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10分で消される会社員が、組織から『自分』を奪い返す方法

彼が消えるのに、10分もかからなかった。

40年勤めた男の痕跡が、消毒液の匂いに変わった話をしよう。


今日もスナックゆきで、一杯だけ頼んだ。

オーヘントッシャン12年にした。

スコットランドで、
三回蒸留を守る酒だ。

雑味を削ぎ落として、
削ぎ落として、

無色透明に近づいていく。

澄み切った、
アルコールの香り。

昼間、
あのフロアに漂っていた
消毒液の匂いと、

どこか、
似ていた。

今日の相棒 オーヘントッシャン12年

パチパチパチ。

平日午後3時。
オフィスが、
暖かい拍手に包まれた。

40年間、
会社にすべてを注いだYさんが、
今日、定年を迎える。

営業のトップに、
上り詰めた人だった。

「人生のほとんどは、
仕事に費やす。
だから、楽しんだ方がいい」

それが、
Yさんの口癖だった。


Yさんは、
声を詰まらせながら、
大きな体を震わせて言った。

「今まで、
ありがとうございました」

最後に、
握手を交わした。

その手は、
思っていたより、
冷たかった。

みんなで、
エレベーターまで見送った。

寂しかった。


見送った後、
Yさんのデスクを見た。

余韻に浸る間もなく、
総務の人が、

引き出しの中身を、
ゴミ袋に放り込んだ。

デスクを、
アルコールシートで拭き上げた。

ツンと鼻を突く、
消毒液の匂いが、
フロアに漂った。

拭き上げられたデスクの表面は、
やけに、
冷たそうに光っていた。

そこに、
来週から座る人のための、
新しいモニターが置かれた。

花束を持って去った男の痕跡は、
わずか10分で、
消えていた。

その時、
思った。

明日は、
我が身だ。



定年後、
しばらくして、
Yさんから連絡が来た。

飲みに行こう、と。

久しぶりに会ったYさんは、
どこか、
元気がなかった。

「俺が去った後の会社、
どうだ?
売り上げは、
減ってないか?」

減っていなかった。
大事な顧客も、
そのままついていた。

私は、
真っ向から答えられずに、

「みんな、
寂しがってますよ」

とだけ、伝えた。

Yさんが、
本当に知りたかったのは、

自分の存在価値が、
まだ、
どこかに残っているかどうかだった。


「今まで仕事中心で生きてきたから、
毎日、暇でな。

何をしたらいいか、
わからない。

昔の同僚とも、
なかなか、
連絡が取れなくてな」

駅の改札で、
Yさんを見送った。

あんなに大きく見えた背中が、
こんなにも、
小さく見えるとは。


その夜、
ママにこの話をした。

「会社引いたら、
あんた誰?」

磨きかけのグラスを抱えたまま、
ママが言った。

胸の奥が、
ざわついた。

オーヘントッシャンを、
もう一口含む。

伝統の三回蒸留によって、
不純物を極限まで、
削ぎ落とした酒。

ああ、
私も同じだ、
と思った。

優秀な歯車になるために、
組織に最適化していく過程で、

自分だけのノイズを、
20年かけて、
濾過しすぎてしまった。

だから、
会社の外枠を引かれた瞬間、

味も匂いもない、
透明な抜け殻になってしまうのだ。


脳内で、
自分の職務経歴を、
必死にめくってみた。

出てくるのは、

社内調整の速さや、
稟議を通すための社内政治、

あのビルの中でしか、
通用しないスキルばかりだった。

会社の看板を、
名刺を、

一枚剥ぎ取られたら、

私には、
語るべき言葉が、
何一つ残っていなかった。

私もまた、
10分で片付けられたYさんと、
何も変わらない存在だった。

あなたは今、
会社を引いたら、
何が残りますか。


気がつけば、
私たちの生きる世界は、

「独自の匂いや色を持つ人間から、
真っ先に脱落していく」

巨大な蒸留塔のように、
なっていた。

全員が、
自分の不純物を削ぎ落とすことに必死で、

無色透明になっていく過程を、
「成長」だと、
疑わずにいた。

オーヘントッシャンにとって、
それは美しい奇跡だ。

雑味を徹底的に排除したからこそ、
唯一無二の、
軽やかな美学が完成する。

でも、
人間はそうはいかない。

まとまらない感情や、
効率の悪いこだわりこそが、

その人を、
その人たらしめている。

酒は、
透明なほど洗練される。

人間は、
透明になれば、

ただの、
空っぽの抜け殻になる。



その夜、
私は一つだけ決めた。

スマホの電源を静かに落とし、

会社の冷たい理屈の上では、
1ミリも役に立たない、

拙くてまとまらない日記を、

真っ白な紙に、
手書きで書く。

それは、
時代の速度に対する、

私なりの、
静かなやせ我慢だ。



グラスを、
両手で包んだ。

ウイスキーの熱は、
たいしたものじゃない。

でも、
私が今日見送った、

あの冷たい手の感触よりは、
ずっと、
あたたかかった。

削ぎ落とすことに、
慣れすぎていた。

たまには、
削ぎ落とさなくてもいい。

たぶん、だけど。

グラスが空いた。
今日はここまでにする。


はじめてスナックゆきに 来てくれた方へ。
私がどんな人間で、 なぜこのエッセイを書いているのか。
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