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Photo bydear_dog2900

横顔の人③

    ※前回はこちら

    17万円を、少しずつ分けていく

    17万円を失った翌朝、世界はいつも通りだった。

    カーテンの隙間から光が入っていた。
    スマホのアラームが鳴った。
    会社に行く時間が近づいていた。

    昨日のことが夢だったらよかった。

    そう思って、財布を開いた。

    軽かった。

    夢ではなかった。

    頭が痛かった。
    喉も痛かった。
    胃の奥がまだ熱いような気がした。

    テキーラを10杯以上、一気に飲んだ身体は、当然のように翌朝の僕を許してくれなかった。

    でも、身体のつらさよりも、もっと重たいものがあった。

    17万円。

    その数字が、頭の中でずっと光っていた。

    17万円あったら、何ができただろう。
    旅行に行けた。
    服も買えた。
    美味しいものも食べられた。
    普通のデートなら、何回もできた。
    将来のために貯金もできた。

    考えれば考えるほど、胃のあたりがぎゅっと縮んだ。

    でも、本当にきつかったのは、お金が減ったことだけではなかった。

    自分が情けなかった。

    なぜ断れなかったのか。
    なぜ逃げなかったのか。
    なぜ警察を呼ばなかったのか。
    なぜ「半分返す」という言葉を、少しでも信じてしまったのか。

    スマホを開く。

    彼女とのトーク画面がある。

    昨日送ったメッセージに、返事はなかった。

    もう一度送るか迷った。
    でも、何を送ればいいのかわからなかった。

    「昨日のお金、いつ返せる?」

    そう送ればよかったのかもしれない。

    でも、指が止まった。

    お金の話をした瞬間、自分が本当に17万円を失った人間になる気がした。

    いや、もう失っている。
    その事実は変わらない。

    それでも、言葉にするのが怖かった。

    僕はスマホを閉じた。

    会社には行った。

    正直、その日のことはあまり覚えていない。

    電車に乗って、会社に着いて、パソコンを開いて、誰かと話して、昼ごはんを食べた。

    たぶん、いつも通りに見えていたと思う。

    でも、頭の中にはずっと17万円があった。

    誰かが笑っている。
    誰かが普通に仕事の話をしている。
    誰かが今日の予定を確認している。

    その全部が、自分とは少し遠い場所で起きているように感じた。

    僕だけが、昨夜のコンビニATMの前に残されていた。

    誰かに話したかった。

    でも、誰に話せばいいのかわからなかった。

    話したら、絶対に笑われると思った。

    「馬鹿じゃん」
    「なんで払ったの」
    「そんなの普通わかるでしょ」

    そう言われる気がした。

    実際、その通りだった。

    普通に考えたら払わない。
    普通に考えたら逃げる。
    普通に考えたら警察を呼ぶ。

    でも、あの夜の僕は、その普通ができなかった。

    だから、誰かに話すのが怖かった。

    笑われることより、呆れられることより、
    「自分でも分かってること」を他人の口から言われるのが怖かった。

    それでも、ひとりで抱えているには17万円は重すぎた。

    僕は友人に連絡した。

    その人は、前から僕のマッチングアプリの話をよく聞いてくれていた。

    「今日は誰と会うの?」
    「どうだった?」
    「いい人だった?」

    そんなふうに、いつも軽く聞いてくれた。

    うまくいった話も、うまくいかなかった話も、否定せずに聞いてくれる人だった。

    だから、たぶんその人に連絡したのだと思う。

    「ちょっと話したいことがあって、会えない?」

    送ってから、少しだけ後悔した。

    会って話すほどのことなのか。
    でも、文字で送るには重すぎる。
    電話で話すには、どこから話せばいいかわからない。

    しばらくして、返事が来た。

    「行けるよ」
    短い返事だった。
    でも、その短さに救われた。
    普段、自分から飲みに誘うことなんてほとんどなかった。
    だから友人は、多分何かが起きたのだと察してくれたのだと思う。

    その日の夜、友人は予定を空けてくれた。

    17万円の夜の後、初めての飲み会だった。

    正直、少し怖かった。


    店に入ること。
    メニューを見ること。
    グラスが並ぶこと。
    店員が注文を取りに来ること。
    昨日まで何とも思っていなかったことが、少しだけ怖かった。


    もちろん、その友人と行く店は普通の店だった。

    駅前にある、明るくて、人も多くて、値段もちゃんと書いてある店。

    それでも、入口に立った時、昨夜の暗い店を思い出した。

    席に座る。
    メニューを開く。
    値段を見る。

    値段が書いてある。

    当たり前のことなのに、少し安心した。

    飲み物を頼んだ。

    テキーラではなかった。

    それだけで、少し息ができた。

    友人は、いつも通りの感じで聞いてきた。

    「で、どうしたの?」

    僕はビールを一口飲んだ。
    どこから話せばいいのか分からなかった。

    だから、最初はかなりざっくり話した。

    「マッチングアプリで会った女の子に、変な店に連れて行かれて、17万円払った」
    言葉にすると、あまりにも馬鹿馬鹿しかった。

    友人は一瞬、固まった。

    「え、マジ?」

    少し引いていたと思う。

    それはそうだ。

    マッチングアプリで会った女の子に変な店に連れて行かれて、17万円払った。

    冷静に聞けば、だいぶおかしい。

    友人の顔を見て、僕は少しだけ恥ずかしくなった。

    やっぱり話さなければよかったかもしれない。

    そう思った。

    でも、友人はすぐに少し表情を変えた。

    「いや、それはつらかったね」

    その言葉で、少しだけ息がしやすくなった。

    笑われると思っていた。
    馬鹿にされると思っていた。
    「なんで払ったの」と言われると思っていた。

    でも最初に返ってきたのは、呆れではなく、寄り添いだった。

    だから、もう少し話せた。

    待ち合わせに来たのは、写真と違う金髪の人だったこと。
    その子に連れられて店に入ったこと。
    店の中が暗かったこと。
    飲み放題だと思っていたこと。
    ゲームでテキーラを飲む流れになったこと。
    気づいたら17万円を請求されたこと。
    現金がないと伝えたら、カード決済用の機械が壊れていると言われたこと。
    現金をおろすしかないと言われたこと。

    話しているうちに、友人が途中で言った。

    「でもさ、その店のある通りって危ないことで有名でしょ」

    その言葉が、妙に刺さった。

    危ないことで有名。

    僕にとっては、ただの通りだった。
    少し賑やかで、少し暗くて、いろいろな店が並んでいる場所。

    でも友人にとっては違った。

    危ない通り。

    それを、知っていて当然のように言われた気がした。

    僕は少しむきになった。

    「そんなの知らないよ」

    声が、少しだけ強くなった。

    「知るわけないじゃん」

    友人を責めたかったわけではない。

    でも、その時の僕には、その言葉が少し痛かった。

    自分が知らなかったことを、急に突きつけられた感じがした。

    僕は上京してきた田舎者だ。

    友人みたいに、都会で生まれて、都会で育って、どの通りが危ないとか、どの店に入らない方がいいとか、そういうことを肌で知っている人間ではない。

    大学で上京して、社会人になって、少しずつ東京に慣れてきたつもりだった。

    でも、全然だった。

    駅の名前は覚えた。
    路線も少しわかるようになった。
    飲みに行く場所も増えた。
    マッチングアプリで人と会うことにも慣れてきた。

    それで、大人になったつもりだった。

    でも、夜の街の危なさは知らなかった。

    どの通りが危ないのか。
    どの店に入ってはいけないのか。
    どういう誘い方に警戒すべきなのか。
    どういう空気になったら逃げるべきなのか。

    何も知らなかった。

    知らないのに、知っているつもりで歩いていた。

    その事実が、17万円になった。

    そう思うと、悔しかった。

    でも、そこで話を止めるわけにもいかなかった。

    僕はさらに続けた。

    店を出る前に、残っていたテキーラを飲むように言われたこと。
    ゲームとは関係なく、10杯以上を一気に飲んだこと。
    抵抗する気力も、冷静に判断する力も、そこで完全になくなっていったこと。
    店員と彼女がコンビニまでついてきたこと。
    彼女が「私が頼んじゃったから!任せて!」と言って、先にATMへ向かったこと。
    でもすぐに戻ってきて、「私の銀行、使えなかった……不思議……」と言ったこと。
    そのあと僕がATMに向かったこと。
    おろした17万円を、その場で店員に渡したこと。
    改札の前で、彼女が「半分必ず返すから」と言ったこと。
    その後、どれだけ連絡しても返事がなくなったこと。

    話しながら、僕はまたビールを飲んだ。

    いつもより、明らかにペースが早かった。

    喉が渇いていたわけではない。
    楽しく飲みたかったわけでもない。

    ただ、何かを流し込まないと、言葉が出てこなかった。

    一口のつもりが、二口になった。
    二口のつもりが、半分になった。

    気づけば、グラスの中身はほとんどなくなっていた。

    すぐに次を頼んだ。

    ビールを飲んでいるだけなのに、身体の奥がすぐに熱くなった。

    いつもの自分なら、これくらいで酔うことはなかった。

    でも、その日は違った。

    僕のアルコール耐性は、あの夜の数十杯のテキーラで壊れてしまっていた。

    たぶん、身体だけではない。

    何かを踏みとどまる力も、一緒に壊れていた。

    最初は、淡々とあったことを説明しているつもりだった。

    でも、酒が進むにつれて、少しずつ順番が崩れていった。

    出来事の説明だったものが、愚痴になった。
    愚痴だったものが、泣き言になった。
    泣き言だったものが、自分でもよくわからない叫びみたいになった。

    気づいた時には、僕は泣いていた。

    泣くつもりなんてなかった。

    笑い話として話せたらよかった。
    「やばい目に遭ったわ」と軽く言えたらよかった。
    「17万円は高すぎる授業料だったわ」と、自分でオチをつけられたらよかった。

    でも、無理だった。

    「17万円、返ってこないんだよ」

    そう言ったあたりから、もう止まらなかった。

    「半分返すって言ったのに、返ってこない」
    「連絡も来ない」
    「絶対騙された」
    「なんで払ったんだろう」
    「いやでも、あの場で払わないとか無理だった」
    「怖かった」
    「でも払ったの自分だし」
    「いや、でもおかしいじゃん」
    「おかしいよね?」
    「これ、絶対おかしいよね?」

    自分でも何を言っているのかわからなかった。

    友人は、黙って聞いてくれていた。

    僕はさらに飲んだ。

    ビールの味は、もうほとんどわからなかった。

    ただ、口の中に何かを入れていないと、泣き声だけが出てしまいそうだった。

    「こんな気持ちになるなら、彼女なんていらない」

    そう言った。

    言った直後に、別の言葉が出た。

    「でも、彼女は欲しい」

    矛盾していた。

    でも、その時の僕の中では、どちらも本当だった。

    恋愛なんてもう嫌だった。
    でも、恋愛を諦めたくはなかった。

    誰かを好きになりたかった。
    でも、誰かを信じるのが怖かった。

    マッチングアプリをやめたいと思った。
    でも、やめたらもう誰にも出会えない気がした。

    その矛盾が、全部口から出ていった。

    「こんな詐欺に遭うやつが、結婚なんてできるわけないじゃん」

    自分で言って、自分で傷ついた。

    まだ結婚の予定なんて何もなかった。
    彼女すらいなかった。

    だから、マッチングアプリをやっていたんだ。

    それなのに、話は急に結婚まで飛んでいた。

    「もし結婚詐欺に遭ったらどうしよう」
    「今回17万円でしょ」
    「結婚詐欺だったら、もっと取られるじゃん」
    「人を信じられないやつが、結婚なんてできるわけないじゃん」

    支離滅裂だった。

    17万円の話をしていたはずなのに、まだ出会ってもいない将来の誰かを疑っていた。

    でも、その時の僕には全部つながっていた。

    17万円を失ったこと。
    騙されたかもしれないこと。
    自分が逃げられなかったこと。
    半分返すという言葉を信じたこと。
    彼女が欲しいこと。
    結婚したいこと。
    でも、人を信じるのが怖くなったこと。

    全部が、ぐちゃぐちゃに絡まっていた。

    僕は泣きながら、同じようなことを何度も言った。

    「返ってこない」
    「騙された」
    「彼女いらない」
    「でも欲しい」
    「結婚できない」
    「詐欺怖い」
    「もう無理」

    友人は、途中で笑わなかった。

    呆れもしなかった。

    ただ、相槌を打ちながら聞いてくれた。

    そのうち、僕の言葉が少し落ち着いた頃、友人は言った。

    「それ、普通に怖かったでしょ」

    その一言を聞いて、また少し泣いた。

    怖かった。

    そうだ。

    僕は怖かったのだ。

    17万円を失ったことも悔しい。
    自分の判断の甘さも情けない。
    彼女を信じようとしていた自分も恥ずかしい。

    でも、あの夜の中心にあった感情は、たぶん恐怖だった。

    そのことを、僕は友人に言われて初めて認められた。

    友人に話したあと、僕の中の17万円は少しだけ軽くなった。

    もちろん、お金が戻ってきたわけではない。

    財布は軽いままだ。
    彼女から連絡は来ない。
    半分返すという言葉も、何の意味も持たないままだ。

    でも、少しだけ違った。

    ひとりで17万円を背負っている時、その数字はあまりにも重かった。

    17万円が、全部自分の上に乗っていた。

    でも、友人に話した瞬間、その17万円を少しだけ一緒に持ってもらえた気がした。

    もちろん、友人が実際にお金を払ってくれるわけではない。

    でも、気持ちの重さは少し違った。

    1人で背負う17万円は、17万円だった。

    でも、10人に話したら、1人あたり1万7千円になる気がした。

    1000人に話したら、1人あたり170円になる気がした。

    実際には、そんな単純な割り算ではない。

    でも、その時の僕には、そう考えることが必要だった。

    誰かに話すたびに、17万円が少しずつ分けられていく。

    ひとりで全部持たなくていい。
    誰かに少しだけ持ってもらっていい。

    そう思うと、少しだけ楽になった。

    だから僕は、また別の人にも話した。

    最初は怖かった。

    でも、一度話してしまうと、少しだけ話しやすくなった。

    話すたびに、順番が整っていった。

    写真と違う金髪の人が来た。
    怪しい店に入った。
    テキーラを飲んだ。
    17万円を請求された。
    カードの機械が壊れていると言われた。
    コンビニまでついてこられた。
    彼女が「任せて」とATMに行った。
    でも「銀行使えなかった。不思議」と戻ってきた。
    僕がおろした。
    半分返すと言われた。
    返ってこなかった。

    あの「不思議」という言葉を思い出すたびに、腹立たしさと情けなさが混ざった。

    何が不思議だったのか。
    本当に銀行が使えなかったのか。
    そもそも、おろす気なんてあったのか。

    今ならいくらでも疑える。

    でもあの時の僕は、その言葉にすら少しだけすがっていた。

    話すたびに、相手の反応が少しずつ違った。

    本気で心配してくれる人もいた。
    「それはやばい」と怒ってくれる人もいた。
    途中で笑ってくれる人もいた。

    「銀行使えなかった。不思議」は、だいたい笑われた。

    最初は、その笑いが少し怖かった。

    でも、だんだんわかってきた。

    それは、僕を馬鹿にする笑いではなかった。

    一緒に「おかしい」と確認してくれる笑いだった。

    あの夜、僕はおかしいことをおかしいと言えなかった。

    でも、人に話すと、相手が言ってくれる。

    「それ、おかしいよ」
    「逃げてよかったよ」
    「その店やばいよ」
    「その子、絶対返す気なかったでしょ」

    そのたびに、僕の中で少しずつ現実が整っていった。

    ああ、やっぱりおかしかったんだ。

    そう思えた。

    ひとりでいる時は、自分の判断が信じられなかった。

    もしかしたら、自分が世間知らずだっただけなのかもしれない。
    もしかしたら、そういう店では普通なのかもしれない。
    もしかしたら、彼女も本当に困っていたのかもしれない。

    そんなふうに、何度も現実を薄めようとしていた。

    でも、人に話すと、薄めた現実がまた濃くなった。

    おかしいものは、おかしい。
    怖かったものは、怖かった。
    払わなくてよかったものは、払わなくてよかった。

    その確認を、人の反応を通して少しずつ取り戻していった。

    もちろん、17万円は返ってこない。

    どれだけ話しても、口座残高は戻らない。
    どれだけ笑っても、あの夜のコンビニATMは消えない。

    それでも、話す前よりは楽だった。

    話す前の17万円は、ただの失敗だった。

    話した後の17万円は、少しだけ輪郭のある出来事になった。

    どこが怖かったのか。
    どこで逃げられなかったのか。
    どこで信じようとしていたのか。
    どこで自分をごまかしていたのか。

    少しずつ見えるようになった。

    この話を何人かにしたあと、僕はようやく彼女からの返信を待つのをやめた。

    半分返すという言葉を信じるのも、やめた。

    もちろん、すぐに完全に諦められたわけではない。

    何度かトーク画面を開いた。
    何か送ろうとして、やめた。
    ブロックされたのか、無視されているのか、確認したくなった。

    でも、だんだんわかってきた。

    もう返ってこない。

    お金も、連絡も、あの夜に持っていかれた自信も。

    返ってこないものは、返ってこない。

    だったら、せめてこの出来事を、ただの黒歴史として押し込めないようにしたかった。

    そう思えるようになるまでに、少し時間がかかった。

    それでも、話すたびに少しずつ変わっていった。

    17万円は、僕の中でただの数字ではなくなった。

    怖かった夜の値段。
    夜の街を知らなかった授業料。
    信じたい気持ちが判断を鈍らせた証拠。
    そして、人に話すことで少しずつ軽くなる重さ。

    そんなふうに、少しずつ意味が変わっていった。

    最初から笑い話だったわけではない。

    笑い話になるまでに、少し時間がかかった。

    でも、話せるようになった時点で、あの夜は少しだけ僕の手元に戻ってきた気がした。

    彼女に奪われたままではなく、店に置いてきたままでもなく、僕自身の言葉で語れる出来事になった。

    そして同時に、ひとつの疑問が残った。

    なぜ、あの店のある通りが危ないと、僕は知らなかったのか。

    なぜ、友人には見えていた危なさが、僕には見えていなかったのか。

    恋愛の経験値は増えているつもりだった。

    マッチングアプリでいろいろな人に会って、いろいろな店に行って、少しずつ慣れてきたつもりだった。

    でも、僕が慣れていたのは、プロフィールを見ることや、メッセージを送ることや、待ち合わせ場所に行くことだけだったのかもしれない。

    人を見る目が育っていたわけではない。
    街を見る目が育っていたわけでもない。
    危ない空気を察知する力があったわけでもない。

    僕はただ、たくさん会っていただけだった。

    数だけ増えて、目は育っていなかった。

    そのことに気づいた時、17万円よりも少し違う種類の痛みが残った。

    この夜を境に、僕はマッチングアプリで出会う人たちを、少しだけ疑うようになった。

    横顔だけの写真を見ると、警戒する。
    店を指定されると、構える。
    「知ってるお店がある」と言われると、心の中で小さなアラームが鳴る。

    それは、自分を守るためには必要な変化だったのかもしれない。

    でも同時に、少し寂しい変化でもあった。

    誰かを信じたいのに、信じきれない。
    次こそいい出会いかもしれないのに、どこかで身構えてしまう。
    目の前の人を見ているようで、過去の横顔を重ねてしまう。

    17万円の夜は終わった。

    でも、その夜が僕の恋愛に残した影は、しばらく消えなかった。

    その話は、また次に書く。


    この文章は、マッチングアプリで生まれた恋愛経験を匿名の物語として共有するサービス「Shiory」の初期コンテンツとして書いています。

    ひとりで抱えている時、17万円は17万円のままでした。
    でも誰かに話すたびに、その重さは少しずつ分けられていきました。

    恋愛経験は、成功か失敗かだけで終わらせなくてもいいのかもしれない。
    良かった出会いも、苦かった経験も、誰かに届く形に変わった時、少しだけ意味が変わるのかもしれない。

    マッチングアプリで生まれた良い経験・苦い経験を、匿名の物語にしてみたい方がいれば、XのDMで教えてください。
    あなたの経験が、誰かの栞になるかもしれません。


    次回:横顔の人④|話がうまい人と、話したい人は違った

    17万円の話を人にすることで、少しだけ軽くなった。

    でも同時に、僕の中には「なぜ自分は夜の街を知らなかったのか」という疑問が残りました。

    そして僕は、血迷って男1人でホストクラブへ向かうことになります。
    続きはこちら:



     
     

    Shiory

     
     
    マッチングアプリで生まれた経験を、匿名の物語に変えるサービス「Shiory」を構想中。 良かった出会いも、苦い経験も、誰かの栞になる物語へ。 ※一部、人物・場所・会話は、個人が特定されないよう再構成しています。

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