
【連載小説|ミステリー】第一章:ベガの沈黙と文学部生による密室講義 第四話/ほうき星の図書室
602号室での検証も終え、流星と紫月親子は、再び事件現場へと足を戻した。遺体はすでに鑑識によって搬出されていたが、雑然と本が積み上がる室内には、惨劇の残香が重く立ち込めている。
流星が慎重な足取りでロフトへ上がり、自室と同じ位置にある天井の点検口を見上げた。格子状の蓋に手をかけると、やはりさほど労力を要することもなく、あっさりと外れた。
暗がりの中を覗き込むと、ダクトの向こう側に見慣れた顔——優也の表情が確認できた。流星と優也は目を見合わせ、静かに頷き合う。
「間違いないですね。僕の部屋と田崎さんの部屋は、天井裏のダクトを通じて一直線に繋がっています」
「お前の見立て通りだった訳か。だが、ダクトが繋がっていると判ったところで、これがどうやってあの『施錠された密室』と結びつくんだ?」
浩一郎は腕を組み、神妙な面持ちで天井を見上げる。流星は蓋を静かに元へ戻すと、まるで目に見えない糸を追うように、ロフトからリビングへと視線を滑らせていった。
「先ほど優也さんが撮影してくれた天井裏の画像ですが、長年放置されていた埃の海の中に、一直線に埃が拭い去られた『白い筋』が残っていました。それは僕の部屋の点検口から、この601号室のロフトへとまっすぐ伸びていたんです」
「埃の中の線……そこに何か、細いものが通されたってことか」
「ええ。目を凝らさなければ気づかないほどの細さ……おそらく、強度の高い金属製ワイヤーの類でしょう」
流星は言葉を続けながらロフトを降り、リビングを横切って玄関ドアへと向かう。彼の静かな視線は、扉の内側についているサムターンへとまっすぐ注がれていた。
601号室のサムターンは、流星の自室のものとは形状が異なっていた。取り換えられてから日が浅いのか新品に近い輝きを保っていたが、金属のつまみの根元に、何かが強く擦れたような小さな削り傷が残されている。
「……やはり、そうですか」
「何か掴んだのか、流星?」
浩一郎が背後から声をかける。602号室で待機していた優也も合流し、三人が玄関口で顔を揃えた。流星は静かに頷き、サムターンの傷を指先でそっと示してみせる。
「このサムターンは最近交換されたものですが、不自然な引っかき傷がついています。傷の深さと形状からして、細いワイヤーで輪を作り、強く締め上げた跡ですね」
「細いワイヤーの輪? それがさっきの天井裏とどう繋がるんだよ?」
優也が理解が追いつかない様子で首を大きく捻る。浩一郎は手帳を取り出し、流星の言葉を一つひとつ書き留める姿勢に入った。
「ここからは僕の推測です。犯人はまず、輪を作ったワイヤーをこのサムターンに引っ掛けました。そのままワイヤーを伸ばしてリビングからロフトへ上がり、端を天井裏のダクトへ通したんです。そして田崎さんを殺害後、外から玄関の鍵を閉める代わりに……僕の部屋のロフトへ忍び込み、ダクトから突き出たワイヤーを強く引っ張った」
「待てよ……!それで内側からサムターンが回って、鍵がかかったってことか?」
「はい。このつまみの形状なら、角度さえ計算しておけばさほど困難な作業ではありません。犯人は田崎さんを殺害した後に、このからくりで601号室を完璧な密室に仕立て上げたんです。天井裏の白い筋は、ワイヤーを引き戻して回収した際にできたもので間違いありません」
「なるほどな…… だが流星、そんな芸当がうまくいくか? ワイヤーを回収する時、もし途中で引っかかったりしたら一発アウトだろ?」
「ええ、当然そのリスクはありました。だからこそ犯人は……田崎さんの遺体の周りに、あの本を配置したんです」
「あ……! あの星新一の本が並べられてたヤツか!」
「僕は先ほど、あの本の配置にはメッセージ性がなく、論理が欠落していると言いました。それも当然です。犯人の狙いは……捜査の目を逸らすための『極端な状況』を作り出すことだったんですから」
流星はリビングへ戻り、かつて遺体があった床の周りに散らばる本を見つめた。
「有名作家の文庫本が遺体を囲むように丸く並べられている。扉を開けた瞬間、そんな異様な光景が飛び込んできたら、誰だってそちらに意識を奪われます。壁の隅や天井、サムターンの小さな傷にまで最初から目を配る余裕はなくなってしまう。つまりあの見立ては、メッセージなどではなくワイヤー痕から目を逸らすための『カモフラージュ』あるいは『モザイク』だったんです」
「なるほど……よく解ったぞ」
浩一郎が深く感心したように頷く。
「万が一ワイヤーの回収に失敗して糸くずや傷が残ったとしても、あの強烈な現場写真に警察の意識を釘付けにできれば、見落とされると踏んだわけだ。いささか大胆で綱渡りな計画だが…人間の心理を突いている」
「ええ。ですが、この犯行計画は穴だらけです。回収時のリスク、天井裏に残された埃の跡、サムターンの傷……そして何より、ベガの存在です」
「ベガ? ここでベガが関係してくるのか?」
「先ほど説明した通り、この仕掛けを完成させるには、僕の部屋のロフトに侵入して作業を行う必要があります。ベガは警戒心が強く、見知らぬ人間には絶対に心を許さない聡明な猫です。僕の不在時、自分の聖域であるロフトに見知らぬ人間が侵入し、怪しげな作業をしていたとしたら……」
「そりゃあ……怖がって当然だな。下手に近づけばベガに威嚇されたり、爪で引っかかれたりする危険だってあったはずだ。それで仕返しにベガを襲った可能性だって有り得る」
「だからベガは、恐怖のあまりロフトの隅で震えていた……。ベガが怯えていた理由も、これで完全に説明がつきます」
優也は腕を組み、感心と苦々しさが入り混じった顔で天井を見上げた。流星の論理には一筋の隙もない。
浩一郎は手帳を閉じると、真剣な眼差しで甥を見つめた。
「……トリックの構造は理解できた。で、流星。肝心の『犯人』の目星はついているのか?」
「ええ。大体の見当はついています。この杜撰で、しかしこのマンションの構造を熟知した犯行を行える人物は……一人しかいません」
「一人だけ……?」
「はい。最大のポイントは、僕の部屋に『鍵を壊さず堂々と侵入できている』という点です。田崎さんの部屋には仕掛けを施して密室にしましたが、僕の部屋には侵入の痕跡すら残っていなかった。つまり犯人は、僕の部屋の鍵を所有し、不法侵入しても怪しまれない立場の人間に限られます」
浩一郎がはっと息を飲み、眉をひそめた。優也も流星の言葉を脳内で反芻し、徐々に真相へと辿り着いていく。
「僕の部屋へ平然と侵入して仕掛けを回収し、再び施錠する。そして、田崎さんが鍵を勝手に交換したためにマスターキーで開かないことを知りながら、しらを切って鍵屋を呼び、『第一発見者』を装った……。現場に残りかけたワイヤーを、混乱に乗じて回収しようと目論んだ人物」
流星は静かに腰を上げ、胸の内に溜まった息をゆっくりと吐き出した。
「マスターキーを所持し、住人不在の部屋に入っても誰も疑問を抱かない……犯人は、このマンションの管理人さんですよ」
第五話へ続く