
【掌編小説】天井の月
薄オレンジ色のシーリングライトが、灰色の天井にぼんやりと浮かんでいる。月みたいだなと思った。でもこの月の綺麗さを伝えられる人は私にはいなくて、というかそもそもこの月はそんなに綺麗じゃなくて、それでも私は、ぼんやりとこの月を見ていた。
この前、人間が初めて月の裏側に行ったらしい。最も地球から離れた人類。すごいな。休日の私は布団から一歩も出ないことだってあるのに。そんなに遠くまで行くなんて疲れるでしょう。宇宙飛行士も「今日は家でゆっくりしたい」と思ったりするのかな。
月にうさぎがいるとまだ信じていた頃、月がずっと追いかけてくると怖がっていた頃、私は月に裏側があるとは思いもしなかった。表側が全てだと思っていた。でも大きくなるに連れて、月には裏側があることを知り、大人はみんなそれを知っていることを知った。そしてその見えない裏側を、ロケットを飛ばしてでも見ようする人、逆にその見えない裏側は存在しないと信じる人がいることを知った。
月旅行に行った社長がいた。愛する人と。当時の売れっ子女優と。テレビのカメラの前で、月旅行にいくらかかるかを語っていた。その愛の大きさを誇示するかのように語っていた。でも、その数ヶ月後、社長の二股がバレてあっさり別れていた。月まで行ったのに。
私には分からない。好きな人と月まで行ったのにその後別れてしまうということが。どうして?好きな人のことを嫌いになってしまうの?別れるってなに?せっかく好きな人と付き合えたのに。
別れを告げる人は傲慢だと思う。世の中には誰とも付き合えない人がごまんといるのに。自分がどれだけ恵まれた環境にいるのかが分かっていない。「月が綺麗ですね」と言っても「そうだね」と言ってくれる人がいない、「月が綺麗ですね」と言われて何と返せばいいか悩むこともない、そういう人が地球にはたくさんいるんです。
身体だけが大きくなってしまって、中身は子供のままなんです。好きな人のことは死ぬまで好きだとまだ思っているんです。好きな人のためなら死ぬのが当たり前。そう信じているんです。
実際はそうじゃないってことは分かってます。でもその「実際」はいつ来るんでしょうか。おそらく一生来ないんだと思います。
大学時代に好きになった人がいました。同じバイト先のS君。背が高くて、爽やかで、適度に焼けた小麦色の肌は公園で野球をしている少年たちを思い出させました。でも実際はフットサルサークルに入っていたし、私とは一歳しか変わりませんでした。
S君は誰に対しても優しくて、フレンドリーだったけど、どこか壁を感じさせる人でした。バイト中の空き時間には気さくに話してくれるけど、シフトが終わったらすぐにロッカールームに引っ込んで、誰とも話さず荷物をまとめてそそくさと店を去る。そんな人でした。
そんな彼が、私にだけは懐いてくれたことに、当時の私はどこか優越感のようなものを感じていたのかもしれません。
きっかけは彼の「クリスマス空いてますか」の一言でした。バイトのシフトが被った日、客の波が途絶えて店内に二人きりになった時に言われました。
「え。まあ。空いてますよ」
私はレジの台を拭きながらそう答えました。
「じゃあ、シフト代わってもらえませんか」
案の定でした。そりゃそうでした。知ってました。
「いいですよ」
クリスマスには何の予定もないのに「何かあるかもしれない」と思って私は休みを取っていました。なので、私は二つ返事で承諾しました。承諾できました。できてしまいました。
「何か」はあったけど、これは私の期待していた「何か」ではありませんでした。
「クリスマス空いてますか」に対する淡い期待を裏切られたことよりも、S君はクリスマスに予定があるという事実が私の心をざわつかせました。ミッキーの着ぐるみの中を見てしまったような、正直言って不快な感覚でした。そして、そのように感じている自分に、私は戸惑いました。なぜなら、当時の私はS君のことを別に好きではなかったからです。「かっこいいな」とは思っていました。だけど好きではなかったです。好きな人は別にいました。
まああんなにかっこよかったら彼女もいるか、とその時の私は自分を納得させました。別に「彼女と過ごす」とS君は一言も言っていなかったのに。自分を納得させる必要もなかったはずなのに。
「マジですか、ありがとうございます」
申し訳なさそうな表情をしながらも、嬉しさが滲み出ている顔をしたS君は不意にポケットからスマホを取り出しました。スヌーピーのイラストが描かれたケースを見て、「意外に可愛いものが好きなんだな」と思いました。そして、S君のスマホをその時初めて見たことに気が付きました。
「じゃあ、LINE交換しましょう」
S君はLINEのQRコードが表示された画面をこちらに差し出しました。どういう意味か分かりませんでした。なぜこのタイミングでLINEを交換するのでしょう。私は少々プチパニックでした。
なんでですか、と聞くと「逆にシフト代わって欲しい時があったらすぐに連絡してもらえるようにです」と彼は言いました。ああ、と言って私は慣れない手つきでLINEを交換しました。彼のLINEアイコンは動物園で撮ったであろうパンダでした。
クリスマスの日、バイト先でクリスマスソングを聞きながら品出しをしている時、「こんなクリスマスも悪くないな」と思いました。何の予定もなく、ただ家でTikTokを見るクリスマスよりかは数倍マシだと思いました。でもサンタの帽子を被らされたのだけは今でも根に持っています。店長はなぜかノリノリでした。
お正月も、バレンタインも、ひな祭りも過ぎ去って、LINEを交換したことなんてすっかり忘れていたある日のこと。S君からLINEが届きました。夜の十一時頃でした。
「今から電話できませんか」
空っぽのトークルームに唐突に現れた一行。一行目にしては内容が不釣り合いで、歪な印象を受けました。私はスマホを一旦閉じました。トイレに行きました。その後リビングにいる母親とドラマの話をしました。母親が「もう寝るね」と言ったので、私は部屋に戻りました。ベッドに腰掛けて少しだけボーッとしました。机の上には伏せられたスマホがありました。
私は立ち上がり、机の前の椅子に腰掛けました。そしてスマホを手に取って、LINEのアイコンをタップしました。一番上に表示されたパンダのアイコン。よく見るとパンダの白は少し黄ばんでいました。私はその黄ばんだパンダをタップしました。そして、歪なメッセージを見ないようにして、「いいですよ」とこれまた歪なメッセージを送りました。送った瞬間、画面が一瞬暗くなり、S君の名前と黄ばんだパンダが画面に大きく表示されました。LINE電話の着信音を聞くのは何年ぶりだろう。そんなことを思いながら私は青のボタンをタップしました。
「すいません急に」
電話口から聞こえるS君の声はバイト先で聞くいつもの声よりも儚く、とろけていました。彼は酔っ払っているようでした。
S君の口から出てくる話題はどれも私たちが話す必要がないものでした。最近行った居酒屋が不味かったこと。大学のテスト期間が近づいてきて憂鬱なこと。近くのスーパーの冷凍うどんが最近値上がりしたこと。川の水面から顔を出した飛び石の上を跳び移るかのように話題が変わっていきました。私は着いて行くのに必死でした。
S君の声はどんどんととろけていって、深夜二時を過ぎた頃、ついにとろけ切ってしまいました。熱いコンクリートの上に乗せられた氷が溶けきって、じわっとコンクリートに染み込んで行くかのようにS君の声は小さくなっていき、とうとう聞こえなくなりました。S君、と名前を読んでも返事がなくなりました。
寝てしまったようでした。しばらく経つと電話口からは穏やかで規則正しい息の音が聞こえてきました。私は「おやすみなさい」と言って、S君を起こしてしまわないように赤いボタンをそっとタップしました。
私もどっと疲れが押し寄せてきて、ベッドに突っ伏した瞬間眠りに落ちました。
次の日の朝、自然と目が覚めて時計を見るともう十一時でした。顔を突っ伏していた枕にはファンデーションが僅かに着いていて、お母さんに叱られちゃうなと思いました。
その時スマホが鳴りました。机の方に歩いて行って通知を見ると「昨日はすみませんでした」と表示されていました。
その日から一週間に一回程度、夜の十一時くらいに「今から電話できますか」とLINEが届くようになりました。話題はいつも他愛のないもので、でも、楽しかったです。
LINEが届く日はいつも不規則で、私は毎日十一時には晩御飯を食べて、化粧を落として、シャワーを済ませて、机の前で待機するのがいつの間にか習慣になっていました。
そんなある日のこと、シフトが入っているのにS君がバイト先に来ませんでした。店長に事情を聞かれても、知らないです、と答えるしかありませんでした。本当に知らなかったから。
「まああの子、誰にも心開いてなかったもんなあ。いつか飛ぶと思ってたんだよ」
と店長は言っていました。
その日私は早めにシャワーを済ませて十時くらいから机の前でじっと待ち続けました。ただひたすらに待ち続けました。TikTokもドラマも見ませんでした。でも、S君からLINEは来ませんでした。
次の日も、そのまた次の日も、そして一週間経っても、LINEは来ませんでした。でも、私からはLINEは送りませんでした。
LINEが届かない日がどんどん流れ過ぎ、机の前で待機する習慣も無くなっていきました。私は私の夜の時間を取り戻しました。
S君との話はこれで終わりです。
何もありませんでした。
片思いだけは人一倍してきた自信があります。失恋もいっぱいしてきました。恋に傷ついてきました。でも、やっぱり、そこには大きな断絶があるんだろうなと思います。ファンタジー映画とドキュメンタリーです。悲しいです。
天井に浮かぶ月も偽物です。本物の月はもっとボコボコしています。でもそのボコボコは、本物の月を見た人にしか分かりません。シーリングライトだけを見て月を語ることはできません。外に出て、本物の月を見た人だけがその美しさ、醜さ、そしてその裏側を語ることができるのです。
今日は電気を消さないでおきます。このまま寝ようと思います。おやすみなさい。
了
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