
非効率という名の生(#9 第九章 非効率という名の選択)
第九章 非効率という名の選択
夜が白み始めたころ、机の前に座った。
葉月は隣で眠っていた。
毛布にくるまって、規則正しい呼吸をしている。
その寝顔を確認してから、ペンを取った。
白紙の便箋に、書いた。
しかし昨夜書こうとしたものとは、まったく違うことを書いた。
「生きていることは、一番効率が悪い。それでも、僕は生きていくことを選ぶ。
なぜなら、僕はAIではないから」
その紙を見つめた。
昨夜、同じ白紙の前で、「生きることをやめる」という言葉を書こうとしていた。
そのときの論理は、今でも理解できる。間違ってはいなかった。生命は非効率だ。コストがかかりすぎる。
しかし、人間は...僕は、AIではない。
それが、辿り着いた”答え”だった。
AIは常に最適解を求め、感情を持たず、疲れず、孤独を感じず、恋をせず、泣かず、笑わず、真夜中に来てくれる人を欲しがらない。
AIには、机の端に落ちたヘアゴムを見て胸が痛む機能がない。映画館の暗闇で隣の人の涙を見て何かが締め付けられる機能も。カレーを一緒に作っていると玉ねぎのせいで目が染みる機能も。川べりで手を繋いで星を見上げる機能も。体の温もりを感じて、名前を呼ばれて、胸の中の何かがほどける機能も。
僕はAIではない。
有機体であり、感情があり、非効率であり、矛盾を抱え、それでも動き続ける。そのことが今夜初めて、「欠陥」ではなく「仕様」に見えた。
生きていることの維持コストは高い。
しかし、そのコストの中に、葉月の手の温もりが含まれる。カレーの香りが含まれる。川べりの星の光が含まれる。映画館の暗闘で交わした沈黙が含まれる。そして、真夜中に駆けつけてくれる人の、すっぴんの顔が含まれる。
それを「無駄だ」と言い切れる論理は、もうなかった。
朝の光が部屋に差し込んできた。葉月がうーんと唸って、目を覚ました。
「ん…おはよう..」
眠たそうな声で言って、顔を見た。
「何か書いてたの?」
「少しですが。」
「見せて」
紙を葉月に手渡した。葉月は目をこすりながら読んだ。
「バカ」
彼女は笑った。
泣きそうな顔で、笑った。
「何がですか?」
「わかってて、あんな真夜中に電話してきたんだもん。ちゃんと助けを求められたじゃん」
「葉月さんが来てくれたから、助かりました」
「これからも私はちゃんと来るよ。」
「よろしくお願いします」
葉月はまた笑い、肩に頭を乗せた。外では鳥が鳴き、朝が来ていた。
それは特別なことではなかった。ただの朝だった。しかしその朝には、昨夜よりも少しだけ多くの光があった。
「ねえ」
葉月が言った。
「何ですか?」
「今日、一緒に朝ごはん作ろう」
「……材料がありません」
「コンビニ行こうよ。私、卵焼き得意なんだよね」
「それは非効率です。」
「知ってる」
葉月はくすくすと笑った。かすかに笑った。
「行きましょうか」
二人は立ち上がり、まだ夜明けの空気が残る街へ出ていった。
コンビニの明るい光の中で、葉月は卵と食パンと牛乳を選んだ。
それを見ながら、ある計算をするのをやめた。
これが何カロリーか。これに何分かかるか。これを食べることで、仕事に使える時間がどれだけ減るか。
その代わりに、ただ葉月を見た。
棚の前でちょっとだけ迷いながら、バターを選んでいる。その横顔に、朝の光が当たっている。
きれいだ、と思った。
それだけだった。
それだけで、十分だった。