金緑色の砂の夜に 6章

6.輪廻
どうやら彼奴のとった進路は南南西だったようだ。眼下にはこの旅の出発点である、あの湖が広がっていた。その水面の上では、僕が横になっていたボートが一艘、木の葉のようにその場に留まりながら優しく揺れていた。
ここでカラスは時計回りに旋回を始めたので、当然ながら僕もその動きに合わせた。高度を保ちながら旋回を維持するのは実は難しい技術を要するのだが、そんな中でも僕はこの湖の奥で複雑に輝く光彩に見とれていた。湖底に積もる金緑色の砂は僕の旋回に合わせて都度その表情を変えていく。月明かりの反射角の変化によるものだろう。そしてこの高さから眺めていると、これら無数の砂の集合が一つの大きな鉱石として湖底で輝いているように思えた。
「綺麗だな・・・」
そして、何だろう。この安らかな気持ちのまま消えてしまいたいような念慮が僕の胸に湧き立った。痛みも苦しみもなく消え去る、そんな良からぬ理想が浮かび始めていたその時だった。僕の翼の揚力は突如そのバランスを失い、きりもみ状態に陥った。急速に高度を失いながら目まぐるしく周囲の景色が回転する。一瞬あのカラスの姿が見えた。彼奴は僕を気に留めることもなく相変わらず時計回りの旋回を続けているようだった。その時、僕の頭に浮かんだのは彼奴への憤りの感情などではなく、いっそこのまま湖面に叩きつけられてしまおうか・・・というものだった。先程浮かんだ念慮の続きだろう、飛行制御を完全に失った僕は無意識にその念慮に従い、全身の力を抜き、この惑星の重力による自然落下に身を委ねた。
これで良い・・・これで良いんだ・・・
そう思い、落下していた時だった。僕の翼は揚力を再び取り戻し始め、辛うじて落下を制御できる状態になった。先程の動作が偶然にもきりもみ状態から復帰する方法と合致していたようだ。
どうやらこの世界はそう簡単には僕を楽にはしてくれないらしい。そのまま僕はあのボートを降下地点として調整した。『ドン!』という衝撃音とともにボートに着地し、その周囲には決して小さくはない波が立った。
ボートの揺れが収まった頃、僕はふと思った。この旅はいったい何だったのだろうかと。何となしに僕はボートの上でいつかのように仰向けになり夜空を仰いだ。カラスは相変わらず時計回りに旋回していた。そして僕は右腕を使って両目を覆った。この月明かりが、星の光が今はまだ眩しすぎるのだ。
しばらくすると不思議な映像が脳裏に浮かんだ。僕は久々に夢でも見ているのだろうか、奥行きも何も分からない、風もない、音もない、ただの真っ白な空間が目前に広がっている。その空間の中央には、翼のない僕が立っており正面の3m程先には高さ40cm程の造花が1本立っていた。ドライフラワーのように干からびているその造花は既に本来の色彩を失っている。そして、その僕は黒く重厚な印象の一眼レフのカメラを首からストラップで下げていた。
暫くすると、その僕はしゃがみ込んでカメラを構えた。焦点距離を合わせファインダー越しにその造花の蕾をじっと見つめていた。そして数十秒後、カシャッというシャッター音が1回聞こえた。彼はそのままの状態で暫く静止していた。そして静かにカメラを下ろし、ゆっくり立ち上がると、僕の方を向いた。彼は泣いていた。彼は、枯れた造花に涙していたのだ。そして僕に向かって哀しげな微笑みを浮かべ、小さく頷いた。何かを伝え終えたかのように映像はそこで途切れた。
船体を優しく叩く波の音で僕は目を覚ました。夜風がこめかみや耳の上を吹き抜ける度にひんやりとした冷たさを感じる。どうやら僕は涙を流していたようだ。横を向くとペストマスクのカラスは船縁に立って僕の顔をじっと見ていた。どうせ何も答えてくれないことを知りつつ僕は彼奴に聞いた。
「なあ、二度と大切なものを抱きしめることのない人生って、何の意味があるんだろうか」
彼奴は首をかしげるだけだった。当然その眼はペストマスクのレンズの向こう側にあり、表情も感情も読み取れない。僕は小さな溜息をつき、上体を起こした。そしてボートから少し身を乗り出してこの上澄みの奥底を見つめた。星月夜の光を浴びて湖底の砂は相変わらず金緑色に輝く。僕はそれを、しばしぼうっとして眺めていた。美しさも儚さも愛おしさも、いずれ消えゆく泡沫の夢に過ぎない。ともすれば、それら感性を司る僕自身も一種の概念に過ぎないのだろう。それならばもう、何をも深く考える必要はないはずだ。儚く美しく輝くあの砂を、僕自身の、この手でこそ掬ってみようではないか。金緑色の粒子たちよ、存分に僕の手を切り刻むがいい。
その時ペストマスクのカラスが言った。
「やめておけ。二度とここへは戻れなくなる」
分かっている、分かっているよ。
彼奴の警告を受けてもなお、僕の意思が揺らぐことはなかった。ゆっくりと伸ばした僕の両手は、始めにその上澄みの中に沈んだ。なんと温かいのだろうか、僕はこの忘れていた感覚に涙が止まらなかった。もはや恥も外聞もない、存分に泣いてやるだけだ。
・・・そうだ、あの綺麗な砂はどこだ。そうか、あれはもっと深く、湖底に積もっているのだった。僕は無意識に船縁から身を落とした。沈む、沈む、肺が圧迫されてゆく。
暫くすると、僕の両手の指の先にちくっとした粒子状のものが触れた。ここにあったか。そのまま僕は、ついに金緑色の砂をこの両手に掬った。直後、その砂たちは僕の両掌の皮膚を切りつけ始めた。それでも僕はまだ、この痛みと先程感じた温かさの間にいた。その後、湖底から舞い上がった無数の粒子は僕の全身に執拗にまとわり付きながらをこの身を細かく切り刻み始めた。切り刻まれているのは僕の肉体ではない、僕という概念そのものだ。この一見美しい記憶の粒子の影には無数の刃が潜んでいた。痛みも苦しみもなく一瞬で消え去るというのは理想がすぎた。しかし、そこにあの捨てがたい温かさが共存することで僕の心は十分に満たされたのだった。
そんな僕が最期に見た景色、それはこちらを向いた、あの羽のない僕が視線を落としながら、ゆっくりと首を振る姿だった。
ん?僕は何かを間違えたのか?
空が死んだ
星が消えた
月も消えた
くだんのカラスは船縁から僕の最期を見届けていた。そしてさっきまで僕が寝ていたボートの中央部に移動し、これまで一度も外すことのなかったペストマスクをおもむろに脱ぎ捨てた。これまでマスクの奥にひそめていたその顔は、月明りで逆光となりつつも、はっきりと見て取れた。そう、それは他でもない僕自身の顔だった。そしてその姿かたちは次第にカラスから翼を持つ人間へと変化した。その新たな「僕」は足元のペストマスクを無造作に掴み上げ、湖の向こう岸に向けて思いきり投げ飛ばした。少ししてから遠くの方で着水音が聞こえた。僕はそのままボートの中央で仰向けになり眠りについた。
先程この湖底に散った僕が、始めにそうしていたように。
しかしその眠りは再び来たる新たなカラスに頬をつつかれる、
その時までの浅いものとなるだろう。
忘却と追憶
僕自身が真にその意味を認めることができたとき
漸くこの輪廻は断ち切られるはずだ
ただし
僕の視界がまだ見ぬ可能性と
彩りに満ちた景色を捉えるには
もう少し時間が必要なのかもしれない
了

※本作品の装画・挿絵は著者がアナログ画材で作成しました
(▶ 次の記事)
◀ 前の記事
