
横顔の人②
※前回はこちら
逃げればよかったのに、逃げられなかった
17万円。
伝票に書かれたその数字を見た瞬間、最初に思ったのは「高い」ではなかった。
「何かの間違いだろう」
そう思った。
人間は、本当に理解できないものを見た時、怒るより先に、現実の方を疑うのだと思う。
僕はもう一度、伝票を見た。
数字は変わらなかった。
17万円。
さっきまで飲んでいたグラスの数も、テーブルに置かれていた小さな皿も、店内の暗い照明も、全部が急に別の意味を持ち始めた。
数分前までそこは、少し怪しくて、でも彼女と話せる場所だった。
恋愛に向かうかもしれない夜の、少し背伸びした寄り道だった。
でも伝票を見た瞬間、その場所はただの店ではなくなった。
出口の遠い部屋になった。
僕は店員に聞いた。
「これ、どういうことですか?」
声は思ったより小さかった。
本当はもっと強く言うべきだった。
「おかしいですよね」
「説明してください」
「払えません」
「警察呼びます」
そう言うべきだった。
でも、実際に出た声は、自分でも驚くほど弱かった。
店員は、こちらが驚くことを最初からわかっていたような顔をしていた。
慌てない。
怒らない。
むしろ、説明する順番まで準備されているようだった。
飲み放題とは別。
追加料金。
テキーラ。
チャージ。
サービス料。
そんなような言葉が並べられた。
細かい内訳は、正直あまり覚えていない。
ただ、こちらが理解できない速度で、料金の理由らしきものが積み上げられていったことだけは覚えている。
言葉としては知っている。
でも、自分の財布から17万円を奪っていい理由としては、どれも知らなかった。
僕は彼女を見た。
彼女は、驚いているようにも見えた。
困っているようにも見えた。
でも、その表情はどこか遠かった。
待ち合わせ場所で僕の前を何度も通り過ぎていた時と同じように、彼女の顔は真正面ではなく、少し横を向いていた。
僕はその横顔から、何かを読み取ろうとした。
「大丈夫だよ」と言ってくれるのか。
「これはおかしいよね」と一緒に怒ってくれるのか。
「ごめん、こんな店だと思わなかった」と謝ってくれるのか。
でも、彼女は何も言わなかった。
その沈黙が、僕には一番怖かった。
店員が言った。
「現金、ありますか?」
なかった。
社会人三年目とはいえ、財布に17万円も入れているわけがない。
そもそも、その日僕は普通のデートに行くつもりだった。
居酒屋で数千円払うくらいの気持ちだった。
少し多めに見積もっても、1万円あれば足りると思っていた。
僕は財布を開いた。
入っている現金を見た。
何の意味もなかった。
「現金、ないです」
そう伝えると、店員は少し考えるような顔をした。
「なるほど〜。うち今、カード決済用の機械が壊れていて、現金オンリーなんですよね……」
その言い方は、あまりにも自然だった。
申し訳なさそうでもあり、仕方なさそうでもあり、でも最初からそこへ向かうことが決まっていたようでもあった。
「その場合は、下ろしてもらうしかないなぁ」
そう言われた。
そんなこと許されるわけがない。
頭ではわかっていた。
飲食店で17万円を請求され、カードは使えないと言われ、現金をおろしに行かされる。
普通に考えたら、おかしい。
今ならすぐにわかる。
その場で誰かに電話すればよかった。
警察を呼べばよかった。
店から出た時点で逃げればよかった。
でも、その時の僕には、選択肢が見えていなかった。
目の前に差し出された選択肢は、ひとつだけだった。
コンビニでお金を下ろす。
僕は、それを選んでしまった。
人は、怖い時ほど、正しい選択肢ではなく、目の前に出された選択肢を選んでしまうのかもしれない。
店を出ようとした時、テーブルにはまだテキーラが残っていた。
店員だったのか、彼女だったのか。
どちらに言われたのか、記憶は少し曖昧だ。
ただ、こんなようなことを言われた。
「テキーラ、余ってるやつもったいないから飲んだら?」
その瞬間、僕はもう何も抵抗できなかった。
さっきまでのゲームとは関係なかった。
盛り上がるためでもなかった。
楽しい乾杯でもなかった。
ただ、残っているから飲む。
もったいないから飲む。
そういう流れになっていた。
僕は、10杯以上のテキーラを一気に飲むことになった。
喉が焼ける。
胃が熱くなる。
頭の奥がぼやけていく。
一杯飲むたびに、抵抗する気力が薄れていった。
一杯飲むたびに、冷静に判断するための思考力が剥がれていった。
今思えば、あの時点で僕はもう、まともに考えられる状態ではなかった。
それでも、店を出た。
ひとりではなかった。
店員と彼女も一緒だった。
見送るためではない。
たぶん、見張るためだった。
夜の街を3人で歩いた。
僕はその真ん中にいたのか、端にいたのか、あまり覚えていない。
ただ、自由に歩いている感じではなかった。
コンビニまでの道が、異常に長く感じた。
通りには普通に人がいた。
仕事帰りの人。
友達と笑いながら歩く人。
これから飲みに行く人。
どこかへ急いでいる人。
その全員が、僕とは関係のない人生を歩いていた。
当たり前のことなのに、その当たり前がつらかった。
僕だけが、17万円を払うためにコンビニへ向かっていた。
さっきまで、僕は恋愛の入り口にいるつもりだった。
マッチングアプリで出会った女性と、少し変わった夜を過ごしているつもりだった。
でも今、僕はATMへ向かっている。
恋愛の途中でATMに向かうことなんて、普通はない。
その普通が、ようやく少しだけわかってきた。
コンビニの明かりが見えた。
いつもなら何とも思わない光だった。
仕事帰りに飲み物を買う場所。
お菓子を買う場所。
コピーを取る場所。
何でもない日常の場所。
でもその夜のコンビニは、僕にとって処刑台みたいに見えた。
自動ドアが開いた。
いつもの入店音が鳴った。
店内は明るかった。
明るすぎるくらいだった。
コンビニの前には、店員と彼女がぴったり並んで待っていた。
ATMの前までは来なかった。
でも、外にはいる。
それが逆に怖かった。
逃げようと思えば逃げられたのかもしれない。
大声を出せば、誰かが気づいたのかもしれない。
店員に見えない角度で誰かに電話することもできたのかもしれない。
でも、できなかった。
僕はただ、ATMの前に立つしかなかった。
その前に、彼女が言った。
「私が頼んじゃったから!任せて!」
その声は、さっきまでより少し明るかった。
意気揚々としているようにすら見えた。
彼女はATMへ向かった。
僕は、少しだけ安心した。
本当に払ってくれるのかもしれない。
少なくとも、全部を僕に背負わせるつもりではないのかもしれない。
彼女も悪いと思っているのかもしれない。
そんなふうに思った。
数分後、彼女は戻ってきた。
「私の銀行、使えなかった……不思議……」
そう言った。
何が不思議なのか、僕にはわからなかった。
でも、その時の僕はもう、そこに突っ込むだけの力もなかった。
彼女が下ろせないなら、次は僕が行くしかない。
空気が、そう言っていた。
僕はATMの前に立った。
財布からキャッシュカードを出す。
機械に入れる。
暗証番号を押す。
指が少し震えていた。
画面に残高が表示された。
そこには、僕が働いて貯めたお金があった。
毎日会社に行って、嫌なこともあって、眠い朝も起きて、少しずつ積み上げたお金だった。
当たり前だけど、お金には時間が入っている。
その時初めて、17万円がただの数字ではなくなった。
17万円分の時間。
17万円分の我慢。
17万円分の出勤。
17万円分の、社会人三年目の自分。
それが、画面の向こうにあった。
僕は引き出し金額を入力した。
17万円。
入力してから、少し止まった。
本当に押すのか。
まだ戻れるんじゃないか。
警察を呼べばいいんじゃないか。
店に戻らず、そのまま走ればいいんじゃないか。
誰かに電話すればいいんじゃないか。
頭の中に、いくつかの選択肢が遅れて現れた。
でも、遅かった。
というより、僕にはその選択肢を選ぶ力がなかった。
怖かった。
恥ずかしかった。
揉めたくなかった。
彼女に情けないと思われたくなかった。
店員に強く出られるのが怖かった。
自分が騙されたのだと認めるのも怖かった。
何より、まだどこかで思っていた。
これは何かの間違いで、払ったあとに、彼女が申し訳なさそうにしてくれるかもしれない。
このあと、ちゃんと説明してくれるかもしれない。
もしかしたら、彼女も困っているのかもしれない。
馬鹿みたいだけど、本当にそう思っていた。
信じたい気持ちは、最後までしぶとい。
画面の確認ボタンを押した。
機械の中で、お金を数える音がした。
その音を、僕はたぶん一生忘れない。
紙幣が出てきた。
17万円。
財布に入れるには分厚すぎるのに、自分の何かを守るには薄すぎる束だった。
僕はそれを手に取った。
周りに誰も見ていないことを確認した。
でも、本当は誰かに見ていてほしかったのかもしれない。
誰かに止めてほしかった。
「それ、おかしいですよ」
「払わなくていいですよ」
「警察呼びましょう」
そう言ってほしかった。
でも、コンビニの中で、僕はただの客だった。
誰も僕の物語を知らなかった。
ATMを離れ、コンビニの外に出た。
店員と彼女は、まだそこにいた。
ぴったり並んで、待っていた。
僕が手に持った現金を見て、店員は特に驚かなかった。
当然のように、そこにいた。
僕はその場で、17万円を渡した。
札が店員の手に移った瞬間、何かが終わった。
恋愛かもしれないもの。
彼女への期待。
自分は大丈夫だという思い込み。
人を見る目があるという小さな自信。
いろいろなものが、その現金と一緒に渡っていった気がした。
そこから、どうやって店員と別れたのかはあまり覚えていない。
ただ、帰り道、僕は彼女と二人で駅へ向かっていた。
横に彼女がいた。
出会ったばかりの時のように、少し横顔が見えた。
でももう、その横顔に期待はできなかった。
改札の前で、彼女が言った。
「ごめんね。さっきのお金は半分、必ず返すから」
申し訳なさそうな顔だった。
その顔を見た瞬間、僕の中に2つの感情が同時に出てきた。
ひとつは、怒りだった。
いや、お前が頼んだんだから、お前が全部出せよ。
心の中では、はっきりそう思った。
でももうひとつは、安心だった。
半分でも返ってくるなら、まだ救われる。
17万円が8万5000円になるなら、まだましだ。
全部失ったわけではないと思える。
そして、よく考えれば、大半のお酒を飲んだのは自分だった。
頼んだのは彼女でも、飲んだのは僕だ。
そうやって、また自分の中で現実を薄めようとしていた。
僕は言った。
「ありがとう」
情けないくらい、素直にそう言った。
本当は怒りたかった。
問い詰めたかった。
なぜこんな店に連れてきたのか聞きたかった。
なぜ止めなかったのか聞きたかった。
なぜ半分なのか聞きたかった。
でも、聞けなかった。
半分返してもらえるかもしれない。
その可能性にすがってしまった。
彼女とは、そこで別れた。
電車に乗ったあと、僕はスマホを握っていた。
何を送ればいいのかわからなかった。
「今日はありがとう」と送るのは違う。
「大丈夫だった?」も違う。
「お金、いつ返してくれる?」と送るのも怖かった。
でも、送らなければ何も始まらない。
僕は何かを送った。
内容はもうはっきり覚えていない。
ただ、その後、彼女からまともな返事が来ることはなかった。
うんともすんとも言わなくなった。
こちらが何を送っても、返ってこない。
半分返すと言ったお金も、返ってこない。
半分どころか、1円も返ってこなかった。
案の定だった。
今なら、そう言える。
でも当時の僕は、案の定だと思うまでに少し時間がかかった。
まだどこかで信じていた。
そのうち返してくれるかもしれない。
忙しいだけかもしれない。
事情があるのかもしれない。
本当に銀行が使えなかっただけかもしれない。
そんなふうに考えていた。
信じたい気持ちは、本当にしぶとい。
でも、連絡が返ってこない時間が増えるほど、現実は少しずつ形を持ち始めた。
僕は、17万円を失った。
そして、彼女はもう戻ってこない。
その事実だけが、少しずつ濃くなっていった。
家に帰っても、すぐには眠れなかった。
財布の中を見た。
軽くなっていた。
お金がなくなったことよりも、自分の中の何かが抜け落ちた感じがした。
人を信じたい気持ち。
恋愛に対する期待。
自分はちゃんと判断できるという感覚。
そういうものが、少しずつ剥がれていた。
それでも僕は、まだ誰にも言えなかった。
この話を誰かに話せるようになるまでには、少し時間がかかった。
笑い話になるまでには、もっと時間がかかった。
そして、物語になるまでには、さらに時間がかかった。
あの夜の僕は、ただ、17万円を失った男だった。
でも今振り返ると、失ったのはお金だけではなかった。
同時に、ひとつだけ残ったものもあった。
それは、「なぜ自分は逃げられなかったのか」という問いだった。
その問いは、しばらく僕の中に残り続けた。
そして次に僕は、この話を人にすることになる。
自分がどれだけ馬鹿だったのか。
どれだけ怖かったのか。
どれだけ信じたかったのか。
その話を聞いた人は、僕が想像していた反応とは少し違う反応をした。
でもその話は、また次に書く。
この文章は、マッチングアプリで生まれた恋愛経験を匿名の物語として共有するサービス「Shiory」の初期コンテンツとして書いています。
恋愛経験は、成功か失敗かで終わるものではなく、誰かに共有されることで意味のある物語に変わるのではないか。
まずは自分の実体験から、その可能性を試しています。
マッチングアプリで生まれた良い経験・苦い経験を、匿名の物語にしてみたい方がいれば、XのDMで教えてください。
あなたの経験が、誰かの栞になるかもしれません。
次回:横顔の人③
17万円を失ったあと、僕はその話を友人にしました。
ひとりで抱えていた17万円が、少しずつ分けられていく話です。