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【掌編小説】帰宅

    目を覚ますと母はもういなかった。「明日は朝からパートだからちゃんと鍵掛けて行ってね」と言っていたのを思い出した。
    母はいつも「いつ地元を発つのか」を聞いてくる。昨日は兄が一足先に実家を発った。玄関先で兄を見送る母の声を私は自分の部屋から聞いていた。私も昨日発つ予定だったが、急遽もう一日滞在を延ばすことにしたのだった。新幹線の料金はなぜか六百円安くなった。

    一人の実家は久しぶりだった。帰省してきても、毎晩のように友人と飲みに行き、実家へは寝に帰るだけだったので、最近は母か兄のいる実家しか知らなかった。
    私はリビングに行った。南向きの実家は電気を点けなくても明るくて、少し開けられた窓のそばでは、穏やかな風が色褪せたカーテンを揺らしていた。帰ってくる度に何も変わっていないと感じていたこの部屋が、一人になると本当にあの時のまま時が止まってしまっているみたいで、このまま着替えて大学にでも行ってしまおうかと思った。まあそれは流石にしないにしても、一昨日のように「もう一日おることにした」と母にLINEをするのもまた一興ではないかと考えていた。
    ふと食卓の上を見ると、洗濯済みの私の下着が綺麗に畳まれて置かれていた。そして、その上にはトローチと未使用のポケットティッシュが添えられていた。私はトローチをパチンと一つ弾き出し、口の中に入れた。もうほとんど治りかけている喉に独特の風味を含んだ空気が通り抜けた。そして、私は下着に顔を埋め、目を閉じて、肺一杯に息を吸い込んだ。

    洗面所の前に立つと、毛穴が目立ち、無精髭の生えた年相応の見た目をした男が鏡の中にいた。顔を洗い、実家のタオルで顔を拭き、家から持ってきた化粧水で保湿をした。滞在中は洗面所に放置していた歯ブラシや髭剃りをリュックの中にしまうと、洗面所はとても殺風景になった。だがビチャビチャだった。「あんたが使った後の洗面所はすぐに分かるわ」と学生時代に母からよく言われていたのを思い出した。私はタオルで拭かずにそのまま洗濯機に放り込んだ。

    部屋に戻り、訳の分からないプリントがされたTシャツと高校時代の体操服の短パンを脱ぎ捨て、小綺麗な襟付きシャツとスラックスを身に付けた。この時期の日本は一週間も経つと気候がガラッと変わってしまうもので、家から着て来た二軍の上着は置いていくことにした。
    最後にもう一度、リビング、洗面所、風呂場、そして帰省中に一度も出なかったベランダにも、忘れ物がないか確認した。私の物は一つも残っていなかった。

    玄関に向かうとたたきには私の靴だけがあった。それ以外は何もなかった。私は学生時代から履き倒しているせいで年季が入り過ぎている靴に足を入れ、着替えでいっぱいのリュックを背負い、手土産が入った袋を手に持った。そして明日からまた一人になる部屋を振り返り、「行ってきます」と呟いた。

    了

    1作目・3作目はこちらから。

     
     
    宇宙野いるか(そらの いるか)。短編と掌編を書いています。

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