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非効率という名の生(#8 第八章 真夜中の電話)

    第八章 真夜中の電話

    コール音が三回鳴った。

    「もしもし…」

    葉月の声は、眠たそうだった。深夜2時だった。

    「すみません。起こしてしまいましたね。」

    「え…優樹くん!? どうしたの、こんな時間に」

    電話先で少し驚いている葉月

    「話をしたくなりました。」

    沈黙。

    「うん。いいよ」

    葉月の声が、少しだけ変わった。眠気の向こうに、何か察したような温度が混じった。

    「僕は今、少し危ないところにいます」

    感情的な言葉を使うのは、極めて難しかった。

    しかし今夜は、それ以外の言葉の選択が思いつかなかった。

    「待って…どういうこと?」

    「僕もうまくは説明できません。ただ、あなたの声が聞きたかっただけです。」

    長い沈黙があった。

    「今、どこにいる?」

    「部屋…です」
    間違いではない。その場所は間違いなく、葉月と一緒に過ごしたあの部屋だ。

    「一人?」

    「一人です」

    「わかった。…待ってて」

    すると、電話が切れた。

    スマートフォンを握ったまま、部屋の暗闇の中に座っていた。

    窓の外では街が光り、人々が生きていた。

    その光の意味が、今夜初めて、少しだけ理解できる気がした。

    30分後、インターホンが鳴った。

    ドアを開けると、葉月が立っていた。

    ダウンコートの上に、寝間着みたいなスウェット。すっぴんで、髪も乱れていた。

    しかし、その目は完全に覚醒していた。玄関の光の中で、葉月の顔は少し青白く見えたが、そこには揺るがない何かがあった。

    「入れてもらえる?」

    無言で緊張の中僕はドアを開けた。

    葉月は部屋に入り、顔を見た。そして何も言わず、腕を掴んだ。

    「座ろう」

    二人はベッドの端に並んで座った。

    部屋はほとんど暗く、窓の外の街の光だけが差し込んでいた。

    パソコンのモニターは消えており、机の上に一枚の便箋があった。

    葉月はそれを見たかもしれなかったが、何も言わなかった。

    一つ「ふぅ」と呼吸をして、
    「話して。」
    葉月は僕の方を向いてそう言った。

    「その、上手に話せるかどうか、葉月さんに伝わるかどうかもわかりません。」

    「いいよ。今はいいの。うまくなくていい」

    少しの間、黙っていた。

    窓の外の光を見つめ、やがてゆっくりと話し始めた。

    「ここ最近、ずっと考えていたんです。生きていることの意味について。いや、意味ではなく。
    コストについて。生きていることに、いったいどれだけのリソースを使っているかを」

    「うん」

    「そして今夜、ひとつの結論に近づきました。生きることは、どう最適化しても、最終的には非効率だという結論に」

    葉月は何も言わなかった。ただ、手に自分の手を重ねた。

    「でも、ペンを持ったとき、葉月さんの顔が浮かびました。」
    「私の?」
    「川で手を繋いだこと。映画で葉月さんが泣いていたこと。カレーを一緒に作ったこと。それが、ただ映像として浮かんだんじゃなくて、体の中が動く感じがしました。そのことに気づいたら、ペンが動かなくなりました。」

    葉月の手が、手を強く握った。
    「よかった。」
    その一言だけだった。

    「よかった、電話してくれて。よかった、ペンが動かなくて」

    葉月は肩に頭を預けた。

    その重たさを感じた。

    この人がここにいる。この人が今夜、真夜中に来てくれた。それは「効率」でも「計算」でもなかった。ただそうしたかったから、来た。それ以外の理由はない。

    「私ね」と葉月が言った。
    「あなたのことが心配だった。ずっと。最近連絡が減って、声が変わって。なんか遠くに行こうとしてる気がして」

    体を小刻みに震わせながら葉月が言う。

    「気づいていたんですか?」

    「女の勘って言ったら笑う?」

    笑わなかった。笑えなかった。目の奥が、じわりと熱くなっていた。

    「いえ、笑いません」

    「今泣きそう?」

    「わかりません」

    「泣いてもいいんだよ」
    その言葉はどこかあの暖かさを僕にだけくれたような感じがした。

    ちなみに泣かなかった。

    しかし、瞼の裏が重かった。

    葉月の頭の重みを肩に感じながら、窓の外を見た。
    夜の街は明るく、無数の人間が生きていた。

    その一つ一つが、どれほど非効率で、どれほど矛盾に満ちていても、その光は消えていなかった。

    「葉月さん」

    「うん?」

    「僕は、うまく生きることができていると思っていました。でも、今日気づいたんです。最適化しようとしていたのは、生きることじゃなかったってことを。怖いものを、全部省いていただけだった」

    「怖いものって?」

    「失うこと。裏切られること。感情に振り回されること。…葉月さんを好きになること」

    葉月が顔を上げた。

    「好きになることが、怖かった?」

    「怖かった。失ったら、それまで以上に痛いから」

    「……私も怖いよ、そういうの」

    「でも、葉月さんは怖がりながらも来てくれました。真夜中に、それもすっぴんで」

    葉月はぷっと吹き出した。

    「すっぴんって改めて言わないでよ」

    「きれいです」

    「嘘つき。」

    「嘘じゃないです。今夜が一番きれいだと思います。」

    葉月はしばらく僕を見た。それからゆっくり言った。

    「私も、好きだよ。ずっと。優樹くんがシステムみたいな話をするときも、コストって言うときも、変だなって思いながら好きだった」

    「変でよかった」

    「うん。変じゃなかったら出会ってなかったかも」

    二人はそのまま、夜明けまで話し続けた。

    話が途切れても、もう沈黙は怖くなかった。

    葉月が眠りに落ちそうになって、毛布をかけた。

    その所作が、こんなにも自然にできるとは思っていなかった。まさかこんな僕が。

    そんな思いだった。

    #創作大賞2026 #恋愛小説部門

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    作業療法士をやっていた”訳あり冒険者”の中の人。 性別非公開のトランスジェンダー、先天性甲状腺機能低下症、ADHD、自閉症、パニック障害、双極性感情障害、視覚障害者(白杖ユーザー) https://akari-media.com/author/morisawa/

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