
え、何が?反映さん。 #09(仮)のことは忘れてください
店長が昨日の男を連れて和室に入ってきた。
「はい、こちら。今日から入った方です。じゃあ、ささっと自己紹介しちゃおっか」
男は軽く咳払いをした。
「人手不足とのことで店長からお誘いを受け、こちらで働くことになりました。伊吾澤 慎蔵です。よろしくお願いします」
店長は笑顔で「うんうん」と頷いた。
「反映です。よろしくな、伊吾蔵」
「え、いやあ、ハハハ」
伊吾澤さんはこめかみをポリポリと掻いた。
「伊吾蔵ではなくて、伊吾澤 慎蔵なのですが」
「めんどうだから伊吾蔵でいいじゃないか」
「いやいや、伊吾澤でも慎蔵でも文字数は変わらないですよ」
「あんま細かいことは気にすんなよ、伊吾蔵。それに、あだ名の方が親しみやすくていいだろ」
「まあ、はい、それはそうですが。でもなんか、伊吾蔵ってとても古臭いんですが」
「古臭いけどよろしくな、伊吾蔵」
「いやあ、ハハハ、よろしくお願いします」
伊吾澤さんはこめかみをポリポリと掻いた。
「じゃあ次、汐留くん!」
店長はとてもうれしそうだった。
「汐留です。よろしくお願いします。伊吾蔵さん」
「ハハハ、あなたまで。まあ、よろしくお願いします」
店長が手をぱんと一回叩いた。
「はい、じゃあ、みんな仲良くね!ってことで伊吾澤くんは反映くんと汐留くんに色々教えてもらっちゃってね」
伊吾蔵さんはこめかみをポリポリと掻いていた。顔合わせを終えると店長は2階に上がっていった。
「じゃあ、俺もちょっと店長に呼ばれてるから」
反映さんも2階へ消えた。
伊吾蔵さんがツーッと息を吸い、俯く。
「そういえば、甘いものが食べたくなってきました。あ、そうだそうだ、今日は一緒に仕事をする皆さんへの差し入れとしてお菓子を持ってきていたのでした。でも、まあ私が食べたくなってきちゃったので、先に一人で食べてしまいましょうか」
伊吾蔵さんは僕の様子をうかがっていた。僕は自分の両手の爪を見ていた。
「いやぁ、美味しそうなお菓子ですね。差し入れとしては我ながらいいものを選んだと思いますよ。みなさんのために持ってきたのですが、一つぐらい私が食べても許されるでしょう。ああ本当、みなさんにも食べていただきたいものです」
伊吾蔵さんは僕の様子をうかがいながら、ゆっくりとお菓子に手を伸ばした。
僕は中指の爪の長さが気になっていた。
2階から反映さんが戻ってきた。
「お、これ食べていいのか?」
反映さんはお菓子を手に取った。
「ちょうど私が食べたいと思って開けたところなのですが、食べたいのですか?」
反映さんはもぐもぐと食べていた。
伊吾蔵さんはこめかみをポリポリと掻いた。
「え、いやあ、美味しいですよね、ハハハ」
反映さんは2個目を手に取った。
「汐留も食べたらどうだ?美味いぞ」
伊吾蔵さんは少し嬉しそうだった。
「じゃあ、いただきます」といって僕もお菓子を食べた。
伊吾蔵さんがツーッと息を吸い、俯く。
「いやあ、持ってきてよかったです、差し入れ。そういえば店長さんも食べたいって言ってました。皆さんに全部食べられてしまう前に一個残しておかなければいけませんね」
伊吾蔵さんはお菓子を手にとりポケットへしまった。
僕は伊吾蔵さんに見入ってしまっていた。
「伊吾蔵、お前」
反映さんは伊吾蔵さんを指さしていた。
「え、何ですか?」
「左利き?」
伊吾蔵さんは軽く咳払いをした。
「はい。まあ左利きといえば、左利きですが、右が使えないわけではありません。そもそも左利きや右利きなどというのはまやかしであって、本来は状況に応じて、どちらの手も使えるようにしておかなければいけないわけで」
伊吾蔵さんは、一度息継ぎをして、喋り出そうとした。
僕は、引き出しを開けて爪切りを探した。