていただきますが、その前に、これからご説明する内容を他言しないというお約束をお願いします。これがそのお約束のための書類です」

    義雄と澄子は、名を連ねてその守秘契約書の書面にサインした。
    その後、加瀬は、三階の受付フロアで新婚夫婦に説明される内容とは、まったく異なる説明を始めた。

    「私どものサービスプログラムの正式名称は、“意識同期型旅行体験共有サービス”と申します」

    「意識、同期」義雄は繰り返した。

    「はい。端的に説明いたします。このサービスでは、お二人の意識を、ご旅行中の若いカップルの方々の——肉体に、移植し、一時的に宿らせます」

    部屋が静かになった。義雄と澄子、二人が息を飲んだからである。
    義雄は、説明してくれた加瀬の顔を見た。冗談を言っている顔ではなかった。

    「......それは、どういう意味ですか」

    「文字通りの意味です。桐原様の意識を、ハネムーンのご旅行に行かれるカップルの奥様の体に。奥様のご意識を、カップルのご主人の体に、それぞれ移植し、十日間のハネムーンの間だけ——若い肉体で—— 旅行を体験していただきます」

    「えっ? 主人を新婚の奥さんに、わたしを新婚のご主人に......ですか?」

    「若い体で」

    「違う性別で」

    澄子が、確認するように静かに繰り返した。

    「はい。移植中、お二人は若い体を通して世界を体験されます。視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚——すべてが、二十代の肉体の感覚です。今の体の不調からは完全に自由になります。足の痺れも、心臓の不調も、関係ありません。二十代の体が感じるものを、そのままご自身の感覚として感じていただけます」

    「新婚カップルの側は、それを知っているんですか」

    「まったく知りません。意識を移植されて、体を借りられた側は、
     自分に他者の意識が宿っていることを自覚できません。
     すべてが、あくまでも自分で考え、
     自分の意思で行動していると感じます。
     移植された本人には何の違和感もありません」

    義雄は、しばらく黙った。

    (......倫理的には——)

    しかし、その問いを口にする前に、澄子が言った。
    「義雄さんの意識が、若い女性の体に入るんですね」
    「はい。そのように」
    「私の意識が、若い男性の体に」
    「はい」
    「それは、本サービスの“必須条件”です。本サービスは、より大きな非日常を感じていただくために、そのように設計されております」

    澄子は、少しの間、それを考えた。それから——くすりと笑った。

    「なんか、面白そう」

    「澄子」

    「いや、だって。義雄さんが女性の体になって、私が男性の体になって、その二人でハネムーンを体験するって...... 面白いんじゃない。五十年前、私たちが行けなかったハネムーンのやり直しを、性別が入れ替わって体験するなんて」

    「笑えないよ、それは」

    「笑えるよ」澄子は、義雄を見た。
    「ねえ、義雄さん。あなた、こういうこと、嫌い?」
    義雄は、答えなかった。

    (......嫌いか)

    嫌いではなかった。

    倫理的な問題があることはわかっていた。
    知らないうちに体を使われるカップルへの—— 
    何か、後ろめたさのようなものはあった。

    しかし同時に——

    (......澄子が、「面白そう」と言った)

    それが、何より大きかった。

    あの秋の夜、ヨーロッパ旅行をキャンセルした後も、澄子は泣かなかった。

    笑顔で「しょうがないね」と言った。そしてそれ以降、旅行の話を一切しなくなった。旅行のパンフレットを手に取ることも、テレビの旅番組を見ることも——意識的に避けているようだった。

    義雄は、その澄子の「諦め」を、見ているのが辛かった。

    「加瀬さん」義雄は言った。
    「一つだけ確認させてください」
    「はい」

    「カップルの側は——本当に、気づかないのですか? そして、体験が終わった後も、本当に何も知らないまま、幸せでいられるのですか?」
    加瀬は、静かに、しかしはっきりと言った。

    「はい。これまでのすべての事例で、カップルの皆様は、
     ハネムーンの記憶を、そのすべてを——完全に“自分たちのもの”、
     “自分たちだけのもの”として持ち帰っていらっしゃいます。
     幸せな記憶として。
     それを疑う理由も、材料も、どこにも残りません」

    「全員が、幸せになる」

    「それが私どもの理念であり、サービスプログラムです」

    義雄は、大きく広がった窓の外を見た。また一機、旅客機が離陸しようとしていた。

    (......全員が、幸せになる)

    それは、信じ難い言葉だった。義雄は五十年の商社生活の中で、「全員が幸せになる取引」というものに、一度も出会ったことがなかった。
    必ずどこかに、割を食う者がいた。
    しかし——

    「あなた」
    澄子が、義雄の手を取った。七十四歳の時間が刻まれた手だった。細く、しかしそこには確かな、温かさがあった。
    「行こう」
    「......本当にいいのか」
    「うん。」
    「ちょっと聞いていいですか」澄子が不意に加瀬に向いた。
    「私たちが体験するハネムーンの旅行先は、どこになりますか」

    「インドネシア、バリ島でございます」

    澄子が、義雄を見た。その目の奥が、微かに輝いた。
    「バリ。ずっと行きたかったの」
    「俺も」
    二人は、同時に言った。         

                    五

    六月の第三週の木曜日。
    田村翔と美咲は、朝の早い時間にTS社を訪れた。
    南国行きの、お昼近くのフライトだった。
    その三時間前に、「出発前の健康チェック」を受けるために。

    二人は、荷物を預けた後、その「検査」のためにそれぞれ別の部屋に案内された。
    翔の部屋は、歯科医院の診療チェアに似た、白いリクライニングシートがある小部屋だった。柔らかな照明。音楽はない。壁に小さな観葉植物が一鉢。

    「リラックスして目を閉じていてください」担当スタッフが言った。
    「十分ほどで終わります」

    ヘッドセットのような機器が、頭に装着された。耳を覆うというより、側頭部から後頭部にかけて、薄い板状のものが軽く触れる感じだった。
    冷たくも温かくもない。重さや圧迫感もほとんどない。違和感はなかった。
    (......本当に、何も感じないな)
    翔は、天井を見ながら思った。そして目を閉じた。美咲も今頃、隣の部屋で同じことをしているはずだ。彼女は緊張していないだろうか。
    さっき廊下で別れる時、
    「大丈夫、翔さんもお行儀良くしていてね」と言って笑っていた。
    「またぁ、俺は子どもじゃない!」
    翔は、そんなことを返しながら思っていた。
    (......バリ島か)
    美咲の喜んでいる笑顔を想像した。

    ガムランの音色、椰子の木、オレンジ色の夕暮れ——

    そういう景色の中で、美咲が笑っている。
    その姿が見たかった。
    ただそれだけだった。
    それだけのために、この奇妙なプログラムに申し込んだのだと、翔は思った。

    画像

    担当スタッフが「終わりましたよ」と言った。
    目を開くと、ちょうど十分が過ぎていた。
    翔は、何も感じなかった。
    体のどこにも変化はなく、意識もまったく普通のままだった。
    まるで、ただ目を閉じて呼吸をしていただけのように思えた。もしかすると、少しうとうとしていたのかもしれない。

    ——何も変わっていない。
    そう思った。

    「気分はいかがですか」
    「......普通、です」
    「よかった。それでは、奥様とごいっしょに出発されてください。空港の出発ロビーまでお送りします。良いご旅行を」

    翔は、部屋の片隅に置かれていた、バリ島の「TS社特製・本サービス限定ガイドブック」を手に取ることを忘れなかった。
    表紙の、沈む夕日がやけに鮮やかに見えた。ほんの少しだけ「色の階調」が変わったからなのかもしれない。
    ——いや、変わったのは自分の目のほうなのか。そんな考えが、一瞬だけ頭をかすめた。

                     六

    同日、同時刻。

    若いカップルと偶然にも逢うことがないように、別の動線でたどり着ける同じビルの四階、—— 桐原義雄と澄子は、VIPラウンジの奥にある別室にいた。

    こちらの処置室は、田村夫婦が入った部屋とは違う。天井が高く、照明が温かい。チェアは革張りで、足を伸ばしてゆったりと横たわれる設計で身体の重さをそのまま受け止めてくれるようだった。

    静かなクラシック音楽が、小さな音量で流れていた。その旋律は空気に溶け、まるで「緊張させないように、リラックスしていられるように選ばれた音」のように感じられた。

    義雄は、ふと胸の奥で思った。
    ——若い夫婦の部屋とは、きっと違うのだろう。
    自分たちの年齢に合わせて、こういう空間が用意されているのだ、と。

    澄子は、チェアに身を預けながら、
    「なんだか、ホテルのスパみたいね」と小さく笑った。
    その笑顔を見て、義雄は胸の奥が少しだけ温かくなった。

    「今から処置を開始します」加瀬が言った。

    「処置中、お体は何も感じません。意識が向こうの肉体に移ると同時に、こちらのお体は深い眠りに入ります。お二人の意識が体を留守にしている間、若いお客様がハネムーンに出かけている十日間は、ここで眠ったままの状態になります。自身のお体に関しては、全くご心配する必要はありません。生命維持のシステムは二重三重にバックアップされており、完全に管理されています」

    「眠ったまま、十日間」 義雄は確認した。
    「はい。目が覚めた時には、全ての体験が終わっています。そして——すべての体験のありありとした記憶とともにご自身のお体にお帰り頂き、目を覚ますことになります」

    澄子が、義雄の手を握った。

    「ねえ、義雄さん」
    「なんだ」
    「向こうで会えるよね。私は翔さんの体に入って、あなたは美咲さんの体に入る。だから、顔は違うかもしれないけれど —— ちゃんと元の二人だということがわかるよね。体は違っても、ちゃんと自分だと言ってね」

    義雄は、澄子の手を強く握り返した。

    「会える」
    「じゃあ、いいや。行こう」

    澄子は目を閉じた。義雄も、目を閉じた。
    ヘッドセットが装着され、柔らかな光が瞼の裏を照らした。
    義雄は、何かが —— 意識の一番表面の層が —— 静かに、薄くなっていく感覚を感じた。痛みはない。恐怖もない。ただ、何かが少しずつ変わり、意識が遠くなる感覚が、あった。

    (......澄子)

    最後に、自分の妻の名前を呼ぼうとした。
    声は出なかった。

                    七

    代わりに......
    飛行機が飛んでいるときの、あの低い唸りの音が聞こえていた。
    目を開けると、空の青さが、窓の向こうに広がっていた。
    旅客機の窓の外の、眩しいほど青い空が。

    それが目に入ってきたとき、義雄は —— あるいは、義雄の意識が宿った“だれか”は、
    ——隣に座っている別のだれかの手を握りながら、本能的に「きれいだね......」と呟いた。
    声が、高く、澄んでいた。
    一瞬で、そのソプラノの響きが、自分のものではないと、わかった。
    しかし、その声が伝えた感情と自分が声を出したという感覚は——紛れもなく本物だった。
    七十七年ぶりに、世界が新しかった。

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    旅客機は雲を抜けて、水平飛行に入った。
    シートベルトサインが消え、CAがドリンクサービスを始めた。

    田村美咲の体に宿った意識は —— ゆっくりと、周囲を見回した。
    ビジネスクラスの広いシートに、深く体を沈めている。
    隣には、結ばれてから間もない夫の姿が座っている。
    (......翔さん)
    ふいにその名前が意識に浮かび、声は自然にその名を呼んだ。
    まるで自分の愛しい人の名前を呼ぶように。

    隣の人物が自分の方を向いた。
    穏やかな目をした、二十八歳の青年だった。スポーツ選手ばりのがっしりとした体つきをしていた。

    (あっ、TS社に行ったときに、あのときにエレベーターでドア越しに見かけたあの若者だ。間違いない)

    美咲の体に宿った意識は瞬間的にそう思った。

    「どうしたんだい?美咲」
    低く柔らかい声だった。
    (......澄子)
    五十年もの長い時を共に過ごした自分の妻が、二十八歳の青年の顔をして、そこにいた。
    「なんだか、不思議ね」
    美咲の姿がそう言った。
    その声は、高く澄んでいて、完全に義雄の声ではなかった。
    義雄の意識は、その響きをどこか「自分のものではない」と感じていた。

    「ビジネスクラスって......すごい。シート、広いし......楽よねぇ」
    その「変な感じ」は、声だけにとどまらなかった。
    いつのまにか口調までもが、その高く澄んだ声の主として自然に聞こえるように変わっていた。

    「そうだな」隣から声が聞こえた。低く柔らかい声で。
    「窓から見える雲が、すごく近いぞ」
    その口ぶりもまた、その低く落ち着いた声にふさわしいものだった。

    「ねえ、翔さん......」
    ふいに、そして自然にその名を呼ぶ。
    声の高さと澄んだ柔らかさが、まるで自分が、美咲自身になってしまったかのように感じた。美咲の身体から出てくるその声は、自分の意思とは別のところから生まれてくる。
    高く澄んだ響きが、自分の耳の奥で反響して意識に届いていた。

    (......本当に、俺の声じゃない。この声を出しているのは誰だ?)

    義雄の意識は、胸の奥に小さな波紋が広がるのを感じた。
    その波紋は、声の「他者性」に触れた瞬間に生まれた、心の揺れだった。驚きとも戸惑いともつかない、名づけようのない感覚だった。

    (......こんな玉を転がすような声で、こんなふうに名前を呼ぶのか。若い頃の澄子も、こんな声だっただろうか)

    義雄の意識がそう思ったとき、美咲は身体がふわふわと揺れたように感じていた。
    その揺れが飛行機によるものなのか、それとも別のなにものかによるものなのか。
    義雄の意識には区別がつかなかった。
    しかし、その波紋は、気がつかないだけで、小さくしかし間違いなく美咲の体にも届いていた。
    意識と身体、二つのあいだで、同じ水面がそっと震えたように。

    「何だい美咲。何かあったのかい?」低く柔らかい声がまた返ってきた。
    「ううん。何でもない、ちょっと名前を呼んでみたかっただけ」

    美咲には、その不思議な感覚が、自分の顔を少し火照らせていることが分かっていた。
    少し恥ずかしかった。
    若い身体は、感情に素直だった。その素直さが、義雄にはどこか懐かしく、そして少しだけ眩しかった。

    飛行機が入道雲のそばを通過し、そこから反射した光が、急に機内に差し込んできた。
    二つの意識は、二十代の体を通して、窓の外を見た。
    積乱雲が、午後の光を浴びて白く輝いている。その向こうに、青い空が果てしなく続いている。これまで経験したことが無いような雲の上の景色だった。
    (......きれいだ)(......きれい)
    二人は同時に、そう思った。
    声には出さなかった。
    しかし——義雄は感じていた。
    向こうの柔らかいバリトンの声の主に宿った澄子が同じことを思っていると。
    五十年間、同じ景色を見続けてきた二人だからか。

    その感覚だけは——どんな体に宿っていても——変わらないと、知っていたからか。
                   ◆  ◆  ◆

    意識が、ふいに浮かび上がった。暗闇でもなく、眠りでもなく、ただ、深い水の底から静かに浮上していくような感覚だった。
    (......ここは?)
    瞼を開けると、視界の端に、白い雲が流れていくのが見えた。
    窓の外は、どこまでも青い空だった。
    胸の奥が、かすかに震えた。
    (......飛行機?)
    そう思った瞬間、自分の喉が振るえ、低く柔らかい声が漏れるように響いた。
    「......きれいだな」
    その声は、聞き慣れないほど若く、深く、そして落ち着いていた。
    (......え? これ、私の声じゃ......)
    驚きが胸に広がる。
    だが、その驚きは、若い身体の軽さに吸い込まれるように消えていった。
    腕に、温かい感触を感じた。

    隣を見ると—— 愛らしいひとりの若い女性が、自分の手を握っていた。

    (美咲。)
    ふいにその名が心に浮かんだ。
    その瞬間、胸の奥に、長い年月の重みが、静かに戻ってきた。
    (......義雄さん)
    自分の夫の名を呼ぼうとした。
    だが、それよりも先に口が勝手に動き、別の言葉が、翔の声でこぼれだしてきた。
    「どうしたんだい?美咲」
    その声は、まるで自分ではない誰かが喋っているようだった。

    長い人生の時を共に過ごした夫が、初々しくて可愛いらしい女性の姿を借りて、そこにいた。

    「なんだか、不思議ね」
    美咲の姿がそう言った。高く澄んだ声だった。なぜだか分からないけれども、不思議と変な感じはしなかった。
    澄子には、自分の夫の七十七年分の人生が、その若い身体の中で、静かに息をしていることが分かった。

    (......あなたの言うように、本当に不思議ね。でも......私は間違いなくあなたの隣にいる。だから大丈夫)

    澄子は、がっしりした体の翔の胸の奥で、そう思った。

                   ◆  ◆  ◆

    バリ島まで、七時間のフライト。

    翔と美咲は、二人とも映画を見て、食事をして、少し眠った。
    —— 少なくとも、そのように感じていた。
    到着した時、二人は「よく眠れた」と同時に思っていた。
    「美咲、俺......こんなにぐっすり眠れると思わなかった」と翔は笑って言い、美咲も、少し驚いた顔で、やや興奮した口調で「ビジネスクラスって......すごいね」と返した。
    そして、それは本当のことだった。

    ただし —— 二人を眠らせていたのは、シートの快適さだけではなかったのだが、
    —— それを知る者は、この世界に数えるほどしかいなかった。

    バリ島の空港、デンパサール国際空港に降り立ったのは、夜の九時だった。

    扉が開いた瞬間、熱く、湿った南国の空気が二人を包んだ。
    フランジパニの花の香りが混じっている。

    星の数が驚くほど多い。星々が、空いっぱいに散らばっていた。
    日本よりひとまわり大きく見える、煌々と光る綺麗な月も浮かんでいた。
    その月の光は、星々の瞬きをかしづかせているようにも見えた。

    夜空を見上げると、バリの空を護る神の鳥 ── ガルーダが、翼の影だけを残して翔けていくように思えた。
    神鳥ガルーダが、夜空を切り裂くように舞う。さらにその向こうでは、聖獣バロンと魔女ランダの乱舞が、星々のあいだで淡く揺れていた。
    星と月とが語り合うその空は、まるでバリの神話の語り部のようだった。

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    「......着いたぁ」
    美咲の声がそう言った。
    その声は、翔にとっては間違いなく結婚する前の恋人時代から三年間聞き続けてきた「美咲の声」だった。たしかに、その質感があった。
    しかし同時に —— 何か、もっと深いところから響いて来るような、わずかな重みが感じられた。
    「......来た、な」翔も言った。
    美咲が、翔の腕に手をあずけた。そして肩に顔を押し当てた。
    「来られてよかった」
    それは、美咲の言葉だったか。それとも、美咲の体に宿った誰かの言葉だったか。
    答えは、誰にもわからなかった。
    ただ、その言葉の想いだけは——たしかに本物だった。

    デンパサール空港の到着ロビーから外に出ると、TS社が手配した現地ガイドのワヤンが二人の名前を書いた紙を掲げて手を振っていた。
    その日はワヤンが運転する車でヴィラまで送ってもらった。

    夜空では、星々が瞬き、綺麗な月が放つ光と語り合っていた。
    その語りかけるような空が、二人を包んだ。

    新しい夜が、始まった。

                     (「うつし身の春」一章 ここまで)
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    次章では──

    音と光と熱のすべてで、バリの朝が身体を目覚めさせる。

    目を開いた瞬間、 自分の身体が──
    信じられないほど軽かった。 ただ軽いだけではない。
    触れるものすべてが鮮やかで、
    肌も鼓動も、世界を直接受け取ってしまう。

    そして気づく。 これは「旅の始まり」ではなく、 借りた身体が世界をどう感じるのか── その最初の一歩なのだ。

    二人の意識が、 それぞれの“新しい身体”で迎えるバリの朝。 そこから、楽しくも、思いもよらない一日が始まる。

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                                第二章に続く


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    うつし身の春 第二章 借りた身体の体験


                   一

    バリ島の朝は、音から始まる。

    遠いガムランの旋律。椰子の葉が風に鳴る、さわさわとした音。どこかの寺院から流れてくる読経の低い響き。そして——ヴィラのプールの水が、朝の光を受けてきらきらと揺れる、その柔らかな水音。

    美咲の体に宿った意識は、その音たちに包まれながら、ゆっくりと目を覚ました。
    (......ここは)
    天井が高かった。木とガラスで作られたヴィラの天井。窓の向こうに、緑が広がっている。南国の濃い緑の中を、朝の風が流れている。

    義雄は——あるいは、義雄の意識は——体を起こそうとした。
    その瞬間、戸惑いが走った。
    (......軽い)
    体が、信じられないほど軽かった。義雄の本来の体は、七十七年分の重さを持っていた。起き上がるたびに、腰が、膝が、肩が、それぞれ別々の痛みで意識に訴えかけてきた。
    しかし今——起き上がる動作が、こんなにも......、
    彼は、ただ「起き上がる」だけで良かった。

    足先がベッドの縁をすべり、そっと下の床をつかんだ。
    すらりとして、白い足先が、光の中でほのかにきらめく。
    光を受けた肌は、思いがけないほどみずみずしくて......
    それでいて、うっすらと熱を帯びたようにも見えていた。

    その滑らかな肌の曲線に、義雄の視線は捕まり、そこから動くことが出来なくなってしまった。
    男として、見てはいけないものを見てしまったような、自分でも扱いきれない戸惑いがやってきて、義雄は心の奥で密かに揺れた。
    素足へと続く艶めいた肌がかすかに透けるように見えて、申し訳なさと、どうしようもなくうろたえたような感情が意識にこみ上げてきた。

    (......俺の足ではない)

    わかっていた。わかっていたはずだった。
    しかし、目の前にすっと伸びている自分の足が —— 美咲のたおやかな足が —— 自分のものではないと、改めて突きつけられる感覚は、どこか気恥ずかしく、逃げ出したくなるような、微かなめまいに似ていた。

    顔をあげると、ガラスの引き戸の向こうにプールが見えた。
    プールの縁で、翔が —翔の姿— が腰を下ろし、膝から先は水の中だった。

    プールの縁になにげなく腰を下ろしたその背中は、柔らかな朝の光を受けて、がっしりとした輪郭をゆっくりと浮かび上がらせていた。
    肩幅の広さも、背中の厚みも、そこにあるだけで周りの空気を静かに鎮めてしまうような、そんな存在感があった。

    水面からの光がゆらめき、背中の筋肉の起伏をやわらかくなぞっていく。
    ただ座っている後ろ姿だけなのに、どこか「守られている」と感じてしまうような、そんな頼もしさがあった。

    その頼もしさは、声でもなく、言葉でもなく、
    ただ彼女が——
    自分が恋してやまない人の「背中」という形でそこにあった。

    その背中を見た瞬間のことだった。

    (......翔さん)

    その名前が、美咲の胸の奥からそっとしずかに湧きあがってきた。
    義雄の意識は、驚いた。
    それは、義雄自身が抱いた感情ではなかった。

    義雄は翔のことを、昨日会ったばかりの——いや、正確には、美咲の体に入る前、N空港そばのショッピング施設のエレベーターで、一瞬だけ見かけた——若者として認識していた。それ以上でもそれ以下でもない。

    会った瞬間、どこか気になりはしたが、それでも所詮は通りすがりで、仲睦まじいカップルの“彼氏の方”という程度の印象があるにすぎなかった。

    しかし今、プールサイドの翔の背中を見た瞬間、
    胸の奥から——今の体の奥の奥、そのさらに深いところから——温かく、甘い何かが義雄の意思など関係ないかように立ち現れて、しずかに勝負を挑んできた。

    まるで義雄の意識を籠絡してそっと絡め取ろうとするかのように。

    (......これは、彼女の感情か)

    義雄は、動けなかった。

    五十年もの間、自分は澄子という女性を想い、そして想われてきた。その慈愛の輪郭は、もう身体の奥にまで染み込んでいる。 寄り添い、支え合い、長い時間をかけて育ててきた、静かで深い温度の情愛。 それは「義雄という男」が向け、「義雄という男」が受け取ってきた愛だった。

    だが今、胸の奥を満たしているものは —— それとはまったく違う層にあった。
    柔らかくて、
    全身の内側にじんわりと広がっていくようで、
    どこか甘く、
    少し切なく、
    触れれば壊れてしまいそうなほど危うくて、
    それでいて、息をするたびに胸の奥がきゅっと痛むような ——
    若い女性が、だれかに恋し、慈しみ、求めてしまうときの感情だった。

    その感情は、美咲の身体が持つ本能の延長線にあるはずなのに、義雄の意識はそれを「外から流れ込んでくるもの」として処理できなかった。

    まるで、自分自身の心が震えているように感じていた。
    (……これは、この身体の感情のはずだ。
    なのに、どうして俺は……こんなにも……)

    体の胸の奥から湧き上がってくる熱は、
    若い頃に澄子へ向けた恋情とも違う。
    もっと繊細で、もっと危険で、触れれば溶けてしまいそうなほど柔らかい。

    そして——
    その感情の向かう先が、目に映っている若い男性に向いているという事実が、
    義雄の心を揺らしていた。
    意識は、その感情に完全に翻弄されていた。

    (......参った)

    義雄は、そのみずみずしくて可愛らしい姿は、そこで立ち上がった。
    そして、引き戸の方に、プールに向かって歩き出した。

    歩き方が違う。これは自分の歩き方ではない。しかし、どう歩けばいいかは体が知っていた。身体が、美咲のしなやかな歩き方を覚えていた。義雄の意識は、その歩き方に乗っかるだけだった。

    美咲は、プールへと続く引き戸を開けた。南国の朝の熱気が、全身を包んだ。

    (......暑い)

    しかし——暑さの感じ方が、義雄の知っているものと違う。七十七歳の体は、暑さをどこか遠くで受け取る。暑い、とはわかるが、肌がそれを感じる鮮度が、年とともに鈍くなっていた。しかし今——肌の全ての毛穴が、南国の熱気を直接受け取っていた。

    (......これが、若い肌というものか)

    プールサイドに出ると、翔が振り向いた。

    「美咲、おはよう。起きたんだ」
    翔の声だった。しかし、その声の向こうに——義雄は、澄子を感じた。

    澄子特有の、穏やかで深い眼差しが、翔の目の中にある気がした。

    (......澄子)

    そう思った瞬間に、また、美咲の体が反応した。
    翔の顔を見ているだけで、胸の中に温かいものが広がった。
    これが恋だと、義雄にはわかった。長年連れ添った配偶者への穏やかな愛情とは違う。もっと新鮮で、もっと不安定で、しかしその不安定さごとの愛おしい——若い女性の恋の感触だった。

    「おはよう......翔さん」

    義雄は、美咲の声で言った。

    「ちゃんと寝られたか?」

    「うん......よく寝られた、かな」

    「そうか。ここのプール、なかなかいいぞ。俺は朝からひと泳ぎしていた。気持ちいいぞ。美咲も......入るか?」

    (プールに入る?)

    義雄は、プールを見た。透き通った水が、朝の光を受けて揺れている。
    バリでも指折りのヴィラにある、四方を椰子に囲まれた南国らしいプライベートプール。

    (......プール......入ってみたい......だって......やっぱり......)

    その感情が、義雄のものなのか、美咲のものなのか、判らなかった。しかし——入りたかった。

    「うん......入ってみる。せっかくのバリの朝を二人だけで楽しみたいもん。  それに......ね、うん、ちょっと待っててね」

    その声は少し弾んでいた。

                   ◆  ◆  ◆

    日本から持ってきたスーツケースを漁る。

    (えっと、えっと......あった、あった。これ、これ......これよ......)

    義雄の意識は、美咲の身体の動きに追いつくことが出来なかった。

    彼女の身体は、義雄の意思などないかのように手早く動き始め、気づけば部屋着を脱いで、この旅のために持ってきた、とっておきの水着をまとおうとしていた。

    美咲のはつらつとしていて小ぶりな身体に似合う、南国の風景に映えるかわいい水着だ。

    留め具に触れた感触が、義雄の意識へ届くより早く、 彼女の身体は次の動作へ滑り込んでいく。
    背中の留め具が小さく音を立てて収まり、腰まわりの布が肌に沿って落ち着く。
     
    肩紐を軽く引き上げて位置を整え、
    最後に髪をまとめて持ち上げる。
    それで、はい出来上がり。

    ——義雄の意識は、懸命に身体の動作を追いかけようとした。

    しかし、追いつくことはできなかった。

    美咲の姿がまとった水着は、彼女がいつも身につけているスイムウェアではない。

    その水着は、二人で過ごすバリの空気や温度に自然と馴染むようにと、
    彼女が丹精を込めて選んで、翔に内緒でそっとスーツケースに忍ばせたものだった。

    鏡の中では、水着が身体のラインに沿ってぴたりと寄り添い、
    南国の朝の光がその上をすべるように反射している。
    若い輪郭の上に、光と影が静かに重なり、 その柔らかな曲線を、
    ひとつの“形”として浮かび上がらせる。

    義雄は、その光景を“見ている”側のはずなのに、
    意識には、なぜか“見られている側”の感覚まで流れ込んでくる。

    胸の奥で、説明のつかない、しかし確かに身体の方へ引かれるようなざわめきが広がった。

    南国らしい水着に包まれたしなやかな肢体が、まだどこか自分のものとは思えないまま輝いている。

    水着の首ひもが白いうなじをそっと浮かび上がらせ、その輪郭に沿ったやわらかな曲線が胸のうちにかすかなためらいをもたらす。
    朝の光がそのうなじに触れて、触れた光が胸の奥へとゆっくり沁み込んでいく。

    鏡の中にあるのは、
    まるでファッション雑誌の誌面から抜け出してきたような、
    若い女性、
    ——美咲の、まぶしい水着姿そのものだ。

    なのに、それが自分自身だという事実が、
    そしてその自分の姿に目を取られているという事実が、
    義雄の呼吸をわずかに乱していた。

    なぜか、義雄は、鏡から目を逸らそうにも逸らすことが出来なかった。

    (——俺は……本当にこんな姿で、ここに立っていていいのか)

    義雄は相当に戸惑っていた。

    しかし、ほどなく、
    その戸惑いは、胸の内で、そこはかとない喜びへと静かに塗り替えられていった。

    (この水着姿、けっこうイケてると思うけど......
     彼.....何て言うかな......楽しみ......)

                   ◆  ◆  ◆

    「おまたせっ!」

    「えっ? .....その水着.....」

    翔の目が、一瞬美咲を捉え、そして視線を外したかと思うと、少し照れたように言った。

    翔の視線が触れた瞬間、 彼の視線がどこに落ちているのかを、
    義雄は「頭で」ではなく「肌で」受け取っていた。
    そして、その理解は、彼が男として生きてきた七十七年間のどの経験とも違っていた。

    「はじめてだよね、それ。でも......すんごく......」

    翔は、さらに何か言いかけて、そこで止まった。
    代わりに......揺れる視線と、赤く染まる頬。
    そして口元には抑えきれない笑みが浮かんでいた。

    翔につられて美咲も自然と微笑んでいた。

    美咲の体には、翔の視線が、自分の肩紐、うなじ、胸元、腰のライン——
    その順に、そっとなぞっていくように届いていた。
    皮膚の内側は、触れられたわけでもないのに、 その場所ごとに、まるで息をするようにそっと反応し、かすかな熱が宿っていた。

    そしてそのとき、はにかんで無口になっている翔の胸の奥には、
    三年ちょっと前、美咲と初めて出会ったときの——
    その姿に、その表情に魅了された
    その瞬間の感情が、 朝の光に輝く水面のさざなみのように、静かに戻ってきていた。

    そして、美咲の胸の奥にも——
    翔の視線をはじめて受け取ったときの——
    あのときめきが、 時を経て、そっと息を吹き返していた。

    声はない。
    ふたりはプールのかたわらで、ただ見つめ合い、微笑み合っていた。

    ヴィラのプールにたたえられた水は、思っていたより冷たかった。
    やわらかな足先が水に入った瞬間、義雄の意識に—— ほんの一拍遅れて、歓声のような刺激が走った。

    (......冷たい!)

    七十七歳の体で感じる水温と、二十六歳の体で感じる水温は、全く違う。
    年齢を重ねた体は、水温の変化を処理するのが遅い。
    しかし今の体は——水に触れた瞬間から、
    全ての皮膚が同時に「冷たい!」と叫んでいた。

    「冷たくないか?」翔が聞いた。

    「冷たい!......でも......ちょっと気持ちいい、かな?」

    そう答えながら、義雄は驚いていた。
    「でもちょっと気持ちいい」という言葉が反射的に出てきたことに対して。

    七十七年間、義雄は物事を判断する時、必ず一拍置いてから言葉にした。しかしこの体は——感じたことが、そのまま声になって出てきた。

    (......若い体というのは、こういうものか)

    プールに浸かりながら、美咲は翔を見た。そこに澄子がいる気がした。

    翔は、プールの縁に手をついて、水の中で足を動かし、軽く泳ぐような動作をしていた。

    その動作が、翔のものには見えなかった。

    体を動かすことが好きな男であれば、もっと無駄のない動き方をするはずだ——そう義雄は感じた。

    七十四年間、女性として生きてきた澄子の、そして鈍くなった足の感覚からくる慎重さが、翔の動作に出ていた。翔の慎重な足の運びを見た瞬間、 義雄の胸の奥で、澄子との長い年月の感覚が立ち上がってきた。
    それは思い出ではない。「身体が覚えている何か」だった。

    「翔さん」

    義雄は——美咲の姿は——言った。
    翔が、顔を上げた。

    「バリ、来れてよかったね」

    翔が、少しの間、黙った。それから——微かに微笑んだ。

    「うん」

    その笑顔を見た瞬間に、また——美咲の体が反応した。

    胸の奥から、何か甘くて、苦しいような感情が立ち上がってきた。

    翔の笑顔が水面に揺れた瞬間、美咲の胸の奥では、甘くて、少し痛いような感情がふくらんでいた。
    義雄のものでもない、
    美咲のものでもない、
    それは「誰かに見つめられた身体が生む感情」そのものだった。
    その感情は、美咲の身体から、静かに義雄の意識へと流れ込んできた。

    義雄は、その感情に戸惑いながら、なぜか同時に——懐かしいとも思った。

    水の冷たさよりも、 翔の笑顔の温度のほうが、 美咲の身体には強く届いていた。

    (......そうか。これは、澄子が俺を見る時の感情と、似ているのかもしれない)

    五十年間、義雄は「愛される側」の感覚を知らなかった。

    いや、知らなかったのではない。

    そうではなく、
    愛しているつもりだったが、愛されている感情を、
    自分の全部で——つかるように、
    そういう形で——理解したことがなかった。

    しかし今、美咲の体を通して、義雄は初めて——若い愛の感情の、受け取り手の側を体験していた。その全身で。

                    二

    翔の体に宿った意識は、プールの縁で、ぼんやりと自分の足元を見ていた。

    (……足が、がっしりしていて、大きい)

    それが最初の認識だった。
    いや、認識というより、身体の側から押し寄せてきた“事実”だった。

    その体は、精悍な印象のスイムパンツを無造作にはいていた。

    そこから突き出るように水に浸かり、長く見える足は——
    たくましい男の足だった。
    水面の下でゆるやかに揺れる筋肉の張りが、
    その事実を、意識に向けてはっきりと主張してくる。

    明らかに、自分の足ではない。
    当たり前だ。二十八歳の、若いスポーツマンの足なのだから。

    しかし、澄子の戸惑いは“当たり前”では片づけられなかった。
    筋肉の張り、皮膚の厚み、足首の強さ——
    どれもが、彼女の知っている身体の感覚とはまるで違った。
    身体が先に世界を受け取り、 意識はその後ろを必死に追いかけているようだった。

    その足で立ったとき、 目に入ってくる視点の高さが、澄子の知っているものよりずっと高くて——
    それもまた、奇妙だった。

    (……世界が、こんなに高い場所から見えるの)

    七十四歳で百五十三センチの身体で見てきた世界は、
    もっと低く、もっと慎重で、
    足元の段差に常に注意を払う世界だった。

    しかし今は——
    百七十六センチから見る視界が、
    何の努力もなく、ただ“そこにある”鮮やかな世界を見せてくる。

    その高さの違いが、
    まるで別の人生を覗き込んでいるようにも感じられた。

    身体が変わると、
    世界の形そのものが変わる。
    その事実が、澄子の胸の奥に静かに揺さぶっていた。

    プールの向こうに、ヴィラがその高い視線から見える。木とガラスの建物。蓮の花が浮かんだ睡蓮鉢。椰子の向こうに、青い空。

    (......きれいだ)

    その感想を、澄子は普通に感じた。きれいなものをきれいと思う感性は、体が変わっても変わらなかった。

    しかし、次の瞬間——まったく違う、戸惑うような感情が来た。

    ヴィラのプライベートプールへと続く、引き戸が開く音がした。その音に続いて、プールサイドへと出てくる美咲の姿が見えた。

    その瞬間だった。
    翔の体の中で、何かが——動いた。

    (......!)

    澄子の意識が驚いた。心臓ではない。心臓のもっと奥——体の芯に——何かが熱くなるような感覚が、あった。

    (......なに、これ)

    美咲が、——その姿が、翔のほうに歩いてくる。

    朝の光を受けて、髪がゆるく揺れ、そのたびに頬のあたりに柔らかい影ができた。歩幅は小さいのに、体の線の動きは妙にしなやかで、それが翔の目に自然に飛び込んでくる。

    肩をすくめるような仕草や、うっすらと桜色のネイルが入っている指先の揺れまでが、無邪気なのに妙に艶っぽく見えた。

    意識していないはずなのに、視線を奪われる。目を離すことができない。

    (......きれいだ)

    さっきプールを見て「きれいだ」と思った時とは、まったく違う種類の「きれい」だった。さっきは景色への感想だった。

    今のは違う。もっと生々しくて、視線を奪われた瞬間に体の奥が確かに反応するような「きれい」だった。

    (......これは翔さんの、翔さんの感情が——)

    澄子は、自分の意識を占有しようと寄せてくるその感情に、慌てた。

    七十四年間、澄子は女性としての人生を生きてきた。
    男性を「きれいだ」と思ったことはあっても、それはあくまで女性としての審美感覚、もしかすると「格好良い」という感覚だったかもしれない。

    しかし今感じているのは——
    もっと根源的で、視線を向けた瞬間に体の奥がわずかに引き寄せられるような、「男として身体が先に反応してしまう」種類の「きれい」。

    理性より先に、身体がそちらへ傾くような、
    生物として「引き寄せられる」感覚だった。

    (......翔さんの体が、美咲さんを——)

    「おはよう...... 翔さん」と美咲が言った。

    「ああ、おはよう」

    翔の声は、義雄の声よりずっと若く、低く、しかし柔らかだった。
    喉の奥で響くバリトンが、自分のものではないのに、自分の体から出ているという奇妙な感覚があった。

    「バリ、......来れてよかったね」と美咲が言った。

    その澄んだ声のどこかに——義雄を感じた。
    義雄のことを、澄子は五十年間、毎日見てきた。その視線の質感を、彼が発する声のトーンを——知り尽くしていた。

    美咲の声の奥に、義雄が何かを見つめる時の、あのわずかな「間」があった。若い女性の澄んだ声なのに、耳元に届く音の振るえに宿っている眼差しがあった。

    五十年寄り添った夫のものだった。

    (......あなたも、大丈夫ね)

    澄子は、内心で安堵した。義雄の意識も、向こうの体の中で戸惑いながら、しかし元気でいると——その一言から感じ取った。

    「うん」澄子は、翔の声で答えた。

    「来られてよかった」

                   ◆  ◆  ◆

    午前中、二人はヴィラの近くのライステラスを歩いた。

    バリ島のウブドから車で十分ほどの棚田の広がる地域。
    朝の光が田んぼの水面に反射して、緑と光が交互に段々をつくっていた。
    笠をかぶった優しい顔立ちの農夫が、ゆっくりと棚田のあいだを歩いている。
    遠くに見える高原には、火山の影が青くかすんでいた。

    翔は、その景色の中を、少し困惑しながら歩いていた。

    困惑の理由は、この体、翔の体が持つ余裕にあった。
    普段の澄子の体では、凸凹した地面は脅威だった。足の感覚が薄いから、地面の状態が足裏から伝わってこない。段差を踏み外すことへの恐怖が、常にあった。
    しかし今の体は——石畳の段差も、土の道のぬかるみも、ただの「情報」として受け取っていた。体が勝手にバランスを取り、勝手に適切な力加減で着地する。

    (......これが、普通に歩くということ)

    当たり前のことが、当たり前ではなかったのだと——澄子は、翔の体を通して、初めて理解した。

    しかしその感慨も、次の瞬間には別の感情に上書きされた。

    前を歩く美咲が——振り返って、笑顔を向けてきたからだ。

    「ねえ、見て! あっちに白鷺がいる!」

    美咲が指差した方向に、白い鳥が一羽、田の縁に立っていた。
    その笑顔を見た瞬間に——また、体の芯から何かが湧いてきた。

    (......困る)

    澄子は、内心で苦笑した。

    (この体は、美咲さんの笑顔に弱い。
     翔さんが美咲さんにどれほど惚れているのか......
     美咲さんの姿が目に入るたびに、
     あの澄んだ声が聞こえるたびに伝わってくる。困るな、本当に)

    「本当だ、白鷺だ」翔の声が言った。「写真撮ろうか」

    「撮って......! 翔さんったら、こういう時ほんとスマホ出すの遅いのよね」

    美咲の声が、軽やかに辺りに響いた。

    (なんと、翔さんの癖まで知っている)

    澄子は、スマホを素早く取り出した。

    澄子自身は、スマホの操作にいつも手間取っていた。しかし翔の体は、その指は——当たり前のようにスマホを操作した。体が覚えていた。
    スマホのシャッターをタップした。

    白鷺と、それを指差す美咲が、画面の中に収まった。

    (......きれいな写真だ)

    澄子は、そう思った。

    しかしすぐに気づいた。
    「きれいな写真」と思ったのは——白鷺ではなく、写真の画像の中にいる美咲に対してだった。

    (......翔さんは、いつもこういう気持ちで美咲さんを見ているのか)

    男性の、女性を慈しむ感触が——こういうものだと、澄子は初めて知った。女性とは違う。もっと視覚的で、もっと直接的で、しかしその直接さの奥に、守りたいという気持ちが強く流れていた。

    (......義雄さんも、こういう気持ちで私を見ていたのかな)

    五十年間、疑問に思わなかったことを——今、急に、知りたくなった。

                   三

    ウブドの伝統市場は、午前中が最も賑わっていた。
    狭い路地に、花や果物や布地や土産物が所狭しと並んでいる。売り手が声をかけてくる。スパイスの香りと花の香りと、南国の熱気が混じり合って、鼻腔の奥を刺激した。

    美咲に宿った義雄の意識は、その匂いの洪水の中を歩きながら、自分の前に、次々と姿を現してくる感情に揺さぶられ続けていた。

    美咲は、ふいに布地の店の前で立ち止まった。

    バリ島の伝統的なバティック。赤と金と青の複雑な模様が、日光を受けて輝いている。

    (......きれい)

    商社マンだった義雄は、商材としての布地を扱ったこともある。バティックの美しさは、知識として理解していたつもりだった。
    しかし今——
    知識ではなく、もっと直感的に、体の奥からわき上がる感情で「きれい」と感じていた。

    (......美咲の体は、こういうものに反応するのか)

    手が、布に伸びていた。止めようとしたが、止まらなかった。体が先に動いていた。指先が布地に触れると——布の柔らかさが、指紋の一本一本に伝わってきた。

    「かわいいっ!」

    美咲の喉が勝手にふるえて、意図しない声が出た。はしゃいだ声が。

    (......今、「かわいい」と言った。俺が。
     いや、俺ではない。美咲が。
     しかし確かに俺が言った、美咲の声で——)

    翔が隣に来ていた。「気に入った?」

    「うん、これ、すごくかわいい。このオレンジと金の組み合わせが——」

    (止まらない)

    義雄は、自分が布地に夢中になって話していることに気づいていた。
    しかし義雄の意識には、それを止められなかった。美咲の体が興奮していた。

    義雄の意識は、その興奮の奔流に足を取られ、気づけば、それに流されるままになっていた。その流れの中で義雄は足場を探した。しかし、どこにも川底は見つからなかった。
    彼は、ただその勢いに身を任せるしかなかった。

    翔が値段を気にした。「これ、いくらだろう」
    売り手が英語で値段を言った。
    義雄は商社マンの習性で、すぐに円に換算した。適正価格より少し高い。
    「三割は交渉できる」義雄は、無意識に思った。
    翔が、目を細めた。

    「......交渉、してみるかい?」

    「してみる。まかせて。こういうの得意なの」

    美咲は、売り手と交渉を始めた。英語と、昨日ガイドブックで覚えたインドネシア語の単語を混ぜながら。
    そして最終的に、三十五パーセント値引きで買えた。

    「すごいぞ、美咲」翔が言った。

    「交渉、得意だったんだ」

    (......交渉が得意なのは、美咲なのか、それとも商社マンだった俺なのか)

    義雄にはわからなかった。しかし、向こうで、翔が笑いをかみ殺しているのが見えた。

    (澄子、わかっている。これは俺の癖だ。商社マンの習性だ)

    しかし言葉には出せない。
    義雄は、美咲の顔で翔に向かって可愛らしく微笑んだだけだった。

                   ◆  ◆  ◆

    昼食は、田園の風景を見下ろすレストランでとった。

    竹で作られたオープンエアの建物で、目の前に広大な棚田が広がっている。遠くに山の稜線。雲が、ゆっくりと動いていく。
    テーブルに、バナナの葉に盛られた料理が来た。ナシゴレン、サテ、揚げたテンペ、サンバルソース。香辛料の濃い香りが立ち上がる。

    「おなかすいたぁ~!」

    美咲は、——いや、義雄の意識は——その料理を見て、胃袋がきゅっと縮むような感覚を覚えた。

    (......腹が、減っている)

    それが最初の実感だった。 七十七歳の体の食欲と、二十六歳の体の“食べたい”という衝動は、まるで次元が違う。
    七十七歳の体が感じる食べることへの欲求は、どこか義務めいていた。 心のどこかに「栄養を取らなければ」という意識があった。

    しかし今は—— お腹が空いているという事実が、 単純で、まっすぐで、体全体からの叫びとして伝わってくる。

    スプーンで軽くすくって口に入れた。

    (……!)

    香辛料が、舌の上で弾けた。
    ガランガルとレモングラスの複雑な香り、ジンジャーの刺激、ナンプラーの塩気—— それらが同時に、舌のすべての部分に届いた。

    七十七年間、徐々に鈍くなっていた味覚があった。
    しかし今は——
    二十六歳の、若い女性の味覚を通して、 口にしたすべての味の情報が一気に意識へ押し寄せてくる。

    鮮明で、鋭くて、時にそれは“暴れる”ようにすら感じられた。

    「なにっ?これ?——おいしいっ!」

    美咲の声が響いた。
    思ったより大きな声だった。
    隣のテーブルの欧米人カップルが、こちらを見て微笑んでいた。
    翔が——澄子の意識が——それを見てくすくすと笑った。

    「そんなにおいしいのか?」

    「そんなに! こんなにおいしいものを食べたの、久しぶりな気がする!
    ほんともぅ、幸せっ!」

    それは、本当のことだった。

    義雄は——美咲の中の意識は——
    最後に、食べ物を「おいしい!」と声に出して言ったのが、
    いつだったのか思い出せなかった。

    その瞬間、美咲は——義雄は——
    ふいに、恥ずかしくなった。

    若い女性が、周りに聞こえるほど大きな声を出してしまったからなのか。
    それとも——
    若い身体が“おいしい”と素直に喜んでしまったこと自体が、 自分のものではないようで、 しかし確かに“自分の反応”として世界を編み直してしまったからなのか。

    どちらなのか、判然としなかった。

    かすかに熱くなった頬を感じる。
    その熱が、美咲の身体のものなのか、
    義雄自身のものなのか、
    もう区別がつかなかった。

    「美咲って、こんなに食べ物に感動するっけ」

    翔が言った。やわらかく響くバリトンの声なのに、
    その言葉の選び方も、相手の変化に気づく目線も、まるで澄子だった。

    (......周りにばれそうだ)

    「バリだから......かな? なにを食べてもおいしく感じちゃう」

    義雄は、若い女性の顔で
    —— 可愛らしい微笑みをこしらえて、その場を誤魔化した。

    「バリ島補正か、......あるかもなあ」翔は言った。
    「俺も、なんか......普段より全部が新鮮に感じる気がする」

    その言葉に、義雄と澄子の意識は、同時に同じことを考えたはずだった。

    (......そうじゃない。鮮明なのはバリ島のせいじゃない。
     若い体の感覚が、そのまま意識に流れ込んでくるからだ)

    しかし、もちろん、言葉には出せなかった。

    二人はただ、微笑み、見つめ合っていた。

                   四

    午後は、現地ガイドのワヤンに車で送ってもらいタナ・ロット寺院に行った。

    海の上に突き出た小さな岩の上に、黒い石造りの寺院が建っている。満潮の時間帯、寺院への道は海に沈む。観光客が岸壁に並んで、沈みゆく夕日と、海の中に浮かぶ寺院の組み合わせを写真に撮っていた。

    空がオレンジに染まり始めた頃、翔と美咲は岸壁の端に並んで立った。
    風が強かった。インド洋から吹き上げる潮風が、美咲の髪を横に流し、スカートの裾を揺らした。
    美咲は、——義雄の意識は—— その風を受けながら、思った。

    (......風の当たり方が、違う)

    その感じは、スカートをはいていたからではなかった。

    二十六歳のみずみずしい素肌は、風を丸ごと受け取った。
    風の中の水分の量まで、皮膚が感じ取っていた。

    触れた瞬間に、肌の表面が静かに開いていくような感覚があった。
    まるで風そのものを吸い込んでしまうように、
    皮膚の細胞一つひとつが反応していた。

    肌が喜んでいる、と感じた。
    そういう表現をするものかと自分でも驚いたが、他に言い方がなかった——
    肌が、風を喜び、歓迎していた。

    その感覚の余韻の中で、ふと義雄は思った。
    (......澄子は、澄子の意識は、これを今——彼の体で感じているのだろうか)

    隣に翔の姿が立っている。
    その横顔を見た瞬間に、また、例の感情が来た。
    胸が、温かくなる。

    (......やはり、この体は——)

    義雄は、その感情をこらえようとした。
    しかしこらえ方がわからなかった。

    七十七年間で、義雄はそういう感情をこらえる方法を知っていた。
    意識の外側に置く。
    考えないようにする。
    そういう知恵と技術を持っていた。

    しかし今、——体の奥底から湧いてくる感情は、
    意識の外側に置けなかった。

    体の内部から来るから、
    意識の「外」がなかった。
    義雄には逃げる術がなかった。

    「美咲っ!」

    翔の声が、不意に義雄を呼んだ。
    「なぁに?」
    「手を......手をこっちに......手をつなぐぞ、
     風が強いし......飛ばされないようにさ」

    (......手を)

    義雄は、一瞬、固まった。翔が——澄子の意識——が、今、
    「手をつなぎたい」と、はっきり言っている。

    (......澄子が、俺の手を......ぬくもりを求めている)

    がっしりとした翔の腕が、美咲の手を探して伸びてきた。
    その手の動きには「迷い」がなかった。
    まるで、手を伸ばす前から美咲の手が待っている場所を知っていたかのように。

    美咲の指先は、一瞬だけ空気の中でためらうかのように揺れた。
    義雄はその揺れを、男の意識が持つかすかな“自分の戸惑い”として感じていた。

    しかし——
    彼女の手はまるで別の記憶に導かれるように、
    自然と翔の手の方へと吸い寄せられていく。
    胸の奥から温かく湧き上がってくる“何か”に押されるように。

    奇妙な状況だった。
    しかし同時に——義雄には、
    自分のぬくもりを求めて手を差し出してきている、
    “彼”の感情が理解できた。

    翔の身体から伝わってくるその衝動の奥に、 澄子の意識が確かに感じられた。

    澄子もまた、翔の体から自分に流れてくる感情に
    ——美咲を愛してやまない感情に——揺さぶられながら、その向こうで義雄を探しているのかもしれない。

    「仰せのままに......わたしの旦那さま」

    意図せず、美咲の口からは勝手にそんな声がこぼれた。
    その澄んだ声は、少しはしゃいだようなコロコロとした口調だった。

    翔の、大きく温かい手が、美咲のやわらかい手をそっと包みこんだ
    。
    (......あたたかい)

    義雄の意識には、まずそのぬくもりが届いた。
    しかし同時に——もっと別のなにかも伝わってきた。

    この手の力加減の優しさは、澄子そのものだった。
    義雄の手を握るときには、澄子はいつもこういう力加減だった。
    強すぎず、弱すぎず——
    「私はここにいるよ」と伝わってくる、その握り方。

    (......澄子だ)

    美咲は、——義雄の意識は——
    その手をぎゅっと握り返した。

    翔が、わずかに驚いた顔でこちらを見る。
    二人は、目を合わせた。

    翔の視線と、美咲の視線が、まっすぐに合っていた。
    義雄には、翔の瞳の奥に、澄子がいることが、はっきりとわかった。

    澄子にも......——美咲の瞳を通して——
    俺の心が届いているのだろうか。

    言葉は、ない。

    言葉を出せば、全てが壊れる。
    何を言っても、どんな声色でも、この沈黙の均衡を崩してしまう気がした。

    二人は、ただ手を繋いだまま、夕日を見た。
    若い指が触れ合っているのに、そこで触れているのは五十年分の記憶だった。

    タナ・ロット寺院の上空を、夕日がオレンジから赤へと色を変えながら沈んでいく。
    海が光る。
    波が、岩に打ち寄せる音が、規則正しく続いていた。

    (......澄子。お前は今、見えているか。俺が見ているこの景色が)

    (......このバリ島の夕暮れが)

    (......若い目で、見えているか)

    隣にいる翔の肩に、ほんのわずかな力が入った気がした。
    美咲には、その力加減が、答えのように感じた。

    見えているよ、との。

                    五

    現地ガイドのワヤンに車で迎えにきてもらい、ヴィラに戻ったのは、夜の八時を過ぎていた。
    ルームサービスで夕食をとり、シャワーを浴びて、翔は歯を磨きながら、ふと鏡を見た。

    若い男が、そこにいた。
    二十八歳の、端整な顔。
    目の下にうっすら疲れがあるが、それがかえって表情に深みを与えている。髪が少し濡れている。

    (......この顔を、美咲さんは毎日見ているんだ)

    翔は——澄子の意識は——しばらくの間、鏡を見ていた。
    歯を磨くのも忘れて。

    (......私が五十年間、義雄さんの顔を見てきたように、
     美咲さんもこの顔を——
     これから何十年も——見続けていくんだ)

    その事実が、妙に澄子の胸に刺さった。
    心の奥で、何かがきゅっと縮むような感覚があった。

    嫉妬とも違う。
    寂しさとも違う。

    ただ、自分の人生の、もう戻らない時間を思い出しただけだった。

    美咲は、いい男性と結婚したのだな、と。
    翔の体に入って初めて澄子はそう思った。

    (......こんなこと、義雄さんには言えないけれど)

    澄子は、くすりと笑った。
    鏡の中では翔の顔が笑っていた。

    「何、笑ってるの?」
    浴室の外から、美咲の声がした。

    「なんでもない」

    「鏡と......何を話してたの?」

    「いや、何も。ちょっと考え事してただけだ」

    「どんなの?」

    (......どんな?)

    澄子は考えた。
    そして低く柔らかい声で言った。

    「バリ島の夕日が、きれいだったな、と思ってさ......」

    「翔さん、それ、前からずっと言ってるよ」

    「ずっとさぁ......思い続けてるのさ」 

    翔は——澄子の意識は——
    美咲に、——自分の夫の意識に—— 
    気づかれないように言い逃れをした。

    しばらくして、翔の体をベッドに投げ出した時、
    澄子は——この体が持つ感覚の、また別の面に気づいた。

    疲れが、気持ちよかった。

    七十四歳の体では、疲れはすぐに「痛み」に変わった。
    足が痛む。腰が重い。
    眠れても、疲れが取れない感覚がある。

    しかし二十八歳のたくましく引き締まった体の疲れは——
    体を使った、という充実感を伴っていた。
    筋肉が、今日働いたことを喜んでいるような感覚。

    (......体が生きているって、こういう感じだったんだな)

    澄子は、そう思った。

    「そろそろ寝るか?」

    「寝よう、寝よう」 

    美咲が——義雄の意識が入った美咲が——
    ベッドにいる翔のとなりに来た。

    「今日は、だいぶ歩いたな」

    「ほんとに歩いたよね。でも不思議......足が全然疲れてないの」

    (「でも不思議」と言ったのは——義雄の意識が、七十七歳の体との違いを感じているからだろう)

    澄子には、それがわかった。

    「美咲!」
    翔の声が言った。

    「なぁに?」

    「今日は、......どうだった?楽しかったかい?」

    「すごく楽しかったよ、本当に」

    即答だった。
    しかし、その即答の仕方が——義雄らしかった。
    義雄は、答えが決まっている時、一秒も間を置かない。

    「俺も」
    澄子は言った。
    「すんごく......楽しかったな。バリに来て、よかったな。一緒に来れてよかったな」

    「うん......本当に。来れて、よかった」

    しばらく、二人は黙った。
    天井を見上げながら。
    夜の虫の声が、ヴィラの外から聞こえた。

    (......澄子)

    義雄の意識が、美咲の体の中で、呟いた。

    (......来られてよかった。
     お前が、「面白そう」って言ってくれて、よかった)

    (......義雄さん)
    澄子の意識が、翔の体の中で、応えた。

    (......私も。あなたと一緒に、バリに来れて、よかった)

    (......体は違うけど)

    どちらかが、そう思った。
    どちらかも、そう思った。

    その思いが、どちらから生まれたのか、もう区別がつかなかった。
    しかし、それはもうどうでも良かった。

    二つの意識が、同じ場所で静かに重なっているようだった。

    言葉は、出なかった。
    しかし——間違いなく隣に、一緒にいることが、わかった。

    五十年間、同じ屋根の下で生きてきた夫婦が、
    今夜はそれぞれ別の体の中にいて、
    しかし同じベッドの上にいた。

    美咲の中にいる義雄の意識は、
    —— 今の自分の体からもたらされてくる感情に、少しずつ、抗わなくなっていた。

    美咲に宿ってからこれまで、折に触れて、
    翔が恋しいという感情が美咲の体から湧き上がり、
    そのたびに義雄を揺さぶってきた。

    義雄の意識は、その感情を——
    もはや「美咲の感情」として外側から観察するのをやめて——
    自分の感情の一部として、受け取り始めていた。

    (......この男性は、大切な人間だ)

    翔の姿、その男の顔を見て、そう思った。
    それは美咲の感情なのか、義雄自身の感情なのか......
    もう、区別がつかなくなっていた。

    翔の体の中の澄子の意識も、同じだった。
    美咲を見るたび、扱いに困る感情が、体の深いところから湧き上がり、
    澄子の意識を支配した。

    その感情に、最初、澄子はとても戸惑っていた。
    しかし今は...... 
    その支配的な感情に、自分自身の感情が混ざっていた。

    翔は美咲を求めている。
    翔の体が美咲を愛しているように、
    中にいる澄子も——美咲の姿を、大切だと思い始めていた。

    (......この人のやさしい体が、今、義雄さんと一緒にいてくれるなら——)

    (......私は——俺は、安心して——美咲の姿を)

    その考えを、澄子は途中で止めた。

    (......何を考えているんだ、俺は.....)

    しかし——止めた考えの先に何があったかは、澄子にはわかっていた。
    心の中で自身を呼ぶ一人称がいつのまにか......。

    バリの夜が、深くなっていく。
    虫の声と、遠い波の音と、椰子の葉が揺れる音が、ヴィラを包んでいた。

    二組の夫婦が 
    ——二つの体と、二つの意識が—— 
    同じ部屋の中で、互いを感じながら、夜の深みへと沈んでいった。

    それが、誰のための夜か。
    それが、誰の感情か。
    問いは、夜の中に溶けて、答えを持たなかった。

    ただ——窓の外には、薄雲を透かして揺れる月が見えていた。
    その揺らぐ光は、南十字星の瞬きと重なって
    何かを伝えてきているようだった。

    月と、日本からは見えない星々が、バリの夜空で静かに光を放っていた。

                     (「うつし身の春」二章 ここまで)
    二章冒頭へ
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    次の章では──

    画像

    何かが静かに変わり始める。 借りた身体で、世界をどう感じるかだけでなく、 世界からどう見られ、どう触れられるか。

    レディースの服に心を奪われ、 鏡の中の自分の姿に「かわいい」と言う若い女性がいた。
    布の軽さ、色彩の鮮やかさ、 揺れる裾の感触──
    そのすべてが、思いがけない幸福となって彼女の胸に広がる。

    その傍らには、身体が持つ本能的な反応に戸惑い続ける男がいた。
    彼女から視線を離すことができない。
    ふたりの腕が絡まり、鼓動が勝手に高まる。

    理性では止められない“引き寄せられる感覚”が、 自分の内側に生まれてしまう。

    やがて夕暮れが訪れる。
    光が弱まり、影が伸び、 身体の反応と心の揺れの境界が、 ゆっくりと曖昧になっていく。

    借りた身体が、 自分の意識とは別の欲望や反応を持ち始めるとき──
    昼の軽やかさの先に、 静かな“夜の気配”が立ち上がる。

                              第三章に続く


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    うつし身の春 第三章 春の服と、春の夜


                   一

    バリ島、三日目の朝。

    朝の光の中で、美咲が——義雄の意識が宿っているはずの女性が——ベッドから起き上がりながら、ちょっと遠慮した風に言った。

    「ねえ…今日、一緒に服見に行けたら嬉しいんだけど、いい、かな......?」

    翔が——澄子の意識が——コーヒーを飲みながら顔を上げた。

    「服を買いに行くだって?」

    澄子には、夫の意識がそんなことを言い出すことが、少し意外だった。

    「うん。南国のバリらしいワンピースとかさ。
     翔さんが持ってきたガイドブックに、
     ウブドにかわいい服を売っているお店がたくさんあるって書いてあって」

    (......服)

    義雄は、そんな言葉を自分で言って、一瞬、固まった。

    スーツとゴルフウェアしか知らない自分が、
    女性の、フェミニンなワンピースのイメージを思い描いている。

    色の名前も、布の風合いも、どう合わせるのかも、何も知らない。

    夫婦で買い物に行き、澄子が鏡の前で服を選ぶときに、
    何もわからず、うわの空の言葉しか出なかった自分が、
    今ここで――レディースを、女性の服を買いに行こうとしている。

    商社マンとして四十年。
    義雄の服はスーツかゴルフウェアだった。
    色や形を楽しむという感覚は、ほとんど持ったことがない。

    澄子が自分の服を選んでくれていて、「これどう思う?」と服を見せてくる時も、「いいんじゃないか」か「地味すぎないか」の二つしか言えなかった。

    (それが今、......その俺が......今、服を買いに行きたいと思っている)
    (......女性の服を、俺が、ワンピースを)

    「いいよ、俺は。行ってみたら?」 

    翔の声が、軽く笑うように言った。

    そう言われた義雄の意識は、心のどこかで、抵抗のようなものを感じていた。

    それは、レディースの服を選ぶことへの抵抗ではなかった——

    むしろ、
    自分がそれを楽しんでしまいそうなことへの、
    照れにも似た感情だった。

    しかし、高くて澄んだ声がでた。

    「やったぁ、ありがと。じゃあ、支度するね」

    その声には、子どものようなわくわくした期待感がこもっていた。

    低くてゆったりした声がふいに聞こえた。

    「もちろん俺も行く」

    そう言いながら、澄子は、翔の中でこっそり思っていた。

    (......義雄さんは義雄さん。いくら今はかわいい女の子の姿をしていても、きっとお店では戸惑うはず)
    (だったら、私が今の姿に似合うものを選んであげたい)

    頭の中に、レディースのイメージが次々と立ち現れる。
    ——鮮やかな色彩。
    ——風を抱く薄絹のようなやわらかさ。
    ——歩くたびに軽やかに揺れる裾。

    (そんなワンピースを――この女性に着せてあげたい)

    娘が家を出てから、若い女性の服を選ぶ機会にはすっかり縁がなかった。
    その「久しぶりの楽しみ」への期待に、澄子は自分がうきうきしているのを感じた。
    これから買いに行くレディースの服を——、
    目の前のかわいい女性がまとう服を——、
    全部自分で選びたい。

    その気持ちは、翔の言葉になって自然にこぼれ出てきた。

    「今日の俺の時間、全部、美咲にあげるよ」

    一方、美咲の中にいる意識は全く別のことを考えていた。

    (......そりゃもちろんそうだ。夫婦で旅行に来ているんだし、
     今の俺たちは若くて元気に動けるんだし、久しぶりに二人で
     ショッピングに行くのも悪くない。
     自分は、美咲がどんな服を着ようと気にしない。
     澄子が気に入るものを見つけられたら、
     それで澄子が喜んでくれるなら、俺はそれだけで十分だ)

    (色々見て歩き回りたいから今日はサンダルじゃだめかな、
     もっと歩きやすいものを履いて行こっと。
     日焼け止めと帽子も忘れずに......あっ、あとメイクも......)

    (えっ?メイク? 俺はいったい何を考えているんだ?)

    その「俺」はしかし、鏡の前に座るなり、ためらいもなくファンデーションに手を伸ばしていた。

    アイメイクも、チークも、リップも、
    指が迷わずてきぱきと動く。
    ファンデーションが肌に溶け、頬に血色が宿り、唇に光が差す。
    鏡の中の顔は、触れるそばからどんどん輝きを増していった。

    (......なんで俺、こんなに手慣れてるんだ)

    もちろん、美咲の中の人は、メイクなんかしたことなどあるわけがない。
    それなのに、彼女の指先はまったくの迷いもなく動いている。

    そういえば——
    美咲の姿は女性の装いを、まるで呼吸するかのように、ごく当たり前にまとうことが出来ていた。女性らしい口ぶりで喋ることも普通に出来ていた。

    メイクをするのも服を着たり、話したりすることと同じ。
    ――どうやら「体」が覚えているらしい。

    翔は——美咲の夫は、目の前にいるその女性がみるみる美しく変わっていくのを、ただ静かに見つめていた。

    気づけば、翔の口元には小さな、意図せぬ笑みが浮かんでいた。

                ◆  ◆  ◆

    ウブドの中心街から少し入った路地に、目当ての店はあった。
    「Bali Bloom」という名前の、小さなブティックだった。

    白い壁に、緑の植物が這っている。入口に風鈴がかかっていて、扉を開けるたびにチリンと鳴った。

    店内に入ると、バリの伝統的な染色技法と現代的なデザインが融合したワンピースやブラウスが、色とりどりに並んでいた。

    店に踏み込んだ瞬間——美咲の体が、反応した。

    (......!)

    色彩の洪水だった。
    深いインディゴブルー、燃えるようなオレンジ、落ち着いたテラコッタ、草のような薄緑——
    それらが一気に、義雄の視覚に飛び込んできた。

    (......うわぁ、きれい......。きれいだ)

    その感想は、義雄のものだったか、美咲のものだったか。
    どちらでもよかった。
    とにかく——きれいだった。

    美咲の手が、自然に布地に伸びた。
    止めようとしたが、止まらなかった。

    指先が深いインディゴブルーのワンピースに触れた瞬間——
    その素材の、しっとりとした感触が広がった。

    「わぁ......これ、いいなぁ」

    澄んだ美咲の声が、ふわっとした軽い感じで店の中に響いた。

    (......あれ? 俺、今「いいな」なんて言ったか?
      しかもなんでこんなにうきうきしてんだ?)

    翔が隣に来て、軽く笑った。

    「試着してみたら?」

    「えっ?......試着?」

    美咲は思わず聞き返した。
    その声は、自分でも驚くほど浮き足だっていた。

    翔は、ほんの少しだけ身をかがめて、美咲の顔を覗き込むように言った。

    「うん。せっかくだからさ。似合うと思うよ」

    その言い方があまりに自然で、あまりに「自分の夫」で、
    美咲——義雄の、心の奥は人知れず揺れた。

    (......似合う、って......俺に? 
      いや違う、美咲の身体に、か)

    美咲はワンピースをそっと手に取った。
    指先が布に触れた瞬間、その軽さと柔らかさが、なぜか心の奥にまで語りかけてくるようだった。

    「......じゃあ、ちょっとだけ」

    その言葉は、美咲の身体が自然に選んだ返事のように聞こえた。
    義雄ではなく、美咲の身体からの。

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    翔は——澄子の意識は——
    ワンピースを手にした美咲の振る舞いをすこし意外に思っていた。

    (なんだ、これじゃ私の出る幕がないじゃない)

    しかし翔の顔には笑みが浮かんでいた。
    その笑顔が、美咲の背中を押した。

    (試着室に入る。女性の服を、ワンピースを、俺が——美咲の姿で試着する)

    義雄の意識は、少しだけ抵抗しようとした。
    しかしその抵抗は、美咲の姿がワンピースを手にして
    試着室へと歩き始めていることに気づいた時には、もう遅かった。

    体から嬉しい感じが湧き上がってくる。
    今の自分の体から。
    義雄は少しはしゃいでいた。

    試着室のカーテンを閉め、ワンピースに袖を通す。

    細い肩紐が、鎖骨の上で交差した。
    その肩紐がしなやかな肩の曲線を静かに主張する。

    裾が、ひざの少し上に落ち、歩くとふわりと揺れる。
    布地が全身に沿うと、しなやかな体のラインが、フェミニンな印象を周りに与えた。

    布地の感覚が心地よかった。
    布地が肩に落ち着いた瞬間、美咲——義雄の心の奥で、
    何かが緩くほどけていくような感覚があった。

    (......軽い。こんなに、軽い服なんだ)

    インディゴブルーのワンピースの裾が揺れ、
    その揺れが太もものあたりに触れた。
    さらさらとした感触が伝わってくる。

    そのわずかな感触だけで、
    その身体は自然に呼吸を深くした。

    鏡の中には、美咲の姿があった。
    その姿は、義雄にもこの数日ですでに見慣れていたはずだった。

    けれど——
    インディゴブルーのワンピースに包まれたその姿は、
    いつもより柔らかく、少しだけおしとやかで、
    そして、より素敵な女性に見えた。

    (......これは、本当に俺か?
     ......いや、美咲の身体、だけど......)

    義雄の意識は軽い戸惑いを抱いていた。
    しかし、その身体は、布の触れ方や、肩紐の細さや、肌に落ちる影の美しさにはしゃいでいた。

    ワンピースの胸元に手を添えると、
    指先に触る布の感触が、美咲の体からのメッセージとして伝わってくる。

    (なんて素敵なんだろう!)

    (......なんだ? この感じ)

    美咲の身体が「似合う」と言っている。
    義雄には、鏡の中の自分の姿が、微笑んでいるように見えた。

    しかし、デカルトが言うように体と心は別物である。
    美咲の体とは別に、義雄の意識は商社マンだった頃のくせで分析を始めていた。

    (......印象としては良い感じだ。清潔感もある。
       過度な主張もなく、周りに安心感を与える)

    だが、そのとき——
    美咲の姿が鏡の前で勝手にくるりと回った。
    鏡の中で義雄もくるりと回っていた。
    スカートがふわりと広がる。

    義雄が——いや美咲の目が——
    鏡の中の自分をもう一度捉えた。
    美咲の視線は自分のその姿に釘付けになった。

    その瞬間、義雄はなぜか息を飲んだ。
    そこで分析が止まった。
    分析が止まった理由は、自分でもわからなかった。
    理屈なんかは、もうどうでもよくなっていた。

    インディゴブルーの、軽く、羽のようなワンピースに、
    美咲のしなやかな体がすんなりと収まっていた。
    まるであつらえたかのように。

    「......かわいいっ、似合ってる......」

    声に出ていた。

    (......今、俺は「かわいい」と言った。
     これまで自分の装いのことなんて考えたこともなかった男が——
     鏡の中の自分に向かって「かわいい」と言った)

    (...... でも本当に「かわいい」。
     これが「似合う」っていうことなのか)

    義雄は、澄子にメンズの服を選んでもらうとき、
    自分に何が似合うかを正直よく分かっていなかった。

    しかし今は——
    このワンピース姿を一目見て、
    自分が周りにどう見えるかが、考えなくても感覚で分かった。

    布地の色は美咲の肌を引き立て、
    ラインは体型を美しく、そして可愛らしく見せている。
    体を動かすたびに、まるで風を抱くように裾が揺れ、
    それが彼女を包み込んでいる。

    美咲の視線は自然と、その柔らかさに寄っていった。

    (......面白い)

    義雄は、意外な感想を持った。
    服が似合う、ということを理解する感覚が、
    こんなに直感的なものだとは知らなかった。

    カーテンを開けた。

    翔が、美咲の夫が目を細めた。

    「......きれいだ」

    (......また、その言葉......)

    義雄の意識より先に、美咲の体が反応した。
    翔に「きれいだ」と言われるたびに、体の奥から温かいものが湧き出てくる。
    そのたびに、義雄の意識は少しだけ困惑する。

    だが、その気持ちを、その温かさを、
    もう、義雄は拒もうとはしなかった。

    夫の口からその言葉を聞くことは、
    彼女にとってこのうえない喜びだった。

    翔の声が言った。

    「へぇ......それでちょっと歩いてみなよ」

    「......うんっ」

    美咲は店の中を歩いてみた。
    スカートが、揺れた。
    歩くたびに、ひざの上でふわりと。
    羽衣のように。
    右に傾けば右に、左に傾けば左に。

    その揺れの感じが、義雄の意識には新鮮だった——。

    美咲は、なぜかもう一度歩いた。
    もう一度、揺れた。

    (......なぜ、俺はもう一度歩いたのだろう。
      スカートが揺れるのを感じたくてか。
      揺れる裾の様子を、もう一度見たくてか)

    「買うかい?」翔が聞いた。

    「うん、じゃあ買うね」

    即答だった。
    心の底から喜んでいるような声だった。
    自分でも、少しびっくりした。

    (......俺は、俺という男は、今、「買う」と即答した。
     こんなひらひらした服を、ワンピースを)

    義雄は、七十七年の人生で、服を即決で買ったことは一度もなかった。
    いつも澄子に「これでいいか」と確認してから買っていた。

    しかし今は。——迷いが、なかった。
    この服が気に入った。
    だから買う。
    それだけだった。

    「他にも見るかい?」翔が言った。

    「見てく~!」

    また即答だった。
    これもまた軽い驚きだった。

    (......俺はもう、抵抗していない)

    義雄は、そのことに気づいた。
    しかし——そのことに気づく前に、
    義雄の意識はすでに白旗をあげていた。
    抵抗する力はもうどこにもなかった。

    美咲の体が、この時間を、全身で喜んでいた。
    その喜びは、義雄の意識にも伝わっていた。

    義雄も嬉しかった。
    服を選んで、試着して、鏡を見て——それが、こんなに楽しいことだったとは。

    (......澄子が、毎回「一緒に来て」と言っていた理由が、今は、わかる気がする)

    澄子と服を買いに行くたびに、
    義雄はどこか“待ち時間”のように過ごしていた。
    しかし今——
    その時間が、こんなにも豊かなものだとは......、今の今まで知らなかった。

                ◆  ◆  ◆

    結局、美咲はワンピースを二着——
    最初に試着したインディゴブルーのものと、
    バリの風と大地を思わせる少しシックなテラコッタのもの。
    それに、薄い布のストールを一枚、選んでいた。

    気づけば、どれも勝手に、
    あたかも向こうから押しかけてきたように、
    自然に美咲の手の中に収まっていた。

    布の風合いはどれも軽く、
    指先に触れると風の記憶を呼び起こすような気がした。
    インディゴブルーは、彼女のみずみずしい肌をいっそう清らかに引き立たせ、
    逆にテラコッタは、南国の午後の光のように肌をやわらかく温めた。
    ストールは羽のようで、掌にのせるだけで
    南国の光を呼び寄せるようにほのかに輝いた。

    会計を済ませ、店を出ると、
    翔が——澄子が——紙袋を持とうとした。

    「それは俺が持つ」

    若い夫の姿からストレートに発せられた、
    少し低くて、頼りがいがありそうに響く声だった。

    (......「俺が持つ」——澄子が、翔の声で「俺が持つ」と言っている)

    美咲は、その言葉にそこはかとない幸せを感じていた。
    もちろん、翔は、結婚する前、まだ美咲の彼だった頃から、
    当たり前のようにそう言ってくれていた。

    しかし今、美咲は、
    自分のためにものを持ってもらうことが、
    その言葉が自然に聞けることが、
    こんなにも「夫婦らしい」のだと感じていた。
    自分の夫はこんなにも頼もしいのだと、
    そして自分を守ってくれているのだと。

    美咲の体のどこかが勝手に反応し、
    その意識は——義雄は、温かい何かに包まれていた。

    翔は、紙袋を手にして、何でもないことのように言った。

    「こんな紙袋、軽々さ。全然平気。持つよ」

    自分で発したその言い方があまりに自然で、
    あまりにも彼女の「夫」らしくて、
    翔の後ろに隠れていた澄子の意識は、体の奥で息をのんでいた。

    (……こんなふうに誰かの荷物を持つのは、
     私の人生では、なかったかもな。
     服を選ぶに際に自分は出る幕はなかったし......
     彼女の夫としてはこれくらいはしてあげないとな)

    翔の手がその紙袋を持った瞬間、
    澄子の心と翔の身体の感情が、
    またひとつ静かに重なった気がした。

    義雄は——美咲の体の感情が、
    夫の申し出を素直に受け取ろうとしているのを感じていた。

    翔に荷物を持ってもらうことへの、小さな安心感。
    だれかを頼りたいような、甘えたいような気持ち。
    守られたいような、甘くて少し苦しいような気持ちと、
    彼に身を預けたくなる感覚。

    (......こういう感情が、あるのか)

    「......ありがとう、翔さん」 

    澄んだ声が聞こえた。

    「次は、どこに行こうか? どこがいい?」

    「カフェ......さっきのお店の隣に、かわいいカフェがあったの」

    「へぇ、かわいい、なんて言うようになったんだな。
     美咲、だいぶ目線が変わったな」

    翔の声が笑いながら言った。

    「バリだから、かな?......」

    美咲の照れたような高く澄んだ声。

    「なんでも、かわいい。かわいく見えちゃう」

    (......まぁ、そういうことにしておこうか)

    義雄は、心の中で苦笑していた。

                   二

    翔の体に宿った澄子の意識は、その日の午後、困り続けていた。
    困っている理由は、美咲だった。
    正確には——今日の美咲の姿だった。
    いや、もしかするとその体の内面からあふれ出てくる雰囲気を含めてかもしれない。

    午後、二人は市内のプールバーに寄った。
    オープンエアのバーで、プールを囲むようにデイベッドが並んでいる。
    宿泊客以外でも使えるリゾートバーだった。

    美咲がさっき買ったばかりのワンピースに着替えてきた。

    インディゴブルーのワンピース。
    華奢な鎖骨の上には細い肩紐がかかっている。
    裾がひざの上に落ちる。
    バリの午後の光の中で、布地が微かにきらめいていた。
    いつもより柔らかく、
    少しだけおしとやかで、
    ——いつもより素敵な女性の姿が、そこにあった。

    それを見た瞬間——

    (......!)

    翔の体の、その体の奥で——何かが動いた。

    澄子の意識は、慌てた。
    これがどういう反応かは、七十四年間女性として生きてきた澄子であっても、知識としては知っていた。
    自分の夫がそうなっているのも、何度も感じてきた。

    男性が、気になる女性を見た時に普通に生じる、
    男としての、男だからこその本能的な反応だ。

    しかし——
    知識として知っていることと、
    自分の体でそれを感じることは、まるで違った。

    (......これが、男か)

    澄子は、視線を外そうとした。
    しかし、翔の体の目は——美咲の姿から離れなかった。

    (......翔さんの目が、離さない)

    それは翔の反応だった。
    自分が惚れ、求婚し、今は自分の妻となった美咲、
    その姿が輝いている姿を目の当たりにして、
    翔の体が本能として反応していた。

    澄子の意識は、その反応をコントロールすることが出来なかった。
    体が主導権を持っていた。
    澄子は、ただ、体が先に動くのを見ていた。

    (......これが、翔さんが美咲さんを見る時の——)

    「どうかしたの?」

    美咲が——義雄の意識が——デイベッドに腰を下ろしながら、翔を見上げて聞いた。

    「......いや」
    澄子は、翔の声で言った。
    「そのワンピース、いいな、と思って」

    「そう?」澄んだ声が、嬉しそうに言った。
    翔の耳には、それがいつもよりかわいく聞こえた。

    「これ、わたしすごく気に入ってるよ。
     この色が、こんなに似合うなんて……自分でもちょっとびっくり」

    (......美咲さんが喜んでいる声が、またする。
     ......義雄さんは、今、本当に美咲さんの中にいるの? 
     こんな口ぶり、まるで本当に女の子みたいじゃない?)

    翔の前では何でも、どんなことでも言える。
    翔に恋する美咲の体の感情が——
    そのはしゃいだ声には宿っていた。

    翔の体はそれを受け取り、反応し、
    そしてあの感情がまた、その体に宿っている意識の理性を脇に押しやるように襲ってきた。

    ——澄子の心が、また揺れた。

    (......困る、本当に困る)

    澄子は、隣のデイベッドに腰を下ろした。
    プールの水が、午後の光を受けて揺れていた。
    バーのBGMに、ゆるやかなレゲエが流れていた。

    「私はグァバのジュースかな......翔さんは、何飲みたい?」

    自分の目の前にいる素敵な女性がそう問いかけている。
    しかし、その問いかけよりも早く、体の奥から、強い渇望が突き上げ、
    澄子の意識の前にこつ然と姿を現してきた。

    (......あぁっビール、ビールだっ! ビールが飲みたい)

    それは澄子の意識が欲したものではなかった。
    翔の肉体が、暑さと光に反応して、 “冷えたビール”を求めていた。
    それは、欲求というより“反射”に近かった。
    澄子の意識が選ぶより早く、今の肉体が世界に向かって勝手に手を伸ばしてしまう——そんな感覚だった。

    翔の姿の澄子は、メニューに目を走らせた。
    バリのクラフトビール、モヒート、コロナ——。
    視線が自然にビールのページへと吸い寄せられる。
    もうビール以外考えられない。

    本来の澄子は、お酒が苦手だった。
    義雄が飲む隣で、烏龍茶を飲んでいることが多かった。
    しかし今——翔の体は、冷えたビールを欲していた。

    (......男の体というのは、暑い日にビールを飲みたくなるものなんだな)

    その理解は、理性ではなく、 身体の欲求を“後から説明する”ように意識に訪れてきた。

    澄子は、バリのクラフトビールを頼んだ。

    翔の喉がゴクリと鳴った。
    黄金色に輝く液体が、五臓六腑の隅々にまで染みわたっていく。

    その瞬間——
    さわやかな苦みと炭酸、そして冷たさの刺激が一度に押し寄せ、
    澄子の意識に、言いようのない心地良さが広がった。

    「うまいっ!」

    思わず声が出た。
    その声は、若い男性の体にふさわしい響きを帯びていた。

    澄子は、驚いた。
    ビールをおいしいと感じたのは——生まれてはじめてだった。
    その心地よさは、澄子が知らない種類の快楽だった。
    まるで翔の身体が、過去の夏の日々を思い出しながら「これだ」と言っているようだった。

    知らず知らずのうちに、澄子の仕草は、若い男性の姿にふさわしいものになっていた。

    ジョッキを手にするとき、指は自然と“わしづかみ”の形になり、
    掌の内側にはこれまで何度も感じてきたであろう重みの感覚があった。
    黄金色の液体が喉を通り過ぎる瞬間には、のど仏がわずかに上下し、
    その動きに合わせて呼吸のリズムまでが変わっていく。
    それを飲みながらの呼吸のタイミングさえ、澄子のものではなく、
    今の体が長い時間をかけて身につけてきた“飲み方”に従っていた。

    その一つひとつが、澄子の意思とは別のところで決まっていく。
    まるで今の身体が先に世界を受け取って、自分の中にいる意識に向かってビールという飲み物は「こういうふうに飲むのだ」と静かに教えているようだった。

    (……私は、私のままなのに。そのはずなのに。
      この身体は、男らしく、もう別の誰かとして世界を受け取っている)

    その事実が、
    澄子の胸の奥に静かに降りていった。

    目の前にいる素敵な女性は、彼がビールをあおっている姿を笑顔で見つめていた。

                ◆  ◆  ◆

    夕方、ホテルのプールで泳いだ後、二人はヴィラに戻った。
    美咲の姿が先にシャワーを浴びた。
    翔の姿はソファに座り、氷が入ったレモン風味の水を口にしながら、窓の外の夕暮れを見ていた。

    シュロの葉の向こうには、オレンジ色の空が広がっている。

    (......今日は、落ち着かなかった)

    澄子は、正直に認めた。
    美咲の、服の話をする声が好きだった。
    その笑顔が目に焼きついていた。

    プールの水から上がった時の——
    濡れた肌に光がきらめくあの瞬間の姿が、どうしても頭から離れなかった。

    (......これは翔さんの感情だ。私のじゃない)

    理屈ではわかっていた。
    しかし——体の感情と意識の判断は、まるで別の場所にあった。

    翔の体が感じるものを、そこから湧き上がってくる感情を、
    澄子の意識はそのまま受け取ってしまう。
    そして今の澄子には、それを感じないようにする術がなかった。

    そのとき、シャワーの音がふいに止まった。
    扉の向こうで気配が動き、続いて静かに扉が開いた。

    シャワーのもやの向こうから美咲の姿が現われ、
    その輪郭が翔の視界に入ってきた。

    今の彼女の外見、そしてその仕草は、
    澄子の意識にはもしかするとある種の暴力だったかもしれない。

    ――体から湧き出てくる抗いがたい何かが、
    澄子の理性を力づくで脇に押しやっていく。

    彼女は、バスローブをゆるく羽織っていた。
    濡れた髪の先にのこる小さな滴が、鎖骨のあたりを伝ってはらはらと床に落ちて消えていく。

    タオルで髪を拭きながら歩くたび、
    しなやかな素足が床に触れ、
    そのたびに、静かな部屋に小さく湿った音が落ちた。

    その一歩ごとに、肌の水気が光を拾って揺れた。

    (......参った、本当に勘弁して欲しい)

    美咲の姿が視界にすっと入ってきたとき、
    翔の視線は、そこに吸い寄せられて止まっていた。

    澄子の意識はざわざわと揺れた。
    澄子には、それをどうすることも出来なかった。

    「翔さ~ん。......あれっ?シャワー浴びないの?」

    美咲の姿が言った。
    その声や仕草には、無邪気さと天真爛漫さがあふれていた。 影りひとつなく、他意など微塵も感じられない。
    彼の前では素の自分でいても大丈夫――
    その声には、自分の夫への信頼がこもっていた。

    もしかすると、飾り気なく響くその高く澄んだ声には、
    義雄の誠実で気負わない性格も宿っていたのかもしれない。

    しかし、そのあどけなく響きは、
    翔の身体の本能に強く訴えかけた。
    澄子にとってそれは扱いにくいしろものだった。

    「俺......シャワー、浴びてくるわ」

    澄子は、——翔の姿は——
    心の奥をかき乱されるような感覚を抑えきれず、思わず立ち上がった。

    シャワーの熱いお湯で、自分の気持ちを落ち着けながら、澄子は自分の内側に問いかけた。

    (......俺——、わたしは今、どうなっちゃてるんだろう)

    五十年間、澄子は一人の男性に愛しさを感じてきた。
    義雄だけを。
    それは間違いなく変わっていない。
    変わっていないはずだった。

    しかし今、この体が感じていることは——
    それとは違う層にあった。

    翔の体の本能が、美咲の姿に、
    その何気ない仕草に引き寄せられていた。

    最初、澄子の意識はそれを
    「翔の感情だ」と区別しようとしていた。

    ——しかし、その区別が、だんだんと難しくなっていた。

    (......翔さんが美咲さんを愛しているように)

    (......今のわたし、俺も、美咲に——)

    「やっぱり惚れてるんだ、惚れまくっているんだ。
     そういうことなんだ」

    ——その言葉が胸の奥に形を成す前に、
    澄子はシャワーの温度をさらに上げた。

    しかし——
    言葉にしなかっただけで、
    その隠しきれない感情は、もうすでに、
    間違いなくそこにあった。

                   三

    四日目の夜、二人はサヌールの旧市街を歩いた。
    観光客向けの賑やかな通りから一本入ると、地元の人々の生活が見えた。
    小さな食料品店、路肩で揚げ物を売るワルン、子どもたちの声、バイクのエンジン音。
    暗い路地に、ヒンドゥーの祠が置かれていて、花の捧げ物が香を立てていた。

    画像

    美咲の姿は、今日はもう一方のワンピースをまとっていた。
    テラコッタ色の、肩が開いたデザイン。
    華奢な鎖骨が覗き、南国の夜風を受けて裾がふわりと揺れていた。

    軽く首を傾げ、淡い桜色が乗ったリップの端をくいっと上げる仕草は、
    無邪気さと意図しない計算が混ざった小さな挑発のようにも見え、意図せずに周りからの視線をさらっていた。

    翔は、その隣で、
    ちょっとした誇らしさと、昼過ぎから続く落ち着かない気持ちの間で揺れていた。

    美咲に歩幅を合わせるたび、
    彼女がまとっているほのかな香りと体温の気配が近づき、
    胸の奥のざわつきが、静かに、しかし確実に膨らんでいく。

    華奢な肩が触れそうになる。
    しなやかな手が、自分の腕に絡んでくる。

    最初は、かすかなさざ波だったその落ち着かなさは、
    心の中でしだいに無視することが難しい大きなうねりへと変わっていった。

    「ねえ、翔さん」
    美咲が高く澄んだ声で甘えたように言った。
    「あの屋台、見てもいい?」

    露店の屋台で、地元のおばちゃんが揚げバナナを売っていた。

    「いいよっ、ちょっと行って見てみよう」

    翔は、気恥ずかしさをかくすように、
    低く響く陽気な声で言った。

    屋台の前に立つと、おばちゃんが陽気に声をかけてきた。
    美咲が——義雄の意識が——流暢ではないインドネシア語で「これ、いくらですか」と聞いた。
    商社マンだった頃の経験から、東南アジアの言語への親しみが、言葉の端々に自然に滲んでいた。

    おばちゃんは、お金と引き換えに二本の揚げバナナを手渡した。
    美咲はそれを受け取り、そのうちの一本を翔に差し出した。

    「はいっ......」

    「おっ、ありがと、サンキュー」

    そのとき、美咲の指先が、ほんの一瞬だけ翔の手に触れた。
    その一瞬の触れ方は、無邪気で、軽くて、まるで子どもが何かを渡すときのようだった。

    しかし、そのとき、翔は、体の奥底から、
    ひときわ大きな、手に負えない衝動がうねり出てくるのを感じていた。

    (......)

    その接触の感覚は、手から翔の体全身に広がっていった。

    (......今のは?——)

    「おいしいっ......そっちはどう?」
    美咲が聞いた。

    澄子は、自分に押し寄せてくるうねりをやり過ごそうとして、
    若い男の姿に揚げバナナを一口頬張らせた。

    外はカリカリで、中は甘くとろけた。

    「......うまいぞっ、これはっ」

    何も考えずに出てきた言葉がこれだった。
    口の中でとろけるバナナの食感が体の本能に届き、
    そのうねりがいったん治まったように感じた。

    「よかった」
    美咲が、嬉しそうに笑った。

    その笑顔を見た瞬間——
    静かになったはずの衝動が再び目の前に姿を現し、
    翔の心を完全に飲み込んだ。

    体の中で、何かが決まった。

    いや、決まった、というより——すでに決めていたことが、意識の表面に浮かんできた。

    まるで、ずっと心の奥底に潜んでいた荒ぶる感情が、ふいに浮かんで形を現したかようだった。

    その「俺は決めたぞ、よしっ! 今夜は......」という感覚が、翔の腹の奥底に確かに灯った。

    翔の中に閉じ込められている澄子の意識には、
    それをどこか遠くから眺めていることしかできなかった。

    自分の心で起きていることなのに、
    自分の心が動いているようには感じられない——
    そんな奇妙な距離感が、はっきりとあった。

                ◆  ◆  ◆

    川沿いの道に出て、二人は並んで欄干に肘をついた。
    川の水は暗く、街灯の光を受けてゆっくりと流れていた。
    対岸に、明かりが点々と灯っている。
    虫の声が、闇の底から立ち上がってくるようだった。

    「ねえ、翔さん......ねぇ?」

    美咲が——義雄の意識が——言った。
    高く澄んだ声のイントネーションが、少し甘えたように響いた。

    「なんだい?」

    「このハネムーン......、来てよかった?」

    (......来てよかったかどうか。義雄の心がたずねていた)

    その問いの声は、美咲の口から出たはずなのに、
    響き方は義雄のものだった。

    翔の体の奥で、澄子の意識が小さく震えた。
    澄子は、翔の姿で、少しの間、口をつぐんで黙った。
    七十四年分の重みで、その問いに答えようとした。

    「......来てよかったよ。そりゃ、もちろんだろ。」

    「本当......?本当に本当?」

    「本当だよ。......美咲は?」

    「私も」

    即答だった。

    「こんなに楽しいハネムーンになると思わなかった。
     なんか——全部がすてきで。すごく濃くて。
     普段の旅行とは違う感じがする」

    (......そりゃそうだろう)

    (この旅は、二十代の旅じゃない。
     五十年、ともに生きてきた二つの魂が、若い目で見ている旅だ。
     見え方が、違うのは当然だ)

    翔の体の中で、澄子の意識はそう思った。
    心の中の口ぶりまでもが、いつのまにか体に引っ張られている。
    それが時々あることに澄子の意識は気づいていなかった。

    「翔さん!」

    美咲が、また名を呼んだ。

    「なに?」

    「......ありがとう。こんな素敵なところに連れてきてくれて」

    澄んだ声の奥には——義雄の、静かな感謝が確かに滲んでいた。
    美咲の、鈴を転がしたような声なのに、響きは義雄のものだった。

    その「ありがとう」には、おそらく二人分の、
    体と心の——美咲と義雄の——思いがこもっていたのだろう。

    翔の中の澄子には、それが伝わっていた。

    (......義雄さん)
    (......こちらこそ、ありがとう)

    その思いは心の奥で静かに揺れたまま、言葉には出せなかった。

    言葉の代わりに、
    澄子は手を動かして、
    翔の手を、美咲の手の上に、そっと重ねさせた。

    美咲の姿が——義雄が——少し驚いたようにして翔の手を見た。
    それから、安心したように、翔の太い指に、
    自分の白くしなやかな指をゆっくりと絡めてきた。

    近くでは川の水が静かに流れ、遠くの空では南国の星がきらきらと瞬いていた。

                   四

    ヴィラに戻ると、夜の十時を過ぎていた。
    ルームサービスで軽いものをつまみ、二人はそれぞれシャワーを浴びた。

    部屋の灯りは、間接照明だけの柔らかな光になっていた。
    南国の空に浮かんだ月からの光と、熱帯の夜の空気が、
    開いた窓からやさしく部屋に滑り込んでくる。
    その風は、ジャスミンの香りでほのかに色づいていた。

    美咲の姿はベッドの縁に腰を下ろし、
    濡れた髪をタオルでゆっくりと押さえていた。

    テラコッタのワンピースから、ルームウェアに着替えていた。
    薄いコットンのシャツと、ゆったりとしたフレアパンツ——
    その装いでは、布の下から浮かぶしなやかなラインは隠しきれなかった。

    柔らかなシャツが、肩のあたりでわずかに湿り、
    その下にある肌の温度まで透かしてしまう。
    今の彼女がまとっている簡素な服は、
    若い肌の温度と、外の世界とその肉体とを緩やかに分けている境界とを際立たせていた。

    その無防備さは、逆に大人の女性を感じさせた。

    タオルを滑らせるたびに、
    たおやかな首筋と華奢な鎖骨が、やわらかな灯りに淡く浮かび上がる。
    意図はないのに、その仕草はどこか艶めいていた。

    翔の中の澄子は、その光景に思わず目を奪われた。
    いまの澄子は、生気にあふれた若い男なのだ。
    視線が、彼女の仕草に自然と吸い寄せられてしまう。
    男の本能だった。

    タオルの端が髪をすくうたび、
    そのわずかな揺れさえ、妙に艶っぽく見え、翔の心をざわつかせた。
    美咲がふと顔を上げる。
    濡れた髪の先が頬に触れ、その仕草がまた、意図しない色気を帯びていた。

    (義雄さん......ひどい。
     本当は男の人なのに、わかっているはずなのに、
     美咲さんにそんな格好をさせて、そんな仕草をするなんて......)

    (私が今どうなっているかわかってる?)
         ・
         ・
         ・
    (俺はもう限界かも......)

    その瞬間、翔の体は息をひそめた。
    澄子の意識は、その若い体の反応をもうどうにも抑えられなくなっていた。

    (......今日の夜)

    澄子の意識がそう呟いた瞬間、翔は、自分の心の奥に沈んでいた何かが弾けたように感じていた。

    美咲が髪を乾かすたびに、しなやかな肩のラインがわずかに揺れた。
    濡れた髪の先がシャツに触れ、そこだけ色が濃くなる。
    その小さな変化が、翔の視線を惹きつけた。

    美咲はタオルを膝に置き、指先で髪を梳いた。
    その仕草はあまりに自然で、あまりに無防備で、
    若い身体の柔らかさがそのまま滲み出ているようなあどけない動きだった。

    ふと、美咲がこちらを見た。
    灯りに照らされた瞳が、どこか潤んで見えた。

    その瞬間、翔の中の澄子は、
    心が若い体の鼓動に引きずられだすのを、もうどうにも止められなくなっていた。
    自分なのに、自分自身のはずなのに、
    自分の心が自分のものではなくなるような感覚だった。

    今夜は、サヌールの街で、揚げバナナを食べながら決めたことを——。

    澄子の意識と、翔の体、二つの本能がひとつの和音をなすように共鳴した。

    翔は、今夜、美咲を求めていた。

    それはきわめて自然な衝動だった——
    新婚の、若い男女の、ハネムーンの夜として、何も不自然ではない。

    しかし澄子の意識の内にもまた、
    今の体から流れ込んでくる感情の中で、数日かけて、育ってきた思いがあった。

    美咲を——義雄を——大切にしたい。
    慈しみたいという気持ちが。

    そして今夜、
    その思いは、翔の身体の本能からくる「美咲を自分のものにしたい」という感情と静かに結びついていた。

    「美咲」

    翔は、自分の中の荒ぶる感情を、低くやわらかい声に包んで、自分の妻の名を呼んだ。

    「....えっ? な~に?」

    美咲が振り向き、ドライヤーを止めた。
    まだ、濡れた髪のままこちらを見た、そのすっぴんのあどけない表情を見た瞬間——
    翔の体の感情と、澄子の意識の感情が、完全に重なり一体となった。

    何かが体と心を同時に飲み込んだ。

    (......一緒に、ずっと一緒に、)

    翔が美咲を愛しいと思う感情と、
    澄子が義雄を慈しむ気持ちと、
    そして体の奥から湧き上がる衝動と——
    全部が一本の線でつながって「一緒」という一語に収束した。

    その「一緒」を止めるものはもはや何もなかった。

    翔は、美咲の前まで歩いて行った。
    義雄の意識が宿っているはずの美咲の姿は、
    少し首を傾けて、自分の夫を見上げて言った。

    「......どうしたの? すこし変」

    「......美咲」

    「....うん」

    澄子は、翔の大きな手を、美咲の頬に添えさせた。
    そして、指先が触れた瞬間、翔には、その肌の温度が
    まるで南国の熱を帯びているかように感じられた。

    美咲は、わずかに瞳を輝かせ、
    そのまま自分の頬を、そっと翔の手のひらに預けてきた。

    拒まない。
    むしろ、愛しい夫の気持ちがわかっているかのように。
    それを受け入れるかのように。

    濡れた髪の先が肩に落ち、
    その一筋が、頬に触れた翔の指にかすかに触れた。
    その微かな湿り気さえ、翔の体の奥を震わせた。

    「......翔さん」

    美咲の声。
    甘えたような、夫の名前を探して呼びかけているようにも聞こえるその声は、
    初々しい女性の口から発せられているはずなのに、
    そこには義雄の心が、彼の真心が醸し出す深い響きが乗っていた。

    翔の中にいる澄子は、その声を聞いた瞬間、
    胸の奥がきゅっと締めつけられたように感じた。

    翔の体の衝動と、
    澄子の長い人生で育ててきた慈愛が、
    完全に同じ方向へと進み、
    怒濤のように流れ出していく。

    (あぁ……この人を、大切にしたい)

    その思いが、翔の体の熱と澄子の心の深さを、ひとつに結びつけていた。

    (これからずっと……これまでもずっとそうだったように)

    美咲は、そっと目を細めた。
    その目の奥には、かすかに潤んだ光があった。
    頬は、はにかむように桜色へと染まっていった。

    その桜色に添えられた大きな手に、
    美咲の白くしなやかな指がそっと重なってきた。

    その仕草は無意識なのに、どこか甘く、
    そしてどこか頼ってきているようで、
    翔の心を静かに溶かしていった。

    そして美咲の方では——

    もはや言うことを聞いてくれない今の自分の体。

    意識は、その中で、体の奥から湧き出て、自分に向かって怒濤のように押し寄せてくる甘い感情に翻弄されていた。

    その流れの渦の中で、なすがままにされている義雄はしかし、
    自分でも説明のつかない静かな確信を抱いていた。

    (……この手の温かさを、俺は知っている。
       俺は——俺は、この人の前では、どんな姿になっても、
       きっと同じように心が動くんだ)

    その思いは、若い体の反応とも、記憶とも違う、
    もっと深い場所から静かに湧き上がっていた。

    美咲の頬にそっと静かに触れてきた、頼りたいような大きな手のひら。
    それは理屈でもない。
    そして技術でもない。
    人が誰かを大切に思ったときにだけ生まれる、
    そっと触れるときの手つきだった。

    七十四年、女性として生きてきた澄子が、
    翔という若い男性の身体で初めて知った——
    そんな触れ方だった。
    それは、彼の身体が、これまでの時間の中で自然に覚えてきた“優しさの形”だった。

    頬で翔を感じた瞬間、美咲はわずかに息を吸った。
    触れられた場所にそっと意識を集めたいような、そんな静かな息づかいだった。

    美咲はそのまま目を閉じかけて、
    自分の頬をほんの少しだけ翔の手に寄せた。
    そこには穏やかな微笑みがあった。
    触れられることを受け入れる、やわらかな仕草だった。

    翔の体の奥で、澄子が。
    美咲の体の奥で、義雄が。

    翔の胸の奥深くで、澄子の意識が揺れた。
    美咲の瞳の輝きに義雄を見たような気がした。

    そのとき、翔の若い体に宿る鼓動が、
    澄子が長い年月をかけて育ててきた“人を慈しむ心”を、静かに押し上げていた。

    (……ああ、こんなふうに触れるんだ)

    触れた手のひらから伝わってくる頬のぬくもりが、
    翔の体の熱と澄子の心の深さをゆっくりとひとつに溶かしていく。

    美咲は、頬に添えられた指に自分の指先をそっと重ねてきた。
    翔の意識は、その小さな仕草だけで心が満たされていくのを感じた。

    若い体の情動と、澄子の静かな慈愛が、
    同じ方向へと流れ出していく。

    澄子は、美咲の瞳の奥に義雄の目の輝きを見たような気がした。
    誠実で、飾らない形で、穏やかに自分を慈しんでくれている義雄の目の輝きを。

    美咲は——彼女の意識は、
    この手の持ち主が翔ではないことを、心の奥で感じていた。

    確かに翔の手。
    しかし——その触れ方は、翔ではなかった。

    もっと柔らかく、もっと遠慮がちで、
    しかしその遠慮がちさの奥に、深い慈愛がある——この触れ方は。

    (......やっぱり澄子だ)

    心はそう感じていた。

    「翔さん」

    ふいに、美咲の声が呼んだ。

    「……うん」

    「......そんな目で見ないで」

    「どんな目」

    「......全部、見えてるみたいな目」

    澄子は少し笑った。
    それと同時に、翔の顔がほころんだ。

    「見えてるよ......美咲が、俺の妻が——愛らしいということが」

    美咲の耳がその響きを聞き、
    義雄の意識にその言葉が届いた瞬間——
    体の奥、その本当に深いところから感情が溢れ出てきた。

    翔に「きれい」と言われた時の、
    甘くて、胸をしめつけられるようなあの感情が——
    しかし今夜は、もっと深い場所から来た。
    しかも比べものにならないくらいに強く。

    (......これは、美咲の感情だろうか。それとも——)
    (......俺が、感じているのだろうか)

    もう、区別がつかなかった。

    境は、完全に溶けてなくなっていた。

    ただ——この手の温かさが、好きだった。
    ただ——この人が隣にいることが、どうしようもなく心地よかった。

    満ちたりていた。 
    言葉にできないほど。

    幸せだった。

    幸せという言葉しか、自分を表現する術を持たなかった。

    美咲は、翔の胸にそっと頬を寄せた。
    翔の腕が、美咲の肩から背へと静かに回る。
    その動きは、まるで「俺が守る」と告げるようで、
    美咲の心の奥で、静かな波がひとつ、ゆるやかにほどけていった。

    いや——それは義雄の心だったのかもしれない。

    (......澄子)
    (......義雄さん)

    二つの心が、若い体の中で無言で向き合い、
    静かにお互いを求め合っていた。

    五十年間、二人は同じ屋根の下で眠ってきた。
    しかし今夜は——
    別の姿で、別の声で、別のぬくもりで——
    それでも確かに「ふたり」だった。

    遠い歳月を隔てた「あのとき」が、静かに戻ってきたようだった。

    空では、瞬く満天の星々が月にかしづいていた。
    バリの夜が、深く、静かに満ちていた。

                ◆  ◆  ◆

    遠くで寺院の鐘が鳴った。
    ひとつ、ふたつ、みっつ。
    椰子の葉が、風に揺れていた。

    言葉は使わなかった。
    言葉を使えば、この夜に何かの名前をつけてしまう。
    新たに結ばれた二人の夜なのか、
    長い時をともにした二人の夜なのか、
    あるいはそのどちらでもあるのか——。

    名前をつけると、どれか一つに固定されてしまう。
    だから——名前をつけなかった。

    翔は、美咲の髪にそっと触れ、
    その柔らかさを確かめるように、ゆっくりと指をすべらせた。
    美咲は、翔の胸元から伝わってくる真心を、静かに受け止めていた。

    二人の距離は、自然に近づき、
    ふれあう素肌のぬくもりを感じた。
    その触れた場所から、長い年月の記憶が静かに滲み出すようだった。
    五十年間、ずっとそうしてきたように。

    ただ——今夜は......。

    若い体の温かさが、ゆっくりと伝わってくるそのぬくもりが、
    年月を重ねた二つの意識の奥深くまで届いていた。
    春の温度が——長い時を超えて——
    二人のあいだを、ゆったりと流れていた。

    翔は美咲の存在を近くに感じ、
    美咲も翔の気配に応じていた。

    それは今の体の——二つの若い肉体の自然な反応だった。
    しかしそれは同時に、それは、
    五十年間おたがいを想い続けてきた二つの魂の深みから湧き上がってきたものでもあった。

    二つを分けていた境が、やわらかな月明かりの下、
    穏やかに溶け合い、もはや区別する必要すらなくなっていた。

    心が喜んでいた。
    そして体が喜んでいた。

    バリの夜空に輝く星々から、
    小さな流れ星のような光の粒がこぼれ落ち、
    ふたりのところに降りてきたように感じられた。

    夜のとばりがふたりをやわらかく抱き、
    祝福しているようでもあった。

    誰が誰を愛しているのか——
    もはや問いを立てる必要はなかった。

    ただ、

    ふたりが......ふたりが......、

    ひとつの春の夜の中にいた。

    それだけは、誰も疑えない事実だった。


                   五

    夜が明ける少し前、義雄の意識は目を覚ました。
    美咲の体の中で。

    今は体が、美咲の体が、義雄の言うことをきく。

    隣で、翔が——澄子が——深く眠っていた。

    その体が、穏やかに呼吸している。
    頼もしさを感じさせる男性の、しっかりとした大きさが、隣にあった。

    (......俺は今——)

    義雄は、ほんの少し前の夜中に起きたことを、確かめようとしていた。

    (......彼の中に、澄子がいた)

    確信はない。
    しかし——ある時点から、翔の触れ方が変わっていた。
    それは翔の体からくるものではない、もっと柔らかで、
    ずっと昔から感じていた感触があった。

    それは間違いなく澄子の感触だった。
    義雄には、わかった。

    (......翔が——澄子が——、美咲を——俺を——包み込んだ)

    不思議な感慨があった。
    五十年間、義雄は澄子を守る側だった。
    男だから、体が大きいから、という理由もあったが——
    義雄の性格として守る方が自然だった。

    しかしさっきは違った。

    (俺は——澄子に、包まれた。
     確かな力が、俺を......わたしを、守ってくれていた
     彼が、わたしを......)

    その静かな余韻が、義雄の中にまだ温かく残っていた。

    (......よかった)

    義雄は、そう思った。
    それが今の体からくる感情なのか、
    それとも自分の感情なのか——
    もはや区別する必要はなかった。

    「よかった」

    それだけは、確かだった。

    窓の外が、少しずつ白み始めていた。
    バリの夜明けは早い。
    東の空が、藍色から灰色へ、灰色から薄い金色へと変わっていく。
    椰子の葉が、その光を受けて輪郭を取り戻し始めていた。

    どこかで、鶏が鳴いた。
    それに続くように、遠くの寺院の方向から、朝の祈りの声が流れてきた。

    (......バリ)

    義雄は、この体の目で、窓の外の夜明けを見た。
    七十七歳の体では、もう来られなかった場所を。
    七十七歳のもう若くない男の目では、もう見られなかった夜明けを。
    二十六歳の女性の、その鮮明な視界で——見ていた。

    (......来られてよかった。一緒に、本当に......)

    その言葉は、義雄の意識から来たのか、
    美咲の体から来たのか——もう、どちらでもよかった。

    隣で、翔が——澄子の意識が——目を覚ました。

    「......起きてたのか」

    「夜明けが、きれいで」

    翔の体が起き上がり、隣に来て、美咲の肩に手を置いた。

    二人は並んで、窓の外を見た。

    夜明けの光が、バリの緑を、少しずつ、鮮やかに染めていった。
    まるで後光がさしているようだった。
    バリの神々の気配が、密やかに宿っているようにも見えた。

    「きれいだね」
    どちらかが言った。

    「うん、きれいだね」
    もう一方も言った。

    そのどちらが翔で、どちらが美咲で、
    どちらが義雄で、どちらが澄子だったのか——
    もう誰にも、答えられなかった。

    ただ——
    バリの朝が、二人を——四つの魂を、
    同じ光で包んでいた。


                ◆  ◆  ◆

    日本。その夜明けには、まだ早い時間。

    バリから遠く離れたN空港そばのビルの夜空にも、南国の空とおなじ月が浮かんでいた。
    誰かにそっと伝えたくなるような綺麗な月が。

    その月明かりが差し込むVIPラウンジで、
    生命維持装置に繋がれたまま眠っている二つの体に、
    小さい変化が起きていた。

    夫婦ともに。

    二人の心拍数が、同時に、わずかに上がっていた。

    二人一緒に。

    担当スタッフが、モニターを見た。
    「......何かあったか?」

    「異常ではありません。正常な範囲です。いや、しかし——」
    スタッフが、心電図に目を凝らした。

    「......お二人の、心臓の動きが同期しています。体温も、わずかですが上昇しています」
    「向こうで、何かあったんでしょうか」

    「わかりません。でも......」

    スタッフは、生命維持装置に繋がれて眠っている夫婦の顔を見た。

    義雄と澄子は、二人の体は、それぞれのベッドで、
    穏やかな表情を浮かべていた。

    「......幸せそうですね」

    「そうですね」

    月影がやさしく落ちている穏やかな部屋では、二人の呼吸の音だけが聞こえていた。


    同じリズムで。

    バリの夜と時を同じくして。


                     (「うつし身の春」三章 ここまで)
    三章冒頭へ
                    
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    次の章では──

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    春の夜、もう誰も昨日のままではなかった。
    燃え上がる炎が、漆黒の断崖を染め、 その揺らめきが二人を照らし出す。

    百の声が聞こえる。

    チャッ、チャッ、チャッ──楽器はない。
    声だけの響きが、夜の海風と混じり合い、
    ひとつの巨大な呼吸となって闇を満たしていく。

    炎の揺らめきが激しさを増してきた。

    その向こうで、 二人の魂が、ゆっくりと引き剥がされようとしている。

    その“ずれ”に、まだ誰も気づいていない。

    取り戻しに行く神話が始まっている。

    ラーマとシータの再会の物語が、 断崖の夜に重なり、
    二人の胸の奥を揺らしていく。

    そして── その祈祷師は、何を告げるのか。

    炎の余韻がまだ胸に残るまま、
    二人は“本当の旅の意味”を知らされることになる。

    それは、若い器を借りた、旅人たちへのメッセージだった。

                                第四章に続く


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    うつし身の春 第四章 炎と、静かな目


                    一

    五日目の夕方、現地ガイドのワヤンの提案で、二人はウルワツ寺院に向かった。「ケチャダンスを見てほしい」と少し改まったまじめな顔で、ワヤンが言ったからだ。

    「バリで一番、バリらしい夜をご覧頂けます。
     私は、お二人を、バリの呪術師とでも言いましょうか、不思議な力を持つ方のところにご案内できればと思っています。お会いできる了解が取れたなら、ですが。」

    「でもその前に、今夜は是非ケチャを、ケチャのダンスを見て頂きたい。お二人も何かを感じるのではと思っています」

    ワヤン・スダルマは四十代のバリ人で、なめらかな英語を話し、崩れない笑顔を持つ男だった。
    日本人相手のガイド歴も長く、日本語もなかなか流ちょう。
    TS社が手配した、バリ島きっての敏腕ガイドだった。

    彼は、新婚カップルのハネムーンガイドをすることに誇りを感じていた。
    自身の仕事を、観光の案内より「バリと旅人を繋ぐこと」だと思っているふしがあった。

    ウルワツ寺院は、バリ島南端の断崖の上に立っていた。
    インド洋に向かって垂直に落ちる七十メートルの絶壁。
    その縁に、黒い石造りの古い寺院が、まるで海の上に浮かぶように建っている。

    ワヤンの車を降りた瞬間、潮風が体を包んだ。

    (......違う)

    美咲の姿の義雄は、その風の質に、バリ島に来てから初めて感じる何かを感じた。
    タナ・ロットの潮風とも、クタのビーチの風とも違う。
    もっと遠く、もっと深いところから来る風だった。

    インド洋の、大きな孤独を運んでくるような風だった。

    夕暮れが、空と海の境目を溶かし始めていた。

    オープンエアの円形劇場が、断崖の縁に設けられていた。
    石段の客席が舞台を囲んでいる。
    その舞台の向こうに、海が——オレンジに染まり始めた、巨大な海が、ただ広がっていた。

    「翔さん......」

    美咲は思わず声をあげた。
    言葉が続かなかった。
    ただその光景の前に立っていた。

    「すごいな」

    翔の声が言った。
    低く、静かに。
    澄子も翔の視界で、その海を見ていた。

                 ◆  ◆  ◆

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    日が落ちるにつれ、演者たちが舞台に現れた。
    白と黒の格子模様の腰布をつけた男たちが、百人以上——
    ゆっくりと、円陣を組んで座っていく。

    そして、ケチャのダンスが始まった。

    「チャッ、チャッ、チャッ——」

    低い声が、まず一人から起きた。

    その声は、耳ではなく、美咲の身体の奥に直接届いた。

    次の瞬間、それが百の喉に伝播し、重なり、絡み合い、
    一つの巨大な生き物の呼吸のような音になった。

    打楽器はない。
    笛もない。
    ただ、百の人間の声だけが、断崖の夜に満ちていく。

    「チャッチャッチャ、チャッチャッチャ——」

    義雄は、美咲の体で、その音を受け取った。

    (......体に、届く)

    耳で聞いているのではなかった。
    その音の振動が、空気を通して、美咲の若い皮膚の全面に届いていた。
    胸骨の奥まで、深く響いていた。

    舞台の中央で、松明が灯された。
    炎が、夜の闇の中で揺れ始めた。
    中心で燃える炎が、ゆっくりと、しかし確実に大きくなっていく。

    「チャッチャッチャ」という声が、夜の断崖を満たしていく。
    百の声が、まるで一つの生き物の呼吸のように響いていた。

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    物語が、始まった。

    ラーマーヤナ。
    ラーマ王子と、その妻シータの物語。
    魔王ラーヴァナがシータを誘拐し、ラーマが仲間を集め、海を渡り、取り戻しに行く——
    その古い叙事詩が、炎と声だけで舞台に現れてきた。

    (......シータが、連れ去られる)

    義雄は、美咲の目でその場面を見ていた。
    シータを演じる踊り手が、魔王の手から逃れようとして、しかし捕らえられ、連れ去られる。

    その瞬間、「チャッチャッチャ」の声が一斉に高まり、
    男たちの腕が同じ動作で揺れた。
    百の声が、一つの嘆きになった。

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    (......体が、引き離される)

    義雄は、その場面に——自分たちのことを重ねていた。
    意図したのではなかった。
    ただ、気づいたら、重ねていた。

    自分の体から離れた意識。
    若い体を借りてここにいる自分の意識。
    自分の本当の体は、遠く離れた日本で眠っている。

    (......俺も、引き離されている。しかし——)

    炎が大きく揺れた。
    ラーマが仲間の猿軍と共に戦い始める場面だった。

    「チャッチャッチャ」の声が、さらに激しく重なる。
    男たちの体が揺れ、炎の光の中で影が踊った。

    (......ラーマは、取り戻しに行く。体から離れた魂を)

    義雄は、美咲の体の、その胸の奥で、静かに思った。
    俺たちの旅は、何かを取り戻す旅なのかもしれない。
    若い体で、あの頃の感覚を——
    あの頃、持てたはずだったものを——取り戻す、旅。

    美咲は、知らず知らずのうちに夫の姿に寄り添っていた。

    翔が——澄子が——その動きに気づいて、
    自分を頼ってきた腕をそっと引き受けた。

    言葉はなかった。
    「チャッチャッチャ」という声が、二人を包んでいた。

                   ◆  ◆  ◆

    澄子の側でも、同じことが起きていた。
    翔の体でその舞台を見ながら、澄子は「声だけで世界を作る」ということの不思議さに、静かに圧倒されていた。

    楽器がない。
    背景もない。
    ただ、人間の声と燃えさかる炎と、断崖の夜空と——
    それだけで、一つの世界が現れてくる。

    (......声が、体に届く)

    翔の体は、その音に反応していた。
    「チャッチャッチャ」というリズムが、体幹のあたりに静かに共鳴していた。
    鼓動が、その音の拍に近づいていくような感覚があった。

    やがて、物語はクライマックスを迎えた。
    ラーマとシータが——再会する場面だった。

    炎が激しく揺れた。
    「チャッチャッチャ」という声が頂点に達し——
    そして、ふっと静まった。

    百の声が一斉に止んだその瞬間の静寂が、断崖の夜に落ちた。
    その静寂の中で、二人の踊り手が向き合った。

    声も、音楽もなかった。
    ただ、二人が——それぞれの体で、それぞれの目で——相手を見ていた。

    (......会えた)

    澄子の意識が、その場面に重なるように動いた。
    翔の目は、意識しないうちに、美咲の横顔を見ていた。

    隣に、美咲が——義雄が——いる。
    確かに今は美咲の姿だ。
    しかし、その目の奥に、義雄がいることは——澄子にはわかっていた。

    (......体は違う。でも、ちゃんと——ここにいる)

    七十七年間の命を燃やし続けている義雄が、
    バリの炎の光に照らされて、美咲の瞳の中にいた。

    (......あなたは今、何を感じているの?)
    (あの長い年月を一緒にいたあなたは、若い光の中で何を見ているの?)

    言葉は出なかった。

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    ラーマとシータの再会の場面に、静かな喝采が起きた。
    「チャッチャッチャ」が再び始まり、今度はそれが喜びのリズムとして、夜に広がっていった。

                   ◆  ◆  ◆

    二人とも、「チャッチャッチャ」というケチャの響きに包まれ、言葉を失っていた。
    そこにあったのは、ただ二人の心だけだった。
           ・
           ・
           ・
    演目が終わり、炎が消えた。
    夜のウルワツに、潮騒だけが残った。

    二人は、しばらく席を立てなかった。
    立ちたくなかった、というより——この場所に、もう少し身を置いていたかった。

    「......すごかったね」

    ようやく美咲が沈黙を破った。
    いつもは澄んでいる声が、少し掠れていた。

    「ああ」翔が言った。「すごかった」

    「ケチャって......あんなに体に届くものなのね。楽器がないのに」

    「ああ、声だけで、あんな世界が生まれるんだな」

    「......ラーマとシータの話、翔さんは知ってたの?」

    「実はネットを見て少し予習してきた」翔が言った。
    「シータが連れ去られて、取り戻しに行く話だろ」

    「......うん」

    美咲は、少しの間、黙った。断崖の向こうの海が、夜の闇の中で低く鳴っていた。

    「なんか......。連れ去られても、取り戻してもらえるって——いいよね」

    その言葉が、美咲のものなのか、それとも義雄のものなのか——
    澄子には、わからなかった。
    わからなくていいと思った。

    「そうだな」翔の声が言った。
    「取り戻しに行く方も……覚悟がいるけどな」

    翔の声は穏やかだった。
    その言葉は、翔ではない誰かを感じさせるものだった。

    二人は、夜の断崖の縁に並んで立った。

    インド洋の上には月明かりだけがあった。
    その向こうに、海が、遠く、暗く、果てしなく広がっていた。

    その広さの前で——
    若い体の中で、二つの意識は静かに肩を並べていた。

    「田村さ~ぁん、奥さ~ぁん、そろそろ帰りましょ~う」

    ワヤンが叫ぶ声が、遠くから聞こえてきた。

    「......はぁ~い」
    「あ~ぁ」

    二人は、同時に答えた。

    夜のウルワツを後にしながら、義雄は——美咲の中で——思っていた。

    (......たぶん、澄子と俺は、翔と美咲は、ワヤンが言っていた呪術師とやらに会うことになるのだろう。不思議な力があると言っていた。もしかしたらすべてを見透かされて、何か言われるかもしれない)

    (......しかし、今夜、この舞台を見た後では——何を言われても、少しも構えずに受け取れる気がする。ワヤンはそれを分かっていてここに連れてきてくれたのかもしれない)

    ケチャの炎はもう消えていた。
    しかし二人の胸の奥には、「チャッチャッチャ」という声の余韻が——まだ低く、響いていた。

                     二

    六日目の朝、ワヤンがヴィラを訪ねてきた。

    「幸いにも了解がとれました。今日はお二人を、バリ島の人々にとっても特別な方のところにご案内しようと思います」

    ワヤンは、目の前の二人——翔と美咲、澄子と義雄——に、ゆっくりと視線を往復させながら言った。

    「バリアンのところです」

    「バリアン?」
    美咲が聞き返えした。声は小さかったが、どこか胸の奥に引っかかるような響きがあった。

    「昨日お話したバリの呪術師です。シャーマンと言ってもいいかもしれません。バリ語で“霊的な知識を持つ人”という意味があります。病気を癒し、霊的な問題を解決し、瞑想を導く。観光客の間でも有名になりましたが、本物のバリアンは、あまり表に出ません」

    「本物の?」

    ワヤンは、そこで少し声を落とした。

    「私が知るバリアンの中で、最も力のある方です。ウブド近郊の山の麓に住んでいます。彼は普段は観光客には会いません。ですが——実は昨日、電話したんです。事情を話したら、会ってもいい、と」

    言い終えたあと、ワヤンは一瞬だけ、二人の背後にある空気を確かめるように目を細めた。
    まるで、これから向かう場所が、ただの“観光”ではないことを、暗に伝えるかのように。

    「でも、なぜ急に」
    翔が——聞いた。

    ワヤンは、少し間を置いた。

    「昨日から、なんとなく気になっていて。お二人のことが」

    「私たちが?」

    「うまく言えないんですが——」
    ワヤンは、また翔と美咲を交互に見た。

    「目が、少し違う気がして。若いのに、すごく遠くを見ているような目です。悪い意味じゃない。ただ——バリアンに会ったら、面白いかもしれないと思って。私の直感です」

    翔の体の澄子は、内心で小さく笑った。

    (......見えてしまっているのか。ガイドの目にも)

    義雄も、同じことを感じていた。

    (......七十七年分の目は、二十六歳の体には収まりきらないのかもしれない)

    「行きましょう」
    義雄は、高く澄んだ声で言った。
    「ぜひ」

                   ◆  ◆  ◆

    バリアンの住まいは、ウブドから車で四十分ほど入った、小さな村の外れにあった。

    道が次第に細くなり、舗装がなくなり、
    ジャングルの緑が左右から迫ってくる。
    鳥の声が増え、エンジンの音が遠くなるように感じられた。

    車を降りると、石畳の小道が続いていた。
    両側に、熱帯の植物が茂っている。
    ハイビスカスの赤、プルメリアの白、バナナの葉の深い緑。

    歩くたびに、草と土の香りが、足元から立ち上がってきた。

    「神聖な場所ですから」
    ワヤンが言った。
    「中に入ったら、静かにしていてください。バリアンが何か言ったら、私が通訳します」

    小道の突き当たりに、石造りの門があった。
    苔むした門の上に、ヒンドゥーの神像が彫られていた。
    長い年月と雨風で、像の輪郭は柔らかくなっていたが、
    その表情は——遠くを見ていた。

    門をくぐると、中庭があった。

    中庭の中央に、大きなガジュマルの木が立っていた。
    根が地面を這い回り、幹が複数に分岐し、樹冠が空を覆っていた。

    木の下に、石の台が置かれていた。

    その台の前に、
    顔に皺が刻まれた人物が座っていた。

                    三

    マデ・スルタナは、七十を過ぎているように見えた。

    小柄で、痩せていた。
    白い布を腰に巻き、素足で石の台に座っていた。
    目は閉じていたが、二人が近づくと、そのまぶたが静かに開いた。

    深い黒の瞳だった。

    その目が、翔と美咲の姿を見た。
    ゆっくりと、一人ずつ。

    観察するというより——
    確認するような目だった。

    ワヤンがバリ語で何かを言った。
    マデが短く訳した。

    「座ってください、と言っています」

    二人は、石の台の前に置かれた薄い敷物の上に、向かい合って座った。

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    マデが、また何かを言った。
    ワヤンが通訳した。

    「目を閉じてください。息を、ゆっくりと」

    二人は、目を閉じた。

    ガジュマルの木が、風に鳴っていた。
    葉の擦れる音が、波のように来ては引いた。
    遠くで水が流れている音がした。
    川か、水路か。鳥が一羽、低く鳴いた。

    義雄は——美咲の体で——目を閉じながら、自分の呼吸を感じた。
    二十六歳の肺が、空気を吸い込む。深く、十分に。

    老いた肺では、もうできなかった深呼吸が、当たり前のようにできた。
    空気が体の隅々まで届く感覚が、あった。

    (......生きている)

    そういう実感が——じわりと、体の内側から広がってきた。

    澄子も——翔の体で——同じように呼吸していた。
    大きな肺が、空気を受け取った。
    自分の体では感じたことのない、肺の大きさが、息をするたびに伝わってきた。

    (......体が、生きることを喜んでいる)

    マデが、静かに声を出し始めた。
    バリ語の、何かの祈りのような言葉だった。
    低く、リズムがあった。

    意味はわからなかったが——その声の振動が、空気を通して体に届いてきた。

    その振動の中で、義雄の意識は、不思議なことに気づいた。

    (......美咲の体が、静かになっている)

    プールサイドでも、市場でも、夜のヴィラでも——
    美咲の体は、常に何かを感じ、何かに反応し、
    感情を義雄の意識に向けて届け続けていた。

    翔への恋心も、色彩への反応も、食べ物への喜びも、
    そして服へのときめきも——
    それらは絶え間なく、義雄の意識を揺さぶっていた。

    しかし今、マデの祈りの声の中で——
    美咲の体の感情が、静まっていた。

    波が、穏やかになっていた。

    そして、その静けさの中で、義雄は——
    初めて、はっきりと「自分」を感じた。

    (......俺は、ここにいる)

    美咲の感情でも、翔への愛でも、バリの風景への驚きでもない——
    ただの、桐原義雄という七十七年分の意識が、ここにあった。

    (......俺は、間違いなく、確かにここにいる)

                   ◆  ◆  ◆

    澄子も、同じ体験をしていた。

    マデの声が響く中で、翔の体の本能が、静かになっていた。
    美咲への引力が、消えたのではなく——透明になっていた。
    存在はしている。
    しかし、それは澄子の意識を揺さぶらなくなっていた。

    そして——澄子も、「自分」を感じた。

    義雄を想い、子どもたちを育て、
    若い頃に寄り添ってくれたあの頃の歌を支えに、
    足の感覚が薄れていく体と折り合いをつけながら——七十四年を生きてきた。

    そのすべてを抱えたまま、
    桐原澄子という意識が、翔の体の中で静かに輝いていた。

    (......私は、私だ)

    それは当たり前のことだった。
    しかし——数日間、体から押し寄せてくる感情に揺さぶられ続けた後で、「自分が自分であること」を感じるのは、当たり前ではなかった。

    マデの声が、少し変わった。
    低いトーンから、少し高く、澄んだ音になった。

    その変化の瞬間——
    義雄と澄子は、今いるそれぞれの体の中で、同じものを感じた。

    (......澄子)
    (......義雄さん)

    目は閉じていた。
    声は出していない。
    しかし——確かに、届いた。

    ガジュマルの木の下で、
    若い二つの体の中に、年を重ねた二つの意識が並んで座っていた。

    そのことが、この場所では——
    どこか自然なことのように感じられた。

                    四

    瞑想が終わった後、マデはしばらく目を閉じたまま、黙っていた。
    やがて目を開け、翔と美咲を、ゆっくりと見た。

    今度の視線は、最初の「確認」とは違った。
    もっと深く、もっと静かな目だった。
    何かを知っている者が、その知識を前にして、静かにしている——そういう目だった。

    マデが、ワヤンに何かを言った。
    ワヤンの表情が、微かに変わった。
    驚きとも、納得ともつかない表情で、マデとのやりとりを続けた。バリ語の、短い言葉が行き交った。

    (......何を話しているんだろう)

    義雄の意識は、商社マンの習性で、相手の表情から内容を読もうとした。しかし、バリ語の語感と表情の対応が、義雄にはわからなかった。

    ワヤンが、二人に向き直った。

    「マデが——」

    ワヤンは言葉を選ぶように、ゆっくりと話した。

    「お二人について、何かを感じたと言っています」

    「何を感じたんですか」
    美咲が——義雄が——聞いた。

    ワヤンは、また少し間を置いた。

    「どういうことなのか私にはわかりません。直接訳すと——
     “二人の体の中に、四人の魂がいる”と言っています」

    翔が——澄子が——息を呑む気配があった。
    義雄の意識も、美咲の体の中で、言葉を失った。

    「......四人の魂」

    「はい。マデは、霊的な感知に優れています。
     体と魂の不一致を——見ることができると言われています」

    ワヤンは、困ったような、しかしどこか穏やかな表情で続けた。

    「私には、何のことなのかわかりません。
     でも——マデは怒っていない。怖がってもいない。
     ただ、知っている、という顔をしています」

    マデが、また話した。
    そしてワヤンが通訳した。

    「バリでは、魂は一つの体に一つとは限らない、と言っています。
     特別な縁のある魂は、時として——同じ場所に集まることがある、と。
     それは神の意志か、自然の道理か——バリアンには判断できない。
     ただ、ここに来た魂たちは、清らかだ、と言っています」

    「清らか」
    翔が繰り返した。

    「誰かを傷つけようとしていない。
     誰かを奪おうとしていない。
     ただ——春を、感じようとしている。
     そういう魂たちだ、と」

    義雄は、美咲の体の中で、その言葉を受け取った。

    (......春を、感じようとしている)

    それは、本当を言い当てた言葉だった。
    義雄も澄子も——何かを奪おうとはしていなかった。
    ただ、もう一度だけ、若い肉体で世界の鮮やかさを感じたかった。
    それだけだった。

    マデが、また話した。
    今度は、少し長く。
    ワヤンが真剣な顔で聞き、何度か確認するように聞き返した。

    「マデは——」
    ワヤンが言った。

    「こう言っています。
     “若い器を借りた老いた魂よ。その器の主に感謝しなさい。
     その器が、あなたたちのために今日ここまで運ばれてきた。
     その若い心臓の鼓動が、あなたたちに春を届けた。
     器の主は何も知らない。
     しかし知らないことが——その純粋さが——この縁を美しくしている”と」

    義雄と澄子は、黙った。

    「そして」
    ワヤンが続けた。

    「“老いた魂よ。
     あなたたちは今、自分が持てなかったものを持っている。
     それは盗んだのではない。
     与えられたのだ。
     しかし——最後に、必ず返しなさい。
     返す時は、惜しまずに返しなさい。
     その潔さが——あなたたちの愛の証しになるから” と」

    風が、ガジュマルの葉を揺らした。
    木漏れ日が、石畳に落ち、揺れていた。

    義雄は——美咲の体で、その目で——マデを見た。

    老バリアンは、こちらを見ていた。
    まわりに深い皺を刻んだその目は、責めていなかった。
    詰問してもいなかった。

    ただ——知っていた。
    知った上で、なお穏やかだった。

    (......返す時は、惜しまずに)

    その言葉が、義雄の意識の中に、静かに沈んでいった。

                   五

    マデは立ち上がり、ワヤンを通して言った。

    「近くに、古い寺院があります。水の神を祀る場所です。そこで瞑想をしていきなさい。私が案内します」

    ガジュマルの庭を出て、さらに細い道を歩いた。
    マデが先を歩いた。七十を過ぎた体が、ゆっくりと、しかし迷いなく動いた。足元の岩や根を、見なくても避けていた。長年歩き慣れた道を歩く者の動きだった。

    (......あの歩き方は)

    義雄は、美咲の体でその後ろを歩きながら、思った。

    (あの確かさは——老いた体が持つ、土地との繋がりから来ている。俺の足が痛んでよく歩けなくなってから、何年経っただろう。あの確かさを、俺は失った)

    しかし今——
    義雄は、美咲の体で、石畳の道を、かろやかに、しかし静かに歩いていた。
    足が確かな地面を感じていた。
    若い体が、自然とバランスを保っていた。

    (......借りているものだ。いつか、返す)

    マデの言葉が、足元から響くように、思い出された。

                   ◆  ◆  ◆

    寺院は、道を三分ほど歩いた先の、小さな滝の傍らにあった。
    プラ・ティルタ——水の神を祀る寺院は、バリ島のいたるところにある。
    しかしこの寺院は、観光地図にも载っていない、地元の人々だけが知る場所だった。
    苔むした石段が水に濡れて光り、その先に、古い石造りの祠が立っていた。
    背後から、絶え間なく水が落ちていた。
    水量は多くなかったが、音は確かで、深かった。

    マデが、祠の前に二枚の敷物を置いた。
    二人が向かい合って座れるように、少しずらして。

    「ここで、瞑想をしなさい」
    ワヤンが通訳した。

    「目を閉じて、水の音だけを聞いていなさい。私は少し離れています」

    マデは、数歩下がり、石の上に腰を下ろした。

    翔と美咲は——澄子と義雄は——向かい合って座った。
    目を閉じた。

    水の音が、すぐに全てを包んだ。
    滝の音ではなかった。
    水が岩を打ち、岩が水を受け、その繰り返しが重なり合って、独特の響きを作っていた。
    一定ではない。しかし乱れていない。
    自然なリズムが、そこにあった。

    (......水の音)

    義雄は、その音の中に入っていった。

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    呼吸が、自然に深くなった。
    美咲の体が、音に反応して落ち着いていくのが感じられた。
    体の感情の波が——また、静まっていった。

    そして——静けさの中で——

    (......澄子)

    向かいに座っている体の中に、澄子がいることを——今は、わかった。
    澄子を感じた。
    気配として、ではなく——確信として。

    五十年の間、義雄は澄子の気配を感じながら生きてきた。
    同じ家の中のどこにいるか、機嫌がいいか悪いか、何かを考えているのか——
    言葉を使わずとも、義雄にはわかるようになっていた。

    年を重ねた夫婦の時間が育んだ、体に染みついた感知だった。

    その感知が——今、美咲の体と翔の体を隔てていても——届いていた。

    (......ここにいる)
    (......ここにいるよ)

    後ろで水の音が続いていた。

                   ◆  ◆  ◆

    澄子の側でも、同じことが起きていた。

    翔の体の中で、目を閉じて水の音を聞いていると——
    体の感情が鎮まり、澄子自身の意識が、透明になっていった。

    透明になった意識の中で——
    向かいに座る体の中の、義雄を感じた。

    義雄の「気配」を、澄子は五十年間かけて覚えていた。
    考え事をしている時の、呼吸の深さ。
    何かを受け取った時の、微かな静止。
    少し感情が動いた時の、空気の変わり方——
    それらを、澄子は全部、知っていた。

    今、向かいにある姿の中には——
    間違いなくその気配が、あった。

    (......義雄さん)
    (......私はここにいる)

    五十年間、同じ言葉を繰り返してきた。

    喧嘩をして、それでも「ここにいる」。
    病気をして、それでも「ここにいる」。
    足が痺れて、旅行ができなくなって、それでも「ここにいる」。

    今——若い体の中で、遠い島の寺院で——
    また、同じ言葉を。

    (......ここにいる)

    水が落ちていた。
    木漏れ日が、二人の体の上に落ちていた。
    どこかで鳥が鳴いた。澄んだ、高い鳴き声だった。

    バリの鳥だろうか。
    もしかするとガルーダの化身だったのかもしれない。

    どれだけの時間が経ったか——わからなかった。
    時間が、水の音に静かに溶けていた。

                    六

    目を開いた時、マデがこちらを見ていた。
    老バリアンの目に——微かな、しかし確かな笑みがあった。

    義雄は、美咲の体で、その笑みを受け取った。裁かれている笑みではなかった。
    見守っていた者の——「よかった」という笑みだった。

    マデが立ち上がり、二人の前まで歩いてきた。
    そして——通訳のワヤンを介さずに——二人の前に、静かに腰を下ろした。

    翔と美咲を、交互に見た。
    その目が、二人の顔ではなく、二人の目の「奥」を見ていることが、義雄にはわかった。

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    マデが、手を上げた。
    薄く、乾いた老いた手が、美咲の額に——ほんの一瞬、触れた。
    次に、翔の額に——同じように、一瞬触れた。

    それだけだった。

    しかしその一瞬の触れ方に——
    義雄は、言葉にならない何かを受け取った。

    責めていない。
    咎めていない。
    ただ——認めている。

    老いた魂が、若い器の中にいることを。
    そしてその魂が、清らかな目的でここにいることを。

    マデが立ち上がり、ワヤンに何かを言った。
    ワヤンが通訳した。

    「マデは——こう言っています」

    ワヤンの声が、普段より少し低かった。

    「老いた魂と若い器の縁は、バリでは珍しくない。
     先祖の魂が子孫の体を借りて巡礼することがある。
     恋人の魂が時を越えて再会することもある。
     形は違っても、魂が旅をすることは——神が許したことだ」

    「そして——」

    ワヤンが一拍置いた。

    「“この春が終わる前に、互いへの感謝を言葉にしなさい。
     言葉にしなければ、感謝は体の中で眠ったまま、器と一緒に眠ってしまう。
     感謝は——声に出してこそ、魂に届く” と」

    義雄は、美咲の体の中で、その言葉を聞いた。

    (......感謝を言葉に)

    翔と美咲として、この旅で感じてきたことを。
    この若い体に、この島に、この旅に、そして——隣に居てくれている人に。

    (......澄子に)

    澄子の意識も——翔の体の中で、同じ言葉を受け取っていた。

    (......義雄さんに)

    マデが最後に、短く何かを言った。

    ワヤンが訳した。

    「“行きなさい。春は短い。しかし短いから美しい”と」

    老バリアンは、深く頭を下げた。
    二人も、頭を下げた。

    言葉は、なかった。
    しかし——義雄にも澄子にもわかった。

    このひとは知っている、と。
    知っていて、受け入れてくれている、と。

    バリ島の深い場所にある、人間の理解を超えた何かとして
    ——
    この旅を、見守ってくれている、と。

                    七

    石畳の道を戻りながら、二人は黙っていた。

    先を歩くワヤンが、振り返って言った。

    「どうでしたか」

    「......すごかった」
    美咲が——義雄が——答えた。
    「うまく言えないけど、何か——整理された感じがしました」

    「バリアンはそういう方です」
    ワヤンは、静かに言った。

    「見えているものを、言葉にする人。
    言葉にすることで——本人が気づいていなかったことが、現れてくる」

    「ワヤンさん」
    翔が——澄子が——言った。
    「マデは、四人の魂がいると言ったでしょう。
     ワヤンさんには——どう聞こえましたか」

    ワヤンは少し歩を緩め、空を仰いだ。
    初夏の雲が、ゆっくりと流れていた。

    「正直に言うと——理解できない話です。
     魂が体を借りるという考えは、バリの文化にはありますが、
     生きている人間同士でそれが起きるとは——」

    ワヤンは少し笑った。

    「でも、マデが言ったことは——信じます。
     マデが嘘をついたことは、私が知る限り一度もない。
     だから——」

    ワヤンは二人を振り返った。

    「あなたたちが、誰であっても——
     この島に来て、この水の音を聞いて、この土を踏んで、この空を見た。
     それは本当のことです。
     それだけで、十分だと思います」

    (......それだけで、十分だ)

    義雄は、その言葉を聞きながら、美咲の目で、バリ島の緑を見た。
    プルメリアの花が、道の脇に白く咲いていた。
    香りを、鼻の奥で感じた。

    (......この花の香りを、俺は今日、覚えた)

    七十七歳の体では、もう感じ取れなくなっていた微かな香りが——
    この体では、鮮明に届いていた。

    (......帰ったら、澄子に話そう。バリ島のプルメリアは、こんな香りだったと)

    ──そう思ってから、義雄は気づいた。

    (......澄子は、知っている。今日、翔の体で、同じ香りを嗅いでいるから)

    言わなくても、知っている。
    しかし——マデは言っていた。

    感謝は、声に出してこそ届く、と。

    (......わかった。帰ったら、言おう。声に出して言おう)

    義雄は、心の中で決めた。
    この体を返した後、元の七十七歳の体に戻った後——
    澄子に、言おう。ありがとう、と。

    バリ島に連れてきてくれて。
    「面白そう」と言ってくれて。
    この春を、一緒に歩いてくれて。

    隣を歩く翔の体の中で——
    澄子も、同じことを考えていた。

    (......義雄さんに、言おう)

    五十年間、当たり前すぎて言えなかった言葉を。
    この旅の後、体を返した後、また七十四歳の体に戻った後——
    隣にいる人に向かって。

    (......あなたと生きてきてよかった、と)

    駐めてある車が見えてきた。
    ワヤンが先に歩いていった。

    翔と美咲は——澄子と義雄は——少し歩調を緩めた。
    二人だけの、短い時間を作るように。

    「ねえ」
    美咲が言った。

    「うん」

    「......バリアン。すごかったね」

    「すごかった」

    「あなたは何か、感じた?」

    翔は少しの間、黙った。
    それから、静かに言った。

    「......整理された、かな。いろいろと」

    「私も」
    美咲の声が言った。
    「なんか——ここに来てよかった、という気持ちが、さっきよりもっと強くなった。この島に来て、あなたと来れて——よかった、って」

    翔が——澄子が——足を止めた。
    美咲が——義雄が——隣に並んだ。

    「......俺もさ」
    翔の声が言った。
    しかしその言葉は、澄子の七十四年分の重みを持って、出てきた。

    「一緒に来れて、よかった。
     本当に——よかった」

    美咲の耳は、その言葉を受け取った。
    翔の声だった。
    しかし——澄子の言葉だった。

    (......澄子)

    義雄の意識の中で、何かが、静かに形を成した。

    二人は並んで、車まで歩いた。

    空が、広かった。
    バリの空は、日本の空より、少し濃い青をしていた。

                   ◆  ◆  ◆

    その夜、マデ・スルタナは、静かな庭で一人、ガジュマルの木を見ていた。

    「マデ、どうでしたか」

    二人を送ったあと戻ってきたワヤンが尋ねた。
    マデの見立てを聞きたくてたまらなかったらしい。

    マデは、しばらく黙っていた。
    木の葉が、夜風に揺れていた。

    「珍しいものを見た」
    マデは言った。
    「あの二人——いや、四人は。清らかだった」

    「四つの魂が、本当にいたんですか」

    「いた。若い器の中に、年老いた魂が宿っていた。
    おそらくは人の手によるものだ。
    私が今まで見てきた中で、あんなに——静かな重さを持つ魂を、若い体で見たのは、初めてだ」

    「静かな重さ……?」

    「長い年月をかけて磨かれた魂の、重さだ。
     怖いものではない。美しいものだ。
     石が川の流れで丸くなるような——そういう重さ」

    ワヤンは、少し考えた。

    「でも——それは、倫理的には......」

    「倫理」
    マデは、静かに繰り返した。

    「人間の作った考え方、言葉だ。
     魂の動きに、人間の倫理は——当てはまらないことがある」

    「若いカップルは、気づかないうちに、体を使われていた。それは——」

    「傷ついていたか?」

    マデは聞いた。
    ワヤンは、答えられなかった。

    「傷ついていなかった」
    マデは言った。

    「あの若い魂たちは——今夜もどこかで、幸せにいる。
     老いた魂たちは、体を丁寧に扱っていた。大切にしていた。
     傷つけていなかった。
     むしろ——老いた魂たちの深さが、若い体をより豊かにしていた」

    マデは、空を見た。
    星が静かに瞬いている。

    「神はたまに——こんなことをする。
     老いた魂に若さを、若い体に深さを与える。
     誰も気づかぬ場所で、静かに」

    「マデは怒らないんですか。
     人が、人の技で魂を動かすことに、別の器に......」

    マデは、首を横に振った。

    「怒れない。怒るわけがない。
     あの四人は、皆幸せだったから」

    ガジュマルの木が、風に鳴っていた。

    「行きなさい、と言って —— 本当によかったと思っている」
    マデは言った。

    「あの魂たちは、まだ旅の途中だ。もう少し——春の中にいるといい」

    漆黒の空に星が瞬き、月が輝いていた。

                     (「うつし身の春」四章 ここまで)
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    次の章では──

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    若いふたりは、ますます春に寄り添っていく。
    支えてくれた手のぬくもりが、まるで初恋の鼓動のように胸に残った。
    波の上では、笑い声が弾けて広がる。
    その瞬間だけ、世界が少しだけ遅くなる。

    まるで新婚旅行のアルバムの一ページをめくるように、
    幸福は確かにそこにあった。

    頼もしさと甘い想いが、ふたりだけの旅路をやさしく包み込んでいく。
    短い春は、まるで二人だけに訪れている蜜月のように深まっていく。

    しかし──
    それは予想だにしない出来事の前兆だった。
    二人には知るよしもなかった。
                                第五章に続く


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    うつし身の春 第五章 体になじんでいく


                  一

    七日目の朝。

    義雄は、目が覚めると同時に、「今日は何を着ようか」と考えていた。

    (......俺が、服のことを最初に考えた)

    気づいて、少しおかしかった。
    しかし—— もはや不思議ではなかった。

    バリに来て七日。
    美咲の体に宿って七日。

    その七日の間に、何かが変わっていた。
    変わった、というより——馴染んだ、という感覚に近かった。

    最初の日、義雄は、美咲の体を「借り物」として意識していた。
    体からの感情に驚き、戸惑い、
    「これは俺ではない」と自分に言い聞かせていた。

    しかし今——
    「借り物」という感覚が、薄れていた。
    まるで最初からそうだったように。

    桐原義雄の自意識と記憶は、確かにある。
    七十七年の人生が、静かにしかし確実に自身の内側にある。
    商社で駆け抜けた日々も、澄子と過ごした五十年の温度も、
    子どもたちの笑い声で満ちていたあの午後も——
    すべてが今も昨日のことのように全部、覚えている。

    しかしその義雄が、今、美咲の体で目を覚まし、
    「今日は何を着ようか」と考えている。

    (......それが、自然だ)

    自然だと感じることが——自然だった。

    義雄は、鏡台の前に座り、髪を梳いた。
    バリの湿気で、少し癖が出ていた。
    ブラシを通すと、髪はしっとりと落ち着いた。

    (……髪を梳く、ということは、こういう感触なのか)

    義雄は、その感触を、静かに楽しんでいた。
    抵抗なく。
    違和感なく。

    クローゼットを開けた。
    日本から持って来た服だけでなく、
    バリで買ったばかりのインディゴブルーのワンピースと、
    テラコッタのワンピース。
    白いブラウスと薄いストールもあった。

    それらを、義雄は一枚ずつ見た。

    (......今日は、テラコッタにしよう)

    理由は、今日の行き先に合っているから —— ではなかった。
    ただ、今日の気分がテラコッタだった。

    自分が「気分」という基準で服を選んでいることに、義雄は気づいた。しかし、それを分析する前に、体がもうワンピースに袖を通していた。

    浴室から出てきた翔が——澄子が——テーブルにコーヒーを置きながら言った。

    「テラコッタ、また着たんだ」

    「今日は気分がこっち」

    「似合ってる」

    その言葉を受け取った時、美咲——義雄の胸の中に、温かいものが広がった。
    それを「嬉しい」と感じることに、義雄にはもう、違和感がなかった。

    「ありがとう」

    美咲が発したその言葉は、義雄のものだった。
    美咲のものでもあったかもしれない。
    しかし——どちらでもよかった。

                ◆  ◆  ◆

    澄子も、その朝、何かが変わっていることに気づいていた。

    翔の体で目を覚ました時、まず——コーヒーを淹れたいと思った。

    (......これは翔さんの習慣だ)

    翔は毎朝コーヒーを飲む。
    このことを、澄子はこの七日間で知っていた。
    翔の体が、目覚めとともにカフェインを求めていた。

    澄子の意識は、その習慣を、自分のものとして受け取っていた。

    ヴィラの部屋にあるコーヒーメーカーを使いながら——
    澄子は、この体がする仕草に、もう戸惑いがないことに気づいた。

    翔の体で動くことが、七日間で「普通」になっていた。

    大きな手が、カップを掴む。
    がっしりとした骨格と筋肉、肩幅のある体がもはや邪魔にならない。
    高い視線から、遠くまで見える——
    それらが全て、「翔の普通」として、澄子の意識に染み込んでいた。

    (......私は今、この体、男性の体に、慣れている)

    七十四年間、ずっと女性として生きてきた澄子が——
    翔の体に、慣れていた。

    不思議なことだった。
    しかし——不思議だと感じること自体が、最初の日ほど強くなかった。

    (......体というものは、そういうものなのかもしれない)

    長年連れ添った夫婦が、いつの間にか相手の口癖を使うようになる。
    相手の好みの味が、やがて自分の好みになっていく。

    そういうたぐいの変化と、同じ種類のことが——
    ただし、ずっと速く——起きているのかもしれない。

                   二

    七日目は、テガラランの棚田に行った。

    ウブドから車で北へ二十分。
    道が急に開けると、眼下に——
    巨大な緑の段々が、谷底まで続いていた。

    「......!」

    美咲から、声がこぼれた。
    言葉にはならず、ただ温度だけを帯びた息だった。
    胸の奥でほどけた何かが、そのまま空気へと流れ出ていくように。

    それはただ、美咲という存在がそこに確かにいることを知らせる、かすかな息づかいだった。

    義雄は、美咲の目でその景色を見た。

    二十六歳の視力で見る棚田は——
    七十七歳の義雄が知っている「自然の美しさ」とは、次元が違った。
    緑の深さ、光の角度、水田に映り込む空——
    それらが全部、鮮明に届いてきた。

    (......こんなに、きれいな風景が、世界にあったのか)

    七十七年間、義雄は仕事で世界中のいたるところを訪れていた。
    しかし、そこで見る景色は、年を重ねるにつれて、輪郭が少しずつ柔らかくなってきていた。

    それでも「きれいだ」とは思っていた。
    しかし今感じているこの「きれい」は——
    以前に感じてきたどんな「きれい」とも、違う種類のものだった。

    「すごい」

    美咲の声が響いた。
    「こんな景色、見たことない」

    翔の姿が隣に来た。

    「本当だ」

    その声は、低く、穏やかだった。
    翔の声だった。
    澄子ではない。
    しかしその声の色に——澄子の深さが混じっていた。

    (......澄子も、見ている)

    義雄には、それがわかった。
    同じ景色を、同じ瞬間に、隣で見ている。

                ◆  ◆  ◆

    棚田の中を歩く遊歩道を、二人は並んで降りていった。

    道は細く、滑りやすかった。
    木の桟橋が田んぼの上に渡されていて、踏み板が軋んだ。

    下を見ると、青緑色の水が張られた田んぼが段々に並んでいた。
    農夫が膝まで水に浸かって、作業をしていた。

    「ちょっと! そこ危ない!」

    低い声が急に響いた。

    その声の主は、そっと、しかししっかりと美咲の腕を取ってくれていた。

    「そこ、滑るから」

    短い言葉だった。
    しかし、その腕の支え方は——驚くほど丁寧だった。

    強く掴むのではなく、転びそうなものをそっと受け止めるように、ごく自然に、ただ支えるという行為だけがそこにあった。

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    澄子の七十四年分の、誰かを気遣うという感覚が、
    翔のがっしりとした腕を通してこちらへ伝わってきた。

    まるで、二人の時間が一瞬だけ重なり合ったかのように。

    義雄は、その手の感触を感じながら思った。

    (......澄子は、いつもこうやって俺を支えてくれていた。俺が気づかないところで)

    商社での長い出張中、澄子は一人で子どもたちを守ってくれていた。
    義雄が無神経なことを言っても、澄子はそれを「仕方ない」と笑い飛ばしていた。
    旅行に行けなくなっても、澄子は泣かなかった。

    いつも、誰かを支える側にいた。

    (......お前は、ずっとそうしてくれていたんだな)

    翔の腕が、澄子の意思が、今、美咲の姿を、
    そしていつものように義雄の心を支えてくれていた。

    その感触を——義雄は、美咲の体で感じながら、
    その腕に、そしてその心に違和感なく身をゆだねていた。

    「ありがと」
    美咲の声が言った。

    「気をつけなよ」
    翔の声が答えた。

    それだけの、短い言葉の交換だった。

    しかしその短さの中に——
    五十年分の何かが、静かに流れていた。

                ◆  ◆  ◆

    棚田の底まで降りると、ワルンがあった。
    竹と藁で作られた、簡素な休憩所だった。
    テーブルと椅子が置かれ、ヤシの実のジュースが売られていた。

    二人は、それを飲みながら、棚田を見上げた。
    さっきまで自分たちがいた高みが、遠く見えた。
    段々が空まで続いているように見えた。

    「翔さん」
    美咲が——義雄が——言った。

    「うん」

    「最近ね、うぅん違う、バリに来てから、翔さんが頼もしい」

    翔は、少し驚いたように美咲を見た。

    「さっき腕を取って支えてくれた時も。市場の時も、道に迷いそうになったら先に考えてくれてたし。
    なんか——やっぱバリに来てから、頼りになる感じがすごく増した気がする」

    澄子の意識が、翔の体の中で、少しだけ温かくなった。

    (......気づいてくれた)

    義雄に気づいてもらえたことが——嬉しかった。
    翔の体で感じる「嬉しい」は、最初の日より、もっと自然になっていた。

    「美咲も」
    翔の声が静かに続いた。
    「変わった気がする」

    断定ではなく、確かめるような響きで。

    「えっ、私が?」

    「なんか——より、美咲らしい、というか。
    バリに来てから、ずっと美咲が輝いてる感じがして。
    俺、少し嬉しくて、俺の嫁さんだぞって周りにエヘンと自慢したいような気もして......」

    (......輝いている)

    義雄の意識は、その言葉を受け取った。
    美咲の体からの感情が、温かく反応した。

    しかし今——
    義雄の意識も、その言葉を「自分への言葉」として、違和感なく受け取っていた。

    (......そうか。俺は今、輝いているのか)

    七十七歳の、もはや老いたと言われたとしても不思議ではない男が、「輝いている」と言われてときめいていた。
    二十六歳の女性の体で。

    おかしな話だった。
    しかし—— 嬉しかった。

    (......これが、美咲が翔に愛されている感覚か)

    義雄の意識の中で、美咲の感情と、義雄自身の感情が、
    もう一度、そっと重なりあっていた。

    その重なりに、不自然さは感じられなかった。

                   三

    八日目は、クタのビーチに行った。
    ハネムーンのプランに、サーフィン体験が組み込まれていた。

    翔の体の澄子は、その説明を聞いた時 ——
    内心で、驚くほど「やってみたい」と思った。

    (......サーフィン? 私が?)

    七十四年間の澄子には、サーフィンは縁のない世界だった。
    海は好きだったが、泳ぐのは得意ではなかった。
    波に飛び込むような積極性もなかった。

    しかし——翔の体の本能は、そのプランを聞いた瞬間から、
    いてもたってもいられなくなった。

    体の奥で、何かが動き始めた。
    海の匂いも、波の音も、まだ何ひとつ実感としてないのに、
    感情の奥深いところで、長く眠っていた衝動のようなものがそっと目を覚ました。

    (......これは翔さんが、やりたがっているんだ)

    翔はアウトドアスポーツが好きだ、ということを、
    澄子はこの八日間で知っていた。

    体を動かすことへの、積極的な欲求が、翔の体の奥にあった。
    それが今、「サーフィン」という言葉に反応していた。

    (......やってみよう)

    澄子は、その衝動を受け入れた。
    ためらわなかった。

    七十四年間持てなかった衝動を、翔の体が持っていた。
    それを、澄子の意識が、自分のものとして引き受けた。

                ◆  ◆  ◆

    クタのビーチは、サーファーと観光客で賑わっていた。

    インストラクターの若いバリ人が、二人に簡単な説明をしてくれた。
    ボードの上に立つタイミング、腕の動かし方、バランスの取り方——
    澄子の意識は、その説明を、翔の体のどこかが既に「知っている」感覚で受け取った。

    (......なんか体が、わかっている)

    説明の通りに体を動かすと——翔の筋肉が、正確に反応した。
    バランス感覚、体幹の強さ、波を読む直感——
    それらは既に翔の体の中にあった。

    澄子の意識は、ただそれに乗っていればよかった。

    最初の波。そして次。
    ボードに伏せて、波が来る感触を待った。

    また、波が来た。

    (......立て、立つぞ、よしっ!)

    体が動いた。
    両腕で押して、膝を立て——立った。

    一秒。

    波に乗った、その一秒の感覚が——
    澄子の意識を、全部、揺さぶった。

    (......!)

    前に進んでいた。
    波の上を、前に。

    体が傾き、バランスを取った。
    足の裏にボードの感触が、波の動きが、海の力が——全部伝わってきた。

    そこで倒れた。
    海の中に落ちた。

    冷たい海水が全身を包んだ瞬間——
    澄子は、笑っていた。
    翔の笑い声で、笑っていた。

    (......笑ってる。俺が、笑ってる。楽しいと......これが)

    澄子の意識がふいに使った「俺」という一人称が、
    もう、どちらの自分かわからなくなっていた。

    七十四年間の澄子の「私」と、翔の体の「俺」が——
    スリルと興奮の中で、一つになっていた。

    「すごい!すごい!翔さん! 立てた!」

    岸から、美咲の声が聞こえた。

    義雄は、その光景に心底感心していた。

    翔は——振り返って、手を振った。
    美咲の姿が、砂浜に立って笑っていた。

    (......義雄さん)

    その女性の微笑みは、かつての義雄の笑顔に似ていた。
    商社マン時代に、自分が関わってどんどん進む巨大プロジェクトを、側で見ていたときのあの笑顔に。

    澄子には、それがわかった。

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                ◆  ◆  ◆

    水着を着替えて、二人は砂浜の木陰にあるビーチベッドで寝転んでいた。

    海は、途切れることなく波を寄せていた。
    インド洋の波は、太平洋のそれよりも大きく、どこか鈍い重さを抱えていた。

    ひとつひとつが、遠い沖から長い距離を運ばれてきた重さそのままに、ぶつかっては砕け、また押し返し。

    その音が、腹の底にまで響き、翔の本能をゆっくり揺らした。

    「翔さん、すごかった」
    美咲が、まだ興奮冷めやらぬ声で言った。

    「美咲も、二回目から立ててたじゃないか」

    「私も立てたけどね、力がなくてすぐ転んじゃったよ」

    「それでもちゃんと立てた」

    翔の声は、波の余韻みたいに柔らかだった。

    翔は、少し前傾みに座って、両膝に肘をついた。
    砂浜に座る男の姿勢が、自然に出ていた。

    澄子は、七十四年間こういう座り方をしたことがなかった。
    しかし今——この姿勢が、この体には自然だった。

    (......私は今、こういう体をしている)

    澄子は、翔の体の輪郭を、内側から感じた。
    がっしりとした骨格と筋肉、広い背中、長くたくましい足。
    波を受けた肌の引き締まった感触。

    これが翔の体だった。
    そしてこの八日間で——これが、澄子にとっても「自分の体」になりつつあった。

    隣に、美咲が寄り添ってすわっていた。
    しなやかな肢体に光がさし、波風に揺れる黒髪が陽をうけて細い糸のようにきらめいていた。

    テラコッタ色のワンピースが、風に誘われて砂浜への広がり、まるで海辺の景色の一部になったかのようだった。

    (......きれいだ)

    体から湧いてくるその感情を、澄子はもう、慌てて否定しなかった。

    翔が美咲を「きれい」と思う感情と、
    澄子が義雄を愛する感情と——
    その両方が、今は一つの感情として、澄子の中にあった。

    (......この人が、隣にいる)

    それが、全てだった。

    「美咲」

    澄子は、翔の声で美咲を——
    いや、義雄の名残を抱えたその姿を呼んだ。

    「な~に?」

    「......今、楽しいか?」

    美咲は、少し驚いたように一瞬だけ目を丸くして翔を見た。そして、その驚きがすぐにほどけて、柔らかい笑みへと変わった。

    「楽しいよ。すごく楽しい。
     こんな楽しいハネムーンになるなんて、思ってなかった」

    「そうか」

    「翔さんは?」

    翔の目は、波を見た。
    長い波が岸に向かってゆっくりと崩れていった。

    「楽しい」

    翔の声がそう言うと同時に、
    澄子の意識もまた、その言葉をなぞるように呟いた。

    「今まで、こんなに楽しいと思ったことは——しばらくなかった気がする」

    その声は、誰に向けたものでもなく、
    ただ胸の奥に溜まっていた思いが、ようやく形になってこぼれ落ちたようだった。

    「バリが、特別なのかな」

    「バリ島が、かもしれない。
     あるいは——もしかすると」

    翔の声が続けようとして、止まった。

    (......あるいは、若い体が、かもしれない)

    その先は、言えなかった。
    しかし——
    言えないことが、今の澄子には、もう苦しくなかった。

    言えないことも含めて、この旅だと——
    思えるようになっていた。

    若い二人の蜜月のような楽しい日々は、
    春の夜の夢のごとくあっという間に過ぎ去っていった。

    その夢のような時間の影で、
    ふたりの意識は、まだ誰にも気づかれぬ変化をその奥底で静かに育てていた。

    そのことを、ふたりはまだ知らなかった。

                     (「うつし身の春」第五章 ここまで)
    五章冒頭へ
                    
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    次の章では──

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    体が自分になり、自分が体になる。
    やがて——どちらがどちらか、わからなくなる。

    美咲が笑うとき、義雄の記憶は一瞬だけ遠のく。
    翔が手を伸ばすとき、澄子の長い人生が、ふっと影を薄める。

    なじむことは、帰ることよりも甘く、静かで、抗いがたい。

    自分はいったい誰なのか。
    自分は、本当に自分なのか。

    その先で——
    意識は、引力に逆らう選択すらも奪われていく。
    ただならぬ気配が、あたり一面に漂っていた。

    俺はいったい誰だ。

    なじむことと、帰ること。

    そのあいだに——
    この物語で最も静かで、そして最も深い緊張が立ち現れる。

    春は、美しかった。
    だからこそ——手放せない。

    春の光がつくる影。
    それがいま、始まろうとしている。
                               第六章に続く


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    うつし身の春 第六章 帰る場所


                  一

    九日目の夕方、二人はジャティルウィの棚田に行った。

    テガラランより広く、UNESCO世界遺産に登録された大棚田だった。
    夕暮れ時、西に傾いた太陽が、水田の水面を金色に染めていた。
    その金色が、段々と反射して、谷全体が光っているように見えた。

    義雄は——美咲の目で——その景色を見ながら、思っていた。

    (......俺は今、誰だろう)

    問いは、最初の日に感じた戸惑いとは、質が違っていた。
    あの日の問いは「俺はここに何をしているんだ」という困惑だった。
    しかし今——この問いは、もっと静かで、もっと柔らかかった。

    (......俺は、間違いなく桐原義雄だ。それは変わらない)

    七十七年分の記憶がある。
    澄子との五十年がある。
    商社で過ごした四十年がある。

    それは、美咲の体に閉じ込められていても、ひとつとして失われていなかった。

    (......それでも同時に、俺は今、私、——美咲、田村美咲でもある)

    「美咲でもある」、その感覚は、今や義雄の意識の一部だった。

    この姿で九日間を過ごし、この体が抱く感情に触れ、
    この足でバリの道を歩いてきた。

    その積み重ねが——義雄の意識の奥に、
    「美咲としての経験」を静かに、しかし確実に形づくっていた。

    二つが、矛盾なく、並んでいた。

    桐原義雄であることと、
    今この田村美咲の体で生きていることが——
    どちらかを否定することもなく、静かに、そして同時にあった。

    二つの軸が、争うことも混ざり合うこともなく、
    ただひとつの意識の中で寄り添うように並んでいた。

    (......これが、マデが言った「体になじむ」ということか)

    バリアンの言葉は、そういうことではなかったかもしれない。
    しかし——義雄には、そう聞こえていた。

                  ◆  ◆  ◆

    澄子も、同じことを考えていた。
    翔の体で、棚田の縁に立ちながら。

    (......私は今、何ものなんだろう)

    まぎれもなく桐原澄子だ。
    七十四年分の澄子が、ここにいる
    。
    しかし同時に —— 翔、田村翔としてここにいる。

    「翔でもある」というのは、翔の人生を生きてきた、という意味ではない。

    翔の体の感じ方、翔の体の自然な動き方、
    翔の体が世界に反応する仕方——

    それらを、九日間で、澄子は「自分のもの」として経験してきた。
    その経験が——澄子の意識に、積み重なっていた。

    (......男の体で、九日間生きた)

    その事実が、澄子には、もう奇妙ではなかった。
    奇妙でないことが、奇妙だった。

    「澄子—-翔さん」

    不意に隣に、義雄が —— 美咲の姿が ——来た。
    その呼び方のよどみに、義雄の意識が今何を考えているかが、澄子には伝わった。

    「翔でいい」
    澄子は、翔の声で言った。
    「今は、翔だから」

    「......そうだよな、そうね」
    義雄は言った。
    「俺 ...—- 私は、今は、美咲だしね」

    二人は、少しの間、黙った。

    なぜか口調が少しおかしい。
    美咲と翔の口ぶりが、意識せずに自然と出ていたはずだった。
    しかし、いつの間にか義雄と澄子が混じるようになっていた。

    棚田の金色が、少しずつ、橙に変わっていった。
    日が山の稜線に近づいていた。

    「ねえ」
    義雄が ——美咲の声で—— 言った。
    「俺、この旅で、変わったと思う?」

    澄子は、翔の目で義雄を見た。
    美咲のしなやかな姿が、夕暮れの光の中にいた。

    テラコッタ色のワンピースが、橙の光を放って輝いていた。
    その光の中で美咲の輪郭だけがそっと浮かび上がっていた。
    髪が、風に揺れていた。

    (......変わった、というより——なじんだ、というのが正しい気がする)

    「変わった、というよりは」
    澄子は言った。
    「今いる場所に、なじんだ、という感じかな」

    「なじんだ」

    「うん。最初は、全部が借り物みたいな感じがした。でも今は——ここが、自分の場所みたいな気がしてる」

    義雄は、美咲の姿で、その言葉を聞いた。

    (......俺も、そうだ)

    「俺、——私も」
    美咲の口が言った。

    「うまく言えないけれど、そんな気がする。
     本当の美咲として、バリにいる......そんな感じ。.
     .....もう少しだけ、このままいたい......ような気も」

    澄子は、ふっと笑った。
    翔の顔にも同じ笑みが灯った。

    美咲の言葉に、澄子も翔の体で生きる未来を想像してしまっていた。

    「俺もさ、俺も翔自身として、バリにいる感じ」

    「同じね」

    「同じだ」

    どっちがどっちの言葉なのか分からなくなっていた。

    棚田の向こうに、太陽が落ちていった。
    最後の一瞬、光が強くなり——
    それから、静かに消えた。

    夕暮れのバリ島が、藍色に変わり始めていた。

                    二

    九日目の夜。
    ヴィラのプライベートプールに、二人でそっと入った。
    二人だけが知っている時間だった。

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    夜のプールは、照明に照らされて青く光り、
    その光が水に揺れて、周囲の緑に映り込んでいた。

    頭上には星が散らばり、バリ島の夜空で輝く南十字星が、プールの水面にも映って小さく揺れていた。

    翔の姿はプールの縁に背を預け、夜空を仰いでいた。
    青い光に縁どられたその横顔は、どこか遠くを見ているようだった。

    美咲の姿は水の中にあって、そこから、その背中を静かに見つめていた。
    水の揺らぎが、翔のシルエットを細かく崩しては、また形に戻していく。

    その変わらない背中が、なぜか少しだけ近く感じられた。

    (......背中が、大きい)

    美咲の姿は、翔の体を見ていた。
    翔のがっしりして広い肩が、プールの水面にあった。
    その輪郭が、夜の青い光の中で、くっきりと見えていた。

    (......澄子が、あの姿の中にいる)

    その事実が、今の義雄には温かかった。

    澄子が、あの澄子が、若い姿で、今、星を見ている。
    バリ島の空に瞬く星々を、老いた体では決して味わえない感覚で見あげている。

    その光景を見るだけで、義雄の心の奥底は満たされていた。

    (......よかった)

    ヨーロッパ旅行をキャンセルした夜、澄子は泣かなかった。
    泣かないことが、義雄には辛かった。

    あの夜の澄子に——
    夜のバリ島の星空を、見せてあげたかった。

    しかし、見せられた。
    形は、想像していたものとはまるで違っていた。

    それでも——見せられた。

                 ◆  ◆  ◆

    「翔さん」 

    美咲の声が、水面に揺れるように呼んだ。

    「うん」

    「明日、帰るのね」

    (......もし、帰らなかったらどうなるんだろう。どんな未来が......)

    美咲の姿の中の意識は、一瞬、自分が生まれたときから美咲自身だったように感じていた。

    (......一生、彼と......ここで......)

    声に出したつもりはなかった。
    思わず目をつぶった。

    一瞬だけ、ほんの一瞬だけ、まぶたの裏に、
    バリの景色の中で幸せに暮らしている若いふたりの姿が見えた気がした。

    水面がわずかに揺れ、翔がこちらを見た。

    「美咲......?」

    「ううん、なんでもない。ただ......」

    その先は、言葉にならなかった。

    (......このまま、ここにいたい......でも)

    翔の姿は空を見たまま、ほんの一瞬だけ息を止めた。

    (......帰る、か)

    その言葉が胸の奥に沈んでいく。
    いや、沈んでいくはずなのに、どこかで引っかかった。

    翔も——翔に宿っている意識も——
    今の自分の体にすっかりなじんでしまっているように感じていた。

    「翔さん」と呼びかける美咲の声が、
    まるで本当に自分自身を呼んでいるように思えるようにもなっていた。

    (......もし、帰らなかったら......この体のまま、一生......美咲と一緒に......)

    思いはそこで途切れた。
    波の音だけが、その続きを知っているように寄せては返していた。

    夜は、あまりにも静かだった。
    波の音が、遠くから聞こえてくる。

    水面の光が、ゆっくりと、規則もなく揺れていた。
    その揺れが、どこか内側と同じ速度で呼吸しているように感じられた。

    触れているのは、肌ではない。
    もっと奥——境目のない場所で、何かがつながっている。

    自分の思考なのか、体が思い出している記憶なのか、
    その境目がゆっくりと溶けていく。

    「......ねえ」

    声にしたはずだった。
    しかしそれが、誰の声なのか、わからなかった。

    本当にその声を発したのか、受け取ったのかも、曖昧だった。

    誰の体で、誰の意識で、誰を求めているのか——
    もう判別できなかった。

    すぐそばで、応えが返る。
    その響きは、懐かしい。
    それなのに、初めて触れるもののようでもあった。

    指先が、水の中で絡む。
    その動きに、ためらいはなかった。
    最初から、そうすることが決まっていたかのように。
    ——こんなふうに、触れていただろうか。
    考えかけて、やめる。
    思い出す必要がない、とどこかが先に知っていた。

    触れたところから、何かが流れ込んでくる。
    体温ではない。

    それは、記憶のようで、感情のようで、どちらでもない何かだった。
    もっと深いところに届く、輪郭を持たない感覚。

    それは、安らぎに似ていた。
    けれど同時に、何かが静かにほどけていく感覚にも、よく似ていた。

    「このままでいい」

    今度は、はっきりとそう思った。
    誰が、ではない。
    ただ、その思いだけが、そこにあった。

    (......このまま、この体のままでいたい)

    そう思った瞬間、胸の奥で何かがわずかに軋んだ。
    それが警告なのか、願望なのか、自分でも判別できなかった。

    ここにある時間は、穏やかで、正しい。
    何も壊れていない。
    何も間違っていない。

    ——だからこそ。

    戻る理由が、どこにも見つからなかった。

    (このままでも、いい)
    (......戻りたくない。この体を手放したくない。返したくない——)

    その考えは、自分で選んだものではなかった。
    気づいたときには、すでにそこにあった。

    水の中で、ふたりの体が近づく。
    翔の、美咲の、息づかいを感じる。

    その距離に、意味はなかった。
    意味がないことが、いちばん自然だった。

    遠くで、何かが立ち止まっている気がした。
    呼び止めるでもなく、拒むでもなく、ただ、そこにある。

    けれど——
    それが何なのか、思い出す前に、ゆっくりと、沈んでいった。

    指先が、少しだけ強く絡む。
    離さなければ、すべてはこのまま続く気がした。

    このまま指を離さなければ、元の世界が消えてしまっても構わない——
    そんな危うい甘さが、水の底からゆっくりと満ちてきた。

    まるで体のほうが、心を引き留めようとしているようだった。

    そういえば、今日は、夕方から何かが少しずれているような気がしていた。

    自分が自分でないような、
    それでいて今の自分がずっとまえからの自分だったような、そんな感じだった。

    それは......
    心が、体を、今の体を、完全に自分のものにしたいと欲していたのではないのかもしれなかった。

    反対に、体のほうが、自分の中にいる心に、
    今の自分にふさわしい心になれと命じていたのかもしれなかった。

    もしかすると、体が心を飲み込もうとしていたのかもしれない。

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    ふと、子どもたちの顔を思い出そうとした。
    しかし、輪郭が少しだけぼやけていた。
    まるで遠い昔の記憶のように。

    水面の揺れまでが、自分たちと一つになっている気がした。

         ・
         ・
         ・

    そのときだった。

    バリアンの——マデの声が、
    声にこもった真心が、心の奥底でふいに蘇った。

    —— 老いた魂よ。
    あなたたちは今、自分が持てなかったものを持っている。
    それは盗んだのではない。与えられたのだ。
    しかし——最後に、必ず返しなさい。
    返す時は、惜しまずに返しなさい。
    その潔さが——あなたたちの愛の証しになるから —— と。

    マデの声が蘇った瞬間、
    胸の奥で、何かがきしむように痛んだ。

    その痛みは、失う痛みではなく、
    思い出す痛みだった。

    返さなければならない。
    借りたものを返す。

    その当たり前の言葉が、なぜか無情に思えた。

    しかし、その声で、ふっとわれに返った。

    「......そうだ......な」

    惜しい気持ちがまったくないというと嘘になる。

    翔の姿は、空を見たまま答えた。
    彼の瞳の奥で、南十字星の光が小さく揺れていた。

    「あっという間だった」

    「あっという間だったね」

    美咲も同じ言葉を返した。

    「もっといたかったな。もっとこのままで」

    「そうね、いたかったね。もっと......でも......帰らなきゃいけないのよね。子どもたちも待っているし」

    美咲のその声に、翔はゆっくりと夜空から視線を下ろした。

    青い光が水面で揺れ、
    そこからの淡い光が、二人の頬にやわらかく触れていた。

    穏やかな水の光が、二人のあいだで静かに息をするように揺れていた。

    「帰る」

    その言葉の意味は、光の中にいる澄子にはひとつではなかった。

    翔と美咲として、日本に帰る。
    そして——桐原澄子として、桐原義雄として、自分の体に帰る。

    (......自分の体に、帰る)

    足の感覚が薄い体に。
    ゆっくりとしか歩けない体に。
    飛行機に乗れない体に。

    (......それでいい)

    そう思った。

    九日間、若い体で生きてきた。
    それはまちがいなく本物の体験だった。

    しかしそれは——自分の体が体験したことではなかった。

    自分の本当の姿は、N空港のそばにあるビルの一室で眠っている。
    子どものころから、そして二人が出会ったあの日から、
    長い人生を共に歩んできたその体が、今も主の帰りを静かに待っている。

    (......帰ったら、その体を大切にしよう)

    足の感覚が薄くても。
    遠くに旅することができなくても。

    義雄と並んで、家の縁側に座って日本の空を見あげよう。
    今夜見たバリの夜空で輝く星のことを、義雄と話しながら。

    「美咲~っ」

    翔の声が、ふいに夜の水面にやわらかく響き、
    やさしく美咲の名を呼んだ。

    「...... 翔さん......どうしたの?」

    「こっちにおいで」

    その声は、水の揺れと同じ波長で届き、
    美咲の心の奥にそっと触れているようだった。

    青い光の中にいる美咲の姿が——
    その奥にいるだれかの心が——
    ゆっくりと水をかき分け、プールの縁へと泳ぎ着いた。

    そして......その姿は翔の隣に静かに肩を並べた。

    二人は並んで、プールの縁に背を預け、空を見上げた。
    南十字星が、南国の深く青い夜空に静かに瞬いていた。

    「星がきれい」

    美咲の高く澄んだ独り言が、夜気に溶けるように空に消えていった。

    「きれいだ」

    低く柔らかい声。
    同じ空を見ていた翔がやはり独り言のように応えた。

    どちらが言った言葉も——
    義雄の心と澄子の心、二人の声だった。

    二人とも、若さそのものにはもはや未練がなかった。
    プールの水は、二人の体温で既に温かかった。
    水の中で触れ合う二人の肩が、静かに揺れていた。

    ただ、それだけだった。
    しかし、それだけで......十分だった。

                  ◆  ◆  ◆

    夜は深まり、二人はヴィラに戻った。

    シャワーを浴び、ベッドに身を沈める前に、
    義雄は—— 美咲のしなやかさで——鏡の前にそっと座った。

    鏡の中には、美咲の姿がいた。

    濡れた髪が肩に貼りつき、
    首筋をつたう一筋の滴がゆっくりと落ちていく。

    頬にはまだ、プールの青い光の名残が見えた。
    その残り香のような輝きがかすかに揺れ、
    彼女の表情にほのかな艶を添えていた。

    義雄は、そのだれかの顔をじっと見つめた。
    自分ではない顔。
    けれど、九日間ともに過ごした、もう一人の「自分」でもあった。

    最初の日、この鏡の前に立った時の戸惑いは、もうどこにもなかった。
    鏡の中の顔が、いつのまにか「自分の顔」になっていた。

    自分ではない女性の、整った顔立ちが、
    九日間の記憶とともに、静かに自分の意識に馴染んでいた。

    (......九日間、この顔で生きてきた)

    その九日間が——義雄の記憶の中に、確かにあった。

    バリの朝の光、棚田の緑、プールの冷たさ、マデの静かな目、
    ワンピースの布地のやわらかさ、サーフィンで転んだときに口に入った海の味——

    それらすべてを、義雄は今も鮮やかに思い起こすことができた。

    しかしこれらは、同時に —— 美咲の記憶でもあった。

    (......明日、帰ったら)

    義雄は、鏡の中の美咲の姿に静かに語りかけた。
    声には出さず、ただ心の中で。

    (......この体を、ありがとう)
    (......あなたの体を借りられたから、俺はバリに来ることができた)
    (......あなたが愛している人の隣で、俺が愛する人のその心の隣で、九日間、あなたと一緒に俺は生きることができた)
    (......あなたの体が感じる喜びを、その幸せを、俺も確かに感じることができた)
    (......でも返す時は、惜しまずに返す。マデが言った通りに)
    (......帰るまでもう少し。最後の夜を、あとほんの少しだけ。あなたをあなたに返すまでのこの最後の時を——どうか俺に貸しておいてください。本当にありがとう)

    鏡の中の顔は、やさしく微笑んでいた。

    その微笑みが、美咲のものなのか、義雄のものなのか—— 
    もう、はっきりとは分からなかった。

                     三

    帰国の朝。
    南国の、最後の朝の光が、窓から差し込んでいた。

    美咲は——義雄の意識は—— 早く目が覚めた。
    濡れたようなまつげに光が触れ、そっと揺らいだ。

    翔も——澄子の意識も—— 隣でもう目を開けていた。

    二人は黙ったまま、しばらく天井を見ていた。

    「起きてたんだ」
    美咲が言った。
    その声は、寝起きの柔らかさをまだ少し含んでいた。

    「起きてた。最後の日の朝だから」
    翔が言った。
    低く穏やかな声が、美咲の心の奥にやわらかに落ちてくる。

    「バリの朝を、最後にもう一度だけ......肌でちゃんと感じていたくて」 

    美咲は、ゆっくりと息を吸い込んでから、
    ほんの少し照れたように、けれど素直に言った。

    「俺もそう」

    翔が、同じ光を見つめながら静かに応えた。

    二人は、窓を開けた。

    南国の朝の熱気がゆっくり流れ込み、フランジパニの甘い香りが、美咲の髪にそっと触れた。

    ガムランの音が、遠くから届いた。
    鳥の声。
    椰子の葉がふれ合う音。
    フランジパニの甘い香り。

    美咲はその香りを、そのすべてを胸いっぱいに吸い込み、
    名残惜しそうに目を細めた。

    (......覚えておく)

    この香りを。
    この音を。
    この温度を。

    日本に帰って、自分の体に戻った後も、
    この体で感じたことを、全部覚えておく。

    隣で、翔が、同じように窓の外を見ていた。

    大きな背中が、窓枠に肘をついて、外を見ていた。

    その後ろ姿が——義雄には、澄子の後ろ姿に見えた。

    その「静かに何かを見る」姿は——
    澄子に間違いなかった。

    そのときだった。

    突然、朝の光にあふれる風景が映る美咲の視野を、何かが横切った!

    バリの空を護る神鳥──ガルーダだった。

    ガルーダのくちばしが、朝の青い空を切り取って行く。
    まるでページがめくれるように、美咲の目の前で、朝の光にあふれる空がめくれていった。

    ページの向こうに見えるのは、満天の星空。
    その下では、炎を中心にして男たちが円陣を組むケチャの風景。

    満天に輝く星々。
    ケチャの音。
    真ん中で燃さかる炎。

    それらだけが、美咲と翔の周りを支配していた。

    「チャッチャッチャ、チャッチャッチャ——」

    男たちの口から響く不思議な音がどんどん大きくなっていく。
    星々が、その音に揺らめき、それに合わせるように、遠くから、バロンとランダが舞っているイメージが二人の視野に現れた。

    そのイメージはどんどん大きくなり、星空から、ふたりのところに近づいてくる。

    気がつくと二人はそのイメージの中に取り込まれていた。

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    そのとき——
    美咲の中にいる義雄の、そのさらに奥で、ふいになにかが爆発した。
    こらえようにもこらえられない、心の奥からの衝動だった。

    「澄子!」

    爆発した感情に突き飛ばされたように、美咲の声が、義雄の心からの声をそのまま呼んだ。

    翔の姿が振り返った。
    驚いた目をしていた。

    「......義雄さん」

    二人は、互いを、本当の名前で、その魂の名で呼んだ。
    こんなにまっすぐに魂の名前を呼んだのは、バリに来て初めてだった。

    なんの躊躇も、——妨げもなかった。

    「澄子」 

    義雄は、もう一度その名前を呼んだ。

    「ありがとう」

    「......」

    「来てくれて。一緒に来てくれて。面白そうって、言ってくれて」

    澄子の心が——翔の目の奥で揺れたのがわかった。

    「義雄さん」
    澄子は言った。
    「私こそ——ありがとう」

    「俺は何もしていない」

    「してる。いつも、してる。五十年間、ずっとしてくれている。それを——私、ちゃんと言えてなかったから」

    マデは言った。
    感謝は言葉にしてこそ届く、と。

    二人は、バリの最後の日の朝に、
    そこに突然現れた不思議な心象の中で、
    ——五十年分の「ありがとう」を、ようやく口にできた。

    若い姿の声で。
    本来の魂が発する言葉で。
         ・
         ・
         ・
    ふと気づくと、二人は、南国の朝の光の中にいた。
    あの不思議なイメージはいったい何だったのだろう。

    翔が美咲の方へ、一歩、歩いた。
    美咲が翔の方に、一歩、近づいた。

    義雄の意識が感じられる方へ、澄子が一歩。
    澄子の体温がする方へ、義雄も一歩。

    若い二人が、朝の光の中で、そっと抱き合った。

    翔が美咲を抱いていた。そ
    して美咲が翔を抱いていた。

    それは長い人生を共にした二人の姿でもあった。

    五十年間、二人が抱き合ってきた時と同じ温かさが——
    若い体を通して、長い時を共にした二つの意識に届いていた。

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    「帰ろう」
    どちらかが言った。

    「帰ろう」
    もう一人も、同じ言葉を返した。

                  ◆  ◆  ◆

    デンパサール国際空港。

    搭乗ゲートに向かう二人の後ろ姿を、ワヤンは見送った。

    翔と美咲が、並んで歩いていた。

    がっしりした体躯をした翔は、背が高く、歩幅も広かった。
    それでも歩き方が、どこか——優しかった。
    隣の美咲に合わせて、歩幅をほんの少し縮めていた。

    隣を気にしながら歩く、長年連れ添った者の歩き方だった。

    美咲は、空調でワンピースの裾が揺れるのを気にもせず、
    翔の隣を歩いていた。

    風に揺れた髪が肩に触れ、そのたびにふわりと香りが立った。
    よく動く手が、翔の腕に自然と絡んでいた。

    その動作が、どこか——
    「人生を生き切った者」の自然さを持っていた。

    若い身体の軽さと、五十年を共に歩んできた豊かな人生の重みが、二人そろった歩幅の中でそっとひとつに重なっていた。

    (......不思議なカップルだ)

    ワヤンは、そう思った。若いのに、深い。
    新婚なのに、長年連れ添った者のような空気がある。

    マデが言っていたことは本当に違いない。
    ワヤンは確信した。

    しかし——幸せそうだった。

    それだけは、疑うべくもなく、確かなことだった。

    ワヤンは思った。
    この二人に限らない。
    TS社からガイドの依頼があったカップルはいつもそうだ。

    他の旅行会社からガイドを頼まれたカップルとは、雰囲気が違う。
    いつも。どこか。

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    二人が出国ゲートに消えていく前に、美咲が振り返った。
    翔も時を同じくしてワヤンの方を見た。

    ふたりともワヤンに向かって、手を振った。

    「ありがとう! ワヤンさん……素敵なときを……」

    ワヤンも、ふたりに手を振った。

    二人は、ゲートの向こうに消えた。

    バリ島の春が、ふたりの姿を見送った。

                    (「うつし身の春」六章 ここまで)
    六章冒頭へ
                   
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    次の章では──

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    帰国の朝、健康チェックが終わった。
    翔は、何も感じなかった。
    それは本当のことだった。

    そして、義雄は、七十七歳の腰の痛みとともに、
    自分の体に帰ってきた。
    ──それも、本当のことだった。      

    二組、四人の旅は、静かに終わりを迎えた。

    若い夫婦は知らない。
    彼らの“内側”を通り過ぎていったもうひとつの時間が、
    どれほど深く、自分たちを変えていたのかを——。

    年を重ねた夫婦も知らない。
    若い時間が、
    どれほど静かに、自分たちの心を変えているのかを——。

    春の光の中で触れ合った魂は、
    それぞれの体に、小さな痕跡を残していった。

    見上げた景色の色。
    交わした言葉の温度。
    支え合った手の重み。
    誰かを見つめる眼差し。

    それらは、記憶としてではなく、
    もっと静かなものとして、日常の奥へと沈み込んでいく。

    旅は終わった。
    身体も戻った。
    けれど、人は本当に“元の場所”へ帰れるのだろうか。

    小さな違和感。
    説明のつかない温かさ。
    以前より鮮やかに見える景色。
    そして、誰かを前よりも大切に思う気持ち——。

    二組の夫婦の、“いつもの生活”は、
    もう以前とまったく同じではいられない。

    四人それぞれ「帰った場所」が少し違って見えはじめる。

    ここから物語は、
    春の余韻がどのように人の人生へ染み込んでいくのか、
    その静かなこたえへと向かっていく。

    四人の「旅」は終わっていなかった。
                               第七章に続く


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    うつし身の春 第七章 帰った場所、そして


                  一

    帰国の翌朝、田村翔と美咲は、約束通りTS社を訪れた。

    N国際空港から車で十分、商業施設の三階。
    「帰国後の健康チェック」のために。

    二人とも、少し眠そうだった。
    長距離フライトの疲れと、旅の余韻が混在していた。

    美咲は薄いニットとデニム。
    翔は、シャツにジャケットを羽織っていた。

    「緊張するかい?」
    翔が聞いた。

    「別に......帰りの健康チェックって、出発前と同じ感じなんでしょ?」

    「......たぶん......だろうな」

    それぞれ別の処置室に案内された。

    リクライニングチェアに座り、ヘッドセットを装着した。
    翔は、出発前と同じように——何も感じなかった。
    十分後、スタッフが「お疲れさまでした」と言い、翔は立ち上がった。

    (......何も感じなかったな。この検査は何をしてんのかな。やっぱ脳波かな)

    そう思った。
    そして——それは本当のことだった。

    翔は、翔のままだった。

    田村翔として、この十日間のバリの記憶を、
    全部そのまま自分のものとして持っていた。

    最初の朝、
    新しい水着姿の美咲がまぶしかったこと、
    一緒に入ったプールの水が冷たかったこと。
    棚田の夕暮れを見たこと。
    美咲のショッピングにつきあわされたこと。

    そして——美咲の姿に、その仕草に魅了されてしまって......
    一緒に夜を過ごしたこと。

    ケチャダンスを見に行って幻想的な雰囲気を感じたこと。
    バリアンを尋ねて、不思議な静けさを感じたこと。
    美咲と並んでサーフィンをしたこと。
    プールで星を見たこと。
    最後の朝、名残惜しくて、ふたりで抱き合ったこと。

    全部、翔の記憶だった。

    どれも、誰かに「与えられた」記憶ではなく、
    確かに自分が感じ、自分が選び、自分が生きた十日間として、
    翔の胸の奥に静かに存在していた。

    ただ——
    あの朝、ふたりで抱き合ってお互いの気持ちを確かめ合ったとき、
    何を言ったのかだけは、どうしても思い出せなかった。

    思い出せるのは、
    何か大切なことを言った——
    そして美咲からも、何か大切なことを言われた。

    ——その「確かさ」だけだった。

    (......いいハネムーンだったな)

    廊下で美咲と合流した時、美咲も同じ顔をしていた。

    「どうだった?」

    「何も感じなかったよ。普通に終わった」

    「俺も」

    二人は、出口に向かって歩き出した。
    何も知らなかった。知る方法も、知る必要も、なかった。

    ただ、「ふたりだけの特別な十日間」が、確かにそこにあった。

                 ◆  ◆  ◆

    同じ日の午後、桐原義雄と妻の澄子が十日ぶりに目を覚ました。

    N国際空港から車で十分、商業施設の四階にあるVIPラウンジの、革張りのリクライニングチェアの上で。

    担当の加瀬が、二人のそばに立っていた。

    「お帰りなさい。ご気分はいかがですか」

    義雄は、起き上がろうとした。
    腰が、軋んだ。

    (......腰が、痛い)

    七十七歳の体が、戻ってきた。
    末梢の冷え、関節の重さ、深呼吸した時の肺の詰まり——
    それらが、全部、一瞬で戻ってきた。

    (......そうか。俺の体は、こういう体だったな)

    しかし——

    (......痛い、けれど)

    義雄は、ゆっくりと体を起こした。
    腰の痛みを確かめながら。

    (......そうだ。この体が、俺の体だ)

    七十七年間、共に生きてきた体だ。
    この体が義雄だった。

    美咲の体は、確かに若く、軽く、感覚も敏感だった。
    しかしこの体には——七十七年分の、義雄の生きてきた重みがあった。

    隣のチェアで、澄子も目を覚ましていた。

    「澄子」

    義雄は呼んだ。

    澄子が、義雄を見た。
    七十四歳の目が、十日の時を経て義雄を見ていた。

    「義雄さん!、帰ってきた!」

    「あぁ、帰ってきたな」

    「......帰ってきた!」

    澄子の目は潤んでいた。
    泣いているのではなかった。
    ただ、目が——濡れていた。

    義雄は、澄子の手を取った。
    七十四歳の、すこし皺のよった、小さくか弱い手だった。

    (......この手だ)

    美咲の体に入っていた時、翔の体の大きな手が澄子だと感じた。
    しかし今——この手が、澄子だった。

    五十年間、握り続けてきたまさにその手だった。

    「足は?」
    義雄が聞いた。

    「......砂の上を歩いてる感じ。いつも通り」
    澄子は言った。

    「でも——いいの。いつも通りで、いい」

    「そうだな」

    義雄は、窓の外を見た。

    商業施設の窓から、空港の滑走路が見えた。
    一機の旅客機が、今まさに離陸しようとしていた。

    白い機体が加速し、滑走路の向こうでふわりと浮き上がって大空に消えていく。

    (......また、見上げる側になったか)

    しかし——今日は、不思議と寂しくなかった。

                    二

    TS社が手配した帰宅の車の中で、翔は美咲の横顔を見ていた。

    バリ島の余韻か、美咲はぼんやりと窓の外を見ていた。
    街並みが流れていく。
    日本の、秋の初めの景色だった。

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    翔は、その横顔を見ながら、思っていた。

    (……美咲が、少し違う気がする)

    「違う」というのは、悪い意味ではなかった。
    美咲はいつも通り美咲だった。

    しかし——なんか、深みが増した感じがした。
    落ち着き、というか。
    自分の中にある何かをよく知っている人の顔、というか。

    (……バリに行ったせいかな)

    翔は、そう考えた。
    しかしそれだけではない気もした。

    「美咲」

    「うん?」

    「バリ、楽しかったな」

    「楽しかった。すごく」

    美咲が翔の方を向いた。

    「翔さんも、楽しそうだったよ」

    「俺が?」

    「うん。サーフィンの時とか、表情が柔らかくて。
     楽しそうで、なんか——
     翔さんのそういう顔、久しぶりに見た気がした」

    「久しぶり?」

    「翔さんって、普段は少し、気を張ってるでしょ。先生としての翔さんっていうか。
    バリではそれが薄れて、ただの翔さんでいたから——よかった」

    「ただの翔か」

    「ただの翔さんが、一番好きよ、私は」

    その言葉を、翔は受け取った。
    しかしどこかで、戸惑ってもいた。

    (……美咲って、そういうことを言う人だったっけ)

    美咲は、いつも翔のことを「好き」と言ってくれた。
    しかしこういう——何かを深く見たうえで言う言葉は、今まであまりなかった気がした。

    「ありがとう」
    翔は言った。

    「なに? 急にあらたまって」
    美咲が笑った。

    「なんか、急にそう思ったからさ」

    翔も、自分が変わった気がしていた。
    うまく言えないけれども——何かが、広がった感じがした。

    バリに行く前より、世界が少し大きく見えていた。
    景色の色が、少し濃かった。
    美咲の声が、少し近く聞こえた。

    (……これが、旅か、旅の効果というものか)

    翔は、そう思った。

    しかしその「旅の効果」が、通常の旅とはまったく異なる理由で生まれたものだとは、翔は知る由もなかった。

    十日間、七十四歳の澄子の意識が、この体で生きていた。
    澄子の七十四年分の経験と愛情と、人生の深みが——
    翔の体に、薄く、しかし確かに染み込んでいた。

    翔は知らない。
    しかし——それはたしかに翔の中にあった。

                 ◆  ◆  ◆

    美咲の側でも、同じことが起きていた。

    帰宅して、荷物を解きながら、美咲は気づいていた。
    翔を見る目が、変わった気がする。

    「変わった」というより——深くなった。

    翔の良さが、以前より鮮明に見えていた。
    翔の「不器用で穏やかな誠実さ」が、以前より愛おしく感じられた。

    翔が小学校の話をする時の目が、
    以前より輝いて、美しく見えた。

    (......どうしてだろう)

    美咲は、自分の変化の理由がわからなかった。
    バリに行って何かが変わった。
    しかしそれが何かは、わからなかった。

    ただ——翔のことを、
    これからの人生を一緒に歩もうと、自分が選んだ人を、
    自分を選んでくれた人を、
    もっと大切にしたいという気持ちが、帰国後の美咲の中にあった。

    十日間、義雄の意識が、美咲の体で生きていた。
    義雄の七十七年分の経験が——
    「人を大切にすることの意味」が——
    美咲の体に、密やかに染み込んでいた。

    美咲は知らない。
    しかし——それは確かに美咲の中にあった。

                   三

    帰宅した桐原義雄は、玄関を入った瞬間——立ち止まった。

    (......家が、俺の家はこんな色をしていたか)

    玄関の壁が、白だった。
    廊下の窓から、庭の桜の木が見えた。
    葉が、初秋の光を受けて、緑と黄の間の色をしていた。

    七十七歳の目で見ていた時、この景色は「いつもの家」だった。
    慣れ親しみすぎて、見ていなかった。

    しかし今は——見えていた。

    (......バリ島で、若い目で世界を見てきたから)

    義雄には、わかった。
    美咲の体で見た世界の鮮明さが——
    七十七歳の目の見え方を、変えていた。

    完全に若い目には戻れない。
    しかし——以前より確かに、見ようとする意思が、生まれていた。

    庭に出た。桜の木の下に立った。
    葉の一枚一枚が、見えた。
    光の角度によって、葉の色が微妙に変わっていた。
    緑の深いところと、黄色に傾いているところが、交互に混ざっていた。

    (......きれいだ)

    自分の庭の桜の木を、義雄は三十年見てきた。
    しかし「きれいだ」と思ったのは——初めてかもしれなかった。

    美咲の体でバリで見た自然が、
    義雄を、お世辞にも若いとは言えない男を確かに変えていた。

                 ◆  ◆  ◆

    澄子にも、同じことが起きていた。

    台所でお茶を淹れながら——手が、以前より軽く動いていた。

    (......翔さんの体で、十日間動いてきたから)

    翔の体の動かし方——ためらわずに動く、体幹で支えながら動く、その感覚が——澄子の体の動かし方を、変えていた。

    足の感覚が薄いことは変わらない。
    しかし、動くことへの恐怖が、少し薄れていた。

    砂の上を歩くような感覚の足が、やはり砂の上を歩いている。
    それは変わらない。

    しかし——砂の上でも、歩ける。
    その確信が、以前より強くなっていた。

    義雄が縁側に腰を下ろしていた。
    庭を見ていた。

    澄子は、お茶を二つ持って、隣に座った。

    「お庭、見てたの?」

    「桜の木がきれいで」
    義雄は言った。
    「こんなにきれいだったっけ、と思って」

    「そう?」
    澄子は、桜の木を見た。
    「そう言われると——きれいだね。緑と黄の混じり方が」

    「バリで、世界の見え方が、少し変わった気がする」

    「私も」
    澄子は、お茶をいれた湯飲みを両手で包んだ。
    「なんか——前より、見えてる気がする。ここにあるものが」

    「マデが、あのバリアンが言っていたな。若い器の深さが、老いた魂を豊かにする、と」

    「あれ?......そんなこと言ってたかしらねぇ?」

    「たしか、そう」

    二人は、お茶を飲んだ。
    庭の桜の木を見ながら。
    日本の秋の午後が、静かに流れていた。

    「義雄さん」

    「うん?」

    「バリ——行けてよかったね」

    義雄は、澄子を見た。
    七十四歳の、澄子の横顔が、秋の光の中にあった。

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    バリにいる間、義雄は、美咲の体のつぶらな瞳から、
    感情豊かに動く翔の——澄子の表情を見ていた。

    だが、今日の表情は、まるで別物だった。

    もちろん顔かたちは違う。
    そうではなくて、七十四年の全部が、今のこの顔つきに宿っていた。

    目の端の細い線がかすかに寄るのも、
    耳の後ろの白い髪がゆるやかに揺れるのも、
    頬の柔らかな重みがそっと形を変えるのも——

    どれもこれも、全部が澄子その人だった。

    (......きれいだ)

    義雄はそう思った。
    七十四歳の澄子を、きれいだと思った。

    バリに行く前から、澄子はきれいだった。
    しかし——それを「きれいだ」と感じることが、
    長い年月の中で、いつの間にか薄れていた。

    しかし、今は——見えていた。

    「よかった」
    義雄は言った。
    「本当に、よかった」

    「来年も、行けるといいわね」
    澄子は笑った。

    「体がついていけばね」

    「体の話は、脇に置いておこう」
    義雄は笑って言った。
    「来年の春に、また何か面白いことを考えよう」

    「面白いこと?」

    「澄子が“面白そう”と言う何かをさ」

    澄子が、笑った。
    七十四歳の笑顔が、秋の光の中に広がった。

    「それ、プレッシャーよ」

    「それは違うぞ。プレッシャーじゃない。楽しみだ」

    二人は、庭を見た。
    桜の木が、風に揺れていた。

                    四

    帰国から二週間後。

    田村翔は、小学校からの仕事帰りに花を買った。

    これまで、花を買ったことは数えるほどしかなかった。
    花を買うのは、誕生日と、記念日と——
    あとは何かを「ごめん」という時だけだった。

    しかし今日は、何でもない水曜日だった。

    (......何でもない日に、花を買いたくなった)

    なぜそうしたくなったのかはわからなかった。
    ただ、花屋の前を通った時、白いガーベラが目に入って——
    美咲の顔が浮かんで——
    気づいたら買っていた。

    帰宅すると、美咲がキッチンに立っていた。

    「わぁ、お花」
    美咲が振り返った。
    「何かあったの? やましいこととか......さ」

    「何でもない。なんとなく買いたかった」

    美咲は、少しの間、翔を見た。
    それから——静かに、花を受け取った。

    「ありがと」

    「なんか、急にそういう気分になってさ」

    「嬉しい。何でもない日の花が、一番嬉しい」

    美咲は、花瓶を出してきた。
    水を入れて、ガーベラを活けた。
    テーブルの中央に置いた。

    それだけで、部屋の空気が少し変わった気がした。

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    「翔さん」
    美咲が言った。
    「最近、少し変わったよね」

    「変わった?」

    「うん。なんか、優しくなった。バリから帰ってから」

    「前が優しくなかったわけじゃないと思うけど」

    「違う、そういう意味じゃなくて」

    美咲は、花を見ながら言った。

    「なんか——人のことを、もっとよく見るようになった感じ。
    私だけじゃなくて、授業の話をする時も、子どもたちのことを以前より細かく話してくれる。
    気づいてるのかな、と思って」

    翔は、美咲の、その率直な言葉を素直に受け取った。

    (......確かに)

    バリ島から帰って、授業が変わっていた。
    以前は「どう教えるか」を考えていたが、
    今は「この子は今日、何を感じているか」を先に見るようになっていた。

    子どもの顔を、以前より丁寧に見ていた。

    (......なぜだろう)

    理由は、翔にもわからなかった。
    ただ——人の顔を見ることが、以前より自然になっていた。

                 ◆  ◆  ◆

    美咲も、帰国してからの翔への接し方が変わっていた。

    バリに行く前の美咲は、翔が仕事から帰ってきても、
    キッチンから「おかえり」と声をかけるだけのことが多かった。

    翔の顔を、きちんと見ていなかった。
    疲れているかどうか、何か引っかかっているものがあるかどうか——
    気になっていても、聞きそびれることが多かった。

    しかし帰国後の美咲は、翔が玄関を開けた瞬間に、顔を見るようになっていた。靴を脱ぐ背中を、音を、そういうものを——無意識に、すべて拾うようになっていた。

    「今日、何かあった?」
    翔が食卓に着いた時、美咲は聞いた。

    以前なら、翔が話し始めるまで待っていた。

    「別に。なんで?」

    「なんか、ご飯の食べ方が少し違う」

    翔は、少し驚いた顔をした。
    それから——

    「ちょっと、うまくいかない子が学校にいてさ」

    と、話し始めた。

    (......義雄の魂が、澄子の魂を見ていた十日間があった)

    美咲の体は、そのことをどこかで覚えていた。

    長い年月をかけて、義雄が澄子を見てきた、
    その眼差しの重さを、美咲の体は忘れていなかった。

    愛することは、待つことではなかった。
    相手を、ちゃんと見ることだった。
    見て、気づいて、手を差し伸べることだった。

    美咲の体のどこかに、その記憶が残っていた。

                 ◆  ◆  ◆

    若い姿を借りた方の澄子も、日常に戻ってからの義雄への接し方が変わっていた。

    今まで澄子は、義雄が「大丈夫か」と聞いても
    「大丈夫」と答えることが多かった。

    足が痛くても、疲れていても——
    「大丈夫」と言うことが、長年の習慣だった。
    義雄に心配をかけたくなかった。

    しかし、帰国後の澄子は、
    「大丈夫じゃない時は大丈夫じゃないと言う」ようになっていた。

    「今日は、少し足が重い」

    義雄が、澄子を見た。

    「どのくらい?」

    「歩けるけど、ゆっくりじゃないと。
    だから、今日行くスーパーは、近いところにして」

    「よし、わかった」
    義雄は言った。
    「俺が行ってくる。何が要るのかい?」

    「メモを作る」

    「作ってくれ」

    それだけの会話だった。
    しかし——以前と違った。

    以前の澄子は「大丈夫、私が行く」と言い、無理をして歩いていた。
    以前の義雄は、澄子の「大丈夫」を信じて、任せていた。

    今は——澄子が正直に言った。
    それを義雄は引き受けた。

    (......翔さんの体で、十日間過ごして——
    義雄さんに支えてもらうことが、こんなにも温かいことだと知った)

    澄子は、その記憶を持ち帰っていた。

    翔の体で、美咲を——
    義雄の意識が宿った美咲の姿を自分の腕で支えた、
    棚田の道の感触が、澄子の中にあった。

    支えることは強さではなかった。
    支えられることは弱さではなかった。

    支えることで、支えてもらうことで、
    一人と一人が二人になれた。
    ほんとうの「ふたり」になれた。

    澄子は、それを知っていた。

                 ◆  ◆  ◆

    そして——義雄も、変わっていた。

    以前の義雄は、澄子が「大丈夫」と言えば、
    の言葉を受け取るだけだった。
    澄子が本当に大丈夫かどうかを、自分で確かめようとはしなかった。

    しかし帰国後の義雄は、
    澄子の顔を見るようになっていた。

    澄子が「大丈夫」と言う前に、
    顔を見て——「本当か?」と確認するようになっていた。

    (......美咲の体で、澄子の手の温かさを知った)

    棚田の道で、澄子が翔の体で義雄の腕を取ってくれた時の感触が、
    義雄の中にあった。

    その手が——ずっと義雄を支えようとしてきた手だったと、
    義雄はわかっていた。

    その手を、義雄は今、もっと大切に扱いたいと思っていた。

                    五

    帰国から二ヶ月が経った夏の朝。

    美咲がドラッグストアの紙袋を持って帰ってきた。
    翔が「どうした?」と聞くと、
    「ちょっと確認したくて」とだけ言った。

    そのままトイレに直行して、十分ほどして出てきた。
    その顔が、いつもと違った。

    「翔さん」

    美咲が、翔の名前を呼んだ。
    声が、少し震えていた。

    「何?」

    美咲が、手に持った白いスティックを翔に見せた。
    二本線が出ていた。

    「......!」

    翔は、美咲を見た。
    美咲の目が潤んでいた。

    「本当に?」

    「本当に、だと思う。お医者様に診てもらってちゃんと確認しないといけないけど」

    翔は、美咲を抱きしめた。

    (......来たか。やはり来てくれていたか)

    その感覚が、翔の胸の中に広がった。
    それは翔のものだったか、澄子が残していったものだったか——
    もはや区別がつかなかった。

    ただ、温かい感情が、胸いっぱいに満ちていた。

    「バリで私たちのところに降りてきた子よ」
    美咲が言った。翔の胸に顔を埋めたまま。

    「そうだな、バリの子だな」
    翔が言った。

    二人は、しばらく、そのまま立っていた。

    夏の、明るい朝の光が、窓から差し込んでいた。
    鷺のような白い花が、花瓶の中で、光を受けていた。

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                 ◆  ◆  ◆

    その夜、義雄に電話がかかってきた。
    TS社の加瀬からだった。

    「桐原様。お知らせがあって。田村様ご夫妻に、お子さんができたそうです」

    義雄は、受話器を持ったまま、しばらく黙っていた。

    「......そうか」

    「時期的に考えるとバリ島の子、ということになりますかね」

    「......バリの子」

    義雄は、繰り返した。
    その言葉の意味を、義雄だけが知る形で、受け取っていた。

    (......あの島で、降りてきた命だ)

    美咲の体で、翔と並んでプールに入った夜。
    バリアンの前で手を繋いだ夕暮れ。
    最後の朝、自分達の名前で「ありがとう」と言い合った時間——

    そのすべての時間から授かり、生まれた命が、
    今、この世界に向かって歩みを始めていた。

    (......ありがとう)

    義雄は、心の中で言った。
    田村夫妻に向けて。
    自分たちに体を貸してくれたことへの、感謝を。

    電話を切り、澄子を呼んだ。

    「澄子。田村さんのところに、お子さんができたそうだ」

    澄子が、目を見開いた。それから——ゆっくりと、目が潤んできた。
    だんだんと。

    「......本当に」

    「本当に」

    澄子は、少しの間、黙っていた。

    (......あのふたりから、わたしたちの心から......生まれてくる命)

    翔の体で、美咲を「きれいだ」と思った夜のことを——
    澄子は覚えていた。
    あの夜の美咲の体の熱さを。
    春の温度を。

    (......あの夜が、繋がっていく)

    「会いたいな」
    澄子は言った。
    「その子に。生まれてきたら」

    「行ったらびっくりされるかもしれないけど、ぜひ会わせてもらおう」
    義雄は言った。
    「赤ちゃんに会いに行こう。バリのお土産を持って」

    「バリのお土産?」
    澄子が笑った。
    「お土産なんて......私たちは想い出しか持ち帰れていないのに」

    「気分だよ。そういう、き・ぶ・ん、だけさ。
     でも、そうしたいのさ」

    二人は、笑った。

    夏の夜の深い藍色が、年を重ねた二人を静かに包んでいた。
    夜空には、熱の余韻をまとった月が涼やかに浮かんでいた。

                    六

    翌春、TS社の会議室で、担当者の加瀬が報告書を開いていた。
    秘密裏の会議だった。

    「第一期プログラムの最終報告です」

    西村は、パソコンのスライドを進めた。

    「参加新婚カップル:三十二組。支援側夫婦:三十二組。
    ハネムーン旅行先:八か国、十五か所。
    処置成功率:百パーセント。
    副作用報告:ゼロ件。
    新婚夫妻による苦情・問い合わせ:ゼロ件。
    新婚夫婦の満足度:平均四・九(五点満点)」

    「最重要指標は」

    「はい。ハネムーンベビー誕生率です」

    スライドが変わった。

    「参加カップル三十二組のうち、帰国後一年以内に妊娠が確認されたカップル:三十一組。
    割合:九十六・九パーセント」

    会議室に、静かな驚きが広がった。

    「通常の結婚一年以内の妊娠率は、日本の統計では約四十パーセント。
    今回は、その約二・四倍の成果です」

    「支援側の夫婦の満足度は」

    「全員が“参加して良かった”と回答。
    “若い体での体験が、帰国後の生活に良い変化をもたらした”という回答が、九十四パーセント。
    具体的な変化として多かったものは——」

    西村が、参加者のコメントを読み上げた。

    「“景色が以前より美しく見えるようになった”、
    “配偶者への愛情が深まった”、
    “身体的な不調への向き合い方が変わった”、
    “日常の小さなことに喜びを感じるようになった”」

    「旅行に行った側の夫婦の側の変化は」

    「こちらは当然、プログラムを知らないので直接の問いかけはしていません。
    ただ、別のアンケートを通じた間接的な評価では——
    “結婚後の夫婦関係の満足度”が、同時期に結婚した非参加カップルより明らかに高い数値です。
    具体的な記述として、“相手のことを深く理解できた気がする”、
    “相手の気持ちが以前よりわかるようになった”という回答が多くみられます」

    「なるほど」

    「経験を積み重ねた意識が旅行期間中宿ることで——
    人生の深みが、体に染み込む。
    それが、帰国後に若いカップルの中で、思いやりの形で現れているのかもしれません」

    「倫理的な問題の指摘は?」

    「現時点ではゼロです。
    新婚夫婦の誰も、自分の体に何が起きていたかを知らない。
    知らないまま、幸せに生きている。
    支援側夫婦の誰も、他者を傷つけたいとは思っていなかった。
    全員が——」

    西村が、少し間を置いた。

    「全員が、幸せになりました。
     より幸せに。
     それもずいぶんと」

    会議室に、静けさがあった。

    加瀬は、報告書を閉じた。

    「国連の極秘組織への第一期報告書の提出は来週です。
    政府の関係オフィスへの中間報告も同時に。
    予算の継続と、参加カップル枠の拡大が認められる見込みです」

    「第二期の参加カップルは」

    「百組を予定しています。
     行き先も、バリ島だけでなく、マルタ島、プロヴァンス、アマルフィ、
     プラハ、アメリカ大陸などへと拡げる方向で検討しています。
     いずれも、異なる“春”の表情を持ち、
     参加者の人生の節目に寄り添う、
     多様な旅のかたちを体験していただけるはずです」

    「支援側夫婦の募集は」

    「すでに問い合わせが殺到しています。
     説明を聞いたあとの——待機リストは五百組を超えています」

    「春が、足りないな」

    加瀬が、小さく笑いながら言った。

    「増やしましょう。世界には、もっとたくさんの春が必要です」
                     
                    (「うつし身の春」七章 ここまで)
    七章冒頭へ
                   
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    次の章、終章では──

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    春は、終わったはずだった。
    遠い旅の想い出とともに。

    南の島で過ごした楽しい日々も、
    入れ替わった身体も、
    あの夜に揺れた魂も、

    すべてはこころのかたすみに残された
    小さなメモになった。

    過ぎ去った出来事として、
    静かに日常へと沈んでいった──はずだった。

    けれど、人は本当に「元の場所」へ帰れるのだろうか。

    人はときどき、
    「終わった」と思っていた場所で、
    本当は何かが始まっていたことを知る。

    誰かに支えられた記憶、
    隣にいてくれた温もり、
    言葉にできなかった想い。

    それらは消えない。
    形を変えながら、
    人生の奥で、静かに息を続けていく。

    若いふたりは、新しい命を迎えようとしている。
    年を重ねたふたりは、春の夕暮れの中で、
    もう一度、隣にいてくれる人と歩く未来を見つめている。

    バリで過ごしたあの十日間は、何だったのか。
    誰かと出会うことでこころに残るのは、
    想い出だけなのだろうか。

    四人は、まだ知らない。
    あの十日間が、自分たちの人生の中で、
    どれほど深く続いていくのかを──。

    「うつし身」の本当が、四人を変えていく。
    静かに、しかし確かに。

    終章は、「春が終わる話」ではありません。
    春が、誰かの人生の中で、
    静かに受け継がれていく物語です。

    おぼろ月の夜へ向かう、
    最後の春の名残りを、どうぞ見届けてください。

    最後の春が、静かに幕を閉じる。

                     次回、うつし身の春、第八章──終章


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    うつし身の春 終章 春の名残り


                   一

    翌年の春。

    分娩室の中で、翔の手は美咲の手を包み込むように握っていた。
    痛みをこらえる汗で湿った指が、ぎゅっと翔の手をつかむ。
    その力の強さに、翔は胸の奥が熱くなるのを感じた。

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    「大丈夫。ここにいるから」

    自分でも驚くほど落ち着いた声が出た。
    美咲は何度も深く息を吸い、はき、それを繰り返しながら、痛みに顔をゆがめていた。
    しかし、それでも彼女の顔はしっかりと前を向いていた。

    「田村さん!、はい! ひっ ひっ ふー、頑張って! もう少し!」

    助産師の声が響く。

    「ひっ ひっ ふー...... ひっ ひっ ふー...... ひっ ひっ ふー...... ......」

    汗に濡れた横顔を見ているだけで、翔は鼻の奥がつんとした。
    命をかけて産みの苦しみと闘っている美咲の隣にいて、
    自分は手を握って祈っていることしかできない。

    (......がんばれ......がんばれ...... がんばれ...... がんばれ......)

    美咲は、痛みの波に揺られながら発している自分の声を無我夢中で聞きつつ、意識の奥で、自分の汗まみれの手を包んでいる翔の手のひらの温かさを感じていた。

    白昼夢のように。

    (あっ、これ......この感じ......バリで支えてくれた手だ)
    (隣にいてくれる。私が転ばないように......支えてくれている
     ......大丈夫、だから大丈夫、絶対)

    (私は一人じゃない。......隣で......一緒に......翔さんが)

    (支えてくれている......だから......だから......大丈夫......)

    「ひっ ひっ ふー...... ひっ ひっ ふー...... ひっ ひっ ふー...... ......」

    やがて、部屋の空気が変わった。
    助産師の声が少しだけ明るくなる。

    「もうすぐですよ。はいっ、次のいきみで——」

    美咲が息を止め、全身で力を込めた瞬間——

    この世界が初めて聞く、小さくて確かな“生”の声が響いた。

    バリの夜、空に輝く星々から降りてきた光が、
    この世界に現れて最初に発した第一声。
    産声だった。

    翔の手を握っていた美咲の指の力がその瞬間、緩んでいた。
    翔の視界は一瞬にして滲んだ。
    涙が落ちていることに気づいた時には、もう次の涙が頬を伝っていた。

    「おめでとうございます。元気な女の子ですよ」

    助産師が、手のひらに収まるほどの小さい小さい命を、
    頼りないほど軽いその体をそっと抱き上げる。

    血の気を帯びたぬくもりが通う、温かくて、よく動く指。
    まだ世界を知らないのに、もう世界を掴もうとしているような手。

    「......どんな顔してますか?」

    翔は震える声で聞いた。

    「目が大きくて、よく動く子ですよ」

    (......目が、よく動く)

    翔は、なぜかバリの夕暮れに映える棚田を思い出した。
    あの日、自分は、黄昏に浮かび上がる光の粒を追うように、景色のすべてを、目で飲み込むように見ていた。

    あの時と同じように、
    この子も世界を見ようとしているのだと思った。

    美咲の、母になったばかりの彼女の胸元に、
    生まれたばかりの赤ちゃんがそっと連れてこられた。

    美咲は汗に濡れた髪を耳にかけながら、ゆっくりと微笑んだ。

    「......翔さん、見て。私たちの子だよ」

    美咲が赤ちゃんを抱き寄せる。

    小さかった。
    信じられないほど小さかった。

    翔は言葉を失ったまま、美咲の隣に腰を下ろした。

    美咲が言った。

    「バリから、ずっと一緒だったんだよ、この子」
    「一緒に来てくれたんだよ、私たちと」

    「そうだな」

    「バリが好きな子になるかな」

    「なるよ、きっと」翔は言った。
    「教えてあげよう。棚田の緑が揺れていたこと。バリアンの目が深かったこと。海でサーフィンをしたこと」

    「サーフィン、私の方がうまかった」

    「それは違う」

    「どっちでもいいか」

    二人は笑った。

    小さくつぶらな目が、まるでその声に反応するように、静かに動いた。

    (......目が、目が俺を見ている)

    翔は息をのみ、生まれたばかりの娘の顔を見つめた。
    その小さな目が、この世界にいる何かの気配を追いかけるように、ゆっくり動いていた。

    「この子の名前、どうしよう?」

    「うん......二人で考えてた、あの名前が良いかなと思って」
    美咲が言った。

    「えっ?」

    「バリでたくさん話したよね、名前のこと。
     あの時から——もうこの名前しかない、って決まってた気がして」

    (......バリでも? そんな話したかな?)

    翔には、その感覚が、正確にはわからなかった。
    バリで名前の話をしたのかもしれない。
    しなかったのかも。
    記憶があいまいだった。

    しかし美咲がいう「あの時から決まってた」という感覚が、
    翔には少し新鮮だった。

    (......まあ、いい)

    今ここに、この子がいる。
    それが全てだった。

    三人の呼吸が、同じリズムで重なっていく。

    新しい世界が、静かに始まっていた。

                     二

    しばらく経った日の夕方、桐原義雄と澄子は、田村家を訪れた。
    小さな花束と、そして今度こそと、この日のために澄子が選んでバリから取り寄せた鮮やかな色彩のバティックの布と共に。

    「突然お邪魔しました。驚かせて申し訳ありません」
    義雄はそう言って、深く頭を下げた。
    「TS社から、田村さんご夫妻のところに、お子さんが生まれたと伺いまして——ぜひお祝いを、と思いまして」

    翔と美咲は、年を重ねた外見の見知らぬ夫妻の来訪に少し戸惑った。
    しかし義雄の穏やかな笑顔と、澄子の静かな眼差しに、不思議と安心感を覚えた。

    「あのぅ、つかぬことをお伺いしますが——もしかして、TS社の、あのプログラムで、私たちのハネムーンをご支援頂いたお方ですか?」

    「......守秘義務があるので、本当は言ってはいけないのかもしれませんが......、隠せませんね。
     ......お二人のハネムーンを——ほんの少しだけ応援させていただきました」

    「......それは......本当にありがとうございます。実に素晴らしい、良い体験でした」

    そのとき、リビングの向こうから、布の擦れる小さな音がした。
    義雄と澄子は、音がするほうに目をやった。

    美咲が赤ちゃんを胸に抱いて姿を見せた。

    髪をひとつにまとめ、薄いカーディガンの前をそっと押さえながらの、ゆっくりとした歩き。
    生まれて間もない小さな娘を気にしている慎重でやわらかな歩き方だった。

    赤ちゃんは、美咲の胸元で眠っていた。
    頬はほんのり赤く、呼吸は小さく規則正しい。

    「娘です。......よかったら、抱いてあげてください」

    澄子は思わず息をのんだ。
    その小ささに、そのけなげな寝顔に、胸の奥がきゅっと締めつけられた。

    「まあ……なんて、かわいらしい……」

    美咲からそっと自分の腕に渡された小さな命を見つめて、澄子の顔には自然と笑みがこぼれていた。

    義雄はその風景をにこやかな表情で、穏やかな目でみていた。
    夕方の光が、赤ちゃんの頬に淡く落ちていた。

    翔がそっと美咲の隣に立つ。
    四人の間に、しばらく静かな時間が流れた。
    その静けさは、どこか祈りのようでもあった。

    「お名前は?」

    澄子が聞いた。

    「優里と名付けました。優しい里で“ゆうり”です。田村優里。
    お二人に応援頂いたおかげで行くことができたバリの印象がものすごくよかったので。
    そのイメージです。田村という名字も含めて、なんとなくバリの棚田とか村々とかをイメージさせる名前かと思って......」

    (田村優里ちゃん、優しい里、きれいな棚田とのんびりした村々の景色、それにバリの人の優しいまなざしにぴったり)

    (......)

    義雄は何も言えなかった。

    義雄は、娘が、自分たちの娘が、
    目の前にいる生まれてまもない小さな女の子と同じだった頃を思い出していた。

    ――ああ、うちの娘も、こんなふうに小さかった。

    その記憶が、音もなく立ち上がってくる。
    一緒にバージンロードを歩き、その向こう側から、自分の腕を離れて新しい空に飛び立っていった娘、
    バリ行きのきっかけを作ってくれた娘、
    その生まれて間もないころの姿を。
    その明日を見ようとしている目を。

    ふと気がつくと、自分の前にいる小さな女の子が、
    まるであのときの娘のように、自分を見つめていた。

    目が——よく動いていた目が、じっと何かを見ようとしていた。

    (...... お前は、あの夜、空から降りて来たんだな)

    義雄は、心の中で語りかけていた。

    (バリの夜、あの星空から。
    俺と澄子の心と、若いふたりの体が溶け合った、あの春の夜に......降りてきてくれたんだな)

    「かわいいでしょ」
    美咲が言った。

    「かわいいですね」
    義雄は言った。

    娘が、自分の娘が、まだ澄子に抱かれながらでないと眠れなかったころの姿と、いま目の前にいる小さな命の姿が重なって見えて、
    年を重ねた男なのに泣きそうになった。

    それをこらえようとして、声が少し低くなっていた。

    「とても」

    澄子が、そっと目の前の小さい小さい手に触れた。
    その手が、澄子の指を握った。

    (優里ちゃん......握ってくれた)

    澄子の涙腺が緩んだ。

    「桐原さん?」
    美咲が心配そうに言った。

    「......ごめんなさい。小さな赤ちゃんを見ると、どうも」

    「わかります。私も、ずっと泣いてますし」

    二人の女性が、笑いながら、目を拭った。

    その隣で翔と義雄が、顔を見合わせた。

    「女性は、こういう時に泣くんですね」
    翔が言った。

    「どうやらそうらしいんです」
    義雄は自分のことを棚に上げて言った。
    「この歳になっても、まだよくわからんのですが」

    男二人は、笑いあった。

    (......桐原さんの笑い方、どこかで見た気がする)

    翔は、義雄の笑い方に、何か懐かしいものを感じた。
    しかしその笑い方をどこで見たのかは、わからなかった。

    (......わからなくていい)

    翔は、そう思った。

    四人が、同じ部屋にいた。
    小さな命が、その真ん中にいた。

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    しばらくして、義雄が立ち上がる気配がした。

    「そろそろ、お暇します。長居しました」

    「いいえ」
    翔は言った。
    「来てくださって、よかったです。本当に」

    翔自身も、なぜそう思うのか、わからなかった。
    この夫妻と、自分たちのあいだに、何があるというのか。
    確かにバリ行きを助けてもらった。
    しかし、その他には、何もない。

    そのはずだった。

    義雄と澄子が玄関を出る時、澄子が振り返って言った。

    「優里ちゃんに、ちゃんと伝えてくださいね」

    「伝えます」
    美咲が言った。
    「大きくなったら、ちゃんと伝えます、名前のわけを、バリの村々の美しさを、人の優しさを」

    扉が閉まった。

    部屋は静かになった。

    美咲が優里を寝かせて戻ってきた。
    翔と美咲は、ソファに並んで座った。
    しばらく、何も言わなかった。

    窓からの夕方の光が、部屋の中をゆっくりと移動していた。

    「ねえ」
    美咲がふいに言った。
    「桐原さんたちって、なんかいいご夫婦ね」

    「ああ」

    「長く一緒にいる人たちって、なんか......空気が違う気がする」

    翔は、義雄と澄子が並んでいた姿を思い出した。
    特別なことは、何もしていなかった。
    ただ、隣にいた。それだけだった。

    (......俺たちも、ああなれるかな)

    「翔さん?」

    「なんか、あんな風に一緒に年を重ねられたらいいなと思って」

    美咲は、翔の顔を見た。
    それから、小さく笑った。

    「なれるよ」

    「なぜ?」

    「理由なんてない」
    美咲は言った。
    「でも、なれる気がする。ちゃんと」

    翔は、美咲を見た。

    目に映っているのは、バリで見たような顔ではなかった。
    結ばれてからそんなには年月が経っていない顔でもなかった。

    何年もの人生をともにしたような顔だった。

    翔は、これまで何度も、美咲と結婚して良かったと思っていた。
    しかし、その顔を見て、今日初めて気づく気持ちがあった。

    (......美咲と一緒で良かった、本当に良かった。
    この人と一緒で、一緒に来られて......また一緒に......
    ずっと、これからも......)

    バリのことを、言っているのか。
    それとも、もっと長い時間のことを、言っているのか。
    翔には、わからなかった。

    どちらでも、よかった。

    窓の外では、春の夜が静かに深くなっていた。
    おぼろ月が浮かんでいた。

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                    三

    帰りの車を、義雄は何も言わずに運転していた。
    なんとなく間が持たなく、沈黙が落ち着かなくて、ラジオのスイッチに手を伸ばした。

    昔の歌が流れていた。オフコースだった。
    昔のグループの特集をしていたのかもしれない。

    「あっ、この歌好き」
    澄子が言った。

    二人はしばらくラジオからの曲に耳を傾けていた。

    澄子は、助手席で、ラジオに耳を傾けながら窓の外を見ていた。
    春の夕暮れが、街並みを橙色に染めていた。

    「義雄さん?」

    「うん?」

    「あの赤ちゃんの目、覚えてる?」

    「覚えてるよ」
    「よく動く目だったね。いろんなものを見ようとしてる」

    「そうだったな」

    澄子は、少しの間、黙った。

    「義雄さん、あの子は——きっと、よく世界を見る子になると思う」

    「なぜ」

    「なんとなく、そう感じた」

    義雄は、前を見ながら言った。

    「そうかもしれない」

    (......あの夜、俺たちが見ていたバリの空を、あの子も見るかもしれない)
    (......そういう形で、繋がっていくのかもしれない)

    春の夕暮れが、続いていた。
    海が、遠くに見えた。夕日が水面を金色に染めていた。

    ふたりとも、しばらく無言のままだった。
    胸の中にはたくさんの言いたいことはあるのに、
    どれも言葉にしようとすると形を失っていくようで、
    ただ、静かに息をしているしかなかった。

    (......言えないままでいる気持ちなんて、いくつもある)
    (でも、今はこの沈黙でいい)

    ラジオからは、言葉にできない思いを優しく抱きしめるような旋律が、
    車内の静けさに溶けていった。
                  ・
                  ・
                  ・
    ラジオから流れる歌が変わった。
    そのしらべに背中を押されるように、義雄はふいに口を開いた。

    「来年の春......どっかに行こう」

    澄子が義雄の方に顔を向けた。

    「澄子......無理にどこって言わなくていい。
     言葉にできなくても、ちゃんとわかってるから。」

    「ゆっくりでいい。歩けるときに、行けるときに一緒に歩こう。
     澄子、俺は連れて行く、必ず連れて行くから」

    (言いたくなったら言えばいい。澄子の言葉は、澄子が言いたいときに言えばいい)
    (無理に形にしなくていい。胸の奥にあるものは、そのままで伝わる)

    澄子はしばらく黙っていた。
    義雄の言葉は、急かさず、押しつけず、
    澄子は、ただ義雄の隣に寄り添っていた。

    ただ、静かに「隣にいる」ことが澄子の答えだった。

    ラジオからの旋律が、ふたりの間に静かに流れている。
    夕暮れの光がフロントガラスに淡く揺れている。

    そんな空気の中で、そんな静けさの中に、
    澄子がふいに口を開いた。

    「......でも、どこに?」

    義雄は、すぐに答えようとはしなかった。
    澄子の声が、ようやく外に出てきたことが嬉しくて、
    体全体でその余韻をそっと噛みしめていた。

    「近いところでいい。足が疲れないところで......
     でも、澄子が、楽にいられるところ」

    澄子は、少しだけ息を吸った。

    「京都の春は?」

    澄子の声は、どこか確かめるようだった。

    義雄は、ゆっくりと頷いた。

    「いいな。桜、見にいこう。
     澄子が見たいと思うなら......それで十分さ」

    澄子は、ハンドルを握る義雄の手にそっと触れた。
    その温かさに、胸の奥でほどけていくものがあった。

    「うん……行きたい」

    「ゆっくり、二人で」

    ハンドルをもっていなければ、義雄は澄子の手を包み返していたかもしれない。

    (......そうだ。ゆっくりでいい。澄子の歩幅でいい)
    (俺は、ただ隣にいればいい。澄子の隣に、手をつないで。歩幅を合わせて)
    (若い姿でバリにいたときのように。そのようにしてまた旅に出よう。一緒に......)

    日は傾き、春の夕暮れはゆっくりと色を濃くしていった。
    義雄は、迫り来る夜の気配にあらがうように、そっと車の灯りを点けた。

    義雄の灯した白と、前の車が残す赤い軌跡とが、
    暮れ残る春の薄明かりの中で、ゆっくりとひとつに溶け合っていく。

    流れる曲は、気づかないうちに、どこか遠くの旅路の記憶を呼び起こすような静かな歌声に変わっていた。
    中島みゆきだった。
    ふたりの息に寄り添うような、しっとりとした歌だった。

    春の黄昏の中を、ますます深くなる夕暮れの中を、
    ふたりを乗せた車は静かに走っていた。

    その姿は次第に霞み、後ろに灯っていた赤い光が、
    やがて春の夕暮れ時の柔らかな気配の中に、
    溶けるように遠ざかっていく。

    そして......
    もはやそれは、車の尾灯なのか、
    夜の街に灯りはじめた人々の暮らしの灯火なのか、
    よく分からなくなっていた。

    ただ、おぼろ月の春の夜が、
    静かに、ゆっくりと満ちていくだけだった。

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                 ◆  ◆  ◆

    その年、TS社によるサービスの第二期プログラムでは、参加者を百組に拡大することが正式に決まった。

    行き先は、今回のバリ島からマルタ島へ、
    プロヴァンス、アマルフィ、そしてプラハへと渡り、
    アパラチアの丘に満ちる新たな息吹と、
    そこから静かに降りてくる柔らかな夕暮れの光に抱かれるアメリカ大陸東海岸へ——

    世界中の「春の場所」へと拡がっていった。

    ハネムーンベビーの誕生率は、第二期においても九十五パーセントを超えた。

    プログラムオフィスは、第三期として、全国十か所への拠点拡大を決定した。

    TS社のアクションを背後から支える国際上位機関は、報告書の改訂版において、このプログラムを

    「倫理的複雑性を認めつつも、人口問題への有効なアプローチの一つとして検証を継続する価値がある」

    と評価した。

    担当者の加瀬は、その報告書を読んで、静かに笑った。

    (......「倫理的複雑性を認めつつも」か)

    プログラムに参加頂いた田村氏からは、
    バリアンのマデは「全員が幸せだった」と言っていたと聞いている。

    それが、何より確かな評価だと——加瀬は思っていた。

                 ◆  ◆  ◆

    世界のどこかで、今夜も——飛行機が離陸する。

    ゆったりとした機内で、若いカップルが肩を寄せて座っている。
    二人の指が絡み合い、窓の外の雲を見ている。

    「ハネムーンですか? いいですね」と、隣の乗客が声をかける。

    二人は、少しはにかみながら、頷く。

    二人は知らない。
    今この瞬間、自分たちの体の中に、別のだれかが宿っていることを。

    その別のだれかは——知っている。

    若い体の窓の外に広がる雲が、こんなに白くて、こんなに近いことを。
    そしてその白さの向こうに——春が、まだ続いていることを。

    誰も知らないところで。

    静かに。

    確かに。

    春は——繋がっていく。

    Fin.

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    うつし身の春
    〜二組四人で紡ぐ、おとなのラブストーリー、のようなお話〜

    【完】

    各章へのポータルサイト(目次リンク)


    うつし身の春
    ~ 二組四人で紡ぐ、おとなのラブストーリー、のようなお話 ~

    【狂言まわしの終段】


    さてさて、みなさま。いかがでござんしたかえ。
    えっ、わっち? わっちでござんすか? 
    冒頭でみなさまの目をちょいとばかし散らかしちまった、あの狂言回しの恋女房でござりんす。

    わっちもねぇ、みなさまと同じように、
    亭主の横っちょで、この噺を胸の奥から味わっておりやした。もう、言葉になりゃしませんでねぇ。

    わっちたちゃねぇ、もうずいぶん昔に、この世での「うつし身」を卒業しちまっておりやしてね。
    魂だけの身になってから、もう幾星霜。

    でもね、魂だけになってみると、わかることがあるんでございますよ。
    どんな体に宿っても、こころはこころ、ってことが。
    この世で借りた体でも、感じたことはまぎれもなく本物、ってことが。
    借りた体を大切にしよう、ってことも。

    だからこそ、この噺が——
    わっちたちゃ、人一倍、身に沁みたんでございますよ。

    心の旅の果てにこみあげてくるものを、そっと噛みしめておりやした。
    心では「I love you, so.」ってところでござりんすが、
    ほんっとに「言葉にできない」んした、えも言われぬ、ええお噺でござんしたねぇ......。

    「お~い......おまえぇ~......どこにいんだ?」

    おやまぁ、むこうで亭主が、恋女房のわっちを呼んでいるようでおりんす。

    「あんたぁ、ここ、ここ、ここにおりんす!」

    もぅ、亭主の耳にゃ、てんで聞こえちゃおりゃんせん。
    こりゃ、行かねばなりゃせんね。

    このうつつの世に体があった時分も、
    向こうで心だけになってからも、
    亭主はいつもそうやってわっちを呼ぶんでございますよ。
    体があっても、なくっても、ね。

    もしも、もしもでござんすよ。
    わっちの声が、こん世のどこかでふっとみなさまの耳に触れやしたらば——
    そりゃあきっと、この噺の切れっ端が、みなさまの胸ん中で、まだ息をしておりんすよ。

    それだけで、わっちが出てきた甲斐がありんした。

    おやおや……よく見りゃ、幕がゆるりゆるりと降りてまいりやした。
    こりゃあ、お天道様が「そこまでにしておきなせぇ」とおっしゃっておいでなんでござんしょうねぇ。

    お天道様の言うこと聞かんと、バチが当たりんす。
    そんこともありやして、今宵はここらでお開きと致しとうございまする。

    そんじゃ、みなさま。お名残おしゅうござんすが、

    さよなら、さよなら、さよなら——

    おさらばえぇ〜。

    ……どうか、よい夢を見ておくんなせぇまし。

    —— 閉幕 ——


    ご観覧のみなさま、本日はご覧いただき、まことにありがとうございました。
    夜も更けてまいりました。
    どうぞお足元にお気をつけて、お帰りくださいませ。

    終章冒頭へ
                   各章へのポータルサイト(目次リンク)


    補遺への扉として

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    物語は、すでに終わっています。

    けれど──あの春の日々の響きは、まだ人々の心の中で、
    余韻のように静かに鳴り続けています。

    バリで過ごした十日間は、
    若いふたり、そして年を重ねたふたりに、大きな波紋を残していきました。

    しかし、その波は、二組の夫婦にだけではなく、
    その旅を遠くから見守った人々の人生にも、
    静かな残り香のような痕跡を漂わせていきました。

    その香りは、まだ語られていません。

    戻った場所で、なぜ彼らは以前より深く人を見るようになったのか。
    なぜ、長年見慣れていた庭の桜が、突然あたらしく見えたのか。

    そして──
    あの旅の記憶は、誰かの人生へどのように受け継がれていったのか。

    補遺では、
    本編では語られなかった
    「もう一つの春のかたち」
    を静かに描いていきます。

    ここから先は、「うつし身の春」本編の“続き”ではありません。
    そしてもはや、作者の手によるものでもありません。

    パンフレットの片隅に載っていた旅行の記憶。
    読む人を限定して開示されたメッセージ。
    旅に同行した者の報告。
    とある小学校の子どもたちが作った小さな学級新聞。
    そして、ある女性が、友人だけに向けて書き残したSNS投稿。

    それらは、どれも小さな断片にすぎません。

    けれど、
    その断片を通して見えてくるものが、
    きっとあります。

    物語の余白に、誰かがそっと置いていった、
    四人の人生の深呼吸のような書き置きです。

    もしあなたの中に、まだあの春の気配が残っているなら──
    どうぞ、静かにページをめくってください。

    読み終えたあと、あなたの胸の奥に残っている小さなぬくもりが、
    もう一度だけ、やわらかくゆれるかもしれません。



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    うつし身の春 補遺

    物語の余白に残された記録


    うつし身の春 補遺 その1

    トラベルサービス株式会社
    「新婚カップル向けハネムーン支援サービス」パンフレット(改訂版)
    お客様の声: バリ島 10日間の旅


    T様ご夫妻

    ご主人様 (小学校教諭・28歳)

    正直に言うと、申し込む前は少し不安もありました。
    無料という点が不思議で、「本当に大丈夫なのかな」と半信半疑だったのです。
    でも結果的に、この旅はこれまでの人生で一番楽しい時間になりました。

    バリ島の景色は、想像をはるかに超えていました。テガラランの棚田を歩いた時、ジャティルウィの夕暮れを眺めた時、「世界にはこんなに美しい場所があるんだ」と、何度も立ち止まりました。

    光の質が日本とまるで違う。
    その感覚は、帰国した今も胸の中に残っています。

    それから——少し照れくさいのですが——
    自分の妻のことを、前よりもっと愛しいと感じた旅でもありました。
    ウルワツのケチャダンスを見ていた時の横顔、
    棚田で白鷺に気づいて振り返った時の笑顔。
    三年付き合って結婚した相手なのに、
    「ああ、この人と一緒になってよかった」と、あらためて思う瞬間が何度もありました。

    小学校の教員として、子どもたちにバリ島の話を聞かせたいと思っています。棚田のこと、ケチャのこと、旅先で出会った祈祷師のこと——
    あの旅で感じたことを、言葉にして伝えられたらと考えています。

    最後に、わたしたちの旅を支えてくださったすべての方へ、心より感謝申し上げます。
    資金面でご支援くださった方、現地で寄り添ってくださったガイドの方、そして終始丁寧に対応してくださったTS社の担当の方。
    皆さまのおかげで、わたしたちは人生の宝物になる十日間をいただきました。

    本当にありがとうございました。

    奥様 (保育士・26歳)
    ずっとバリ島に行きたいと思っていたので、このプログラムのことを知った時、「本当に無料でいいんですか?」と何度も確認してしまいました(笑)。でも本当に全部本当でした。

    バリ島は、どこを見ても「きれい」と声が出てしまう場所でした。
    市場の布地の色、夕暮れのタナ・ロット、水の寺院の静けさ。
    ウルワツのケチャダンスは特に忘れられません。
    楽器が一つもないのに、百人の声だけで、あんなに大きな世界が生まれるなんて——
    その夜のことを、今でも時々思い出します。

    そして、その後にお会いした占い師さんのことも。

    旅の途中で、主人のことを「なんだか、いつもより優しい?」と思う瞬間が何度もありました。
    もともと頼りになる人なんですけど、バリでは何というか——
    もっと丁寧に、私のことを見てくれている感じがしていました。

    棚田の道で腕を支えてくれた時も、買い物につき合ってくれた時も、さりげない気遣いが、いつもより少し深かった気がします。

    帰国してしばらくしてから、娘が生まれました。
    バリの神々が見守る空から降りてきた子かもしれません。
    青々とした棚田が広がる優しい里にちなんで、優里と名付けました。

    この子が大きくなったら、バリ島に連れて行きたいと思っています。
    ——あの棚田を、一緒に歩きたい。

    支援してくださった方が、どんな方なのか存じませんが、
    どうかお元気でいてください。

    今回の旅の機会をいただき、本当にどうもありがとうございました。

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    うつし身の春 補遺 その2

    出資型ハネムーン応援プログラム
    支援者限定資料(TS社オフィス内のみ閲覧可)
    支援者 体験レポート:バリ島10日間の旅


    ※ 本資料について
    本資料は、守秘契約にサインいただいた方にのみ、 TS社オフィス内に限って閲覧を許可されているものです。 記載内容を第三者に開示することは、いかなる形式であれ固く禁じられております。 守秘契約違反となりますのでご注意ください。


    ○支援者ご主人様からのメッセージ

    Y.K. (元商社勤務・77歳)

    申し込む前、妻に言われました。「面白そう」と。
    その一言がなければ、私はおそらく、このプログラムに踏み出せなかったと思います。

    体験の内容については、守秘義務があることは承知しています。
    ただ一つだけ申し上げられることがあるとすれば——

    私は確かに、バリ島の空を見ました。
    棚田の緑を見ました。
    水の音を聞きました。
    プルメリアの香りを嗅ぎました。

    それらすべてを、若い体の、若い感覚で——とだけ申し上げておきます。

    七十七年生きてきて、世界中を飛び回り、大きなプロジェクトにも携わった商社マンでした。
    しかしあの十日間に感じたものは、それまでに感じてきたどんな「美しさ」とも、次元が違いました。

    世界は、若い体で見ると、こんなにも鮮明なのか——
    その驚きは、帰国後の今も、私の中に残っています。

    もう一つ。
    妻への感謝を、言葉にすることができました。
    五十年連れ添って、ずっと言えなかったことを。

    それだけで、このプログラムに参加した意味が、十分すぎるほどありました。

    帰国後も時折思います。
    私たちに体を貸してくださった若いご夫婦のことを。
    あのおふたりが、どうか末永く幸せでありますように、と。

    TS社のスタッフの皆様、そしてバリでガイドをしていただいた方に、深く感謝申し上げます。

    ○支援者奥様からのメッセージ

    S.K. (74歳)

    夫が「行ってみるか」と言った時、私は内心、半信半疑でした。
    でも、「面白そう」という気持ちは本当にあったんです。
    どんな体験が待っているのか、想像がまったくつかなかったけれど——
    それがかえって、背中を押してくれた気がします。

    十日間のことは、まるで昨日のように思い出されます。
    若い体で歩くということが、こんなにも違うのかと。

    私は足の感覚が薄くなっていて、ここ数年は歩くことが少し怖かったのですが、あの十日間は、その恐怖が、まったくありませんでした。
    地面を、ちゃんと踏んでいる感覚があって、それだけで、泣きそうになりました。

    それから——これは少し恥ずかしいのですが——
    男性の目で見る景色と、女性の目で見る景色は、やはり少し違うのだと感じました。

    同じ夕日を見ているのに、体が違うと、受け取り方が違う。
    五十年一緒に生きてきた夫が、私と同じ景色を見ながら、
    私とは少し違う感じ方をしていたのかもしれない——
    そう思うと、なんだか夫のことを、もう一度、新鮮な気持ちで見たくなりました。

    ウルワツのケチャダンスのこと、
    バリで出会った不思議な行者さんのこと、
    水の寺院の静けさのこと——
    お伝えしたいことはたくさんありますが、ここでは書ききれませんので、このあたりにします。
    またいつか機会があればと思います。

    最後に。
    あのプログラムで、私たちがご支援させていただいたご夫婦が小さな命を授かったそうです。
    そのことを知った夜、夫と二人で、しばらく黙っていました。
    言葉にできないものが、胸の奥にありました。

    このプログラムのパンフレットを送ってくれて、今回の体験のきっかけを作ってくれた、私たちの娘に、そしてこの機会をくださったTS社のみなさまに、心から感謝します。

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    うつし身の春 補遺 その3

    バリ島観光ガイド・業務報告書(機械翻訳版)


    業 務 報 告 書
    (ハネムーン案内ガイド業務)

    提出先:
    トラベルサービス株式会社(TS社) 加瀬 様
    報告者:
    Wayan Sudharma(ワヤン・スダルマ) 認定ガイド No. B-0274
    担当期間:
    6月第3週木曜日 着 ~ 6月第4週土曜日 発(10泊)
    担当したお客様:
    田村翔 様・美咲 様(日本国籍・新婚ご夫婦)
    滞在地:
    ウブド近郊プライベートヴィラ(TS社指定)
    提出日:
    帰国フライト見送り翌日

    1.行程の概要

    ・1日目:デンパサール国際空港出迎え、ヴィラへ送迎
    ・2日目:ウブド周辺(ライステラス散策、伝統市場)
    ・3日目:タナ・ロット寺院(夕日鑑賞)、サヌール旧市街散策
    ・4日目:ウブド市内(ブティック、プールバー)
    ・5日目:ウルワツ寺院(ケチャダンス鑑賞)
    ・6日目:マデ・スルタナ氏訪問(バリアン)、水の寺院にて瞑想
    ・7日目:テガラランの棚田
    ・8日目:クタビーチ(サーフィン体験)
    ・9日目:ジャティルウィの棚田(UNESCO世界遺産)
    ・10日目:デンパサール国際空港にて見送り

    2.担当カップルガイド時の所感

    田村ご夫妻は、終始、穏やかで礼儀正しく、ガイド業務上のトラブルは一切ありませんでした。
    以下、ガイドの業務をしていて気づいた点を正直に記します。

    【おふたりの印象について】
    田村ご夫妻は、新婚旅行中のカップルなのに、全体的に落ち着いた雰囲気をお持ちでした。
    初めてバリ島を訪れているにもかかわらず、景色や食事への反応が
    「初めて見る驚き」というより、
    「懐しいものに再会する喜び」
    に近いように見受けられました。

    特に棚田やタナ・ロットの夕日を前にした時、
    お二人の目の輝き方が、他の旅行会社から依頼を受けたカップルとは何かが違いました。

    これは、TS社からの依頼で、新婚カップルをガイドする際にはしばしば感じることです。

    「若いのに、すごく遠くを見ている目」とでも申しましょうか。
    申し訳ありません、これ以上はうまく言葉にできません。

    【バリアン訪問について】
    私の判断で、バリ島屈指の呪術の使い手、バリアンのマデ・スルタナ氏への訪問をご提案しました。
    氏は通常、観光客には会いません。
    ご了承いただいた経緯は、加瀬様に電話でご報告した通りです。

    面談後、マデ氏は私にこう告げました。

    「二人の体の中に、四人の魂がいる」

    私にはその意味が完全には理解できませんでしたが、
    マデ氏が嘘をついたことは、私が知る限り一度もありません。
    氏が虚言を弄する人ではないことは、長年の経験から確信しております。

    氏はお二人を「清らかだ」と言いました。
    それ以上の説明はありませんでした。

    本件については、TS社として何らかの情報をお持ちではないのかとも思っております。
    差し支えなければ、ご説明いただければ幸いです。

    【帰国時の様子】
    搭乗ゲートへ向かうお二人の後ろ姿が、印象的でした。

    ご主人様の歩幅が奥様に合わせて小さくなっていました。
    その雰囲気は、どこか長年連れ添ったお二人のようでした。

    そして、奥様がご主人様にあずける腕の仕草が、
    やはり、どこか「人生を生き切った者」の自然さを持っていました。

    TS社の新婚旅行の仕事では感じることが多いのですが、
    やはり他社の新婚旅行のカップルとは、少し違う空気でした。

    3.特記事項
    繰り返しとなりますが、TS社からご依頼を受けたカップルは、
    他社からの依頼のカップルと雰囲気が異なります。
    帰国時の表情が一様に深い。

    今回の田村ご夫妻もそうでした。
    その意味で、印象的なお二人でした。

    業務上の疑問点は上記の通りですが、
    ご夫妻が、心から幸せそうであったことだけは、確かです。

    それで十分だと、私は思っています。
    たぶん、バリの神々もそれ以上のことはお感じにならないでしょう。

    4.次回依頼への申し送り
    ・ウルワツ→バリアン訪問の2日間の流れは、
     お二人の精神的な成熟に非常に有効だったと感じました。
     継続をお勧めします。

    ・ただ、私一押しのバリアン、マデ・スルタナ氏は高齢のため、
     面会できない場合があります。
     事前に必ず連絡を入れ、訪問の了解をとってから向かってください。

    ・ジャティルウィの棚田は夕方の光が最良です。
     午後4時以降の到着を推奨します。

                         以上、ご報告申し上げます。
                              Wayan Sudharma

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               うつし身の春 補遺 その4

    ある小学校の学級新聞:


    ✿ たんぽぽ新聞 ✿

                6年2組 学級新聞 第14号  発行:学級新聞係

    田村先生、なんか変わりました!
    ~結婚して、バリ島に行って、先生はどう変わったか~
                             取材・文 橋本 陽介

    ぼくたち6年2組の田村翔先生は、体育が得意で、休み時間によくドッジボールをいっしょにやってくれます。
    おもしろいけどちょっとこわい、でもたよりになる先生です。

    今年の5月に先生が結婚しました。
    それで6月には新婚旅行でバリ島に行って、10日間いなくなりました。
    (その間は堀先生がいてくれました)

    先生が帰ってきてから、みんなで「先生、変わった?」という話になりました。
    そこでぼくは、クラスのみんなにアンケートを取ることにしました!

    ■ アンケート結果(6年2組 34人回答)
    「田村先生は新婚旅行の前と後で変わったと思いますか?」
       変わった ……………… 27人 (79%)
       変わっていない ……… 4人
       わからない …………… 3人
    なんと8割近くが「変わった」と答えました!

    ■ どんなふうに変わったの?
      「変わった」と答えた27人に、どんなふうに変わったか聞きました。
      多かった答えがこれです。

    ●ぼくたちの顔をよく見るようになった(19人)
     バリ島から帰ってきてから、先生が授業中にぼくたちの顔をじっくり見るようになったと思います。
    前は「みんな、わかったか?」って、みんなに聞いてたけど、今は聞かなくても、なんとなく「関口はわかってないな」って気づくみたいで、すっとそばに来てくれます。

    すこしこわいです。 
    でも、うれしいです。

    ●話がちょっとむずかしくなった(11人)
     先生がたまに、すごくふかいことを言うようになりました。

    先週、社会の授業で田植えの話になった時、
    「先生、バリ島でたな田を見たんだけど」って話を始めて、

    「田んぼって、上から見ると全部つながってるんだよね。
    一枚一枚は小さくても。
    みんなもそれぞれちがうけど、つながってると先生は思ってる」

    みたいなことを言いました。
    なんか、ふかい。(ぼくたちにはむずかしかった)

    ●「じっくりやさしい」感じになった(8人)
     
     こわくなくなったんじゃなくて、なんか……「じっくりやさしい」感じ。

    これは吉田くんの言葉です。
    ぼくも同じ気持ちです。
    先生のことがもっと好きになりました。

    ■ 先生に直撃インタビュー!

    先生に「バリ島でいちばん印象に残ってることはなんですか?」と聞いてみました。
    ---------------
    「うーん。棚田の景色かな。
     段々になった田んぼが、ずっと下まで続いてて。
     あれを見てたら、なんか......世界ってこんなに大きいんだなって思った。
     あと、バリの人の目がきれいだったな。
     ちゃんとこっちを見てくれてる感じがしてさ」
                                (田村先生)
    ---------------
    田村先生の奥さんにも電話をかけてきいてみました。
    先生の奥さんは保育園の先生をしているそうです。
    「先生は、バリ島に行って変わりましたか?」と聞きました。
    ---------------
    「変わった。なんか......深くなった気がする」
               (田村先生の奥さん・ちょっとうれしそうでした)
    ---------------

    ■ まとめ

    アンケートをしてみて、ぼくは思いました。

    田村先生は、結婚してバリ島に行って、
    なんか「もっと田村先生になった」気がします。

    うまく言えないけど、前の先生もよかったけど、
    今の先生のほうが、ぼくたちのことをもっとちゃんと見てくれてる気がします。

    来年、ぼくたちは中学生になります。
    卒業して先生のクラスじゃなくなるのは、ちょっとさびしいです。
    でも田村先生のことは、ずっと忘れないと思います。

    最後に。
    先生、結婚おめでとうございます。
    それと、バリ島のおみやげのお菓子、おいしかったです。
    ありがとうございました。
                       (取材・文 6年2組 橋本 陽介)

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    うつし身の春 補遺 その5

    ある女性が「友人・知人限定」でSNSにポストした投稿:
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    🔒 友人・知人限定
    杉浦(桐原)あすみ  投稿日:11月某日

    皆さんお久しぶりです。あすみです。
    今日は、自分のことではなく、両親のことを書かせてください。
    長くなります。

    うちの母は、糖尿病の合併症で足の感覚が鈍くなっていて、
    もう数年、長距離の移動が難しい状態が続いています。

    去年、両親の結婚50周年に合わせてヨーロッパ旅行を計画していたのですが、直前になってお医者様にストップをかけられ、キャンセルになりました。

    その時、母は泣きませんでした。
    「しょうがないね」と言って、そっと笑っていました。
    その笑顔が、ずっと気になっていました。

    すこし前のことになります。
    今年の春先に、偶然あるサービスのパンフレットを見つけました。

    「健康上の理由で海外旅行が難しいご夫婦が、新婚カップルのハネムーンを応援するプログラム」。

    支援する側は、そのカップルの旅の体験を
    「バーチャルリアリティを超えた特別な方法で」追体験できる、
    とありました。

    仕組みがよく分からない部分もありましたし、
    正直、怪しくないかと調べもしましたがはっきりとしたことはわかりませんでした。

    それでも、両親がもう一度「旅に触れる機会」を持てたらと思い、
    思い切って送ってみました。

    父から「これに参加してみる」と連絡が来た時、
    「お母さんが面白そうって言ってたから」と添えてありました。

    その言葉が、いかにも二人らしいと思えて、
    なんだか胸が温かくなりました。

    そのプログラムに参加して旅の追体験をしてからの二人は、
    少しずつですが変わったところがあります。

    父が、庭の桜の木をよく見るようになりました。
    三十年住んでいる家の庭なのに、

    「この木、こんなにきれいだったか」

    と言うので驚きました。
    父はそういうことを口にする人ではなかったので。

    母が、体の不調を素直に言うようになりました。
    以前は何を聞いても「大丈夫」と言う人でした。

    でも先日、
    「今日は足が重いから、近いスーパーにして」
    と父に伝えたそうです。

    父もそれを当たり前のように受け取ったとのことでした。

    たったそれだけのことなのに、胸がいっぱいになりました。

    二人で一緒に座って話している時間が、少し増えた気がします。
    来年の春、京都に桜を見に行こうと話しているようです。

    「バーチャルリアリティを超えた体験」が何だったのか、私は知りません。
    両親からも詳しくは聞いていませんし、聞かなくていいと思っています。

    ただ一つ、
    両親が支援した若いご夫婦に赤ちゃんが生まれたと、
    後日、そのサービスをやっている会社から連絡があったそうです。

    父が電話を受けたようで、
    切ったあとしばらく黙っていたと母から聞きました。

    「なんて言ってたの?」と聞くと、
    「何も言わなかった。ただ、いい顔してた」
    と母が言いました。

    その「いい顔」がどんな顔だったのか、私は想像するしかありません。
    でも、何か大切なものに触れた顔だったのだろうと思っています。

    パンフレットを送ってよかった。
    両親がまだ新しい何かに触れられるうちに、
    二人が一緒にいられるうちに、
    間に合って本当によかった。

    それだけを、ここに書いて残しておきたくなりました。

    長くなりました。読んでくれてありがとう。
    あすみ

    ❤ 31  💬 コメント 9


    由子: 
    読んでいて、気づいたら目から汗が。
    明日見のお父さんの「いい顔」、想像したら胸がいっぱいになった。
    送ってあげてよかったね。
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    あすみ: 
    ありがとう。私もまだ、うまく言葉にできないでいる。
    でも書いてよかった。
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    真由美: 
    明日見の「間に合ってよかった」という言葉が刺さった。
    私も親のこと、もう少し考えよう。
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    あすみ: 
    そうだよ、本当に。真由美も。
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    未来也: 
    姉さんいつもありがとう。
    父さんと母さんのこと、任せきりでごめん。
    今、プロジェクトが佳境で、砂漠の真ん中で頑張っている。
    でも読んで、ちゃんと帰ろうと思った。
    次に帰国したときには。
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    あすみ: 
    未来也、読んでくれてありがとう。
    帰るときは教えて。また四人でゆっくり話そう。
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    【「現身うつしみの話」これにて大団円】

    ここまで読んでくださり、本当にありがとうございました。
    みなさまのところにも、穏やかな春が訪れますように

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    これまで培った思考力と、創作で追いかけてきた情緒の陰影── これら二つを支えに、心に届く物語を探していきます。 読んでくださる方の日常に、余韻が残るような物語を届けられたらと思っています。 また、作品の裏側や創作の小さな気づきも発信していきます。

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