
非効率という名の生(#7 第七章 最期の手前)
第七章 最期の手前
最期の一週間を迎えたのは、11月の終わりのことだった。
葉月との連絡は、少しずつ間遠になっていた。距離を置いたのか、葉月が引いたのか、それとも自然にそうなったのか、判断もできなかった。
仕事は最高効率で回っていた。
睡眠を最低限に削り、食事はふたたび完全栄養食のみに戻した。
しかし、不思議なことが起きていた。
仕事の効率が上がれば上がるほど、コードが速く書けるようになればなるほど、胸の中で何かが音を立てた。
壊れる音に似ていた。
鋭くはなく、じわりじわりと、壁にヒビが入るような音。
思考を究極まで突き詰めた。
「最も効率的な状態とは何か?」
入力に対して、最大化された出力を出すこと。あるいは、維持コストをゼロにすること。
自分の人生というシステムを見つめ直した。
呼吸。24時間、エネルギーを消費し続ける。
消化。完全栄養食であっても、内臓は稼働し、摩耗する。
思考。脳は全身の20パーセントのエネルギーを消費する。
感情。何の生産性も生み出さないのに、最も多くのリソースを食い潰す。
どんなに効率化しても、人間という有機体である限り、エネルギーの「漏れ」は防げない。
生きているだけで、エントロピーは増大し、熱は逃げていく。
100年という短いスパンで必ず「死」というシステムダウンが訪れるのに、その過程でこれほどまでのリソースを浪費し続ける矛盾。
「ああ、そうか」
僕はPCをシャットダウンして、モニターの電源を切った。
部屋が暗転する。
これまで積み上げてきた膨大な知識、最適化されたワークフロー、それら全てが「無」に帰す瞬間を想像した。
生きることは、維持費がかかりすぎる。
どれだけ短縮しても、どれだけ濃縮しても、「生命」というプラットフォームそのものが、宇宙で最も非効率なエンジンなのだ。
静かに机に向かい、便箋とペンを取った。
最期にアウトプットをしようとした。
しかし、ペンを持った手が、止まった。
なぜだろうか。
葉月の顔が浮かんだからだ。
川べりで手を繋いで空を見上げていたとき。
カレーを作りながら玉ねぎで目を滲ませていたとき。
映画館の暗闘で泣いていたとき。
「私はシステムじゃないよ」と言ったときの、静かな目。
そして、あの夜。部屋の灯りが消えて、街の光だけが差し込む中で、葉月の体温を感じたこと。「怖い?」と聞いたとき、「あなただから大丈夫」と言ったこと。その声の、やわらかさ。
気づいた。
今、この瞬間、葉月のことを考えている。
これは「思考」だ。
そして思考は、生きていなければできない。
葉月の笑顔を思い出せるのも、彼女の声を想起できるのも、川べりの星の光を記憶の中に持っているのも、すべて「生きている」という状態あってのことだ。
ペンを置いた。
代わりに僕はスマートフォンを手に取った。
発信先を選ぶ指が、少し震えていた。