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少しだけ光る 第5章 隣の島へ

    展示が始まってから、三日が過ぎた。

    白い壁の前には、毎日少しずつ人が立ち止まった。

    観光客もいれば、島の人もいた。

    何も言わずに写真だけを見ていく人もいたし、言葉の前で長く止まる人もいた。

    写真展というほど大げさなものではなかった。

    それでも、誰かがそこで足を止めるたびに、この場所に何かが生まれているように思えた。

    健太は、思っていた以上に喜んでいた。

    「いいですね、これ」

    朝の掃除をしながら、健太は何度も白い壁を見た。

    「何が?」

    「人がちょっと静かになる感じがします」

    「静かになる?」

    「はい。写真を見る時って、話し声が変わるんですよ」

    そう言われて、僕も壁の前に立つ人たちを見るようになった。

    たしかに、写真の前では声が小さくなる。

    言葉を読む時、人は自分の中のどこかに戻っていくのかもしれない。

    未那も展示が始まってからよく壁の前に立っていた。

    自分が貼るのを手伝った写真や言葉なのに、毎回違うものを見るような顔をしていた。

    「この壁、育ってますね」

    ある朝、未那が言った。

    「育つ?」

    「はい。最初は貼っただけだったけど、人が見たり言葉を残したりすると、少しずつ変わっていく感じがします」

    「植物みたいやな」

    「植物より、静かだと思います」

    「難しいな」

    「難しくないです」

    未那はそう言って笑った。

    その笑い方にも、少しずつ慣れてきていた。

    明香里は、予定通り島を出ることになった。

    滞在は短かったのに、彼女が帰る日の朝はゲストハウスの空気が少し変わっていた。

    朝食のあと、明香里は荷物をまとめ、玄関先で靴を履いた。

    「もう出るんですね」

    健太が言うと、明香里は笑った。

    「はい。短かったですけど、楽しかったです」

    「またいつでも来てください」

    「ありがとうございます。また来ます」

    「ぜひ」

    明香里は未那の方を向いた。

    「未那」

    「何」

    「ちゃんと寝るんやで」

    「寝てる」

    「嘘やん」

    「嘘じゃない」

    「その返事がもう怪しい」

    未那は眉を寄せた。

    「明香里、うるさい」

    「うるさく言われるうちが花です」

    「何それ」

    明香里は笑って、未那に抱きついた。

    未那は一瞬だけ体を固くしたあと、明香里の背中を軽く叩いた。

    「気をつけて」

    「そっちこそ」

    明香里はそう言って、僕の方を見た。

    「蒼介さん」

    「はい」

    「未那のこと、よろしくお願いします」

    軽く言ったようでいて、その言葉には重さがあった。

    僕はすぐには答えられなかった。

    「できる範囲で」

    そう言うと、明香里は目を細めた。

    「それくらいがいいです」

    そして、明香里は港へ向かった。

    未那は玄関先で、その背中をしばらく見送っていた。

    「明香里さん、いい人やね」

    僕が言うと、未那は小さく息を吐いた。

    「あの子、放っておいてくれないんです」

    「それは、悪いこと?」

    未那は少し考えた。

    「悪くはないです」

    「うん」

    「そういうところに、助けられてるんやと思います」

    そう言ってから、未那はすぐに視線を外した。

    明香里がいなくなると、ゲストハウスの空気が落ち着いた。

    その分だけ、未那の輪郭がはっきり見える気がした。

    それがいいことなのかどうかは、まだ分からなかった。

    明香里が帰った日の夜、未那からメッセージが来た。

    今日はありがとうございました
    明香里も、楽しかったと言っていました

    僕は少し考えてから返した。

    こちらこそ
    明香里さん、無事に帰れた?

    すぐに既読がついた。

    はい
    帰りのフェリーで寝ていたみたいです

    そのあと、間が空いた。

    島、もう少し見てみたいです

    その一文を見て、僕はしばらく画面を見ていた。

    凪瀬島?

    そう打って、送った。

    すぐに返事が来た。

    隣の島も、ちょっと気になっています

    僕はフェリーの時間を頭の中で思い出した。

    明日なら、午前の船で行けると思う
    よかったら、一緒に行く?

    送ってから、少しだけ早かったかもしれないと思った。

    でも、取り消すほどではなかった。

    未那からの返事は、少し遅れて届いた。

    いいんですか?

    もちろん、案内というほどではないけど

    ありがとうございます
    じゃあ、お願いします

    その短いやり取りを見ながら、僕はスマホを伏せた。

    嬉しく感じた。

    でも、その嬉しさを、そのまま大事にしすぎてはいけない気もした。

    翌朝、僕たちは港で待ち合わせた。

    天気はよかった。

    空は高く、風は冷たい。

    海は穏やかで、フェリーの白い船体が朝の光を受けていた。

    未那は小さなリュックを背負って、港のベンチに座っていた。

    僕に気づくと、軽く手を上げた。

    「おはようございます」

    「おはよう」

    「フェリー、これで合ってますか」

    「合ってる」

    「よかったです。船、間違えたらどこに行くのか分からないので」

    「だいたいどこかの島には着く」

    「それはちょっと困ります」

    未那は笑った。

    その笑い方は、展示の準備をしている時よりも軽かった。

    フェリーに乗ると、未那は甲板に出た。

    風が強かった。

    未那の髪が頬にかかる。

    「寒くない?」

    「寒いです」

    「中、入る?」

    「いえ、外がいいです」

    未那は手すりの近くに立ち、海を見ていた。

    凪瀬島が少しずつ遠ざかっていく。

    反対側には、これから向かう島が見えていた。

    「島って」

    未那が言った。

    「離れると、形が変わりますね」

    「そうやね」

    「中にいる時は、全体が見えないのに」

    「うん」

    「外から見ると、あ、島だったんだって思います」

    その言葉を聞いて、僕は未那の横顔を見た。

    未那は海を見ていた。

    僕の方は見ていなかった。

    「人もそういうところあるかもしれないですね」

    未那が言った。

    「人?」

    「近くにいると分からないのに、離れると分かることがあるというか」

    「あるかも」

    「でも、離れすぎると、今度は分からなくなります」

    「難しいな」

    「はい」

    未那はそう言って笑った。

    隣の島に着くと、港は静かだった。

    観光客は何人かいたが、凪瀬島ほど多くはない。

    小さな案内板と、古い商店と、海沿いの道。

    時間がゆっくりしているように見えた。

    僕たちは地図を見ながら歩いた。

    未那は、道端の小さなものによく気づいた。

    古い郵便受け。

    石垣の隙間から伸びる草。

    軒先に吊るされた風鈴。

    海沿いの斜面で揺れるススキ。

    風が吹くたびに、ススキの穂先が同じ方向へなびいた。

    未那は足を止めて、それを見上げた。

    「ススキって、音がしないのに、風が見えますね」

    「たしかに」

    「秋っぽいです」

    未那はそう言って、しばらく黙っていた。

    僕はカメラを構えようとして、やめた。

    撮りたいと思った。

    でも、その前に、未那が見ているものを一緒に見ていたいと思った。

    海沿いの道を歩いていると、軒下にいた猫がこちらを見た。

    白と茶色の混じった小さな猫だった。

    未那が足を止める。

    猫も逃げなかった。

    「かわいい」

    未那が小さく言った。

    猫は未那の足元に近づいてきて、リュックの紐に鼻を寄せた。

    「懐かれてますね」

    僕が言うと、未那は戸惑ったように笑った。

    「何も持ってないんですけど」

    「持ってそうに見えるんちゃう」

    「何をですか」

    「優しそうな何か」

    「適当ですね」

    「適当です」

    未那はしゃがんで、猫の頭には触れず、少し離れたところで手を止めた。

    猫の方から、未那の指先に鼻を近づけた。

    未那はそれを見て、声を出さずに笑った。

    その笑い方が、とても静かだった。

    昼過ぎ、小さな売店で飲み物を買った。

    僕は水を選び、未那は島の柑橘ソーダを手に取った。

    瓶の中で、淡い黄色の泡が上がっていた。

    港の近くのベンチに座る。

    海の向こうには、別の島影が見える。

    遠くをフェリーが横切っていた。

    未那は瓶を両手で包むように持って、ラベルを眺めた。

    「島っぽい味がします」

    「どんな味?」

    「ちゃんと説明できないです」

    「説明できない味」

    「はい」

    未那はそう言って笑った。

    柑橘ソーダの泡が、瓶の中で小さく弾けている。

    「こういうの、飲み終わるのもったいないですね」

    「味じゃなくて?」

    「時間が」

    未那は瓶を見たまま言った。

    「飲み終わったら、この時間も終わる感じがするので」

    「じゃあ、ゆっくり飲めばいい」

    「そうします」

    未那はひと口だけ飲んだ。

    それから、遠くを走るフェリーを目で追った。

    白い船が、海の上をゆっくり進んでいく。

    「フェリー、好きなん?」

    僕が聞くと、未那は少し考えた。

    「好きというか」

    「うん」

    「どこかへ行くものを見るのが、好きなのかもしれません」

    「自分が乗ってなくても?」

    「はい」

    未那はフェリーの方を見たまま言った。

    「乗っていないから、いいのかもしれません」

    その言葉の意味を、僕はすぐには聞けなかった。

    聞いてしまうと、何かをほどこうとしているような気がした。

    風が吹いた。

    未那の髪が頬にかかる。

    逆光のせいで、目元だけが影になっていた。

    その表情は、笑っているようにも、遠くを見ているようにも見えた。

    僕はカメラを取り出した。

    「一枚だけ」

    未那はこちらを見た。

    少し迷ったあと、瓶を膝の上に置いた。

    「変な顔じゃなければ」

    「変な顔も、たぶん悪くない」

    「それは信用できないです」

    そう言いながら、未那は笑った。

    シャッターを切る。

    画面の中で、未那は思ったより自然に笑っていた。

    でも、その笑顔の全部が分かったわけではなかった。

    写真に写った未那は、たしかに未那だった。

    でも、それだけが未那ではない。

    遠くのフェリーを目で追っていた未那。

    猫に指先を差し出していた未那。

    ススキを見上げていた未那。

    説明できない味のソーダを、ゆっくり飲んでいた未那。

    その一つひとつは、写真に残せるようで、残せないものでもあった。

    「見せてください」

    未那が言った。

    僕はカメラの画面を見せた。

    未那は驚いたように目を細めた。

    「私、こんな顔してました?」

    「してた」

    「なんか、知らない人みたいです」

    「嫌?」

    「嫌ではないです」

    未那は画面を見たまま言った。

    「でも、少し怖いです」

    「怖い?」

    「自分が知らない顔をしているのを見るのが」

    未那はそう言って、瓶を手に取った。

    「写真って、そういうところありますね」

    「あると思う」

    「自分より先に、自分を見つけられる感じがします」

    その言葉に、僕は何も返せなかった。

    写真を撮ることは、人を見ることだと思っていた。

    でも、見るということには、いつも少しだけ危うさがある。

    見つけたい。
    残したい。

    その気持ちは、時々、相手の奥へ入りすぎる。

    僕はそのことを、分かっているつもりだった。

    でも未那の前では、分かっているだけでは足りない気がした。

    「そういうの、見抜かれたくないです」

    未那が言った。

    「明香里さんには見抜かれてる」

    「それはもう、仕方ないです」

    「おれは?」

    聞いてから、踏み込みすぎたと思った。

    未那はこちらを見た。

    「蒼介さんは」

    そこで言葉を切った。

    「見抜くというより、見つけようとする感じがします」

    「それは、嫌?」

    「嫌ではないです」

    未那はそう言って、瓶を口元に持っていった。

    「でも、少し怖いです」

    僕はすぐには返せなかった。

    その言葉を、軽く扱ってはいけない気がした。

    しばらく、ふたりで海を見ていた。

    ソーダの瓶には、まだ小さな泡が残っていた。

    午後、僕たちは島の小さな道を歩いた。

    観光地らしい場所もあった。

    けれど、未那はそういう場所より、何でもない道に長く立ち止まった。

    古い看板。

    坂の途中から見える海。

    風で揺れる洗濯物。

    石段の端に落ちた木の実。

    「あんまり、目的地に着かないですね」

    未那が言った。

    「着きたい?」

    「どうでしょう」

    「どっちでもいい?」

    「はい」

    未那はそう言って笑った。

    「どっちでもいい時間って、贅沢ですね」

    「普段はない?」

    「ないです」

    「仕事?」

    「仕事もですけど」

    未那は坂の下を見た。

    「何もしていない時間が、落ち着かない時があります」

    「落ち着かない?」

    「はい。何かしないといけない気がして」

    「うん」

    「ちゃんと進んでないと、置いていかれる気がします」

    その言葉は、風の音に混ざった。

    僕はすぐには返さなかった。

    「ここだと?」

    「ここだと」

    未那は考えた。

    「少しだけ、止まっていてもいい気がします」

    「少しだけ」

    「はい」

    未那は海の方を見た。

    「ずっとは怖いです」

    その正直さに、胸の奥が動いた。

    僕は未那に何か言いたくなった。

    ずっと止まっていてもいい。

    置いていかれない。

    そう言いたくなった。

    でも、それは僕が言っていい言葉ではない気がした。

    「じゃあ、今日は少しだけ止まろう」

    僕が言うと、未那はこちらを見た。

    「はい」

    それだけだった。

    けれど、その返事が静かに残った。

    夕方のフェリーに乗る前、僕たちは港の近くで時間をつぶした。

    未那は柑橘ソーダの空き瓶を、売店の回収箱へ戻した。

    「ちゃんと返すんですね」

    「借りたものなので」

    「真面目やな」

    「瓶に対しては」

    「人に対しては?」

    未那は僕を見た。

    「どうでしょう」

    冗談のように言ったのに、そのあと黙った。

    「人に対しても、ちゃんと返したいと思います」

    「うん」

    「でも、返せないものもあります」

    僕は何も言えなかった。

    未那はフェリー乗り場の方を見た。

    「優しくされたこととか」

    風が吹いた。

    港の旗が音を立てた。

    「返さなくてもいい優しさって、あるんですかね」

    「あると思う」

    僕は言った。

    「あると思いたい」

    未那は笑った。

    「蒼介さんは、そう言いそうです」

    「そう?」

    「はい」

    「違う?」

    「分からないです」

    未那は目を伏せた。

    「でも、そう言われると、少し安心します」

    その言葉を、僕は大事に受け取りすぎそうになった。

    安心します。

    その一言を、自分に都合よく抱きしめそうになった。

    だから、すぐには何も言わなかった。

    フェリーが来た。

    白い船体が、港に近づいてくる。

    未那はその船を見ていた。

    行きの時と同じように、近づいてくるものを、じっと目で追っていた。

    「帰りますね」

    未那が言った。

    「そうやね」

    「帰りたくないわけではないです」

    「うん」

    「でも、帰ると少しだけ終わる感じがします」

    「今日が?」

    「今日も、たぶん何かも」

    未那はそう言って、自分で困ったような顔をした。

    「うまく言えないです」

    「そのままでいいと思う」

    「そのままで」

    「うん」

    「じゃあ、そのままにしておきます」

    フェリーに乗ると、空は夕方の色になっていた。

    凪瀬島へ戻る海は、行きよりも静かに見えた。

    未那は船内には入らず、甲板へ出た。

    行きよりも風は冷たかった。

    それでも未那は、手すりの近くに立って、海の向こうを見ていた。

    夕日は、まだ沈みきっていなかった。

    海の上に細い光の道ができている。

    「寒くない?」

    僕が聞くと、未那は首を横に振った。

    「大丈夫です」

    それから、少しだけ笑った。

    「夕方なので」

    その言葉だけで、未那がここに残っている理由は分かった。

    僕は未那の隣に立った。

    会話は少なかった。

    けれど、気まずくはなかった。

    何かが始まったわけではない。

    でも、何もなかったわけでもない。

    その曖昧さが、船の揺れに合わせて、僕たちの間にあった。

    凪瀬島が徐々に近づいてくる。

    港の灯りが、まだ明るい空の下に小さく見えた。

    未那は夕方の海を見ながら、ぽつりと言った。

    「今日、来てよかったです」

    「おれも」

    「蒼介さんも?」

    「うん」

    未那はこちらを見た。

    その顔に、朝の港で見た軽さとは別のものがあった。

    疲れているようにも、ほどけているようにも見えた。

    「また、写真見せてください」

    「うん」

    「今日の」

    「送る」

    「ありがとうございます」

    それから少し黙って、未那は続けた。

    「私、写真に撮られるの、そんなに得意じゃないんです」

    「そうなん?」

    「はい」

    「でも、今日は撮らせてくれた」

    「今日は」

    未那はそう言って、また海の方を見た。

    「今日は、撮られてもいい気がしました」

    その言葉に、胸の奥が静かに動いた。

    僕は、未那を撮りたいと思った。

    写真家としてだけではなかった。

    この人がほどける瞬間を、もっと見ていたいと思った。

    でもその気持ちを、すぐにきれいなものとして扱うことはできなかった。

    見たい。

    残したい。

    近くにいたい。

    そのどれもが、僕の中でゆっくり混ざっていた。

    夕方の光が、未那の横顔に当たっていた。

    言うつもりではなかった。

    少なくとも、今日言うつもりではなかった。

    でも、言葉はもう喉元まで来ていた。

    「おれ、未那さんのこと好きやわ」

    未那がこちらを見た。

    風の音がした。

    船のエンジンの音が、足元から響いていた。

    「……そういうこと、さらっと言うんですね」

    「さらっとは、言えてないと思う」

    未那は笑った。

    でもその笑いは、少し困っているようにも見えた。

    「ありがとうございます」

    答えはなかった。

    でも、なかったことにもならなかった。

    僕たちはそのまま、しばらく海を見ていた。

    凪瀬島の港が近づいてくる。

    その灯りに近づくにつれて、さっきの言葉が少しずつ現実のものになっていった。

    言ってしまった。

    そう思った。

    でも、後悔とは少し違った。

    フェリーが港に着いた。

    僕たちは船を降りた。

    夜になりかけた港に、冷たい風が吹いていた。



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    ※この物語はフィクションです。

     
     
    小さい頃、物語を読むのが好きでした 今回、初めて小説を書きました

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