
少しだけ光る 第6章 離れの灯り
未那が凪瀬島に来てから、三週間が過ぎていた。
最初の頃は、ゲストハウスの階段を上り下りする足音も、どこか遠慮がちだった。
一階に下りてくる時も、カウンターの奥にいる健太や由美子さんに、毎回緊張した様子で挨拶をしていた。
けれど最近は、その動きが自然になっている。
昼前、カフェが開く頃には一階の棚を整えたり、チェックイン用の紙を確認したりしている。午後の空いた時間には、カフェの隅でパソコンを開く。夕方になると、仕事の区切りをつけるように外へ出て、ゲストハウスの前から空を見上げる。
浜まで行く日もあれば、行かない日もあった。
行かない日でも、未那は夕方の光だけは見ていた。
建物の外に出て、しばらく立ち止まる。手に持ったマグカップから、湯気が細く上がっていることもある。
その横顔を何度か見かけた。
声はかけなかった。
声をかけると、その時間が違うものになってしまう気がした。
写真展は、新しく旅人の言葉を足すことはなくなっていた。
それでも健太の言葉どおり、そのまま白い壁に残っていた。
昼はカフェの壁として。
夜はバーの壁として。
写真と言葉は、少しずつその場所に馴染んでいった。
最初の二週間、僕は展示のことばかり考えていた。
写真の順番。言葉の位置。光の入り方。誰がどこで立ち止まるか。
終わってからも、気が抜けたようで抜けきらなかった。
朝起きても、何か忘れているような感じがする。カメラを持って外に出ても、いつもより体が重い。バーでグラスを洗っている時も、ふと白い壁を見てしまう。
その壁はまだそこにある。
それなのに、何かが終わったことだけは、体が分かっているようだった。
未那と隣の島へ行った日のことも、その中に混ざって残っていた。
昼の海。
島の売店で買った柑橘ソーダ。
遠くのフェリーを目で追っていた横顔。
斜面で風に揺れていたススキ。
足元に寄ってきた猫を、声を出さずに笑って見ていたこと。
ひとつひとつを思い出すというより、あの日の風ごと、まだ体のどこかに残っているようだった。
そして、帰りの船で言った言葉。
おれ、未那さんのこと好きやわ。
言った後も、何かが大きく変わったわけではなかった。
未那は変わらず、朝になると一階へ下りてきた。宿の手伝いをして、仕事をして、夕方になると空を見る。夜には時々、日本酒を飲んだ。
僕と話す時も、以前と大きくは変わらない。
ただ、違う瞬間があった。
目が合ったあと、未那が一拍だけ黙る。何か言いかけて、別の言葉に変える。僕も、それに気づかないふりをする。
答えはなかった。
でも、なかったことにもならなかった。
その曖昧さが、静かに二人のあいだに置かれていた。
未那の滞在が終わりに近づいた頃、健太がカウンターの中で言った。
「来週から、次のお手伝いの人が来るんですよ」
夜のバーが始まる前だった。
僕は洗い終えたグラスを拭いていた。未那はカウンターの端で、パソコンを閉じたところだった。
「そうなんですね」
未那が言った。
「はい。なので、未那さんのスタッフルームを空けてもらうことになるんですけど」
「もちろんです。もともと一ヶ月の予定でしたし」
未那の声は落ち着いていた。
でも、僕はその言葉を聞いた瞬間、胸の奥が重くなった。
もともと一ヶ月。
分かっていたことだった。
未那はこの島に、ずっといる人ではない。
「次の宿、決まってます?」
健太が聞いた。
未那は困ったように笑った。
「まだです。延ばすかどうか、ちょっと迷っていて」
「延ばす?」
僕は思わず聞き返した。
未那はこちらを見た。
「はい。一週間くらい」
「仕事は?」
「できます。どこでも」
「京都には?」
「戻らないといけないんですけど、急ぎではないので」
未那はそう言って、白い壁を見た。
「もう少しだけ、この島にいたいなと思って」
その言葉を聞いて、僕はグラスを拭く手を止めた。
もう少しだけ。
その言葉に、心が勝手に反応する。
未那が島にいたいと言っている。
それだけのことだった。
そこに僕が含まれているかどうかは、分からない。
分からないのに、嬉しくなりそうになる自分がいた。
健太は宿泊予約の画面を見ながら言った。
「うち、来週は満室なんですよね」
「あ、もちろん別のところを探します」
「近くもたぶん埋まってます。連休明けでも、まだ混んでるので」
未那は少し困った顔をした。
その時、健太が僕の方を見た。
嫌な予感がした。
「蒼介さんのところ、離れありましたよね」
「そうやな」
未那もこちらを見た。
「離れ?」
「ああ、母屋の横に小さい部屋があるんです。前にみんなで行った時、見えたところ」
健太は悪気のない顔で言った。
「一週間だけなら、使えたりしませんか」
僕はすぐには答えられなかった。
母屋の隣にある小さな離れ。
布団を敷けば、人が泊まることはできる。机もある。Wi-Fiも届く。古いけれど、ひとりなら十分だった。
ただ、そこは僕の生活のすぐ隣だった。
未那がそこに泊まる。
そのことを想像しただけで、胸の奥がざわついた。
嬉しさに近いものがあった。
同時に、それを嬉しいと思う自分が怖かった。
未那はすぐに首を振った。
「いえ、そんな、迷惑なので」
「迷惑ではないけど」
僕は言った。
「でも」
「一週間くらいなら、大丈夫やと思う」
言いながら、本当に大丈夫なのかは分からなかった。
健太が安心したように笑った。
「よかったですね」
「健太、勝手に決めるな」
「すみません。でも、蒼介さんなら安心なので」
その言葉が、少し重かった。
安心。
そう見られていることは、ありがたい。
でも、その安心の中に自分が何を隠しているのか、僕はもう少し考えなければいけなかった。
未那は迷っていた。
「本当に、大丈夫ですか?」
「うん」
「仕事のじゃまになりませんか?」
「ならないと思う。離れやし」
「でも、生活の場所ですよね」
「まあ、そうやけど」
僕は言葉を選んだ。
「嫌だったら、もちろん別のところ探した方がいいと思う。でも、部屋がなくて困るなら、使ってもらってかまへんで」
未那は黙った。
それから、小さく頷いた。
「では、数日だけ。もしご迷惑じゃなければ」
「分かった」
「ありがとうございます」
その礼の言葉に、僕は頷くことしかできなかった。
その夜、家に帰ってから、僕は離れを片づけた。
しばらく使っていなかった布団を干し、机の上の荷物を片づける。窓を開けると、庭の草の匂いが入ってきた。
小さな部屋だった。
古い木の床。低い天井。窓際の机。小さな電気スタンド。
誰かが仕事をするには十分かもしれない。
でも、未那がここにいる姿を想像すると、部屋の空気が変わってしまう。
これは宿の延長だ。
一週間、部屋を貸すだけ。
未那が安心して過ごせるようにするだけ。
そう思うほど、胸の中は落ち着かなかった。
未那が離れに移ってきたのは、三日後の午後だった。
健太のゲストハウスでは、次のお手伝いの人が来る準備が始まっていた。未那はスタッフルームの荷物を、小さなスーツケースとバッグ二つにまとめていた。
「すみません、本当に」
「大丈夫」
僕はスーツケースを持った。
「重い?」
「大丈夫です」
「それはこっちの台詞やろ」
未那は笑った。
健太が一階まで見送りに出てきた。
「未那さん、一ヶ月ありがとうございました」
「こちらこそ、お世話になりました」
「引き続き島にはいるんですよね」
「はい。一週間だけ」
「何かあったらいつでも来てください」
「ありがとうございます」
由美子さんも厨房から顔を出した。
「未那ちゃん、離れに行くんやって?」
「はい」
「まあ、蒼介くんのところなら静かやろうけど、静かすぎて考えすぎんようにね」
未那は困ったように笑った。
「気をつけます」
由美子さんは僕を見た。
「あんたも、たまには温かいもんくらい出してあげなよ」
「おれ?」
「部屋貸すだけで終わりちゃうやろ」
「いや、まあ」
「まあ、じゃなくて」
未那が笑った。
「大丈夫です。自分で食べます」
「そういう子ほど食べへんから」
由美子さんはそう言って、奥へ戻っていった。
ゲストハウスを出ると、空は曇っていた。
夕焼けにはまだ早い時間だったけれど、雲の端にうっすら光が入っている。
未那は歩きながら、ゲストハウスを振り返った。
「変な感じです」
「何が?」
「帰るわけじゃないのに、出る感じが」
「うん」
「終わったのか、続いてるのか、分からない感じ」
写真展が一区切りを迎えた夜に、未那が言った言葉を思い出した。
終わったのか、続いているのか、分からない感じ。
「落ち着かない?」
僕が聞くと、未那は考えた。
「少し。でも、嫌ではないです」
「そっか」
「はい」
その返事に、少し安心した。
僕の家に着くと、未那は門の前で一度立ち止まった。
前に明香里や健太と来た時とは違い、今日は昼の光の中だった。
庭の草。古い木の戸。母屋の壁。その奥にある小さな離れ。
全部が、夜よりもはっきり見えていた。
「昼間に見ると、また違いますね」
「古さがばれるやろ」
「ばれるって」
未那は笑った。
「でも、いいです」
「本当に?」
「はい。静かそうです」
「それは合ってる」
離れの戸を開けると、洗ったカーテンが風で揺れた。
古い木の床。小さな机。布団。電気スタンド。窓の外には、手入れの追いついていない庭。
未那は部屋の中をゆっくり見回した。
「思ってたより、落ち着きます」
「ほんまに?」
「はい。こういう狭さ、好きです」
「褒めてる?」
「褒めてます」
未那は笑った。
「Wi-Fiはこの紙に書いてる。シャワーは母屋のを使って。台所も必要なら」
「ありがとうございます」
「鍵はこれ」
僕は小さな鍵を渡した。
未那はそれを両手で受け取った。
その手元を見て、僕は目をそらした。
「何かあったら言って」
「はい」
「でも、気を遣いすぎなくていいから」
「それが難しいです」
「知ってる」
未那は笑った。
その日の夜、離れに灯りがついた。
母屋の台所から、その灯りが見えた。
窓の向こうに、橙色の光がぽつんと浮かんでいる。
人がいるだけで、庭の暗さが変わって見えた。
安心するような。
落ち着かないような。
僕は台所で水を飲みながら、その灯りを何度か見た。
見すぎないようにしようと思った。
でも、見てしまった。
未那が離れに泊まり始めてから、生活の中に小さな気配が増えた。
朝、庭の砂利を踏む音がする。
母屋の洗面所を使う音がする。
台所で湯を沸かしていると、未那が戸の向こうから声をかける。
「おはようございます」
「おはよう」
「洗濯機、借りてもいいですか」
「もちろん」
「ありがとうございます」
それだけの会話。
それだけなのに、家の空気は変わった。
未那は日中、離れで仕事をしていた。
窓際の机にパソコンを置き、時々庭を見ている。僕が母屋から外へ出ると、窓越しに目が合うことがあった。
そのたびに、未那は軽く頭を下げた。
僕も頷いた。
近い。
でも、遠い。
その距離を、僕たちは測りそこねているようだった。
三日目の夜、母屋の縁側に座っていると、離れの前に小さな瓶が見えた。
未那はグラスを持って、庭の方を見ていた。
「飲んでるん?」
僕が声をかけると、未那は驚いたようにこちらを見た。
「はい。少しだけ」
「少しだけ、多いな」
「今日は本当です」
「ほんま?」
「たぶん」
未那は笑った。
僕は縁側に腰を下ろした。
「一緒に飲みます?」
未那が聞いた。
「おれも少しだけ」
「蒼介さんは本当に少しだけそうですね」
「そうやろな」
未那は笑った。
グラスをもうひとつ持ってきて、未那が日本酒を注いだ。
庭は暗かった。
空には雲があり、星はほとんど見えなかった。
「一週間って、短いですね」
未那が言った。
「まだ三日目やけど」
「でも、すぐです」
「そうやね」
「ここ、静かです」
「静かすぎる?」
「静かすぎる時もあります」
「考えすぎる?」
未那はグラスを見た。
「考えますね」
「何を?」
聞いてから、少し踏み込みすぎたと思った。
でも未那は怒らなかった。
「帰ったあとのこととか」
「京都?」
「はい。仕事のこととか。これからのこととか」
「うん」
「あと、凪瀬島のこと」
「島のこと?」
「はい」
未那は笑った。
「なんか、思ったより残ってしまいそうで」
「残る?」
「自分の中に」
その言葉を聞いて、僕は黙った。
凪瀬島が未那の中に残ること。
それは嬉しいことのはずだった。
でも同時に、少し怖かった。
その中に、自分はどのくらい含まれているのだろうと思ってしまうから。
僕はそんな考えを打ち消すように、グラスを傾けた。
「残ったらいいやん」
「いいですか」
「うん」
「帰ってから、しんどくならないですかね」
「分からん」
「正直ですね」
「分からんことは分からん」
未那は笑った。
「でも、残らないよりはいいと思う」
僕が言うと、未那は庭の方を見た。
「そうですね」
その夜も、未那は明るくいた。
笑ったし、冗談も言った。日本酒も、言っていたよりは多めに飲んだ。
気にはなった。
でも、何も言わなかった。
未那が自分で明るくしているなら、それをわざわざ壊す必要はないと思った。
それが優しさなのか、踏み込むのが怖かっただけなのかは分からなかった。
四日目の夜、雨が降った。
昼過ぎから空が重くなり、夕方には細かい雨が庭を濡らしていた。
未那は一日中、離れで仕事をしていた。
僕は母屋で写真のデータを整理していた。
隣の島で撮った未那の写真も、フォルダの中に入っていた。
開かないようにしようと思ったのに、気づけば開いていた。
昼の海。
柑橘ソーダの瓶を両手で包む未那。
逆光の中で、目元だけが影になった横顔。
遠くのフェリーを目で追っている後ろ姿。
どれも、仕事の写真ではなかった。
誰に見せるためのものでもない。
それなのに、消せなかった。
夜になる頃には、雨が強くなった。
古い家の屋根に、雨音が当たる。庭の草が揺れ、離れの窓に水滴が流れているのが見えた。
スマホが震えた。
未那からだった。
雨、すごいですね
離れ、音がけっこうします
僕はすぐに返した。
古いからね
怖かったら母屋来ていいよ
送ってから、近すぎたかもしれないと思った。
でも、取り消すほどではなかった。
しばらくして、返信が来た。
少しだけ行ってもいいですか
僕は立ち上がった。
湯を沸かし、カップを二つ出した。
未那はすぐに母屋へ来た。
髪は少し濡れていて、羽織ったカーディガンの肩にも雨粒がついていた。
「すみません」
「大丈夫。濡れた?」
「少しだけ」
僕はタオルを渡した。
未那はそれを受け取って、髪の先を押さえた。
台所の灯りの下で、未那はいつもより近くにいた。
「離れ、音すごいやろ」
「はい。屋根が近いからですかね」
「たぶん」
「壊れませんか」
「壊れたら困るな」
「困りますね」
未那は笑った。
僕は湯呑みにほうじ茶を入れた。
ふたりで居間に座る。
雨音が続いている。
会話は多くなかった。
沈黙が気まずいわけではない。
でも、まったく平気でもなかった。
「ここ、落ち着きますね」
未那が言った。
「古いだけやけど」
「古いから落ち着くのかもしれません」
「そういうもの?」
「新しい場所って、ちゃんとしなきゃって思うので」
「ここは?」
「ちゃんとしなくても、許される感じがします」
未那は湯呑みを両手で持っていた。
「でも、私、どこにいても仕事のこと考えてます」
「それはもう癖やね」
「そうですね」
「休む練習は?」
「まだ下手です」
「隣の島で練習したのに」
「あれは、半日だけです」
「半日でも練習は練習やろ」
未那は笑った。
その笑いは、すぐに消えた。
雨の音が強くなる。
「蒼介さん」
「なに?」
「この前のこと」
僕は息を止めた。
「フェリーで言ってくれたことです」
「うん」
未那は湯呑みを見ていた。
「ちゃんと返せなくて、すみません」
「謝らなくていいよ」
「でも」
「返事が欲しくて言ったわけじゃない」
そう言いながら、完全にそうだったとは言えないと思った。
返事を求めないふりをしていた。
求めていなかったわけではない。
未那は顔を上げた。
「私、何かを決めるのが苦手です」
「うん」
「誰かの気持ちを受け取るのも、少し怖いです」
「怖い?」
「返せる自信がないので」
その言葉は静かだった。
でも、逃げているだけの言葉ではなかった。
未那は自分の中にあるものを、ちゃんと見ようとしているように見えた。
「返さなきゃって思う?」
僕が聞くと、未那は頷いた。
「思います」
「同じ形で?」
「はい」
「そうじゃなくてもいいと思うけど」
「それを、うまく信じられないんです」
未那はそう言って、また湯呑みを見た。
「優しくされると、嬉しいです。でも、同時に怖くなります」
「そうか」
「その人の期待に、ちゃんと応えないといけない気がして」
僕は何も言えなかった。
言えば、また「変じゃない」とか「大丈夫」とか、簡単な言葉になってしまいそうだった。
その言葉が本当に未那のためなのか、自分が安心したいだけなのか、分からなかった。
だから、黙っていた。
未那は少し驚いたように僕を見た。
「何も言わないんですね」
「言わない方がいい気がした」
「そうですか」
「うん」
「それは、少し助かります」
雨音が続いている。
部屋の中は、湯気と畳の匂いがした。
未那は湯呑みを置いた。
「眠くなってきました」
「離れ戻る?」
「戻ります」
そう言ったのに、未那はすぐには立ち上がらなかった。
僕も立たなかった。
雨の音が、ふたりのあいだに落ちていた。
「もう少しだけ、ここにいてもいいですか」
未那が言った。
僕は未那を見た。
「もちろん」
そう答えてから、何をすればいいのか分からなくなった。
未那は帰ると言ったわけではなかった。
でも、何かを話したいと言ったわけでもなかった。
ただ、もう少しここにいたい。
その言葉だけが、畳の上に静かに残っていた。
「日本酒、あるけど」
僕が言うと、未那は小さく頷いた。
僕は台所へ行き、冷蔵庫から日本酒の瓶を出した。棚から小さなグラスを二つ取って、畳の上に置いた。
部屋の明かりは、少し落とした。
窓の外では、風が古い戸を揺らしていた。
僕たちは向かい合うというより、同じ方を向くように座り、冷えた日本酒を飲んだ。
何を話したのか、はっきりとは覚えていない。
展示のこと。
明香里のこと。
昼間の港のこと。
どうでもいい話を、ぽつぽつとした。
未那はいつもより言葉が少なかった。
でも、帰ろうとはしなかった。
グラスの底に、日本酒が少し残っていた。
僕はそれを飲み干して、畳の上に寝転がった。
天井の木目がぼんやり見えた。
思っていたより、体が重かった。
酒のせいなのか、眠気のせいなのか、それとも、未那がまだこの部屋にいるせいなのか、分からなかった。
未那は僕の近くに座ったまま、何も言わなかった。
「眠そうですね」
「うん」
「寝た方がいいですよ」
「もう、寝る」
そう答えたあと、少し間が空いた。
言わない方がいい気もした。
でも、言わないまま目を閉じることもできなかった。
「眠るまで、手を繋いでてくれへんかな」
声にすると、自分でも驚くくらい頼りない言葉だった。
未那は何も言わなかった。
断られると思った。
それならそれでいいと思った。
けれど、少しして、畳の上に置いていた僕の手に、未那の指が触れた。
ためらうように触れて、それから、ゆっくり握られた。
僕も、その手を握り返した。
未那の手は、思っていたよりやわらかかった。
握っているだけだった。
それ以上のことは、何も起きなくてもよかった。
そう思った。
本当に、そう思った。
部屋の中は静かだった。
外の風の音と、遠くの波の音だけが聞こえた。
握った手のあいだに、少しずつ体温が移っていく。
未那の指が、ほんの少し動いた。
握り返されたのだと分かった。
目を開けると、未那がこちらを見ていた。
顔が、思っていたより近かった。
僕は体を少し起こした。
未那は動かなかった。
近づいてはいけない気がした。
でも、離れたくもなかった。
「未那さん」
小さく名前を呼ぶと、未那のまつげが揺れた。
僕はゆっくり顔を近づけた。
未那は目を伏せた。
それを拒まれたとは思わなかった。
唇が触れた。
短いキスだった。
でも、すぐには離れなかった。
握った手に、力が入った。
それが僕の手だったのか、未那の手だったのかは分からなかった。
もう一度、僕から唇を重ねた。
夜の音が遠くなった。
何かを言わなければいけない気がした。
でも、言葉は出てこなかった。
未那の手を握ったまま、僕はまた畳に体を横たえた。
天井の木目が、ぼんやり滲んで見えた。
気づけば、眠っていた。
翌朝、雨は上がっていた。
庭の草に、水滴が残っていた。
目を覚ますと、部屋には僕ひとりだった。
畳の上には、昨夜のグラスが二つ残っている。
未那の姿はなかった。
いつの間にか、自分で離れに戻ったのだろうと思った。
そう思うしかなかった。
起き上がって、グラスを片づけた。
日本酒の匂いが、まだ少し残っていた。
顔を洗い、台所で水を飲んでいると、庭の方で戸の開く音がした。
離れの戸だった。
少しして、未那が母屋へ顔を出した。
あまりにも普通に。
「おはようございます」
「おはよう」
「昨日、すみません。雨、すごかったですね」
「うん」
「ありがとうございました」
「大丈夫」
未那は湯気の上がるカップを持っていた。
髪は少し乱れていたけれど、表情はいつもとほとんど変わらなかった。
昨日の夜のことを覚えているのか。
手を繋いでいたことを。
僕から近づいたことを。
短いキスをしたことを。
聞けなかった。
聞けるはずがなかった。
未那は窓の外を見た。
「雨、上がりましたね」
「うん」
「今日は、晴れそうです」
「そうやね」
会話はそれだけだった。
でも、何もなかったわけではなかった。
未那はカップを両手で持ったまま、こちらを見た。
「今日も、仕事します」
「うん」
「午後、浜に行けたら行こうと思います」
「いいね」
「はい」
未那は小さく笑った。
そして、離れへ戻っていった。
戸が閉まる音がした。
僕は台所に立ったまま、しばらく動けなかった。
昨日の夜のことは、夢ではなかった。
でも未那は、夢みたいに普通に朝を始めていた。
その普通さに救われた。
そして、同じくらい怖くなった。
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第7章 夜の帰り道
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※この物語はフィクションです。