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Photo bysyuheiinoue

横顔の人①


    マッチングアプリで17万円を失った夜

    社会人3年目の夏、僕はマッチングアプリで出会った女性に連れられ、17万円を失った。

    いまなら笑って話せる。

    「いや、17万は高すぎるだろ」
    「何杯飲んだんだよ」
    「その金で旅行行けたじゃん」
    「ていうか、なんで帰らなかったの?」

    だいたい、みんな同じ順番で笑ってくれる。

    でも当時の僕にとって、それは一人で抱えるには重すぎる出来事だった。
    怒りもあった。悔しさもあった。情けなさもあった。
    何より、自分の中にあった「人を信じたい」という気持ちが、ぐしゃっと丸められて、知らない店の会計伝票の下敷きにされたような気がした。

    これは、恋愛だと思っていたものが、少しずつ別の顔を見せていった夜の話だ。

    そして、横顔しか知らなかった人に、僕が勝手に物語を見てしまった日の話でもある。

    当時の僕は、マッチングアプリにかなり本気だった。

    「本気」と言うと聞こえはいい。
    でも、いま振り返ると、半分くらいは焦りで、残りの半分は勘違いだったと思う。

    社会人になり、学生時代のように自然な出会いがどこかから降ってくることはなくなった。
    職場と家を往復して、休日に友人と会う。
    その生活の中で、自然に恋人ができる未来はまったく見えなかった。

    だから僕は、マッチングアプリを始めた。

    最初は本当に緊張していた。
    初めてマッチしただけで、スマホを持つ手に少し汗をかいた。
    初めてメッセージが返ってきた時は、もう半分付き合ったような気がした。
    初めて会う約束ができた時なんて、ほぼ交際直前だと思っていた。

    今ならわかる。
    そんなわけがない。

    でも当時の僕は、本気でそう思っていた。

    会えたら付き合える。
    話せたら好かれる。
    頑張れば報われる。
    誠実に向き合えば、相手も誠実に向き合ってくれる。

    その考え自体は、たぶん悪くなかった。
    ただ、東京の夜は、僕が思っていたよりずっと複雑だった。

    マッチングアプリを続けていると、少しずつ感覚が麻痺していく。

    最初は一人ひとりのプロフィールを丁寧に読んでいた。
    好きな食べ物、休日の過ごし方、仕事への向き合い方、旅行が好きか、犬派か猫派か。
    その全部に意味があるように思えた。

    でも、何百人、何千人とプロフィールを見ていくうちに、画面の向こうにいる人が、少しずつ「人」ではなくなっていく。

    いいねを送る。
    返ってこない。
    また送る。
    少し話す。
    返ってこなくなる。
    会う約束をする。
    直前で消える。

    その繰り返しの中で、僕はどこかで恋愛を攻略ゲームのように見始めていた。

    どんな写真なら反応がいいのか。
    どんなメッセージなら返ってくるのか。
    どのタイミングで食事に誘えばいいのか。
    何人と同時にやり取りすれば、効率よく会えるのか。

    恋愛のはずなのに、僕の頭の中にはいつの間にか、効率、確率、改善、検証みたいな言葉が並んでいた。

    それでも、どこかで信じていた。

    この画面の先に、自分の人生を変える誰かがいるかもしれない。
    そう思っていたから、僕はアプリを消せなかった。

    その人の写真は、横顔だった。

    正面ではない。
    少し斜めを向いている。
    髪は黒く、肩のあたりまで自然に落ちていて、表情ははっきりとは見えない。
    背景は明るかった。カフェなのか、窓際なのか、よくわからない。
    ただ、全体の雰囲気だけで、僕は勝手に思った。

    清楚そうだ。

    この「そう」が、後になって僕を深く傷つけることになる。

    横顔しか見えていないのに、僕はその人の性格まで見えた気になっていた。

    きっと落ち着いた人だろう。
    きっと優しい人だろう。
    きっと声も穏やかで、話し方も丁寧で、休日はカフェで本を読んだりする人なのだろう。

    情報が少ない時、人は事実ではなく願望で隙間を埋める。
    僕はその横顔に、自分にとって都合のいい女性像を勝手に貼り付けていた。

    メッセージのやり取りは、驚くほどスムーズだった。

    「お仕事お疲れさま!」
    「お酒好き?」
    「今度飲みに行こ!」

    やり取りのテンポは早かった。
    会話も軽かった。
    重すぎず、でも冷たくもない。
    当時の僕には、それがとても心地よく感じられた。

    僕はまた、勝手に思った。

    これはいけるかもしれない。

    この「いけるかもしれない」は、マッチングアプリにおいて最も危険な感情のひとつだ。
    なぜなら、人はそう思った瞬間から、見たいものだけを見るようになる。

    少し返信が雑でも、「忙しいんだろう」と思う。
    予定が急に変わっても、「仕方ない」と思う。
    待ち合わせ場所が少し曖昧でも、「都会の人はそういう感じなのかもしれない」と思う。

    違和感は、恋愛の期待の前ではだいたい小さく見える。

    僕たちは、都心の大きな駅で会うことになった。

    夜だった。
    仕事終わりの人たちが駅前を流れていく。
    大きなビジョンには、何かの広告が光っていた。
    夏の夜の湿気が、シャツの襟元にまとわりついていた。

    僕は少し早く着いた。

    こういう時、僕はいつも早く着きすぎる。
    遅れたくないという気持ちもあるが、本当は心の準備に時間がかかるだけだ。
    待ち合わせ場所の近くを何度も歩き、ガラスに映る自分の髪型を確認し、スマホを見て、また周囲を見る。

    約束の時間になった。

    来ない。

    五分。
    十分。
    十五分。

    メッセージを送る。

    「着きました!」

    返事はすぐには来ない。

    この時点で、帰ればよかったのかもしれない。

    でも帰れなかった。

    ここまでやり取りしたのに。
    せっかく会えるのに。
    今日を逃したら、もう会えないかもしれない。
    そもそも、相手にも事情があるかもしれない。

    僕は、帰らない理由をいくつも作った。

    人は本当に帰りたい時ではなく、帰るべき時に帰れないことがある。
    あの夜の僕は、まさにそうだった。

    一時間近く経った頃、ようやく返事が来た。

    「ごめん!もう少しで着く!」

    その言葉だけで、僕は安心してしまった。

    怒るべきだったのかもしれない。
    せめて、今日はやめようと言うべきだったのかもしれない。
    でも僕は、「大丈夫です!」と返した。

    大丈夫ではなかった。

    さらに待った。

    駅前の人の流れは、少しずつ変わっていった。
    仕事帰りの人が減り、飲みに向かう人が増えた。
    誰かが笑いながら横を通り過ぎるたびに、僕は自分だけがその場に貼り付けられているような気持ちになった。

    そして、ようやく彼女は現れた。

    ……いや、正確には、その少し前から現れていた。

    待ち合わせ場所に立っている僕の前を、金髪の女性が何度も通り過ぎていた。
    一度だけではない。二度、三度。
    通り過ぎるたびに、こちらの顔をじっと見てくる。

    僕は少し身構えた。

    絡まれるのだろうか。
    道でも聞かれるのだろうか。
    それとも、何か落とし物でもしたのだろうか。

    なぜなら、僕が待っていたのは黒髪で清楚そうな横顔の人だったからだ。
    目の前を何度も通る金髪の女性が、その人だなんて思うはずがなかった。

    その女性が、僕の前で足を止めた。

    「〇〇さん?」

    彼女だった。

    アプリの中では黒髪で、清楚そうに見えた横顔の人。
    でも、目の前にいる彼女は金髪だった。
    メイクは強く、服装も華やかで、雰囲気は僕の想像とはまるで違っていた。

    ギャルだった。

    いや、ギャルが悪いわけではない。
    金髪が悪いわけでもない。
    問題は、僕の中にいた「横顔の人」が、勝手に黒髪清楚として完成していたことだった。

    そして何より、爪が長かった。

    本当に長かった。

    当時の僕には、それがもうウルヴァリンに見えた。
    手を振られた瞬間、爪だけが先にこちらへ向かってくるような気がした。

    「ごめん、待った?」

    待った。
    かなり待った。
    でも僕は言った。

    「全然大丈夫です」

    この「全然大丈夫です」は、当時の僕の口癖だった。

    大丈夫ではない時ほど、僕は全然大丈夫と言っていた。
    嫌われたくなかった。
    面倒な人だと思われたくなかった。
    せっかく会えたチャンスを、自分の一言で壊したくなかった。

    彼女は僕より年下だった。
    それは間違いない。彼女を待ち続けている間、僕は何度もプロフィールを開いていたからだ。年齢も、写真も、自己紹介文も、もう見なくていいくらい見ていた。

    それなのに、彼女は初手からタメ口だった。
    そして僕は、なぜか敬語だった。

    年齢の問題ではないのかもしれない。
    夜の街を知っている人と、知らない人。
    その差は、待ち合わせの時点ですでに言葉遣いに出ていたのかもしれない。

    彼女は僕の返事を聞くと、明るく笑った。

    「じゃあ行こっか」

    どこへ、とは聞けなかった。

    普通なら聞く。
    初対面なのだから、「どこ行く?」と相談するのが自然だ。
    でもその時の僕は、主導権を相手に渡しきっていた。

    待たされた側なのに。
    写真と雰囲気が違って驚いているのに。
    それでも僕は、なぜか自分の方が申し訳ないような気持ちになっていた。

    彼女は慣れた様子で歩き出した。

    駅前の明るい通りを抜け、少しだけ細い道に入る。
    人はいる。店もある。危険な場所というわけではない。
    でも、どこか知らない方向へ向かっている感覚があった。

    「この辺よく来る?」

    彼女が聞いた。

    「たまにですかね」

    僕はそう答えた。
    実際には、ほとんど来ない場所だった。
    でも、ほとんど来ないと言うのが少し恥ずかしかった。

    彼女は笑った。

    「じゃあ、いい店知ってるから」

    いい店。

    その言葉を聞いて、僕は少し安心した。
    相手が店を知っているなら任せればいい。
    そう思った。

    これもまた、僕が帰るべき分岐点のひとつだったのだと思う。

    店は、地下にあった。

    階段を降りる途中で、少しだけ空気が変わった。
    地上の湿った夏の夜とは違う、冷房と酒と何か甘い匂いが混ざった空気。
    入口には小さな看板があったが、店名はよく覚えていない。
    覚えていないのか、覚えたくないのか、いまでも少しわからない。

    中は暗かった。

    照明は落とされ、テーブルの上だけがぼんやり光っている。
    店員は妙に愛想がよかった。
    僕たちは奥の席に通された。

    乾き物が出てきた。
    小さな皿に入ったナッツのようなもの。
    それから飲み放題の説明があった。

    飲み放題。

    僕はその言葉を聞いて、また安心してしまった。
    飲み放題なら、料金は大きくは膨らまない。
    そう思った。

    何度も言うが、当時の僕は本当に世間知らずだった。

    彼女は慣れた様子でドリンクを頼んだ。
    僕も同じものを頼んだ。
    乾杯した。

    「会えてよかった」

    彼女が言った。

    その言葉に、僕は少し嬉しくなった。
    待ったことも、写真と違ったことも、知らない店に来たことも、その一言でどうでもよくなりかけた。

    僕は単純だった。

    会えてよかった。
    そう言われただけで、この人は自分に興味を持ってくれているのだと思った。

    会話は、思ったより弾んだ。

    仕事の話。
    休日の話。
    アプリでどんな人と会ったことがあるか。
    好きなお酒の話。

    彼女はよく笑った。
    反応も大きく、こちらの話に乗ってくれた。
    僕は少しずつ緊張がほどけていった。

    そして、彼女は言った。

    「ゲームしよ」

    テーブルの上に、何かが置かれた。
    ルールは簡単だった。
    負けたら飲む。
    勝っても、たぶん飲む。
    とにかく飲む。

    僕は笑った。

    その場の空気に合わせて笑った。
    本当は、少しだけ嫌な予感がした。
    でも、嫌な予感よりも、場を壊したくない気持ちの方が強かった。

    最初の数杯は、普通だった。

    少し強いかな、と思った。
    でも、飲めないほどではなかった。
    彼女は楽しそうに笑い、店員も時々やってきて場を盛り上げた。

    そのうち、テキーラという言葉が出た。

    僕は一瞬、反応が遅れた。

    飲み放題に含まれているのだろうか。
    そもそも、何杯頼むつもりなのだろうか。
    そう思った。

    でも、聞けなかった。

    「これって別料金ですか?」

    その一言が、どうしても言えなかった。

    ケチだと思われたくなかった。
    ノリが悪いと思われたくなかった。
    初対面でお金のことを細かく気にする男だと思われたくなかった。

    今ならはっきり言える。

    聞け。
    絶対に聞け。
    むしろ聞かない方が危ない。

    でも当時の僕は、笑っていた。
    笑いながら、少しずつ自分の判断力を店の暗さに溶かしていった。

    ショットグラスが並んだ。

    一つ。
    二つ。
    三つ。

    数えるのを途中でやめた。

    飲みゲームは続いた。
    彼女は笑っていた。
    店員も笑っていた。
    僕も笑っていた。

    その場にいる全員が笑っているように見えた。
    でもたぶん、笑いの意味はそれぞれ違った。

    彼女の笑い。
    店員の笑い。
    僕の笑い。

    その中で一番何もわかっていなかったのは、間違いなく僕だった。

    時間の感覚が薄くなっていった。

    スマホを見る余裕もなくなった。
    最初は緊張していたはずなのに、いつの間にか「この場をうまく乗り切ること」だけを考えていた。

    楽しいのか。
    楽しくないのか。
    好かれているのか。
    利用されているのか。

    その区別すら、曖昧になっていた。

    ただ、ひとつだけはっきり覚えていることがある。

    彼女の横顔だ。

    アプリで見た横顔とは違う。
    黒髪でもない。
    清楚でもない。
    でも、グラスを持って笑うその横顔を見ながら、僕はまだどこかで思っていた。

    もしかしたら、悪い人ではないのかもしれない。

    ここまで来ても、僕はまだ信じようとしていた。

    人を信じること自体は、悪いことではない。
    でも、信じたい気持ちにしがみついて、目の前の違和感を見ないふりすることは、たぶん違う。

    その違いを、当時の僕はまだ知らなかった。

    店内の照明が、少しだけ明るくなった気がした。
    店員が近づいてきた。
    彼女がスマホを見た。
    何かが終わる空気があった。

    「そろそろ閉店です」

    店員がそう言った。

    僕は、ようやく帰れると思った。

    長かった。
    でも、何とか終わった。
    そう思った。

    店員は伝票を持ってきた。

    その紙を見た瞬間、僕の頭の中から音が消えた。

    数字が並んでいた。

    飲み放題。
    ショット。
    サービス料。
    週末料金。
    よくわからない項目。
    よくわからない計算。

    そして、一番下に、信じられない金額が書かれていた。

    十七万円。

    その瞬間、僕はようやく理解した。

    横顔しか見えていなかったのは、彼女のプロフィール写真だけではなかった。
    この夜の最初から最後まで、僕は何も見えていなかった。

    彼女のことも。
    店のことも。
    自分の弱さも。

    全部、横顔しか見ていなかった。

    この後、僕はコンビニのATMへ向かうことになる。
    彼女と店員に見送られながら、というより、見張られながら。
    そして、社会人3年目の僕の口座から、17万円が消える。

    でもその話は、また次に書く。


    Shioryについて

    この文章は、マッチングアプリで生まれた恋愛経験を匿名の物語として共有するサービス「Shiory」の初期コンテンツとして書いています。

    恋愛経験は、成功か失敗かで終わるものではなく、誰かに共有されることで意味のある物語に変わるのではないか。

    まずは自分の実体験から、その可能性を試しています。

    マッチングアプリで生まれた良い経験・苦い経験を、匿名の物語にしてみたい方がいれば、XのDMで教えてください。
    あなたの経験が、誰かの栞になるかもしれません。


    次回:横顔の人②|逃げればよかったのに、逃げられなかった

    17万円の請求を見たあと、僕はコンビニATMへ向かうことになります。

    彼女と店員に見送られながら、というより、見張られながら。

    続きはこちら:



     
     

    Shiory

     
     
    マッチングアプリで生まれた経験を、匿名の物語に変えるサービス「Shiory」を構想中。 良かった出会いも、苦い経験も、誰かの栞になる物語へ。 ※一部、人物・場所・会話は、個人が特定されないよう再構成しています。

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