
【掌編小説】発熱
今日は会社を休んだ。体はどこも悪くなかったけど、俺のどこかがおかしい気がしたから。
今思えば、先週の金曜日から、俺はおかしくなり始めていたんだと思う。
金曜日はいつも先輩とご飯を食べる。お酒は飲まない。俺が飲めないから。先輩はお酒が好きだと言っていたけど、俺とご飯を食べる時は飲まない。「最近は禁酒してるんだ」とは言うけど会社の飲み会ではかなり飲んでいる。
先週の金曜日はずっと行きたかったインドカレー屋に行った。先輩は辛いのが苦手だと言って行きたがらなかったけど、調べてみたら辛くないカレーもあることが分かったので渋々了承してくれた。
そのインドカレー屋は先輩の家の近くにあった。
「こんなに近いと通えちゃいますね」「お前としか来ないよ」「じゃあ毎週ここで」「まあ、別に」
俺のカレーが先に届いた。でも口はつけなかった。先輩はいつも「先に食べてていいよ」と言うけど、一緒に食べたいので「いいんですよ」と言う。先輩は食べるの遅いし。俺が先に食べ終わると慌てて掻き込み始めるので最近はペースを合わせてあげている。先輩はそのことを多分知らない。
先輩のカレーも運ばれてきた。二人で手を合わせた。「いただきます」先輩の一口目をじっと見た。少し不安だった。先輩の咀嚼がもどかしかった。
「美味しい。ちょっと辛いけど、全然食べられる」
良かった。
先輩の一口目を見届けた後、俺もカレーを口に運んだ。美味かった。今まで食べたカレーの中で一番だったかもしれない。「美味しいね」とつい言ってしまった。「ああ」先輩は気づかなかったのか、いつも通りだった。
「俺のカレーも食べます?」「いや、絶対辛いでしょ」「一回食べてみて」「いや、いいって」「そんなに辛くないですから」「ほんとかよ、じゃあ」
先輩はスプーンに乗っている自分のカレーを、さっきまでよりも僅かにゆっくり、そして丁寧に口に含んだ。カレーが綺麗に舐め取られて、艶やかに光る銀のスプーンが口から現れる。そして、そのスプーンが俺のカレーのルウに差し込まれる。少しだけ遠慮がちにルウを掬い取ったスプーンは再び先輩の唇と唇の間に吸い込まれていった。喉がごくんと鳴る。数秒の沈黙。
「うん、意外と美味しい」「でしょ」「いやちょっと待ってやっぱり辛い。あ、ダメだこれ水」先輩の顔はみるみる真っ赤になっていた。表情も見たことがないくらいに歪んでいた。俺は笑った。先輩は水を一気飲みしていた。「水飲んでもずっと辛い」と大きく口を開けて舌を出している。こういうところが良いんだよな、この人は。
カレー屋を出た後、なんとなくまだ帰りたくなくて、飲みに行ってもよかったのだけど、先輩の健康を害するわけにはいかないので、コンビニでアイスを買って食べようと提案した。提案というより誘導か。
アイスはただの口実で、特に食べたいものもなかったので、パピコを手に取った。これなら先輩の負担にならないだろうと思った。「俺も自分の買うよ」「いや、シェアできた方がいいでしょ」先輩は腑に落ちない顔をしていたけど、嬉しそうだった。
少し遠くの公園まで歩いて、俺たちは並んだブランコに腰掛けた。
「明日、温泉行きませんか」「温泉はいいわ」「えーなんで」「明日は予定あるし」「じゃあ来週」「まあ考えとくよ」そんな会話をしていたらパピコはあっという間になくなった。やっぱりアイスは一つずつ買うべきだったかなと思った。
次の口実は見つからなかった。まあ彼女も待っているし帰るかと思った。
駅までの道中、「電車で一人になる時間が寂しい」と言ったら先輩は駅まで見送ってくれることになった。
「先輩も彼女作ったらいいのに」「作る気はあるよ」「あったらこんなに僕とご飯行かないでしょ」
先輩が一瞬黙り込む。
「じゃあ、今の彼女と別れたら俺とは飯行かないのか」
そんな訳ない。
「いや、行くよ」と咄嗟に答えた。「行くのかよ」と言う先輩の顔は見ないようにした。
先輩と別れて一人で電車に乗ってから、先輩と話したかった話題が溢れてきた。飼いたいペットのこと。楽しみにしている映画のこと。来月ある成人式のこと。
気が付くと先輩のLINEを開いていた。「めっちゃトイレ行きたい」、訳のわからないLINEを送っていた。
既読はすぐについた。「なんだそれ」と返ってきた。俺もそう思う。スタンプ一個で終わらせた。
土日は彼女と色々した。ご飯も食べたし、映画も見たし、セックスもした。いつもと変わらない休日だった。
日曜日の夜、彼女の寝息を聞きながら「温泉行きたかったな」と思った。彼女とでも行けばよかった。
月曜日。いつもは憂鬱なはずなのに、今日は足取りが軽かった。よく眠れたからかなと思った。
会社に着くと先輩がいなかった。午前中は外出かなと思った。でも午後も来なかった。一日来なかった。多分他のオフィスで今日は働いてたんだろう。別によくあることだ。
先輩のLINEを開いた。でもすぐに閉じた。先輩は忙しいだろう。送ったら迷惑かもしれない。
もう一度開いた。文言は思い浮かばなかった。この間にLINEが来たらすぐに既読がついちゃうなと思った。でもLINEは来なかった。先輩のLINEを閉じて彼女のLINEを開いた。「今日はすぐに帰るね」彼女からは喜びを表すスタンプが届いた。先輩からのLINEはやっぱり来ていなかった。
帰りは少し駆け足で帰った。電車は空いていたけど、席には座らなかった。
「おかえり」と迎えてくれた彼女を強く抱きしめた。「会いたかった」と口にした。
その夜は、いつも以上に激しい夜を彼女と過ごした。彼女は驚きながらも喜んでいるように見えた。俺の身体は熱く火照っていたけど、心はいつもより静かだった。
全てが終わった後に、「何か良いことでもあったの」と彼女が聞いてきた。「分からない」と答えた。「今日は疲れたからもう寝るね」と豆電球を消した。
そして今日。俺は会社を休んだ。適当な理由をつけて休んだ。
朝の支度中はいつも通りだと思っていた。彼女とご飯を食べて、彼女と洗面所を譲り合い、先に家を出る彼女を見送った。
だが、玄関のドアノブに手をかけた瞬間、動けなくなった。いつも通りの朝ではないことにそこで気がついた。
いつも食べる納豆を今日は食べなかった。髭はカミソリ負けするほど深めに剃った。棚の奥にあったヘアアイロンを使って髪をセットした。
俺は革靴を履いたまま玄関にうずくまった。分からなくなって頭を掻きむしった。そしてそのまま会社に電話をかけた。彼女がもう家を出ていてよかった。
部屋に戻り、スーツのまま俺はベッドに潜り込んだ。携帯は電源を切って遠くに投げた。
了
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