
【午後四時四十五分のブループリント】第11章『夕暮れの迷路と、二人の建築家』
第11章『夕暮れの迷路と、二人の建築家』

文化祭の熱狂が嘘のように引き潮となって消えた、午後四時四十分。
後夜祭が行われている体育館から遠く離れた二年三組の教室は、祭りの後の独特の静寂に包まれていた。絵の具と埃、そして大量の段ボールが擦れる匂いが、少しだけ冷たくなった秋の空気に混じって漂っている。
教室の中央にそびえ立つ、巨大で不恰好な迷路。僕はその入り口の前にパイプ椅子を引っ張ってきて、ただ一人、時計の針を見つめながら座っていた。
今日一日、この迷路は大盛況だった。
「瀬戸の作った壁、何人がぶつかっても全然壊れねえのな!」と、お化け役の木村たちは興奮した様子で僕の肩を叩いた。透明なクラゲだった僕が、クラスの中心で頼りにされ、感謝される。それは確かに悪くない気分だったけれど、僕の中の達成感はまだ完全ではなかった。
この迷路は、僕一人の力でできたものじゃない。
僕が本当にこの壁を見せたい相手は、今、この学校のどこにもいないのだ。
午後四時四十四分。
西側の窓から差し込む夕暮れの光が、教室を深い茜色に染め上げていく。
本当に来るだろうか。半年間も家の外に出ていなかった彼が、いくら人がいなくなった時間とはいえ、この学校に足を踏み入れることができるだろうか。もし来なかったとしても、決して彼を責めたりはしない。そう自分に言い聞かせるけれど、組んだ両手にはじっとりと汗がにじんでいた。
午後四時四十五分。
カチリ、と時計の針が動いた、その時だった。
……キュッ。
誰もいないはずの廊下の奥から、上履きのゴムがリノリウムの床と擦れる、微かな音が聞こえた。
僕は弾かれたように立ち上がり、教室の入り口へ顔を向けた。
足音は少しずつ、でも確かな足取りで近づいてくる。やがて、開け放たれた教室の前側のドアの枠に、一つの影がふらりと現れた。
肩で激しく息をしている。真っ白な肌に、少し長めの前髪。
結城湊だった。
彼は、半年間一度も袖を通していなかったはずの、少し折り目のついたままの冬服の制服を着ていた。まるで、それがこの場所へ来るための『正装』であるかのように。
「……結城」
僕が声をかけると、彼はビクッと肩を揺らした。前髪の奥の瞳が、怯えたように揺れている。ここまで来るのに、どれほどの恐怖と戦い、どれほどの勇気を振り絞ったのか、彼の荒い呼吸と青白い顔を見れば痛いほどわかった。
結城は僕の顔を見て、それから、僕の後ろにそびえ立つ巨大な段ボールの迷路へとゆっくり視線を移した。
その瞬間、彼の怯えていた瞳に、すっと強い光が宿るのがわかった。
「……強度は」
掠れた、ひび割れたような声だった。
結城はゆっくりと教室に足を踏み入れ、段ボールの壁に近づいた。
「ちゃんと、十字にガムテープを貼ったか。基礎の壁は、ロッカーに固定したか」
僕は短く息を吐き出し、答えた。
「ああ。指示通りにやった。お前が引いた図面(ブループリント)から、一ミリもずらしてない」
結城は壁の前に立ち、僕が重ねた不恰好な段ボールの継ぎ目に、そっと指先を這わせた。
僕たちの現実のブロック。それはゲームのような綺麗な真っ白な立方体ではなく、近所のスーパーで集めてきた「みかん」や「トイレットペーパー」の印字がある、泥臭くてみすぼらしい段ボールだ。
でも、結城はそれを愛おしそうになぞり、やがてドン、と軽く拳で壁を叩いた。
壁は、びくともしなかった。
「……素人の現場監督にしちゃ、上出来だ」
結城は壁から手を離し、僕の方を振り返った。その顔には、ゲームの中で何度も想像した通りの、少し生意気で誇らしげな『ハク』の笑みが浮かんでいた。
「誰の設計図が完璧だったと思ってるんだよ」僕も笑って言い返した。
夕暮れのオレンジ色の光が、段ボールの迷路と、二人の影を長く伸ばしている。
もう、仮想空間のモニターなんて必要なかった。
「何者にもなれない」と水槽の底で息を潜めていた僕と、現実の扉を閉ざして暗闇に閉じこもっていた彼。そんな二人の不器用な少年が、確かな意思を持って現実世界に積み上げた、絶対に崩れない壁。
「なあ、ナギ」
結城が、僕の目を真っ直ぐに見て言った。
「一段目の壁、綺麗に並んだな」
僕は、あの夜、彼が家のポストから僕の封筒を見つけた日のチャットを思い出し、大きく頷いた。
「だろ? 俺が積んどいた。完璧なバランスだろ」
窓の外から、祭りの終わりを告げる遠い歓声が聞こえた。
僕たちの、秘密の文化祭が終わる。
でも、僕と彼が現実世界(ここ)で造り上げる新しい景色は、午後四時四十五分のチャイムと共に、今、始まったばかりだった。